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2012年12月27日 (木)

井出の沢古戦場

町田市本町田の菅原神社境内にある「井手の澤」古戦場跡石碑を確認してきた。

建武2年(1335)足利尊氏の弟直義が信濃塩田平から南下してきた北条時行の軍を
この地で迎撃し、激しく戦った場所である。これは「中先代の乱」と呼ばれている。

バス停を降りて交番の右手に鳥居があり従来からの参道で本殿までは急な階段を
のぼることになる。

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高齢者や女性小さい子供にはきつい階段で、近年バス停傍交番の左手に
「おんな坂」参道が新たに造成されている。おんな坂はさらに直線階段と
曲線階段のふたルートがある。井出の沢石碑が目的の場合はおんな坂がよい。

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鶴見川水系「恩田川」の低地から一段上に鎌倉古道が走り、菅原神社の本殿は
鎌倉古道から更に一段高い見晴らしの良い高台にある。

近年再建されたらしく奥の本殿に比し拝殿が新しい。境内には初詣客を迎える
準備がされている。

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目的の古戦場石碑は本殿の左手の更に高くなった場所にある。元々外向きに
建てられていたらしく。石碑に向かうと裏面だ。境内整備される時に
石碑の向きは検討されなかったのだろうか。

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石碑裏面に昭和30年5月とある。
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井出の沢は鎌倉時代の謡曲集宴曲抄善光寺修行に集録されている
鎌倉古道沿いの地名をいれて謡われたもので、鎌倉由井から碓井峠手前の
群馬県松井田まで詠まれている。

宴曲抄は鎌倉極楽寺の明空という僧によって纏められたもので、
当時流行っていた歌謡の一種である宴曲の作品集で、その中に
「善光寺修行」と題し鎌倉から善光寺に参詣する道中を歌い込んだものだ。

宴曲抄善光寺修行

吹送由井の浜音たてて、しきりによする浦波を、なを顧常葉山、
かわらぬ松の緑の、千年もとをき行末、分過秋の叢、小萱刈萱露ながら、
沢辺の道を朝立て、袖打払唐衣、きつつなれにしといひし人の、
飯たうべし古も、かかりし井手の沢辺かとよ、小山田の里にきにけらし、
過ぎこし方をへだつれば、霞の関と今ぞしる、おもひきや、
我につれなき人をこひ、かく程袖をぬらすべしとは、久米河の逢瀬をたどる苦しさ、
武蔵野はかぎりもしらずはてもなし、千草の花の色々、うつろひやすき露の下に、
よはるか虫の声々、草の原のより出月の尾花が末に入までにほのかに残晨明の、
光も細き暁、尋ても見ばや堀難の出難かりし瑞籬の、久跡や是ならん、
あだながらむすぶ契の名残をも、ふかくや思入間川、あの此里にいざ又とまらば、
誰にか早敷妙の、枕ならべんとおもへども、婦にうはすのもりてしも、
おつる涙のしがらみは、げに大蔵に槻河の、流れもはやく比企野が原、
秋風はげし吹上の、稍もさびしくならぬ梨、 打渡す早瀬に駒やなづむらん、
たぎりておつる浪の荒河行過て、下にながるる見馴川、見なれぬ渡をたどるらし、
朝市の里動まで立さわぐ、是やは児玉玉鉾の、道行人に事とわん、
者の武の弓影にさはぐ雉が岡、矢竝にみゆる鏑河、今宵はさても山な越ぞ、
いざ倉賀野にととまらん、夕陽西に廻て、嵐も寒衣沢、末野を過て指出や、
豊岡かけて見わたせば、ふみとどろかす、乱橋の、しどろに違板鼻、
松井田にとまるらん。

鎌倉古道上道に面していて湧き出る豊富な清水があったため、旅人たちがここで休憩したり
干飯を食するのに都合よかったのであろう。東京都の旧跡にも指定されている。

中先代の乱は建武二年(1335)鎌倉幕府執の遺子時行は信濃の諏訪頼重らに
擁せられて挙兵、上野・武蔵を経て足利直義らを追い一時鎌倉を占拠した。
その途中、足利直義が派遣した軍を武蔵国入間郡女影原・小手指で戦い破り、
府中分倍河原で敗走させて進撃、更に直義自ら出陣してきた武蔵井出の沢に
また敗走させた。鎌倉に退却した直義は護良親王を殺して三河に逃れた。
その時京都の足利尊氏は北条時行征伐を好日に鎌倉に下り、
後醍醐天皇から離反した。

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