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2013年5月 8日 (水)

鎌倉史跡めぐり 2013年皐月その2~御霊神社、長谷寺、甘縄神社、和田塚、大巧寺

鎌倉史跡めぐり 2013年皐月その1 からのつづき   KAMAKURA

極楽寺切通しを成就院を右に虚空蔵堂を左に見ながら戻り左手に饅頭屋さんの角に
霊社鎌倉権五郎景政」の石碑が建っていて、そこを左に曲がると正面に
霊神社」の鳥居が見えてくる。

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御霊神社 
目の前を江ノ電が走る御霊神社(ごりょうじんじゃ)は、平安時代の開発領主鎌倉権五郎
景政を祀る。別名「権五郎神社」。江ノ電の踏切を渡ってお参りすることになる。

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鎌倉には、大庭・梶原・長尾・村岡・鎌倉という平氏一族の五家があって、
その祖先をまつる「五霊神社」が建てられた。しかし、鎌倉権五郎景政
武勇の誉れが高いことや、景政が領していた地であったことなどから、
いつしか景政一人を祀る神社となったのだという

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弓立松 領地を見廻る際に弓を立てかけたと伝わる松

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拝殿と奥の本殿 美しさが際立っている。

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第六天社

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右奥には石塔ご柱 御嶽神社、八海山神社など

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石上神社

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金毘羅神社

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袂石と手玉石

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左側の 「手玉石」 が 28貫(約105kg)あり、右側の 「袂石」 が 16貫(約 60kg)ある。
それぞれ 景政 が、「手玉」に取り 「袂」に入れた
そうだ

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⑦長谷寺
木造仏では日本一大きい9m余の十一面観音立像や、重要文化財の梵鐘で有名。
鎌倉七福神の一つ大黒天も。 開山:徳道上人 開基:藤原房前
江ノ電長谷寺駅まで来ると観光客でごった返している。観光バスから外国人も。
拝観料は数台ある券売機で。隣の券売機でご婦人が苦労していた。タッチする
場所を間違えているらしい。もっと単純にならないのだろうか。

長谷寺門前左の「タブノキ」の幹樹勢が面白い。

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観光客の多い寺院は好きではないが、十一面観音立像を目的に頑張って
階段をのぼるとしよう。本堂までの階段途上で「エビネ

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本堂の観音堂

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堂内撮影禁止なので出口で絵葉書を購入した。
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経蔵 回転式書架で輪蔵と呼ばれている

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鐘楼(梵鐘)も美しい。

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裏山の散策路から見える経蔵と本堂

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散策路の山から降りてから見晴台で名物の「寺まんじゅう」という野菜饅頭を頂いた。
予想以上に美味しかった。トンビもその美味しさを知っているらしく被害に遭う人が多いとの
ことで注意喚起の警告文が貼ってあり、空を見上げたら3羽飛んでいてゾッとした。

海芋(かいう)海を渡って来た芋科植物 カラーともいうがワイシャツの襟に似ているから。

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アヤメ菖蒲も綺麗だ

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学生や外国からの観光客で歩道も混雑している中回向院へ山門を潜り大仏
阿弥陀如来の手指の組み方印相を確認した。9種類あるとされる阿弥陀仏の
印相の中でも最も格式が高い「上品上生印(じょうぼんじょうしょういん)」
だとのことだ。

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観光客から逃れるように東へ入り、生シラス丼を食べて次へ。

⑧甘縄神社
710年(和銅3年)、僧行基の草創によって、由比の長者と呼ばれた染屋時忠が
神明宮と神輿山円徳寺を建立したのがその始まりと伝えられ、鎌倉最古の神社

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源頼義が祈願して子の八幡太郎義家を授かったと伝えられる源氏と縁の深い神社。
頼義や義家は、社殿を修復、源頼朝も社殿を修理し、荒垣や鳥居を建てたと伝わる。
源実朝、北条政子も参詣していた。宝物に源義家坐像があり、八代執権北条時宗の
産湯ノ井」が残されている。 

拝殿と奥本殿

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手水舎で手を洗おうとしたら生徒手帳を拾得した。その生徒も作法に則りお参り
したようだ。見ると横浜の名門中高一貫男子校で、手帳に印刷されている学校宛に
郵送した。結果的にこの方法が最も速く生徒の手許に届くはずだ。

境内には女子中学生と思われるグループも来ていたが、急な階段に怖気づいたのか
結局お参りせず階段手前で引き返し、無作法にもキャーキャー大声で話していてのが
気になった。彼女たちは一体何を目的に来たのだろうか。

⑨和田塚
建保元年(1213)2月信濃国の住人・泉親衡が前将軍源頼家の遺児・千寿を擁して
北条氏の打倒を企てた。しかし事前に発覚して、一味は捕らえられたが、その中に
和田義盛の子・義直と甥の胤長が加わっていた。義盛は二人の息子の赦免を願い
出て許されたが、胤長について執権・北条義時は許さず、陸奥国に配流された。
和田氏は幕府創設以来の功臣であり、最大のライバルである三浦一族であった。

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北条義時が専制政治を行う為に、三浦、和田氏の抹殺が必要であった。
5月2日和田義盛は密かに北条氏打倒の挙兵の準備を進めた。当初は同族の三浦義村.
胤義親子は協力する約束をしていたが土壇場で裏切り北条に和田に謀反の企てありと
北条に訴えた。和田一族は、軍兵150騎で幕府を攻撃した。北条泰時以下、
幕府の御家人達が必死に防戦したが、和田軍に突入され幕府の建物は全焼となった。
将軍・源実朝と北条義時は戦火をくぐって法華堂へ逃れた。その後、5月3日
幕府軍の軍勢が増えて和田軍は劣勢に陥った。義盛の四男・義直が討たれると、
義盛は戦意を失い江戸能範の手の者に討たれた。義盛67才であった。

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こうして和田一族の乱は終わり、和田一族は滅亡した。和田氏が滅び、三浦氏の
権威も失墜し、北条氏の勢力はますます強まっていった。鎌倉の江ノ電
和田塚駅の側に和田一族の墓があり、俗に和田塚と呼ばれている。明冶25年、
新道を開く為にこの塚の一部を掘ったところおびただしい人骨が出てきた。
おそらく和田合戦の時のものであろうと言うことで「和田一族戦没地」の
碑が立てられたそうだが、これには疑問に思う。

⑩六地蔵
和田塚から駅方向へ真っ直ぐ線路も越えて進むと311号線に出る右手の
変則交差点が「六地蔵交差点」でその北東位置にある。ここは昔の刑場跡地で、
多くの者がここで処刑された。明治初めころまでは、「飢渇畠」(けかちばたけ)
と呼ばれる荒地だったが、罪人供養のための六体の地蔵が建てられた。
六地蔵は、亡者を六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)から
救うために祀られている。

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⑪大巧寺(だいぎょうじ)
元は頼朝の祈願所で大行寺といって十二所にあったが、頼朝がある戦いのとき
この寺で練った作戦で平家に大勝したため大巧寺と改め、1320(元応2年)に
現在地に移された。若宮大路に面した朱塗りの門のところに「頼朝戦評定所」の
碑がたっている。

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石楠花

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本尊は安産の神様とされる産女霊神(うぶすめれいじん)。550年前の室町時代、
難産のために死んで霊となり人々を苦しめていた女の霊を当時の住職であった
日棟上人が鎮め、安産の神として祀ったことに由来する。以来、安産の神として
おんめ様」の通称で親しまれるようになった。若夫婦連れ数組が参拝していた。

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好天気の中を六時間歩きまわりすっかり日に焼けた顔は、健常者なみだ。

次回鎌倉は八月だが安国論寺など南東部を予定。

 

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