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2013年5月

2013年5月31日 (金)

東京都区部に渓谷?~都指定名勝等々力渓谷~

梅雨の晴れ間に等々力渓谷散策 TODOROKI-KEIKOKU

梅雨入りしてから初めての快晴。梅雨の晴れ間を有効活用と云う訳でもないが
急遽思い立って等々力渓谷の散策をしてきた。東急大井町線「等々力駅」下車
徒歩3分と迷いようがないとのことで、電車のルートを冒険してみた。

無為庵から通常JR南武線溝口から東急田園都市線に乗り換えであるが、乗り継ぎ検索で
最も安い料金ルートにしたのだ。小田急で「中央林間」まで行き東急の急行でJRスキップし
「二子玉川」へそこで大井町線に乗り換えのルートだ。自分では思いも寄らぬルートで
一見遠回りにも思えるルートであったが、乗り継ぎが順調でしかも全て座れて
乗り慣れない田園都市線は急行で感覚的には早くてノンストレスルートであった。

初の等々力駅は構内に踏切があり面白い駅だ。駅から南へ歩きスーパーマーケット
成城石井の先を右に曲がる。歩道に目的地「等々力渓谷」の案内タイル板が
嵌め込まれていてストレンジャーには有難いことだ。

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等々力渓谷入口である「ゴルフ橋」も直ぐに見えた。橋の名前としても面白い。
昭和初期旧下野毛、等々力村に東急電鉄が開発したゴルフ場があったことに由来。

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当初は木造だったそうだが、現在はアーチ型鉄鋼製赤く塗装されて渓谷の緑に映える。

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等々力渓谷は武蔵野台地南端を矢沢川が侵食してできた延長約1kmの東京23区内
唯一の渓谷。別世界へ迷い込んだような気がする。

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前日の雨で遊歩道は濡れ、一部水溜りも残っているが好天で散策者も多い。

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最初の橋。歩道が右岸になる。

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更に下流へ進むと環状八号線の玉沢橋が見えてくる。

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玉沢橋を潜り左へ渡る公園橋があり、奥へ進むと東京都指定史跡「三号横穴」
古墳時代末期から奈良時代頃の横穴墓。6基以上発見されていて、昭和48年に
に発見された「三号横穴」は埋葬人骨や副埋葬品も良好だったことから保存している。

左岸へは簡易橋を渡ると良い。渡った所にトイレがありお世話になりました。

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奥行き13m、内部は徳利を半分に切った割った形。須恵器の平瓶、横瓶、刀子、
金銅製耳環などが出土しており、その豊富さから武蔵国荏原郡等々力周辺を
治めていた有力者と推定されている。石室の入口はガラス板で閉じられている。
それが鏡状となり、内部を見ることはできなかった。

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一号と二号横穴墳は跡石碑のみのようだ。

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右岸遊歩道に戻りやがて稚児大師御影堂

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弘法大師空海の稚児坐像

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春紅葉 黄葉ではなく新緑時から赤い葉

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等々力稲荷堂

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不動の滝
古来から滝に打たれ修行する人々が訪れてくる。この滝の音が響き渡り轟いた
ところから「等々力」の地名となったとの言い伝えがある。嘗ては水量が多く
滝の落ちる音量も凄かったのでしょう。無為庵地元緑地の湧水地も近所で
大規模宅地化が進み湧水量が激減している。

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滝から更に階段上がった所に「等々力不動尊」
戻り右岸の下流へ行くと「日本庭園・書院」池・流れ・石田畳の階段園路がある庭。
これは昭和48年著名な造園家により作庭されたもの。

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竹林
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上には書院と芝の庭もある。渓谷歩きに疲れたら休憩する場所として良い。

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芝庭奥トイレあり、等々力渓谷公園内でふたつ目。太郎のようなUC(潰瘍性大腸炎)など
IBD(炎症性腸疾患)患者には有難い。上写真右手躑躅の場所に石碑。名勝指定書だ。

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歩き疲れにこのような書院にほっとする。
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濡れ縁でひと休み。建物内に等々力渓谷についての展示物あり。

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給茶器があり、温かい緑茶を頂いた。美味しく頂き、疲れが吹っ飛んだ。

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記念のスタンプを押して、パンフレットを一部頂いた。
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2013年5月21日 (火)

小江戸 川越散策その3~本丸御殿、蔵街、時の鐘ほか

小江戸 川越散策その3  KAWAGOE

今回川越日帰り旅の最大目的であった喜多院の参詣を終えて本丸御殿へ行きたく
巡回バスに乗ろうとしたが、10人くらい並んでいる。バスは満員で来て、降りる人は
ふたりだけ、仕方なく歩くことにした。

おおまかな位置関係は頭に入ってはいるものの、初めての土地であり、気温が上がり
歩くことに不安があったがいたし方ない。要所要所に案内表示があり助かる。
結局4箇所を寄り道するバスとほぼ同時に本丸御殿に到着した。

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川越城本丸御殿
嘉永元年(1848)、時の藩主松平斉典が造営。江戸時代17万石を誇った川越城唯一の
遺構である。川越城は扇谷上杉持朝が古河公方足利成氏に対抗する為、長禄元年
(1457)に家臣の太田道真・道灌父子に命じて築城されたもの。

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途中女性の観覧者から「喜多院から歩いて来られたんですね」と声を掛けられた。バスに乗っていたグループの方だ。
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家老詰所
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大広間
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現存しているのは玄関・大広間と移築復元された家老詰所のみ。玄関に入ると
廊下がぐるりと部屋を取り囲んでおり簡素にして質素の印象。

市立博物館
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市立美術館
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中ノ門堀跡
多賀谷家所蔵の絵図によると中ノ門は二階建て櫓門で梁行15尺2寸(4.605m)
桁行30尺3寸1分(9.183m)の規模。棟筋を東西方向に向け、両側に土塁が取り付き
土塁の上には挟間を備えた土塀が巡っていた。
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堀跡
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蔵造り町並み
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時の鐘
江戸時代の初期酒井忠勝が川越城主(1627-1634)の頃に建設されたと伝えられている。
その後何度か焼失し、現在のは明治26年の川越大火の翌年に再建。高さ16メートル
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埼玉りそな銀行
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くらづくり本舗  何屋さんなのか和菓子だと判るが、屋根の髭も気になる。防火咒いだとか。

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蓮馨寺
天文一八年(1549)開山浄土宗。

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中国や日本のお寺におびんずる様の像が祀られているのは、おびんずる様の像に触ってその手で自分の体をなでれば、病気が治り、節々も軽くなると云う今も尚深く信仰されている。

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頭と膝を擦り、なんとなく足が軽くなって本川越駅へ。
歩道のタイル絵 観光案内も兼ねていていいアイデア。
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川越祭りの「氷川神社」や「菓子屋横丁」と「中院」は次回の楽しみにした。

小江戸 川越散策その2~五百羅漢

五百羅漢   GOHYAKU-RAKAN, KITA-IN

喜多院の五百羅漢は楽しみにしていたものだ。こちらも日本三大羅漢だそうだ。
ここの羅漢は川越北田島の志誠の発願により、天明2年(1782)から文政8年(1825)の
約50年間にわたり建立されたといわれている。

太子堂の裏(北)側にあり、客殿書院拝観と共通券になっていてみやげ店右が入口。
十大弟子、十六羅漢を含め、533体のほか、中央高座の大仏に釈迦如来、脇侍の文殊・普腎の両菩薩、左右高座の阿弥陀如来地蔵菩薩を合わせ、全部で538体が鎮座しています。

さまざまな表情をした羅漢の内、面白いと感じたものを撮影した。

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尺八の音が聞こえそう
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小鼓か
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衣の中で合掌しているのだろうか?
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銅鑼とシンバルか
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宴 「まあ、いっぱいどうぞ」
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よく紹介されている ヒソヒソ話
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「なんとかならないのかな」「うん、そうだね」
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本当に五百あるかどうか数えている男性。

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小江戸 川越散策その1~喜多院

小江戸川越散策~喜多院  KITA-IN, KAWAGOE

4月末頃川越日帰り旅を計画し予定日は5月20日であったが、生憎の雨天のために
当日「本日の予定は明日に順延。」と老妻に告げ、昨日は完全休養日とした。
本日は西武新宿線新宿駅へ乗り換えるのは初めてだ。予定の本川越行き急行に
余裕で乗車できた。小田急に比較して下りのせいか座席も空いている。
学生時代通学に利用していたので車窓から見える沿線の街や駅が懐かしい。

途中「新狭山」はホンダの工場見学で一度来ているが、「本川越」まで来たのは
初めてである。小江戸巡回バス(CO-EDO LOOP BUS)で本丸御殿まで行き川越城見学し
後は蔵造り町並みなど散策して最後一番の目的である喜多院を時間までゆっくりと
予定していた。

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本川越駅前ロータリーで巡回バスを待つも時刻表にある時間になっても来ず
不安になる。結局15分遅れで普通のバスを二回り小さくしたのが来た。
座席は全て埋まっていて5~6名が立っている。乗客は観光目的なので
運転手さんが観光案内を随所に挟みながらで好感が持てたのであるが、途中の
喜多院でで下車した。目的の喜多院をまず見て、他は余った時間を使うことにした。

道路脇に広大な駐車場があり、観光客参拝者が如何に多いかが知れる。
天海大僧正像
山門の手前に天海大僧正の像が建っている。座像を拝見するのも楽しみにしているが
撮影不可なのでせめてと撮影した。

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山門と番所
寛永の大火で焼失を免れた建物とのことだ。四脚門の形式で屋根は切妻造本瓦葺、
棟札こにより寛永九年(1632)天海大僧正により建立とわかる。隣接して番所が
建っているが、天保一二年(1841)境内絵図では山門より後方に描かれていて
その後移設されたと考えられる。

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鐘楼門
二階建ての階上に梵鐘を吊るしている。入母屋造り本瓦葺。一階部分は袴腰と
呼ばれる曲面で構成した囲いがある。なんと東照宮の門として建立との記録があるそうな。
二階正面は龍の背面には鷹の彫刻がある。

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太子堂と木遣塚
弘化4年3月、末寺混合院境内地に創建。明治以後廃寺にともない日枝神社境内に移し
更に明治42年3月現在の多宝塔建立地に移築していたものを、昭和47年11月再興とある。

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慈眼堂  国指定重要文化財
境内の南側東照宮に隣接した七世紀初頭の古墳の上に建立。
慈眼大師天海をまつる御堂。三間四方の小規模堂宇。屋根は中央から四方へ流れる
宝形造り本瓦葺。

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多宝塔
寛永16年(1639)に、山門と日枝神社の間にあった古墳の上に建立。昭和48年(1973)に現在地に移し解体修理を実施し復元。総高13m、方三間の多宝塔で本瓦葺、上層は方形、上層は円形、その上に宝形造りの屋根。江戸時代初期の多宝塔の特徴が表れています。

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客殿・書院  国指定重要文化財 
拝観料4百円。書院、庫裏とあわせ江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築したもの。
家光誕生の間、春日局化粧の間、天井には彩色による81枚の花模様がある。湯殿と厠も。
撮影できなかったが、最も感動したのは天海大僧正寿像を間近に拝見できたことだ。

客殿から観た遠州流庭園

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慈恵堂への渡り廊下 庭の説明板あり

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慈恵堂への渡り廊下から観た紅葉山庭園

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慈恵堂
比叡山延暦寺第18代座主の慈恵大師良源(元三大師)をまつる堂宇です。
大師堂として親しまれ、潮音殿とも呼びます。裄行9間梁間6間入母屋造りで銅版葺。
喜多院の本堂として機能し、中央に慈恵大師、左右に不動明王をお祀りし、
毎日不動護摩供を厳修しています。昭和46年度から4年間にわたり解体修理し、
天井に描かれた数々の家紋は、その際に寄進をされた壇信徒のものです。
客殿見学中に太鼓の音と共に読経の声がし、堂内に入りお参りさせてもらった。
丁度護摩供養中であった。

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ご神木 天海大僧正お手植えの槇樹齢350年といわれている

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仙波東照宮 国指定重要文化財

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元和2年(1616)駿府城で徳川家康が亡くなると一旦久能山に葬られ、元和3年
(1617)日光山に改葬の途中、3月23日から26日までの4日間、遺骸を喜多院に留めて
天海僧正が導師となり大法要が営われた。そのことから境内に東照宮が祀られ、
寛永10年(1633)には立派な社殿が造営された。

拝殿 門が閉められていたので、レンズを入れて撮影。
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川越では仙波東照宮を三大東照宮といっている。日光東照宮、久能山東照宮の二社と
もう一社は鳳来山東照宮滝山東照宮などがも後の一社として名乗っている。

奥の本殿 横の塀の間から撮影させてもらった。

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昨年秋に訪れた群馬県太田市の世良田東照宮も境内面積建物共に立派だった。

本殿横

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川越散策のその他 五百羅漢、本丸御殿、蔵造り街並などは別途まとめる。

2013年5月18日 (土)

花紀行 薔薇37点~4年ぶり野津田公園ばら広場

野津田公園「ばら広場」に4年ぶりに薔薇の花を観に行ってきた。
古道や遺跡を目的としては昨年も来ているが薔薇目的は4年ぶりとなる。
ばら広場は野津田公園の北端、陸上競技場の北側、「小野路屋敷」の北隣の
緩やかな東傾斜地8000㎡に市ホームページに拠ると380種、840株が植栽されている。

今朝起床後のお天気が良くて気持ちよく体調もよく最終決定し家族に告げた。
出掛ける息子に公園入口まで車で送ってもらうことができたので助かった。

陸上競技場まで来たのは一年ぶり位だろうか、それでも駐車場の有料化され
テニスコート隣接の駐車場スペースは砂利から立派なコンクリートになり
そこから競技場へのアプローチの階段も立派なコンクリート化されている。
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幅も広くなったようだ。

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観客出入り口が新たに造られている。メインスタンドだけでなくバックスタンドやサイド
スタンドへも誘導できるように工夫されているように見えた。

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その総合案内所を左に見て小高くなっている北へ進むと「小野路屋敷」入口の門が
見えてくる。そこを潜り階段になっている山道を上がっていくと尾根になり、
その北が「ばら広場」である。足の不自由な方や自信のない方は西駐車場から
アプローチされると楽に来れそうです。

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9時前に到着したが、既に40~50名は居そう。後で判ったのであるが
撮影会が開催されたのだ。

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4年前と種別配置など基本的に変わってなさそうだ。
入口の左手南西にハイブリットティグループ(H)
その北、北西にはオールドローズグループ(O)
入口から右手前にはフロリバンダグループ(F)
その右東端はつるバラグループ(C)
北端はシュラブグループ(S)
ハイブリットとオールドローズの間にミニバラグループ(M)

直前に旧古河庭園でハイブリットティ種を中心に撮影しているのでダブらないようにした。
撮影会の方々は花弁がパーフェクト限定など慎重だが、こちらは記録目的撮影で気儘だ。

変わらぬ美しさに再会出来て楽しいひとときを過ごせた。

①カクテル オールドローズ、自宅のも毎年楽しませてくれている

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②ハマナス赤 何時見ても愛らしい

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③ハマナス白

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④ロサ・カニーナ(ドッグローズ)

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⑤モーツアルト

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⑥バレリーナ 1937 英ベントール

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⑦タイムレス98

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⑧ジェミニ 

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⑨ピース 仏メイアン 戦火から花を守る為帰国する米大使に託し、
戦後平和を喜びこの花に「ピース」と命名した。そして国連創立総会の
各国代表に1本づつ届けたことで世界中に伝えられた。

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⑩イングリッド・バーグマン 出演した「誰がために鐘は鳴る」英文シナリオ暗記したものだ。

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⑪ファーストラブ

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⑫リリー・マルレーン

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⑬モリーニュー

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⑭ブルームーン HT 1964独タンタウ

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⑮鎌倉

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⑯フリージア  FL 1973独コルテス

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⑰インターナショナルヘラルドトリビューン

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⑱ラビアンローズ

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⑲ハンナゴードン

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⑳花霞  FL 1983 日本京成バラ園芸

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㉑アンネの形見 FL 1960 ベルギーDelforge

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㉒ダニエルギラン

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㉓ゴールドマリー84

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㉔イングリッドウェイブル FL 1981 独タンタウ

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㉕ニコロ・パガニーニ FL 1993 仏メイアン

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㉖サプライズ FL 1993独コルテス

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㉗パーマネントウェーブ

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㉘ウーメロ 1995 仏メイアン

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㉙ケアフリーワンタン 1992 仏メイアン

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㉚ロイヤルポニカ 1992 仏メイアン

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㉛アンジェラ  1998 独 コルテス

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㉜ドルトムント CI 1955独コルテス

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㉝アメリカ CI 1976 米J&P

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㉞ツル桜霞  CI 2001 日本 鷲見

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㉟アルティシモ

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㊱ラベンダードリーム 1986 蘭インタープランツ

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㊲オールザットジャズ

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東端の蔓薔薇まで来て気がついたのであるが、4年前は
鶏糞の臭いが風に乗り不快になったものだが、それがなくなっていた。
鶏舎は元からあり、バラ園は後から造園されたものだ。
後から来たものに「臭い」と言われ撤退したのであればお気の毒なことだ。

不特定多数の客に来てもらうバラ園を鶏舎の傍に造る企画をして
推進した者が悪いのに鶏舎側は不条理に腹わたが煮えくり返ったことだろう。

バラ園については市内に計画されている風致公園に一部移設して
もっと多くの客を呼び込めるよう広い駐車場やレストラン併設の立派な
管理棟を建てる計画しているらしいが、隣接自治会住民、自然保護団体からは
当然反対されたという経緯がある。市長は人が集まる箱物造りたくて仕方がないらしい。
「カワセミ通信」とか如何にも自然派の仮面は被っていて、カワセミなどの写真撮影したりは
しているが、それだけでカワセミが来るこの自然を維持できるとは思っちゃいないだろうに。

2013年5月14日 (火)

面白い狛犬に出会う~平塚神社

旧古河庭園の帰路ルートは往の駒込駅よりも近く暑いこともあり上中里駅へ。
本郷通りを左に進み約700メートルとの案内があり取り敢えず左へ歩くことにした。
やがて右手に「平塚神社」という全く馴染みのないお社があり、寺社仏閣の縁起につき
興味がわき、お参りして帰ることにした。

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豊島近義後三年の役で城に立ち寄った源義家から饗応への返礼として鎧1領を
譲られたが、これを清浄な地に埋め、塚を築き、平塚城の鎮守とした。塚は「甲冑塚」と
よばれ、高さが低いため「平塚」ともよばれた。

欅の大木がお社の神域の威厳を高めている。左は町内会等名表示の倉庫列は神輿格納か?

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境内社として、豊島神社(豊島近義を配祀)、稲荷神社、石室神社もある。

 

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豊島近義は社殿を建て、源義家、源義綱源義光を「平塚三所大明神」として祀り、
一族の繁栄を祈願したという。江戸時代、平塚郷の無官の盲人 山川城官貞久は、
平塚明神に出世を祈願して江戸に出たところ、検校の地位を得て、将軍徳川家光
近習となった。のちに山川は家光の病気平癒を祈願したところ直ちに病気は快癒し、
山川は感謝して平塚明神社を修復し、家光は50石の朱印地を明神に寄進した。

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新規に朱印がくだされたことは、当時、一般諸社寺政策から見てきわめて
異例のことであり、もって特別な崇敬がささげられていたことがしれる。以後、
歴代将軍は同様の額を安堵した。

上写真でも解るが狛犬が珍しく面白い。溶岩状の岩に右に雄、左に母と子の獅子。

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左父子獅子説もあり、機会があれば由来など知りたいものだ。

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境内の欅を保全しているとの表示あり。
JR上中里駅は平塚神社の裏手にあたり、お参りしたおかげで迷わず帰れた。

花紀行 春のバラフェスティバル2013年5月14日~都立旧古河庭園

春のバラフェスティバル~旧古河庭園2013年5月

名前表示板に名前の他由来もあり有難い。撮影時に花名など記録するのは大変ではあるが一部でも覚えられると楽しい。

①シャルル・ド・ゴール 1974フランスメイアンHT

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②ダイアナプリンスオブウェールズ 1999アメリカJ&P HT

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③マサコ(エグランタイン)1994 イギリスオースチン S
香料採集源

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④ロイヤルプリンセス 2002フランスメイアンHT

  敬宮愛子内親王の誕生を祝って名付けられた
 

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⑤バニラ 1999アメリカ J&P HT

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⑥フロージン82 1982ドイツタンタウ HT 
「快活、陽気」の意味 芳香あり

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⑦カリフォルニア・ドリーミング 2009 フランス メイアンHT
 
気候により花弁の色が微妙に変化する

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⑧ローラ 1981フランスメイアンHT
在仏コロンビア大使夫人の名前

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⑨インカ 1882 ドイツ タンタウ HT

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⑩プリンセスミチコ 1966イギリス ディクソン FL
美智子
皇后陛下へ捧げられた

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⑪マダムサチ 1984フランスHT
鈴木善幸元首相夫人の名前

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⑫ゴールデンメダイヨン 1984ドイツ 

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⑬メリサ 1973 ドイツ 
タンタウ HT


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⑭ブルーリバー 1984 ドイツ コルデス HT
芳香あり

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⑮熱情 1993 日本鈴木省三 HT

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⑯春芳 1987 日本京成ばら園 HT

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⑰カトリーヌ・ドヌーブ 1981 フランス メイアン
 
芳香あり 大好きだった女優さんの名でイメージ通り


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⑱ブルーライト 1995 日本 伊藤順 「香りの大賞」受賞

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旧古河庭園2013年5月~国指定名勝

旧古河庭園2013年5月

屢々テレビなどのメディアに取り上げられていて暇人になったらバラのシーズンに
訪れたいと思っていた「旧古河庭園」へ行き撮影してきた。都内では唯一洋風
庭園と日本庭園という2つの顔を持ち「国指定名勝」でもある。

JR駒込から本郷通りを約15分、5月にしては強烈な日差しと初めての土地で不安
だったが、重厚な石垣が右手に見えてきて安堵した。反対車線で観光バスを降り立った
団体が小旗を持つコンダクターを先頭にやってくる。

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正面入口の両サイドに駐輪している自転車やバイク目に障る。専用のスペースは
ないのだろうか。

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正門を通り過ぎた先にも観光バスが停まっている。人が多い所を避けて平日に
行動しているが、今回は覚悟が必要のようだ。正門を入り左手の管理棟窓口に
入場券をもとめて行列ができている。65歳以上70円、老年割引を初めて利用した。

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右手に進むとメディアで見て馴染みの黒ずんで歴史を刻んでいる「洋館」が凛と
建っている。

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園内に建てられている「庭園案内図」の「案内」によると
この庭園の敷地は明治の元勲・陸奥宗光の別宅であった。次男が古河家の養子に
なった時、古河家に譲渡された。三代目当主古河虎之助が従来の敷地は本宅用地と
して新たに大正三年頃隣接地を買収して庭園としたのが始まり。その後国に
所有権が移り地元の要望を取り入れながら東京都が整備して、昭和31年4月から公開。
武蔵野台地の斜面と低地という地形を活かし、北側の小高い丘にはゴシック様式
洋館を建て、斜面には明るい洋風庭園、そして低地には池泉を中心とした日本庭園を
配したのが特徴。

現在の洋館と洋風庭園の設計者は、英国人ジョサイア コンドル博士
(1852~1920)です。博士は当園以外にも、旧岩崎邸庭園洋館、鹿鳴館、
ニコライ堂
などを設計し、我が国の建築界に多大な貢献をしました。
日本庭園の作庭者は、京都の庭師植治こと小川治兵衛(1860~1933)の
手によるものであり、彼は当園以外にも、山県有朋の京都別邸である無鄰菴
平安神宮神苑円山公園、南禅寺界隈の財界人の別荘庭園などを作庭。
数少ない大正初期の庭園の原型を留める貴重な存在で、伝統的な手法と近代的な
技術の融和により、和洋の見事な調和を実現している秀逸で代表的な事例であり、
また、現存する近代の庭園の中でも、極めて良好に保存されている数少ない
重要な事例であるとして、平成18年1月26日に文化財保護法により国の
名勝指定を受けました。

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昭和31年4月30日に開園、面積 30,780.86平方メートル(平成22年5月31日現在)
樹木数     高木:2,400本 低木:2,400株

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洋館躯体は煉瓦造、外壁は真鶴産の新小松石(安山岩)で覆われ、屋根は天然
ストレート葺き、地上2階・地下1階となっている。
大正12年9月1日の関東大震災では約2千人の避難者を収容し、虎之助夫妻が
引き払った大正15年7月以降は貴賓の為の別邸となった。昭和14年頃には後
南京政府を樹立する国民党の汪兆銘が滞在し、戦争末期には九州九師団の
将校宿舎として接収され、また戦後は英国大使館付き武官の宿舎として利用された。
激動の日本を見てきたんだね。

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バラ 18種のみ撮影 当blogへは別途アップすることとする。
①シャルル・ド・ゴール ②ダイアナ プリンスオブウェールズ ③マサコ 
④ロイヤルプリンセス ⑤バニラ ⑥フロージン82 ⑦カリフォルニア・ドリーミング
⑧ローラ ⑨インカ ⑩プリンセスミチコ ⑪マダムサチ ⑫ゴールデンメダイヨン
⑬メリサ ⑭ブルーリバー ⑮熱情 ⑯春芳 ⑰カトリーヌ・ドヌーブ ⑱ブルーライト

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日本庭園
灯籠が要所要所に建っている。泰平型灯籠。名前の通りどっしりとしていて笠の縁が
反り返り角柱のようにごつごつとしていて竿は太く節が3つある。

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西にある兜門

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枯滝 枯山水のように水を流さず小石で水流を表し大きな石を立て水の落ちる様子を
表現している。

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池の飛び石

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心字池 池の水がもう少し澄んでれば文句ないのだが・・・。水質改善に木炭を利用したらどうだろうか。

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雪見灯篭 水辺にありその姿が水面に浮いて見える。点灯した時に浮いて見え
浮き灯が雪見に変化したのではとの説あり。

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渓谷

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奥の院型灯籠 灯袋に牡丹唐獅子雲七宝透かしを中台に十二支を基礎に波に千鳥
兎を刻んでいる。春日大社奥の院にあるものを発展させたもの。

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書庫

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茶室 木々に囲まれた異次元空間が楽しめそう

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大滝 本郷台地と低地の斜面を巧みに利用した小川治兵衛の最も力を注いだ場所。
滝壺まで20m落ちる景観は氏の作風としては珍しく丘陵幽玄の境地をいかんなく
発揮している。

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洋館建物内見学は事前申し込みが必要。一階の三部屋がティールームとして午後1時から
開放される。そこからバラを愛でるのもいい。

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パンフレットと入場券

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2013年5月 8日 (水)

鎌倉史跡めぐり 2013年皐月その2~御霊神社、長谷寺、甘縄神社、和田塚、大巧寺

鎌倉史跡めぐり 2013年皐月その1 からのつづき   KAMAKURA

極楽寺切通しを成就院を右に虚空蔵堂を左に見ながら戻り左手に饅頭屋さんの角に
霊社鎌倉権五郎景政」の石碑が建っていて、そこを左に曲がると正面に
霊神社」の鳥居が見えてくる。

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御霊神社 
目の前を江ノ電が走る御霊神社(ごりょうじんじゃ)は、平安時代の開発領主鎌倉権五郎
景政を祀る。別名「権五郎神社」。江ノ電の踏切を渡ってお参りすることになる。

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鎌倉には、大庭・梶原・長尾・村岡・鎌倉という平氏一族の五家があって、
その祖先をまつる「五霊神社」が建てられた。しかし、鎌倉権五郎景政
武勇の誉れが高いことや、景政が領していた地であったことなどから、
いつしか景政一人を祀る神社となったのだという

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弓立松 領地を見廻る際に弓を立てかけたと伝わる松

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拝殿と奥の本殿 美しさが際立っている。

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第六天社

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右奥には石塔ご柱 御嶽神社、八海山神社など

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石上神社

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金毘羅神社

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袂石と手玉石

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左側の 「手玉石」 が 28貫(約105kg)あり、右側の 「袂石」 が 16貫(約 60kg)ある。
それぞれ 景政 が、「手玉」に取り 「袂」に入れた
そうだ

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⑦長谷寺
木造仏では日本一大きい9m余の十一面観音立像や、重要文化財の梵鐘で有名。
鎌倉七福神の一つ大黒天も。 開山:徳道上人 開基:藤原房前
江ノ電長谷寺駅まで来ると観光客でごった返している。観光バスから外国人も。
拝観料は数台ある券売機で。隣の券売機でご婦人が苦労していた。タッチする
場所を間違えているらしい。もっと単純にならないのだろうか。

長谷寺門前左の「タブノキ」の幹樹勢が面白い。

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観光客の多い寺院は好きではないが、十一面観音立像を目的に頑張って
階段をのぼるとしよう。本堂までの階段途上で「エビネ

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本堂の観音堂

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堂内撮影禁止なので出口で絵葉書を購入した。
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経蔵 回転式書架で輪蔵と呼ばれている

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鐘楼(梵鐘)も美しい。

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裏山の散策路から見える経蔵と本堂

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散策路の山から降りてから見晴台で名物の「寺まんじゅう」という野菜饅頭を頂いた。
予想以上に美味しかった。トンビもその美味しさを知っているらしく被害に遭う人が多いとの
ことで注意喚起の警告文が貼ってあり、空を見上げたら3羽飛んでいてゾッとした。

海芋(かいう)海を渡って来た芋科植物 カラーともいうがワイシャツの襟に似ているから。

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アヤメ菖蒲も綺麗だ

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学生や外国からの観光客で歩道も混雑している中回向院へ山門を潜り大仏
阿弥陀如来の手指の組み方印相を確認した。9種類あるとされる阿弥陀仏の
印相の中でも最も格式が高い「上品上生印(じょうぼんじょうしょういん)」
だとのことだ。

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観光客から逃れるように東へ入り、生シラス丼を食べて次へ。

⑧甘縄神社
710年(和銅3年)、僧行基の草創によって、由比の長者と呼ばれた染屋時忠が
神明宮と神輿山円徳寺を建立したのがその始まりと伝えられ、鎌倉最古の神社

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源頼義が祈願して子の八幡太郎義家を授かったと伝えられる源氏と縁の深い神社。
頼義や義家は、社殿を修復、源頼朝も社殿を修理し、荒垣や鳥居を建てたと伝わる。
源実朝、北条政子も参詣していた。宝物に源義家坐像があり、八代執権北条時宗の
産湯ノ井」が残されている。 

拝殿と奥本殿

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手水舎で手を洗おうとしたら生徒手帳を拾得した。その生徒も作法に則りお参り
したようだ。見ると横浜の名門中高一貫男子校で、手帳に印刷されている学校宛に
郵送した。結果的にこの方法が最も速く生徒の手許に届くはずだ。

境内には女子中学生と思われるグループも来ていたが、急な階段に怖気づいたのか
結局お参りせず階段手前で引き返し、無作法にもキャーキャー大声で話していてのが
気になった。彼女たちは一体何を目的に来たのだろうか。

⑨和田塚
建保元年(1213)2月信濃国の住人・泉親衡が前将軍源頼家の遺児・千寿を擁して
北条氏の打倒を企てた。しかし事前に発覚して、一味は捕らえられたが、その中に
和田義盛の子・義直と甥の胤長が加わっていた。義盛は二人の息子の赦免を願い
出て許されたが、胤長について執権・北条義時は許さず、陸奥国に配流された。
和田氏は幕府創設以来の功臣であり、最大のライバルである三浦一族であった。

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北条義時が専制政治を行う為に、三浦、和田氏の抹殺が必要であった。
5月2日和田義盛は密かに北条氏打倒の挙兵の準備を進めた。当初は同族の三浦義村.
胤義親子は協力する約束をしていたが土壇場で裏切り北条に和田に謀反の企てありと
北条に訴えた。和田一族は、軍兵150騎で幕府を攻撃した。北条泰時以下、
幕府の御家人達が必死に防戦したが、和田軍に突入され幕府の建物は全焼となった。
将軍・源実朝と北条義時は戦火をくぐって法華堂へ逃れた。その後、5月3日
幕府軍の軍勢が増えて和田軍は劣勢に陥った。義盛の四男・義直が討たれると、
義盛は戦意を失い江戸能範の手の者に討たれた。義盛67才であった。

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こうして和田一族の乱は終わり、和田一族は滅亡した。和田氏が滅び、三浦氏の
権威も失墜し、北条氏の勢力はますます強まっていった。鎌倉の江ノ電
和田塚駅の側に和田一族の墓があり、俗に和田塚と呼ばれている。明冶25年、
新道を開く為にこの塚の一部を掘ったところおびただしい人骨が出てきた。
おそらく和田合戦の時のものであろうと言うことで「和田一族戦没地」の
碑が立てられたそうだが、これには疑問に思う。

⑩六地蔵
和田塚から駅方向へ真っ直ぐ線路も越えて進むと311号線に出る右手の
変則交差点が「六地蔵交差点」でその北東位置にある。ここは昔の刑場跡地で、
多くの者がここで処刑された。明治初めころまでは、「飢渇畠」(けかちばたけ)
と呼ばれる荒地だったが、罪人供養のための六体の地蔵が建てられた。
六地蔵は、亡者を六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)から
救うために祀られている。

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⑪大巧寺(だいぎょうじ)
元は頼朝の祈願所で大行寺といって十二所にあったが、頼朝がある戦いのとき
この寺で練った作戦で平家に大勝したため大巧寺と改め、1320(元応2年)に
現在地に移された。若宮大路に面した朱塗りの門のところに「頼朝戦評定所」の
碑がたっている。

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石楠花

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本尊は安産の神様とされる産女霊神(うぶすめれいじん)。550年前の室町時代、
難産のために死んで霊となり人々を苦しめていた女の霊を当時の住職であった
日棟上人が鎮め、安産の神として祀ったことに由来する。以来、安産の神として
おんめ様」の通称で親しまれるようになった。若夫婦連れ数組が参拝していた。

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好天気の中を六時間歩きまわりすっかり日に焼けた顔は、健常者なみだ。

次回鎌倉は八月だが安国論寺など南東部を予定。

 

鎌倉史跡めぐり 2013年皐月その1~十一人塚、稲村ヶ崎、虚空蔵堂、極楽寺

鎌倉史跡めぐり KAMAKURA

三ヶ月ぶりの鎌倉であるが、今回も新田義貞関連につき南西部を中心に回る。
①十一人塚、②稲村ヶ崎、③虚空蔵堂、④成就院、⑤極楽寺
⑥御霊神社、⑦長谷寺、⑧甘縄神社、⑨和田塚、⑩六地蔵、⑪大巧寺

昨年11月円覚寺から東勝寺跡腹切りやぐらなど東北部、
今年2月東慶寺から化粧坂、海蔵寺など北西部を巡ってきている。
今回も新田義貞鎌倉攻め関連史跡を回ることとする。

初めての江ノ電
江ノ島までは小田急線を利用することが多く、江ノ島から鎌倉までは江ノ電に
乗ったことがある。今回藤沢駅から江ノ電を利用することにしたが、JR、小田急と
並んでいると思っていた江ノ電駅が小田急百貨店二階で道路を挟んでいると
判り驚いた。

①十一人塚
江ノ電「稲村ヶ崎駅」下車海(南)側へ出て最初の交差点を左(東)側へ進み突き当たりを
左へ歩くと右手にそれらしき石碑が見えてくる。途中案内板等なく不安だったが
迷うこと無く来れて安堵した。

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元弘3年討幕の挙兵をした新田義貞は幕府軍を破り鎌倉に迫った。天然の要塞である
鎌倉を攻るめには鎌倉七口といわれる切通しからとなり、義貞は大舘宗氏
極楽寺切通からの攻撃を命じた。激戦の末、宗氏は極楽寺切通を突破したが、
稲瀬川付近で北条軍に反撃され、宗氏以下11人が討死にした。この11人が
葬られているのが十一人塚で、十一面観音が安置されていると言われている。

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史跡解説板 大変有難いことに鎌倉市教育委員会が解説板を設置してくれている。

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「新田義貞稲村ヶ崎古戦場入口」の石碑も建っている。

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②稲村ヶ崎
新田義貞の鎌倉攻めのおりの戦場となった古戦場。新田義貞はここ稲村ヶ崎で、
黄金の宝剣を海中に投じ龍神に祈願したところ、潮がにわかに引き、新田軍は
干潟を走り抜け鎌倉に突入したとの伝説は余りにも有名だ。

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稲村ヶ崎は由比ヶ浜と七里ヶ浜を分け海に突き出た岬です。干潮時ここを歩いて岬の東
由比ヶ浜側に渡れたということだが。義貞は何時がいいか計算していたと思われる。

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七里ヶ浜から、江ノ島は勿論のこと富士山も眺望できる風光明媚な名所でもある。

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国道から入り右側は開けており、七里ヶ浜から江ノ島・富士山を望める。逗子開成学生の
ボート遭難の碑があるのもこちら、左手は高台になっていて樹木が生い茂っている。
「稲村ヶ崎の碑」、「稲村ヶ崎新田義貞徒渉伝説地の碑」などの石碑あり。

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左手の高台へ上ると、西側の眺望も一段とよい。「ローベルト・コッホの碑」も。

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高台展望台からの富士山も格別だ。

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岬の北側は国道が走り、歩道もゆったりとしていて散策者、ジョギングのほか
リュックを背負った史跡巡りをしていると思しき同好の方ともすれ違った。

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岬の東側。遊歩道が整備されていて、数名が散策している。その中の多くの人が海中を
じっと覗いている。水が澄み浅いので底が見え、海藻にまじり雲丹でもいそうに思えた。
海に入っている男性がふたりほどいた。

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③虚空蔵堂
国道を由比ヶ浜まで歩き極楽寺切通しへと向かう。途中御霊神社の案内石碑があったが
そのまま進むとバスも通れる舗装道路となっている鎌倉七口のひとつ「極楽寺坂切通し」に
その入口近く右手に「虚空蔵堂、星の井」が見えてきた。

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虚空蔵堂は行基が全国行脚の途中、ここで頭脳明晰、記憶力増進をかはる
虚空蔵求聞持法の修行したときの伝説が残されていて、「虚空蔵菩薩が石になって
降りてこられた」と思いついた。それが都の聖武天皇の耳にも入り、行基に
虚空蔵菩薩の像を造って祀るように命じた。虚空蔵堂は、行基が彫った虚空蔵菩薩が
祀られている御堂といわれ、本来の名は「星井寺」という。新田義貞の鎌倉攻めの
戦火で焼失したが、江戸時代に再建されたとのことである。

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星月夜の井
井戸の中に三つの明星が輝き、夜も付近を照らした。この現象が七夜も続いたため、村人の力を借りて、井戸水を汲み出してみると黒く輝く石があった。鎌倉十井のひとつ

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極楽寺切通し
極楽寺坂の切り通しは鎌倉七切通しの一つで、京を結ぶ街道であった。
元弘3年(1333)5月、新田義貞の鎌倉攻めの激戦地の舞台の一つでもある。
新田義貞は自ら、2万騎を率いて5月21日、極楽寺一帯は北条軍が強固な陣を構え、
海上には大船を浮かべ、一部の隙もなかった。幾度となく両軍が攻防を繰り返し、
多数の死者がでた。新田義貞は、極楽寺坂の突破をあきらめ、稲村ガ崎の海岸沿い
からの攻略に切り替えざるを得なかった訳である。

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虚空蔵堂の西にある六地蔵 

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④成就院
極楽寺切通しの反対側南側に紫陽花で有名な成就院が見える。東結界の門

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階段を上った所で振り返ると東側に絶景がご褒美。由比ヶ浜が望める。

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空海が諸国巡礼の折、百日間にわたり虚空蔵菩薩を祀る修法を行ったところと
伝えられる。 承久元年三代執権の北条泰時がこの寺を創建し、北条一族繁栄を
祈ったという。元弘3年新田義貞の鎌倉攻めの戦火で焼失したが、江戸時代に
再建された。本尊は縁結び不動明王で女性に人気のようだ。

クレマチス・テッセン

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法隆寺夢殿の模型 由来は聖徳太子1300年御忌記念に建立とある。

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不動明王 携帯待受画面にする人が多いとのことだが・・・。

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君子蘭

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切通しを進むと「桜橋」

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⑤極楽寺
桜橋を渡り直ぐ右が極楽寺。この寺は、鎌倉唯一の真言律宗の寺。
建立したのは、北条義時の三男・重時。重時は、執権を補佐する連署まで
務めた人ですが、政冶に執着することなく、出家してその邸に極楽浄土の姿を
現そうとして大寺建立を思い立ち、正元元年に造営を始めた。ところが工事半ばの
弘長元年(1261)に重時は亡くなった。その子・長時と業時が父の志を継いで完成させた。
忍性が招かれて開山となった。最盛期は七堂伽藍を備え、大小49の支院があった。
忍性はこの広大な境内に、慈善救済の大事業を営んだ。施楽院・悲田院・療病舎など
の建物が並び、日夜多数の病者を収容し、貧者には無料で加療・施薬をした。
精力的な活動をした忍性は、さらに土木事業も起こし、各地に橋を189ヶ所、
道は71ヶ所もあったという。

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忍性は生き仏と仰がれていた。ところが元弘三年(1333)新田義貞の鎌倉攻めの際の
戦火でことごとく焼失してしまった。今では昔の面影はないが、本堂前にある薬草を
すり潰した石臼と石鉢が、忍性の大事業を示している。忍性は後醍醐天皇より菩薩の
称号を貰っている。本尊は釈迦如来。

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茅葺きの山門があり、桜並木の参道を進んだ先には本堂、大師堂、転法輪殿(宝物館)、茶屋などが建つ。本堂前には忍性が薬作りに使ったとされる石鉢と石臼がある。

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境内写真撮影禁止ということで撮影できなかったが、転法輪殿前の桜は、
北条時宗のお手植えといわれる「八重一重咲分桜」に興味をそそられた。
「原産地は鎌倉桐ヶ谷と言われ、」とも記載されており、江戸時代には鎌倉桐ヶ谷産の
八重一重咲分け桜が普及したされる。「八重一重咲分け桜」は「御車返しの桜」、
「地主(じしゅ)桜」とも呼ばれる。いずれも、京都清水寺の地主(じしゅ)神社の
故事による命名である。極楽寺のほか寺院では、両大師、常照皇寺、地主神社にあるそうだ。

改めてじっくりと時間を掛けてお参りしたい寺院であった。

桜橋を渡り切通しを戻り御霊神社へ。
続きは鎌倉史跡めぐり 2013年皐月~その2

2013年5月 4日 (土)

花紀行 薬師池公園の藤など

東京都指定七国山(ななくにやま)風致地区内にある薬師池公園の藤

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六尺藤とある。亀戸天神の五尺藤より長い。

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白藤も

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帰路目についた民家庭のクレマチスと教会の躑躅の鮮やかなマゼンタ色

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鶴見川 泳げ鯉のぼり2013

毎週テニスをやっていた頃この近くを通り沢山の鯉のぼりが5月の風を受けて
元気にはためく様を車窓からチラッと見てはいたが開催中訪れるのは初めてだ。

実は昨日も朝一番に出て来ようとしたが、途中で体調悪くなり帰宅していたものだ。
今朝は大丈夫かと心配する妻の言葉に従い、息子に参道橋まで送って貰った。
4月28日から実施されていて明日5月5日こどもの日まで開催されている。

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参道橋の中洲あたりから上流の橋あたりまで色とりどりの武者幟や鯉のぼり
吹流しなどを掛かりの人達が忙しそうに準備を進めている。

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これは流域住民らが鶴見川の美化などに取り組んでいる「鶴見川育成会」の事業で、
今年で10年目。最初は約30匹位からスタートしたものが、家庭で不要になった
こいのぼりが毎年寄せられて増え今や300匹近くまで増えてきているという。
左岸、下写真右手手前には幟旗がはためいている。一本一本見ていると近くの
古刹「華厳院」のもあり意外で驚いている。

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武者絵幟旗と鯉のぼり
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中洲。数年前ボランティアで体験学習で子どもたちと水に入った場所だ。
30分程度で10種の魚を捕獲して、講師に解説してもらってから川に戻したものだ。
鶴見川は当時より更に綺麗になったように感じた

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澄んだ5月の青空に向かって泳がんとする鯉

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菜の花と鯉のぼり

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5月の風を泳ぐ鯉のぼり

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臨時トイレも設置されている。太郎のような病気(IBD)の者にも有難いことだ。

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屋台も何故か伊豆の干物やみかんも売っている。

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条件がいいとこの近辺から富士山も望めるのであるが、雲が掛かり残念!

2013年5月 3日 (金)

キンラン・ギンランは自然な状態で楽しみましょう~移植しても育ちません

金蘭・銀蘭の写真をアップしたら、その育て方を知りたくて検索してやってきた方が多い。

金蘭銀蘭は移植したら育ちません。理由は下に述べてる通りです。やはり野に置き、自然のその環境を含めて一緒に観て楽しみましょう。

無為庵太郎自宅前から50歩位の距離に公園がある。
数日前にここでギンラン(銀蘭)3株とキンラン(金蘭)2株が咲いているのを見つけて
驚いた。近くの緑地で確認していたが、自宅そばのしかも毎日子どもたちが
走り回っている公園のため絶滅危惧種を見つけて嬉しいよりは驚いている。
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今朝犬の散歩時カメラを持参して撮影してきた。
ギンランは直ぐに判ったが、キンランは見当たらず
子どもたちに踏まれてしまったのか公園では仕方ないかと
諦めて帰りかけて別の場所を見たらキンランが2株ほどさいているのが見えた。

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近所の緑地で春に絶滅危惧種の「キツネノカミソリ」の葉を見つけて驚きその年の八月に
花茎が伸びてきて開花した時は歓喜したものである。今年同じ住宅開発地の緑地や
古街道脇で金蘭銀蘭を確認しているが、まさか公園で見つけるとは。ここは自然の
地形を生かして人工的な造成を抑えた公園にしているのが良ったようだ。

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キンランギンランについて無為庵のブログに来た方の検索ワードに
「育て方」というのがあり、自宅に持ち帰り移植しようと考えている人が多いことが判った。

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キンランギンランが園芸店で出ていないのは移植しても育たないからである。
「菌根菌」と呼ばれる菌類と共生する独特の生育形態で、通常植物は自らの
成長に必要な炭素源を光合成により生産しているが、金蘭銀蘭は自らの光合成で
生産する炭素源のほか、土中の菌根菌が落ち葉や動物の死骸などの有機物を分解
して生産する炭素源にも依存している。自然状態においては自らの光合成よりも、
むしろ菌根菌へ依存している割合の方が高く、菌根菌なしでの生育は困難で。
この花を採取して移植しても家庭で育てる事は不可能と言うわけだ。

2013年5月 2日 (木)

池上本門寺

池上本門寺   IKEGAMI HONMOMJI temple

池上線
蒲田から池上線に乗り換えて2つ目の駅が目的の「池上」である。
十数年ぶりに乗る池上線である。乗ったらいつの間にか口について出そうで
可笑しくなる。♪~池上線に揺られながら今日も帰る私なの~♪

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池上は同僚女性のお父様の葬儀で来たことがあるはずだが、今回下車しても全く
記憶になく、目的の本門寺とは反対方向だったようだ。

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本門寺の門前町の雰囲気がそこかしこに見ることができる。
くず餅の立派な店構えのが並んである。
最近造ったのか「本門寺参道」 くず餅屋さんが最近造ったのだろうか。

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道標 くず餅屋さん「相模屋」お手製の説明書きによると元禄九年
「左かわさきみち右こすぎみち」とある。

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甘酒ありの吊るし下げ旗 酒屋さんの軒下に風に揺れている。

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呑川に架かる霊山橋までくると本門寺の総門が見えてくる。

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総門
第22世日玄聖人代元禄年間(17世紀末~18世紀初め)の建立と伝える。
簡素ながら主柱間5.3メートルの壮大な門で、五重塔や経蔵と共に第二次世界大戦の
戦災を免れた数少ない古建築の一棟である。「本門寺」と刻された扁額は
本阿弥光悦の筆によるもので、現在掲げられている額は複製。オリジナルは霊宝殿に
収蔵され常設展示されている。歌川広重の江戸百景などにも描かれている。

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総門をくぐると重厚な石の階段に圧倒される。
此経難持坂(しきょうなんじざか)の解説板あり。

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池上本門寺の表参道96段の石段坂。石段は、慶長年間に加藤清正が寄進したものと
伝えられている。法華経宝塔品の偈文の96文字にちなんで石段を96段とし、
偈文の文頭の文字をとって坂名としている。

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ゆっくり上っていったが、中には走っている人も居る。同世代と思しき男性も
上りきるまでに一往復半位していた。永い年月で風化や多くの参拝者により
いたんだ箇所はその部分を削り部分的な補修をしているのが沢山見られた。

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石段の左に設置されている立派な灯籠

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此経難持坂を上りきると仁王門とその奥に大堂が望める。
仁王門(三門)三門とも山門と称している寺がある。三門は三解脱門の略。
中心伽藍へ入る重要な門であり、三種の解脱を求める者だけが通れる。
扁額は「長栄山」とある。1945年空襲で焼失し、仁王門として1977年に再建された。

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仁王尊の右 口が開いている

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左の口は閉じている。阿吽を表している。

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新東京八名勝の石碑

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日蓮像 仁王門手前の石段の脇に立つ。1983年(昭和58年)日蓮の700回忌に
建立されたアルミニウム製の像である。彫刻家の北村西望の作。ここにはもと、
明治時代の政治家の星亨の銅像があったが、戦時中の金属供出により撤去された。
戦後になり星の遺族らが台座を寄付して日蓮像が建立された。高さ3.4メートル。

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日朝堂(常唱堂)
ここに祀られる日朝は身延山11世で、61歳の時に失明したが後に視力を回復したことから、眼病平癒、学業成就の利益があるとされている。

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浄行菩薩

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鐘楼堂
現在の鐘楼は、1958年(昭和33年)の再建。旧梵鐘は、1647年(正保4年)
加藤清正の娘で、徳川頼宣の室となった瑤林院が寄進したもので、旧鐘楼が
空襲で焼失した際破損したため、現在は再建された鐘楼の脇に保存されている。

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霊宝殿 開宗750年慶讃事業の一環として平成13年に完成。日曜日に観覧可。

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大堂
「祖師」すなわち日蓮を祀ることから「祖師堂」ともいう。旧大堂は、加藤清正が
母の七回忌追善供養のため建立。1723年(享保8年)8代将軍徳川吉宗の用材寄進に
より、規模を縮小の上再建された。この2代目の大堂は、空襲により焼失。
1964年(昭和39年)現在の大堂を再建した。鉄筋コンクリート造で屋根は入母屋造。
高さ27メートル。

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再建後は本門寺80世金子日威が揮毫した「大堂」の扁額がかかる。
堂内中央の厨子には、日蓮聖人坐像、右には日輪聖人坐像、左には日朗聖人坐像を
安置する。1966年川端龍子による天井画「未完の龍」が描かれている。

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経蔵
空襲による焼失をまぬがれた建物の1つ。輪蔵形式の内部には回転する八角形の
書架があり、天海版一切経が収められていた。

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俸安塔

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五重塔
高さ31.8メートル。空襲による焼失をまぬがれた貴重な古建築の1つで、
江戸幕府2代将軍徳川秀忠の乳母である岡部局発願により、1608年(慶長13年)
に建立された。全面ベンガラ塗り、屋根は初層と二重は本瓦、三重以上は銅板葺き。

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五重塔の手前に「力道山の墓こちら」の案内が出ていた。ここには狩野探幽、花火師の鍵屋、小説家幸田露伴、歌舞伎役者七代目松本幸四郎、新派の花柳章太郎、映画俳優市川雷蔵など有名人のお墓が多い、児玉誉士夫もここに眠っているそうだ。

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