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2012年10月 6日 (土)

太平記の里ひとり旅 その3~義貞首塚、長楽寺、世良田東照宮、総持寺

太平記の里ひとり旅 その3   

昨日の史跡巡りは新田暁高校から東山道公園生品神社
反町館跡茶臼山古墳円福寺十二所神社台源氏館跡
太田駅まえナウリゾートホテルまで約28キロを踏破したことになる。
交通費は太田駅北口から新田暁高校までのバス代100円のみ。

バスダブにお湯を張り足を温め入念にマッサージを施した。
出張など泊まるビジネスホテルでもよく眠れないことが多かったが
案の定よく眠れたと言う感じではない。

朝食は七時からだが、六時には起きて、ストレッチして
昨日準備していた水を飲み体調を整える。なんとか歩けそうだ。

本日のルートは太田市南西部の史跡寺社仏閣歴史資料館。
平日だとバスがあるが土曜日は運休しているので電車を利用した。
東武伊勢崎線木崎駅からスタート。

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降り立ってもタクシーは常駐せず、駅員に尋ねてタクシー会社2社の電話番号を
教えてもらった。近くの小規模会社に依頼した。花見塚神社までタクシーで行き
後は歩こうと思っていたが、明王院から世良田歴史公園へもお願いすることにした。
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運転手さんに花見塚(はなみづか)神社と言っても案の定知らないと
のことで、勾当内侍(こうとうないし)の墓から新田義貞の首塚の話を
したら「首塚」なら分かるとのことだ。

勾当内侍は義貞の惚れた女官で後醍醐天皇から下賜された恋女房と説明した。
内侍とは律令制下宮廷職員で天皇の日常生活に仕える女官で
勾当内侍はその筆頭を呼んだそうだ。

地図に拠ると駅から南へ約7キロ位か。歩くと1時間15分は掛かりそうだ。
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江戸時代初期頃までこの地には躑躅が一面咲き乱れていた。
勾当内侍は一条行房の娘とも妹とも伝えられ、十六歳の時内裏に召されて
後醍醐天皇のそばに仕えていた。生まれながらの美貌で天皇の寵愛が深かった。
新田義貞は内裏の警護の任に当たっていて内侍の弾く琴の音に誘われ遂に
その美貌の虜になってしまった。恋慕の思いを歌に託して内侍に贈った。

 我が袖の涙に宿るかげとだに
   しらで雲居の月やすむらむ

勾当内侍はひどく心を動かされたが、後醍醐天皇の耳に入ることを憚った。
しかし義貞の恋慕が並大抵のものでないことを天皇の耳に入れる者があり
天皇は関東武士の一徹から分別もなく思い染めたのも無理からぬ事と
思召され酒席の盃に添えて勾当内侍を義貞に取らせた。

建武の中興に功績を残した新田義貞への恩賞として下賜したということだ。
当代一と誉高い美人と言われていた勾当内侍のために義貞は新しい館を構え、
各地から集めた躑躅の名木を植えたという。

江戸時代1627年当時の領主榊原忠次がその躑躅を城下の館林に移植して
現在のつつじが岡公園の元になったそうな。樹齢八百年を経ているのも
あり、世界一の躑躅の公園となっている。
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神社の右奥へ進むと、勾当内侍の墓新田義貞の首塚と伝えられている五輪塔。
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タクシーを待たせているので早々に戻る。次の明王院もご存知なく
事前に話していたので、無線で照会したらしくカーナビ状モニターに
距離なども表示されている。北西に1.5キロ。
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かつてここは「安養寺」という大きな寺院があり、明王院を中心として
天神坊、薬師坊、荒神坊・・・など12坊が囲む大寺院だったそうな。
今安養寺はは尾島町の大字名となっている。
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境内には新田義貞の弟脇屋義助の供養板碑が保存されている。
太郎が最も興味をもったのはピラミット型の石積塔「千体不動尊」。

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続いて東照宮ほか国指定史跡仏閣がひしめく歴史公園へ。
途中鎌倉東慶寺と並ぶ幕府公認縁切り寺「満徳寺」を車窓から見学した。
如何にも「徳川氏発祥の地」である。長楽寺と東照宮の間で下車。

 サイト内リンク⇒早春の鎌倉散策 その1~東慶寺、浄智寺、葛原岡神社 ~

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東照宮は隣の長楽寺住持となっていた天海僧正その境内に徳川家
先祖の地に日光東照宮を勧請し家光が移建したもの。
本殿、唐門、拝殿、鉄燈籠が重要文化財。
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長楽寺は今も広大な境内を有する寺院である。徳川義季が開基。
太鼓門は美しい。
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新田一族郎党供養塔
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心字池には紅白の蓮もあり渡月橋も風情がある。
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勅使門「赤門」は開かずの門、小さいが品位ある。
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山門にも風格がある。参道が曲線を描いている。歩いている時は
気づかず、写真を見て初めて気づいた。
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三仏堂
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前方後円墳の円部分にある徳川義季(よしすえ)氏歴代の墓。
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歴史資料館へ行く途中、境内に銀杏の実が落ちていた。
大きさも立派で拾いたかったが、臭いが気になり断念した。
今年もまた愛知県産なり熊本県産のを購入することになるか。
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太田市立新田荘歴史資料館は内容的にはこれはというものはなかった。
秩父緑泥岩の渋い色の板碑の実物、天海僧正の木像も
大きくはないが迫力あるもので思わず手を合わせていた。
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建物の前の義貞像は生品神社前のと同じだが、普通の高さで見ると
義貞公のお顔が見えない。近くに行き下から拝顔致しました。
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駐車場は広くてよい。今回の史跡の中では最も広い駐車場だ。
食事をすることもできそうだ。

さて今回の旅の最後は総持寺
別名「館の坊」といい、鎌倉時代の館跡が寺となった「館寺」
伝承では新田義貞館説、徳川義季など世良田氏の館説もある。
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鐘楼の鐘はいぼなしで大変めずらしい梵鐘とのことだ。
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境内には今を盛りに曼珠沙華が懸命に咲いている。
その様は「お前も最後まで咲き切れ(生き切れ)」と励まされた様だ。
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後は東武伊勢崎線「世良田駅」から電車に乗り帰路へ。
足が痛み出し、ペースダウンあと3キロ頑張ろう。

途中予定していなかったが、参考資料にあった「八坂神社」の
案内表示があり、寄ってみた。牛頭天王を祀る。
1565年の長楽寺の記録に天王祭の記事があり、それ以前に
京都から勧請されたものと見られている。
足利千寿王が世良田で蜂起したのは八坂神社と言われている。
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足尾銅山で採掘された銅(あかがね)を江戸へ運ぶため
利根川の港まで荷車が 足尾銅山街道(あかがねかいどう)の案内板。

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足尾銅山は幕府の直営で、足尾で精練した銅を江戸へ運ぶための
道として、この街道が設けられた。足尾を出た御用銅は、
沢入(そうり)・花輪・大間々・大原・平塚の、5つの宿を順番に
送られたのち、利根川を下って江戸浅草で御蔵入り。

世良田駅は無人駅、Suicaの読み取り機がある。
乗客は無為庵太郎独り。
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体調特に足の脹脛の痙攣が気になっていたが、なんとか大丈夫だった。
持病の内蔵は特に症状出ずに済んだ。

今回のルートは一般的でないルートのせいか、案内板が見当たらず
歩いていて不安になった。裏道沿いの史跡にメインストリートの曲がる角等に
案内板を設置と交通の便の検討をお願い致したいと感じた。

今回の旅について増田克彦著私家版「新田義貞鎌倉攻めの道を辿る」から
inspireされ、更に吉川弘文館出版峯岸純夫著「太平記の里新田・足利を歩く」を
図書館で事前に読ませて頂き参考にした。改めて感謝申し上げたい。

今回の旅が新田義貞が鎌倉古道上道を攻め上ったルートを部分的に
たどる言わば「鎌倉古道ワープの旅」の一回目となればいいと思っている。
二回目はどこにするか体調如何であるがこれから考えるとしよう。

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