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2013年5月 8日 (水)

鎌倉史跡めぐり 2013年皐月その1~十一人塚、稲村ヶ崎、虚空蔵堂、極楽寺

鎌倉史跡めぐり KAMAKURA

三ヶ月ぶりの鎌倉であるが、今回も新田義貞関連につき南西部を中心に回る。
①十一人塚、②稲村ヶ崎、③虚空蔵堂、④成就院、⑤極楽寺
⑥御霊神社、⑦長谷寺、⑧甘縄神社、⑨和田塚、⑩六地蔵、⑪大巧寺

昨年11月円覚寺から東勝寺跡腹切りやぐらなど東北部、
今年2月東慶寺から化粧坂、海蔵寺など北西部を巡ってきている。
今回も新田義貞鎌倉攻め関連史跡を回ることとする。

初めての江ノ電
江ノ島までは小田急線を利用することが多く、江ノ島から鎌倉までは江ノ電に
乗ったことがある。今回藤沢駅から江ノ電を利用することにしたが、JR、小田急と
並んでいると思っていた江ノ電駅が小田急百貨店二階で道路を挟んでいると
判り驚いた。

①十一人塚
江ノ電「稲村ヶ崎駅」下車海(南)側へ出て最初の交差点を左(東)側へ進み突き当たりを
左へ歩くと右手にそれらしき石碑が見えてくる。途中案内板等なく不安だったが
迷うこと無く来れて安堵した。

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元弘3年討幕の挙兵をした新田義貞は幕府軍を破り鎌倉に迫った。天然の要塞である
鎌倉を攻るめには鎌倉七口といわれる切通しからとなり、義貞は大舘宗氏
極楽寺切通からの攻撃を命じた。激戦の末、宗氏は極楽寺切通を突破したが、
稲瀬川付近で北条軍に反撃され、宗氏以下11人が討死にした。この11人が
葬られているのが十一人塚で、十一面観音が安置されていると言われている。

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史跡解説板 大変有難いことに鎌倉市教育委員会が解説板を設置してくれている。

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「新田義貞稲村ヶ崎古戦場入口」の石碑も建っている。

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②稲村ヶ崎
新田義貞の鎌倉攻めのおりの戦場となった古戦場。新田義貞はここ稲村ヶ崎で、
黄金の宝剣を海中に投じ龍神に祈願したところ、潮がにわかに引き、新田軍は
干潟を走り抜け鎌倉に突入したとの伝説は余りにも有名だ。

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稲村ヶ崎は由比ヶ浜と七里ヶ浜を分け海に突き出た岬です。干潮時ここを歩いて岬の東
由比ヶ浜側に渡れたということだが。義貞は何時がいいか計算していたと思われる。

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七里ヶ浜から、江ノ島は勿論のこと富士山も眺望できる風光明媚な名所でもある。

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国道から入り右側は開けており、七里ヶ浜から江ノ島・富士山を望める。逗子開成学生の
ボート遭難の碑があるのもこちら、左手は高台になっていて樹木が生い茂っている。
「稲村ヶ崎の碑」、「稲村ヶ崎新田義貞徒渉伝説地の碑」などの石碑あり。

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左手の高台へ上ると、西側の眺望も一段とよい。「ローベルト・コッホの碑」も。

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高台展望台からの富士山も格別だ。

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岬の北側は国道が走り、歩道もゆったりとしていて散策者、ジョギングのほか
リュックを背負った史跡巡りをしていると思しき同好の方ともすれ違った。

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岬の東側。遊歩道が整備されていて、数名が散策している。その中の多くの人が海中を
じっと覗いている。水が澄み浅いので底が見え、海藻にまじり雲丹でもいそうに思えた。
海に入っている男性がふたりほどいた。

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③虚空蔵堂
国道を由比ヶ浜まで歩き極楽寺切通しへと向かう。途中御霊神社の案内石碑があったが
そのまま進むとバスも通れる舗装道路となっている鎌倉七口のひとつ「極楽寺坂切通し」に
その入口近く右手に「虚空蔵堂、星の井」が見えてきた。

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虚空蔵堂は行基が全国行脚の途中、ここで頭脳明晰、記憶力増進をかはる
虚空蔵求聞持法の修行したときの伝説が残されていて、「虚空蔵菩薩が石になって
降りてこられた」と思いついた。それが都の聖武天皇の耳にも入り、行基に
虚空蔵菩薩の像を造って祀るように命じた。虚空蔵堂は、行基が彫った虚空蔵菩薩が
祀られている御堂といわれ、本来の名は「星井寺」という。新田義貞の鎌倉攻めの
戦火で焼失したが、江戸時代に再建されたとのことである。

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星月夜の井
井戸の中に三つの明星が輝き、夜も付近を照らした。この現象が七夜も続いたため、村人の力を借りて、井戸水を汲み出してみると黒く輝く石があった。鎌倉十井のひとつ

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極楽寺切通し
極楽寺坂の切り通しは鎌倉七切通しの一つで、京を結ぶ街道であった。
元弘3年(1333)5月、新田義貞の鎌倉攻めの激戦地の舞台の一つでもある。
新田義貞は自ら、2万騎を率いて5月21日、極楽寺一帯は北条軍が強固な陣を構え、
海上には大船を浮かべ、一部の隙もなかった。幾度となく両軍が攻防を繰り返し、
多数の死者がでた。新田義貞は、極楽寺坂の突破をあきらめ、稲村ガ崎の海岸沿い
からの攻略に切り替えざるを得なかった訳である。

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虚空蔵堂の西にある六地蔵 

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④成就院
極楽寺切通しの反対側南側に紫陽花で有名な成就院が見える。東結界の門

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階段を上った所で振り返ると東側に絶景がご褒美。由比ヶ浜が望める。

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空海が諸国巡礼の折、百日間にわたり虚空蔵菩薩を祀る修法を行ったところと
伝えられる。 承久元年三代執権の北条泰時がこの寺を創建し、北条一族繁栄を
祈ったという。元弘3年新田義貞の鎌倉攻めの戦火で焼失したが、江戸時代に
再建された。本尊は縁結び不動明王で女性に人気のようだ。

クレマチス・テッセン

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法隆寺夢殿の模型 由来は聖徳太子1300年御忌記念に建立とある。

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不動明王 携帯待受画面にする人が多いとのことだが・・・。

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君子蘭

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切通しを進むと「桜橋」

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⑤極楽寺
桜橋を渡り直ぐ右が極楽寺。この寺は、鎌倉唯一の真言律宗の寺。
建立したのは、北条義時の三男・重時。重時は、執権を補佐する連署まで
務めた人ですが、政冶に執着することなく、出家してその邸に極楽浄土の姿を
現そうとして大寺建立を思い立ち、正元元年に造営を始めた。ところが工事半ばの
弘長元年(1261)に重時は亡くなった。その子・長時と業時が父の志を継いで完成させた。
忍性が招かれて開山となった。最盛期は七堂伽藍を備え、大小49の支院があった。
忍性はこの広大な境内に、慈善救済の大事業を営んだ。施楽院・悲田院・療病舎など
の建物が並び、日夜多数の病者を収容し、貧者には無料で加療・施薬をした。
精力的な活動をした忍性は、さらに土木事業も起こし、各地に橋を189ヶ所、
道は71ヶ所もあったという。

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忍性は生き仏と仰がれていた。ところが元弘三年(1333)新田義貞の鎌倉攻めの際の
戦火でことごとく焼失してしまった。今では昔の面影はないが、本堂前にある薬草を
すり潰した石臼と石鉢が、忍性の大事業を示している。忍性は後醍醐天皇より菩薩の
称号を貰っている。本尊は釈迦如来。

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茅葺きの山門があり、桜並木の参道を進んだ先には本堂、大師堂、転法輪殿(宝物館)、茶屋などが建つ。本堂前には忍性が薬作りに使ったとされる石鉢と石臼がある。

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境内写真撮影禁止ということで撮影できなかったが、転法輪殿前の桜は、
北条時宗のお手植えといわれる「八重一重咲分桜」に興味をそそられた。
「原産地は鎌倉桐ヶ谷と言われ、」とも記載されており、江戸時代には鎌倉桐ヶ谷産の
八重一重咲分け桜が普及したされる。「八重一重咲分け桜」は「御車返しの桜」、
「地主(じしゅ)桜」とも呼ばれる。いずれも、京都清水寺の地主(じしゅ)神社の
故事による命名である。極楽寺のほか寺院では、両大師、常照皇寺、地主神社にあるそうだ。

改めてじっくりと時間を掛けてお参りしたい寺院であった。

桜橋を渡り切通しを戻り御霊神社へ。
続きは鎌倉史跡めぐり 2013年皐月~その2

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