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2012年10月

2012年10月31日 (水)

秋の味覚銀杏~くるみ割りで外皮剥き~

秋から冬 晩酌のつまみに銀杏は欠かせない。

銀杏が出回とそれをつまみに熱燗が欲しくなる。

銀杏は以前は市内公園で拾っていたが、ここ数年は九州産を中心に
購入している。今年初入荷は大分産だとか。
時々購入する乾物屋で1キロ入りを購入してきた。
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3年前までは、食べる量5~8個を紙袋や△チーズが
入っいて丸い箱に入れ電子レンジやっていたものだ。

大体500グラムで買ってきていたが、終わり頃になると
実が硬くなって、黒くなっているのも出て食べられない。

最近では購入してくるとまとめて処理して冷凍しておき
食べる時に改めて電子レンジで解凍温めて食べている。

今回は作業に疲れやすいので四分割してやった。

外皮剥き
まずは銀杏の硬い外皮を剥くこと。薄皮は付けたままでよい。
くるみ割りの先端に銀杏の大きさ用があるので丁度いい。
以前はこれで外皮にキズを付けて電子レンジで処理後
外皮と薄皮を剥いて食べていた。
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湯がき
次に沸騰したお湯で湯がく。
その際箸でかき回すと薄皮が擦れて取れる。
実が綺麗な緑色に変われば火を止める
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薄皮剥く
湯を切り、薄皮を剥く
殆どは鍋の中でむけているが中には
しっかり包まったままのもいるので優しく剥いでやる。
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冷凍
袋に入れて冷凍庫へ
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解凍
晩酌のお供にしたい時、必要な量のみ取り出して
電子レンジで温めてから頂く。
ひとり5個程度が適量と言われているが
つい7~8個いっちゃってる。
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漢方ではせき止めの他に膀胱の括約筋を強く効して
夜尿症・頻尿の改善にも使用。       良質のタンパク質であり
コレステロールを減らし、滋養強壮など様々な薬効がある。
しかしビタミンB6の作用を妨げる中毒物質が含まれていて、
食べ過ぎると痙攣などの中毒が起きることがある。

2012年10月24日 (水)

ジョウロウホトトギス~山里の貴婦人~

ジョウロウホトトギス(上臈杜鵑) 絶滅危惧ⅠB類(EN)(環境省レッドリスト)
先日コンデジで撮影していたが、改めて一眼レフで撮影して来た。
午前中の通院がスムーズに済んだのでそのまま撮影場所に向かった。
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日本には10種ほどのホトトギスの仲間が自生しているが、
ジョウロウホトトギスは、四国の太平洋側の山地の渓谷の湿った
岩場や崖にしか見られないと言われている。

釣り鐘形で明るい黄色で長さ5cmほどの花を、葉のわきに1~2輪咲かせる。
葉は幅広くて光沢は少なく、毛が生えていている。茎は長さ40~100cm、
弓なりに伸びて垂れ下がる様に咲く。
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ジョウロウホトトギスの仲間には、キイジョウロウホトトギス
サガミジョウロウホトトギススルガジョウロウホトトギスがある。

上臈(ジョウロウ)とは江戸幕府大奥の職名で優雅な貴婦人という意味から
この名がついた。

サガミジョウロウホトトギスは神奈川県丹沢山地の一部に分布し、
沢沿いの岩場から垂れ下がって咲く。

山野草ブームによる乱獲で激減し、「絶滅危惧IB類(EN)」に分類。
キイジョウロウホトトギスは光沢のある細葉で区別する。

薬師池公園萬葉草花苑の上臈杜鵑はどこから移植されたのか。
機会があればお尋ねしておきたいものだ。今回撮影していたら
「じょろう(女郎)杜鵑」と読んでいる女性3人グループが
居られたので「ジョウロウ」だということと、希少価値の
高い植物だと説明したら、それは是非とカメラを向け始められた。
ジョウロウホトトギスもせっかくこんなに綺麗に咲いたのだから、
多くの人に愛でてもらい、喜んでいますよと言って別れた。

2012年10月22日 (月)

綿の花とカポック

車が一台やっと通れる道を散策中に前方から車が来たので
民家の玄関アプローチ部分に避難させてもらった。

そこに珍しい鉢植え植物があり撮影した。
ワタ(綿)」だ。こちらのお宅では毎年栽培してこの時季
玄関先に飾っておられ、今では珍しい植物なので楽しませて
もらっている。昔海沿いの畑で沢山栽培されているのを見ている。

あおい科.1年草.熱帯アフリカ原産.高さ0.6~1米.葉は互生し、
葉身は掌状に3~9裂.花は5弁花で葉腋につき、
クリーム色が主で、白、ピンクもある。オクラの花にも似ている。
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花後、子房が成長し、苞に包まれた卵形の果実を結ぶ、
内部は数室に分かれ、各室に数個の種子が出来る。
種子は種皮細胞の一部が綿毛として発達し、果実が熟すと
3~5裂して白い花のように見えるので綿花と呼ぶ。

古くは蚕(かいこ)から製する真綿(絹綿)を用いたが、
戦国時代から江戸時代にかけて植物のワタから製する
木綿綿(木綿)が普及した。現代では、化学繊維からも
製造される。蕾の形が三角おむすびのようで、面白い。
花の色は、夕方には赤味を帯びてくる。

勤務地が東京駅の皇居側だったが、丸の内仲通り農林中金の前で、
毎月7日と8日の日が「花の日」と称し複数の園芸業者が店構えをしていた。
植物好きの同好社員と共に早めの昼食をして見に行くのが楽しみで、
毎月2~3鉢は買っていたものだ。住んでいる場所では販売していない
種類も購入でき、育て方など丁寧に説明してくれたからだ。

その時誰が観葉植物「カポック」を買ったので、辞書で調べて
キワタ」とも言うことを知り、社内で話したら、千葉の高校出たての
新入女子社員のYasukoちゃんがキワタではなく「もめん」では
ないかと普段はおとなしいのに強行に言い張ってきたことがある。
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確かにキワタは漢字で書くと「木綿」であり、これは「もめん」と
読むことは誰でもが承知していることで、辞書の内容が間違いの
勢いで驚いたことがある。その後イケメン消防士と結婚して
幸せな家庭を築かれたが、子供も育て上げて有閑マダムしてるかな。
今では「キワタカポック」と称して販売しいる店もあるようだ。

綿の花から観葉植物の「カポック」とYasukoちゃんのことを
何故かしら思い出した。風邪の症状がなかなか治まらない。
身体が怠い。

2012年10月20日 (土)

民権の森、石阪昌孝の墓、自由民権の碑、自由民権の像など

先日自由民権資料館に初めて訪れて触発された訳でもないが、本日は
野津田神社、町田民権の森、ボタン園、薬師池公園の自由民権関連を
巡ることにする。

まずは野津田神社
いつ頃できたのかは不詳。元禄13年(1700)湯花の神事について
「野津田村年代記」に記されていて亨保年間には「五社明神」と
呼ばれていた。明治21年(1888)地元他の3神社と合併して
「野津田神社」に社名変更。
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本殿前にある亀の上に乗った灯籠は石阪昌孝が奉納したものだが
亀の謎はまだ解けていない。1862(文久2)年に、灯籠を奉納。
向かって右側の灯籠には、正面に「威霊光被」、裏面には「文久二年」
「継二 先考昌吉君之遺志一不肖嗣子邑長石阪吉利謹建」とあり、
左側の灯籠の正面には「闔郷安穏」、裏面には「壬戌仲秋」
「石阪伝左衛門吉興同半右衛門建」とある。
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境内には町田名木百選の三本がある。コウヨウザンタブノキ
ヤブツバキ。コウヨウザントイレの前、他は下写真本殿右手後ろ樹名板あり。
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境内左側から東京都指定「町田民権の森緑地保全地域」への入口がある。
ネット上「公園」表示が散見されているがNG。町田市有地と東京都有地とからなり
総面積18、968㎡とそんなに広くはない。中途半端な手入れで十分ではない。
市の委託を受けて地元農家の方々が組合を組成し農閑期暇な時に手入れをしているらしい。
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2年ほど前に仲間と某企業環境担当部署の10名程を案内した時は
組合の方が自家製竹箒で通路を掃いた跡がありその竹箒も放置されていた。
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久しぶりに森に入ったが、相変わらず暗い森の印象は変わらない。
シラカシ、アラカシ、イヌツゲ、ヒサカキ、シロダモなどの常緑樹が多い。
それらを伐採したような形跡もない。その常緑樹は樹径10センチ未満が
多く、少し伐採するだけでも印象ががらりと変わるのにもったいない。

途中にある祠 その1
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祠 その2
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雨風に朽ちた枝が落ちているのがそのままで原生林の様子。

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フットパスのルートになっているようだが、枯れ枝が
いつ落ちてくるか危険この上ない。組合の方々はそういう
安全管理の認識は皆無か。市の公園緑地課なり東京都が責任とれということらしい。
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コンクリート製の擬木によるベンチが通路沿いに合計8基設置しているが、
こんな暗い所で座ってみようと気持ちにはなれない。

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視界が開け広い場所に、アザミに似ているが棘のない
タムラソウ」の群生地になっている。Img_1840

ここなら座って一休みできそう。
以前はこの場所から南アルプスを望めたが、本日は確認できず。
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一休みして先を見ると、「石阪昌孝の墓」が見えてきた。
お花のひとつもあげられていない。
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ボタン園からも直接お墓に来られる様にはなっているが
五回程訪れているが今まで開いていたのは一度だけだ。
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墓の隣に町田市による「民権の森」の案内板
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墓を過ぎると下り坂。
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ボタン園側の「町田民権の森入口」
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ボタン園正面
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右側の森が民権の森で、牡丹園正門の左側に駐車場と駐輪場があり
その奥がボン園側から民権の森への入口となっている。
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自由民権の像北村透谷・美那子出会いの碑
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「石昌孝先生墓所」矢印通り階段をまっすぐ登っていけば
お墓の前まで行けるが、フェンスの扉があり鍵が掛かっていることは
前述通り。フェンス越しの墓参・見学となる。一旦出て右へ進み
駐輪場の奥にある「民権の森入口」から入ると近い。
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上の写真は何故か「七国山自然を考える会」が設置した案内板。
「石阪」のサカが「坂」になっているのが笑える。
そう言えば薬師池公園東南周回道路沿いでも同会の古い制札看板が
ある。同会によると活動フィールドは都指定「七国山緑地保全地域」が
メインであるが、七国山緑地保全地域以外での自然環境保全に関する
啓蒙活動なども実施している。

七国山(ななくにやま)緑地保全地域約10haは1975年12月に指定。
同保全地域、薬師池公園、ボタン園、民権の森緑地保全地域、
薬師池北緑地保全地域、薬師池西公園予定地などを含む125haは
1961年に美しい自然景観の風致を維持するために
七国山(ななくにやま)風致地区」に東京都が指定している。

ボタン園から東南の「薬師池公園」へ移動。
薬師池北駐車場
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北側駐車場の南大賀ハスの池と薬師池の間に
自由民権の像
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自由民権の像建立記念碑文

自由や権利という言葉が、人びとに新鮮な感動を与え、人間の精神の
内に秘めた活力を呼び起こす、という時代がありました。近代に入っても
まだ憲法もなければ国会もなく、自治も市民的自由もなかった。
1870-1880年代がそういう時代でした。
 当時の町田市域は、神奈川県の行政区にあって、南多摩郡に属しており、
自由や権利への実現への願いが、もっとも強く満ち満ちていました。この
地域は、武蔵国の辺境でありながら、相模国と接し、武相自由民権運動の
中心的な地域となる可能性と、エネルギーを内包していたのです。ちなみに
三多摩が東京府に移管されたのは1893年のことでした。
 神奈川県内の自由民権運動を指導した石阪昌孝(野津田)をはじめとして、
村野常右衛門(野津田)、青木正太郎(相原)、細野喜代四郎(小川)、
若林高之亮(下小山田)など魅力あふれる民権家を生み全国でも有数の
豪農民権運動を展開しました。後発の若林美之助(下小山田)や
石阪公歴(野津田)ら青年たちも、民権の理想に燃えて活動をくりひろげました。
この活気に満ちた時代の創造力と、情熱にあふれた青年たちの奮闘と努力を
あらためて現代に呼びさまし、そして未来に伝えるために、
ここに自由民権の像を建立します。 

 市制40周年を記念して 1998年2月1日 町田市長」

自由民権の鐘
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2012年10月17日 (水)

自由民権資料館

今まで行きたいと思いながら中々実現できなかった町田自由民権資料館
行ってきた。ここは明治7年(1874年),板垣退助らの「民撰議院設立建白」に
端を発した自由民権運動が全国で展開され、この運動の多摩や神奈川に
関する史料資料を収集して展示している。

常設展示は「多摩の民権/町田の民権」のテーマで行われ,他企画展も開催。
今月は企画展として「あるく郷土史家、天野佐一郎」を展示している(11/25まで)。
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老人には些か急過ぎる階段を上ると右手が入口。受付で人数、市内外や
交通機関など簡単な内容のアンケートにマークしてから入館だが、靴を脱ぐスタイル。
急な階段とは別に車椅子でも上がれる緩やかなスロープも用意されているので
次回はのんびりと上がっていく事にしたい。
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現在の町田市域をはじめとする多摩地区で自由民権運動が盛んだったのは
なぜなのかいつも引っかかっていたので何か解決してくれる資料があるかどうか
楽しみに出掛けた。

個人的には多摩地区は江戸に近く、豪農が多く居てその子弟は
教育を受けていて、外国のこと社会情勢の変化への対応するための
様々な情報を得ることができたからではないかと思っている。

よく目にして知っているのは石阪昌孝であるが、多摩郡野津田村(現町田市野津田町)に
生まれ。明治初年、戸籍区戸長、区長などを経験し、初代神奈川県会議長も。
早くから地域の教育運動を組織し、自由民権運動では常に地域のリーダー。
町田をはじめ神奈川県下自由民権運動の最高指導者の一人です。
1890(明治23)年の国会開設にあたって衆議院議員となり、4期務めた。
長女の美那子と北村透谷との恋愛もよく知られているエピソードだ。
実家跡には出会いの碑も資料館の南ボタン園に残されている。

村野常右衛門もよく知られている。野津田村戸長時代に自治運動に取り組み、
中堅的な民権運動家として活躍し、文武道場「凌霜館」を建てて若手民権家の
育成に取り組んだそうだ。その後、衆議院議員となり、1914年には立憲政友会
の幹事長を務めた。この資料館は「凌霜館」跡地に建設されている。

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疑問を明確に解決してくれる資料にはお目にかかれなかったが、
当初神奈川県に属していた多摩地区が東京府に移管された経緯が
多摩地区での活動が盛んだったのが神奈川から切り離された理由だったことは
明確にされた。東京にとっては飲料水の水質管理の観点からだったとのことだ。
神奈川県には多摩地区の豪農豪商が多くて税収上は痛かったことだろう。

入館料無料は有難い。また疑問点の確認に資料閲覧しにくることだろう。
企画展の天野佐一郎については全く知らなかった。今回の展示を見て
どういう人物だったかわかったので、史跡の揮毫もされているので
改めて確認しておこうと思う。

敷地内にあった繭を乾燥させる小屋
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午後から天気が下り坂とのことで、早めに帰路へ。
途中鶴見川遊歩道を散策しシラサギやら草花を観察して
リュックサックから「もみじ饅頭」を取り出し頂いた。

ミゾソバ コンクリート護岸化されていない用水路など水が豊かで栄養価が高めの場所に
群生していることが多い植物。「ウシノヒタイ」との別名もあり面白い。
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秋明菊 シュウメイギク
キンポウゲ科、中国からの帰化植物。秋牡丹、加賀菊、越前菊、貴船菊など多様な別名あり。キク科ではないのに菊と付けられている。この時季好きな花である。白もいい。
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2012年10月 6日 (土)

太平記の里ひとり旅 その3~義貞首塚、長楽寺、世良田東照宮、総持寺

太平記の里ひとり旅 その3   

昨日の史跡巡りは新田暁高校から東山道公園生品神社
反町館跡茶臼山古墳円福寺十二所神社台源氏館跡
太田駅まえナウリゾートホテルまで約28キロを踏破したことになる。
交通費は太田駅北口から新田暁高校までのバス代100円のみ。

バスダブにお湯を張り足を温め入念にマッサージを施した。
出張など泊まるビジネスホテルでもよく眠れないことが多かったが
案の定よく眠れたと言う感じではない。

朝食は七時からだが、六時には起きて、ストレッチして
昨日準備していた水を飲み体調を整える。なんとか歩けそうだ。

本日のルートは太田市南西部の史跡寺社仏閣歴史資料館。
平日だとバスがあるが土曜日は運休しているので電車を利用した。
東武伊勢崎線木崎駅からスタート。

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降り立ってもタクシーは常駐せず、駅員に尋ねてタクシー会社2社の電話番号を
教えてもらった。近くの小規模会社に依頼した。花見塚神社までタクシーで行き
後は歩こうと思っていたが、明王院から世良田歴史公園へもお願いすることにした。
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運転手さんに花見塚(はなみづか)神社と言っても案の定知らないと
のことで、勾当内侍(こうとうないし)の墓から新田義貞の首塚の話を
したら「首塚」なら分かるとのことだ。

勾当内侍は義貞の惚れた女官で後醍醐天皇から下賜された恋女房と説明した。
内侍とは律令制下宮廷職員で天皇の日常生活に仕える女官で
勾当内侍はその筆頭を呼んだそうだ。

地図に拠ると駅から南へ約7キロ位か。歩くと1時間15分は掛かりそうだ。
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江戸時代初期頃までこの地には躑躅が一面咲き乱れていた。
勾当内侍は一条行房の娘とも妹とも伝えられ、十六歳の時内裏に召されて
後醍醐天皇のそばに仕えていた。生まれながらの美貌で天皇の寵愛が深かった。
新田義貞は内裏の警護の任に当たっていて内侍の弾く琴の音に誘われ遂に
その美貌の虜になってしまった。恋慕の思いを歌に託して内侍に贈った。

 我が袖の涙に宿るかげとだに
   しらで雲居の月やすむらむ

勾当内侍はひどく心を動かされたが、後醍醐天皇の耳に入ることを憚った。
しかし義貞の恋慕が並大抵のものでないことを天皇の耳に入れる者があり
天皇は関東武士の一徹から分別もなく思い染めたのも無理からぬ事と
思召され酒席の盃に添えて勾当内侍を義貞に取らせた。

建武の中興に功績を残した新田義貞への恩賞として下賜したということだ。
当代一と誉高い美人と言われていた勾当内侍のために義貞は新しい館を構え、
各地から集めた躑躅の名木を植えたという。

江戸時代1627年当時の領主榊原忠次がその躑躅を城下の館林に移植して
現在のつつじが岡公園の元になったそうな。樹齢八百年を経ているのも
あり、世界一の躑躅の公園となっている。
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神社の右奥へ進むと、勾当内侍の墓新田義貞の首塚と伝えられている五輪塔。
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タクシーを待たせているので早々に戻る。次の明王院もご存知なく
事前に話していたので、無線で照会したらしくカーナビ状モニターに
距離なども表示されている。北西に1.5キロ。
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かつてここは「安養寺」という大きな寺院があり、明王院を中心として
天神坊、薬師坊、荒神坊・・・など12坊が囲む大寺院だったそうな。
今安養寺はは尾島町の大字名となっている。
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境内には新田義貞の弟脇屋義助の供養板碑が保存されている。
太郎が最も興味をもったのはピラミット型の石積塔「千体不動尊」。

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続いて東照宮ほか国指定史跡仏閣がひしめく歴史公園へ。
途中鎌倉東慶寺と並ぶ幕府公認縁切り寺「満徳寺」を車窓から見学した。
如何にも「徳川氏発祥の地」である。長楽寺と東照宮の間で下車。

 サイト内リンク⇒早春の鎌倉散策 その1~東慶寺、浄智寺、葛原岡神社 ~

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東照宮は隣の長楽寺住持となっていた天海僧正その境内に徳川家
先祖の地に日光東照宮を勧請し家光が移建したもの。
本殿、唐門、拝殿、鉄燈籠が重要文化財。
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長楽寺は今も広大な境内を有する寺院である。徳川義季が開基。
太鼓門は美しい。
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新田一族郎党供養塔
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心字池には紅白の蓮もあり渡月橋も風情がある。
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勅使門「赤門」は開かずの門、小さいが品位ある。
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山門にも風格がある。参道が曲線を描いている。歩いている時は
気づかず、写真を見て初めて気づいた。
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三仏堂
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前方後円墳の円部分にある徳川義季(よしすえ)氏歴代の墓。
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歴史資料館へ行く途中、境内に銀杏の実が落ちていた。
大きさも立派で拾いたかったが、臭いが気になり断念した。
今年もまた愛知県産なり熊本県産のを購入することになるか。
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太田市立新田荘歴史資料館は内容的にはこれはというものはなかった。
秩父緑泥岩の渋い色の板碑の実物、天海僧正の木像も
大きくはないが迫力あるもので思わず手を合わせていた。
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建物の前の義貞像は生品神社前のと同じだが、普通の高さで見ると
義貞公のお顔が見えない。近くに行き下から拝顔致しました。
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駐車場は広くてよい。今回の史跡の中では最も広い駐車場だ。
食事をすることもできそうだ。

さて今回の旅の最後は総持寺
別名「館の坊」といい、鎌倉時代の館跡が寺となった「館寺」
伝承では新田義貞館説、徳川義季など世良田氏の館説もある。
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鐘楼の鐘はいぼなしで大変めずらしい梵鐘とのことだ。
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境内には今を盛りに曼珠沙華が懸命に咲いている。
その様は「お前も最後まで咲き切れ(生き切れ)」と励まされた様だ。
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後は東武伊勢崎線「世良田駅」から電車に乗り帰路へ。
足が痛み出し、ペースダウンあと3キロ頑張ろう。

途中予定していなかったが、参考資料にあった「八坂神社」の
案内表示があり、寄ってみた。牛頭天王を祀る。
1565年の長楽寺の記録に天王祭の記事があり、それ以前に
京都から勧請されたものと見られている。
足利千寿王が世良田で蜂起したのは八坂神社と言われている。
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足尾銅山で採掘された銅(あかがね)を江戸へ運ぶため
利根川の港まで荷車が 足尾銅山街道(あかがねかいどう)の案内板。

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足尾銅山は幕府の直営で、足尾で精練した銅を江戸へ運ぶための
道として、この街道が設けられた。足尾を出た御用銅は、
沢入(そうり)・花輪・大間々・大原・平塚の、5つの宿を順番に
送られたのち、利根川を下って江戸浅草で御蔵入り。

世良田駅は無人駅、Suicaの読み取り機がある。
乗客は無為庵太郎独り。
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体調特に足の脹脛の痙攣が気になっていたが、なんとか大丈夫だった。
持病の内蔵は特に症状出ずに済んだ。

今回のルートは一般的でないルートのせいか、案内板が見当たらず
歩いていて不安になった。裏道沿いの史跡にメインストリートの曲がる角等に
案内板を設置と交通の便の検討をお願い致したいと感じた。

今回の旅について増田克彦著私家版「新田義貞鎌倉攻めの道を辿る」から
inspireされ、更に吉川弘文館出版峯岸純夫著「太平記の里新田・足利を歩く」を
図書館で事前に読ませて頂き参考にした。改めて感謝申し上げたい。

今回の旅が新田義貞が鎌倉古道上道を攻め上ったルートを部分的に
たどる言わば「鎌倉古道ワープの旅」の一回目となればいいと思っている。
二回目はどこにするか体調如何であるがこれから考えるとしよう。

2012年10月 5日 (金)

太平記の里ひとり旅 その2~ 円福寺、台源氏館跡

太平記の里ひとり旅 その2 

昼食を兼ねて30分程度休憩を鋏み午後のスケジュールをこなす。
まずは茶臼山古墳にある円福寺十二所神社新田氏累代墓
台源氏館跡が史跡巡りである。

古河街道沿いに東へ進み、あたりを付けて南下し東南部に
こんもりとした森を見つけて進んだ。なんの案内板もなく不安だ。
幼稚園がありそれらしい看板もないので違うだろうと思いながらも念の為門前まで進むと
国指定史跡の案内があり、目的地と判りやれやれ安堵する。感の冴えに我ながら感心だ。

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円福寺
長さ168m前方部が42m円の直径が96m高さ14mの前方後円墳(茶臼山古墳)を背に
新田氏第四代政義の開基とある。新田氏累代の菩提寺として建立されたものであろう。

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茶臼山古墳の後円部に十二所神社が建ち神像十六体が祀られている。

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累代墓
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さて本日の史跡めぐりのラストは台源氏館跡である。円福寺をあとにし東を目指す。
円福寺から約500m位進むとか一本松が左手に見えてそれと知れる。
狭い場所だが、立派な横書きの案内板が立っている。休憩するのに丁度良い四阿もあり有難い。
歩き疲れているので缶コーヒーを飲み暫し休憩した。
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観光案内マップ等でここを表示しているのが少ないのが何故だろう気になる。
新田義貞、脇屋義助兄弟の生誕地とされるのに信じ難いことだ。
新田義貞卿誕生地之碑」が1938年義貞没後六百年を記念してのものと案内板にある。

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一応本日のスケジュールを無事こなせたが足がぱんぱんだ。
だというのに帰りのバスの時間には1時間超待つ必要があり
予約している駅前のホテルまで歩くことにした。

途中川があり地図で「蛇川」と知りかなり近づいている。東武伊勢崎線の
線路も越して賑やかな街になってきたと自身を鼓舞して歩きに歩いた。
駅前にあるホテル群が見え出したが別のホテルでがっくり。その内に
高層の別のホテルがあるが、名前が見えない。それが予約していた
「ナウリゾートホテル太田」と判明したのは数分歩いてからだ。
手前にある市役所の高層ビルに隠れて見えなかったのだ。
下写真は正面とは反対の西から見た宿泊したホテル。
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疲労困憊でホテルへ。予想以上にいい雰囲気だ。
しかしフロントの女性はまだ新人らしく頼りない感じだ。
朝食の案内など質問にも全く応えられない有様。
部屋はビジネスホテルにも慣れているつもりだが
狭いという印象だ。しかし8階で市内の眺望もよく
まずまずだ。

筋肉疲労で明日のために近くの「金山温泉安眠の湯」という
スーパー銭湯へ行き、マッサージでフットケアした。
施術した女性が「かなり張っていますね」と言われた。
地ビールとピザパイ、肉のグリルなど頂きたく
「ダニエルハウス」へ行ったが本日予約でお断りとのことで
ガックリ、楽しみにして来たので見学だけさせてくれと
石窯のシェフ氏と接客担当女性と言葉を交わして
店内を見せてねらった。結局食事はホテル部屋に
案内していた推奨居酒屋「大ちゃん」で済ませた。

疲れているはずなのに中々眠りに就けない状態で
朝を迎えそうだ。

ひとり旅の二日目世良田歴史公園尾島地区は
ひとり旅~太平記の里 その3~

太平記の里ひとり旅 その1~生品(いくしな)神社、東山道公園

太平記の里ひとり旅 その1   

計画していた太平記の里、群馬県太田市新田荘史跡めぐり
は首都圏から交通の便が悪く、市内の交通機関も十分でなく
「遠かった」「歩き疲れた」がまずの印象だ。

10月5日6時過ぎに無為庵をスタート。
9時57分太田着と約4時間。

新宿から湘南新宿ラインで大宮、東北線で久喜
東武伊勢崎線で太田と小田急線の乗り換えを含めて
4回乗り換えの予定。

遠かった太田が近づくと駅前に"SUBARU"の大きな看板でそれと知れた。
群馬県太田市は大戦敗戦までは世界有数の航空機メーカーであった
中島飛行機」発祥の地であり、富士重工業がそれを継承している。
GHQにより財閥解体の対象ともなった大企業グループであった。
太田市は富士重工をトップとした企業城下町となっている。
工業地帯は海に面している所が多いが、内陸型工業地帯と言える。
ちなみに無為庵太郎はスバルファンのひとりである。

太田で予定している矢島タクシーの新田暁(あかつき)高校行きバスは
10時15分発で、駅の観光案内所でマップや資料を請求した。
マップは市内全体を網羅していて大丈夫だったが、
本日の「東山道公園」「重殿水源」「生品(いくしな)神社」「反町館跡」
茶臼山古墳」「円福寺」「十二所神社」「台源氏館跡」の資料はなく、
明日予定している尾島地区の歴史公園分だけで、
東山道とは何という顔をされたので、古代道路遺構の発掘を説明した。

また明日予定している花見塚神社やそこにある勾当内侍(こうとうないし)
の墓や義貞首塚明王院についても不承知の様子で、
バスの時間が気になったので、資料のお礼もそこそこに
北口のバス停へ急いだ。

駅を出て正面はタクシーが3台ほど客待ちしていて、
左と奥がバス発着の場所で、左へ進むと手前のバス停に
新田暁高校行きとある。間も無く黄色い地に「あおぞら」と大きく
側面に書かれた目的のバスが来た。

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嘗ては東武鉄道系列のバス会社が運行していたが
赤字が続き撤退し、市が地元タクシー会社に
依頼して運営しているとのことだ。
太田市が赤字補てんしているのだろうか。

時間帯のせいか客は太郎を含めて3名、
途中2名乗ってきたが、終点まではひとりだけ。
途中本島病院、太田記念病院、新田診療所と病院が多い。
終点の学校への通学と通院用と理解した。

事前に検索して乗車賃は200円と承知していたが、
車内に特に表示がないので、終点で降りる時
尋ねると顔を見て「お客さんは100円」と
白髪に白髭、都心から乗り疲れた顔のせいか。
それとも高齢者割引を適用して下さったのだろう。
始発から終点まで車窓からの市内観光を
させてもらい100円は有難い。

東山道公園
高校の北側道路を約1キロ西が最初に訪る史跡である地図によると南にはグランドゴルフ場
があり、北側は貯水池となっている。暁高校北側を進むと高齢のゴルファー達が楽しそうに
ゴルフに興じているのが見えてくる。明確な仕切は無いが入口は東側らしい。

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道路遺構は埋設保存されているようで、発掘した時の写真を案内板に示してある。
「七世紀後半頃国家が奈良の都と東国を結んだ幹線のひとつとして整備したもの、
当時は軍事・税務等役人の往来に使用・・・、新田町から境町まで一直線に

結ばれていること、幅12mで両側に側溝があり、約250mが保存とのことだ。

古代街道の12m幅は東京の西国分寺で発掘された東山道武蔵路
町田市野津田公園上の原の道路遺構でも12mで同規格道路である。
恐らく同規格の道路がほぼ直線的に国府間を結んでいたのであろう。

東国を結ぶ山の道がこの「東山道(とうさんどう)」で
太平洋岸を通り東京湾を横断するルートが「東海道」と言うわけだ。
あずま-やまみち」「あずま-うみみち」とも呼んだそうだ。
当時は「やまみち」とか「うみみち」と呼び、
文書化されることが多くなり「東山道」「東海道」が
一般化したものと無為庵太郎は推測している。

次の史跡は最大の目的である「生品(いくしな)神社」であるが
その手前に「重殿(じゅうどの)水源」が見れたらラツキーと
地図によると3800mを歩くしかない。タクシーなんか
拾えるもんじゃない。修行僧のごとく只管歩く・・・。
途中道路工事のガードマン氏が珍しい歩く旅人を見て
興味をもったらしく話しかけてきた。他愛もなく
「暑いから飯しっかり食べないともたないね・・・」
傍のビニールハウス横に大量に捨てられた胡瓜を
「もったいないね」と言ったら、「いいのを持ってけ」
「自分も水で洗って食べた」と曲がっているが
色もよく硬いのを拾ってくれた。
ひとり旅で地元の人との交流も魅力のひとつかもしれない。
有難く頂いて生品神社での休憩時に
水分補給代わりに食べることにしよう。

トレッキングシューズにすれば良かったが、
タウンシューズを履いてきたせいか、歩いている内に
痛みが出てきたので歩幅を狭めてペースダウンした。

地図を頼りに磁石と日陰を指針に歩き続けた。
50分程で神社に到着予定で、途中予定の「重殿水源」は
歩いてきたルートの北だったようだ。戻ることも
可能だろうが思いの外暑くて疲労感も有り、スキップして
生品神社らしいこんもりとした森を目指すことにした。

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生品神社
正面は南であるが、西側からのアプローチとなった。楠の老大木が多数あり圧倒される。

後醍醐天皇の綸旨を受けて新田義貞が元弘三年(1333)5月8日鎌倉幕府(北条氏)討伐の
旗挙げをした場所として有名である。鎌倉古道に関心があり、ひとり旅の目的地にした理由である。
つまりここ生品神社が今回の旅の最大の目的地ということである。

建武の中興六百年を記念して史跡に指定されたが、平成12年に「新田荘遺跡 生品神社境内
として面積を広げて指定されている。境内には旗挙げ塚床机塚軍旗を揚げた椚の木も
保存されている。

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新しい石碑顕彰碑の類が目立つ、中には地元政治家で福田赳夫中曽根康弘など
元首相の名前も見られた。選挙出陣式をここでやってご利益あったということだろうか。

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また新田義貞公銅像とあるが台座のみで上が無残なものもある。
銅像を盗む罰当たり者が居るんだね。

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鳥居を潜り境内へ作法に則りお参りし て見学させてもらった。
1333年5月8日旗揚げに150騎結集と言われているが、
当時の境内はもっと広かったのだろうかと思えるような狭さ。
1934年国指定史跡となり、地元群馬県、太田市も力を入れているようだ。

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正規ルートと思われる国道2号線古河街道の生品神社入り口へ向かおうとしたら、
境内の外に真新しく見える新田義貞の銅像がある。

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反町(そりまち)館跡
生品神社からの道を真っ直ぐ南下2キロ、近くまで来てからどこから東へ入るか
途中自転車に乗るおばあさんに尋ねたら丁寧に教えてくれた。一旦お礼を言い別れたが、
ポイントの角ごとに自転車を止めて待っていてくれて指し示してくれた。感謝です。

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反町館跡は大規模な堀や土塁が今も残されている。平面図では凸字型で
南側120m北側73m東西に「折」を持ち、出入口は南東角と西の二箇所。

反町薬師として近在の信仰を集めているそうである。

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鎌倉時代の築造であるが、戦国時代に三重の堀を巡らす城郭に拡張され、
新田義貞がここに移り住み、その後大館氏明新田義興などが住んだとの
伝承もある。現在の照明寺は以前は西にあったもので、1714年火災後に
ここに移転したとある。本尊は厄除け薬師。

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ゆっくり休憩もとらず次は茶臼山(ちゃうすやま)古墳を目指して東へ
地図によると直線距離で4キロ。近道を期待して田んぼの中の広域農道を歩くがなかなかそれらしき
鎮守の森が見えてこない。下写真は前方後円墳のように見えたが目指すものでなかった。

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既に1時過ぎている。
昼食を摂り、冷静な判断が出来るよう足を休めることにした。
食事ができるのは遠回りを覚悟で国道沿いへ出た。
幸い丁度のところにレストランがあった。ラツキーとしか言えまい。
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源氏家族という名の店に入り天ぷら、刺身、茶碗蒸し、サラダ、蕎麦などの膳を注文した。
一人だから小さなテーブルに座ろうとしたら、女店員が大きなテーブルにどうぞと
誘導してくれるなどきびきびとした接客で好感のもてた。

続きの初日午後の円福寺から台源氏館跡からホテルまでは
 ひとり旅~太平記のの里 その2~ へ

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