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2013年7月 9日 (火)

史跡巡り 分倍河原その2~新田義貞像・古戦場

史跡巡り 分倍河原その2~新田義貞像・古戦場

東山道武蔵路武蔵国府跡など鎌倉古道ワープの旅の一環として本日は
新田義貞公之像と分倍河原古戦場跡を見学する。

分倍河原駅前のロータリーにある『新田義貞公之像』。南武線分倍河原駅で
初めて下車したが、ホームからいきなり新田義貞の騎馬像が見える。
馬上で刀をふりかざす勇ましい姿の像である。ホームからデジカメで撮影

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南武線から見えたのは後ろ姿である。像の後ろに解説文が埋め込まれている。
「この像は 分倍河原合戦を題材に 武士の情熱と夢をモチーフとして
制作したもの」とある。

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分倍河原合戦」について「元弘三年五月十五日・十六日の両日に新田義貞
北条康家の軍勢が鎌倉幕府の興亡をかけ分倍河原で火花を散らした天下分け目の
合戦である。この合戦で勝利をおさめた新田軍は一気に鎌倉を攻め落とし
遂に百四十年余り続いた鎌倉幕府を滅亡させたのである。」

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制作について「我が国彫刻界の重鎮で、文化功労者・日本芸術院会員の
富永直樹、題字は当時市長吉野和男の揮毫」とある。

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分倍河原古戦場へは京王線を潜り西へ分梅駐在所分梅通りを南へ高速道路
中央自動車道を潜り「分梅橋」が目印。新田川緑道の分梅橋交差点に
案内標識がある。

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元弘3年(1333年)5月8日、新田義貞は上野国昨年10月に鎌倉古道ワープの旅の
初回として訪れた生品明神で鎌倉幕府打倒の兵を挙げている。この旗揚げ時
義貞以下一族の大舘宗氏堀口貞満岩松経家里見義胤脇屋義助江田行義
桃井尚義ら総勢で150騎といわれている。

サイト内リンク⇒生品神社(太平記の里ひとり旅 その1~生品(いくしな)神社、東山道公園)

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しかし利根川に至ったところで越後国の新田党(里美、鳥山、田中、大井田、
羽川の各家)や、甲斐・信濃の源氏一派が合流し、軍勢は7,000騎にまで及んだ。
5月9日、利根川を越えたところで足利高氏(後に尊氏)の嫡子千寿王(後の義詮)
さらに外様御家人最有力者足利高氏の嫡男が加わり、関東の鎌倉幕府に不満を持った
武士たちが次々と集まり、新田軍は20万7千まで膨れ上がったとも言われる。

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新田軍は鎌倉街道沿いに南下し、入間川を渡る。迎撃に来た桜田貞国率いる
鎌倉幕府軍を5月11日小手指原の戦い、5月12日久米川の戦いで、相次いで撃破。
幕府軍は、武蔵国の最後の要害である多摩川で新田軍を食い止めるべく、
ここ分倍河原に撤退していたのである。

サイト内リンク⇒小手指原古戦場  、⇒久米川古戦場

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鎌倉幕府は新田軍を迎え撃つべく、北条高時の弟北条泰家を大将とする10万の
軍勢を派遣。分倍河原にて桜田貞国の軍勢と合流した。5月15日、2日間の休息を
終えた新田軍は、分倍河原の幕府軍への攻撃を開始した。援軍を得て士気の高まって
いた幕府軍が、逆に新田軍を撃破。新田軍は堀金(狭山市)周辺まで退却を
余儀なくされた。この敗走の際、武蔵国分寺が焼失したといわれる。

 サイト内リンク⇒武蔵国分寺跡(東山道武蔵路)

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翌5月16日新田軍は、援軍に駆け付けた三浦義勝の献策により、未明に幕府軍を
急襲。幕府軍は敗走し、関戸にて壊滅的打撃を被った。北条泰家は、家臣の
横溝八郎の奮戦によって一命を取り止め、鎌倉に逃走した。

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分倍河原の戦いで新田軍が幕府軍に対し決定的な勝利を収めたことにより、
幕府軍は完全に守勢に転じた。この後、新田軍には次々に援軍が加わり、
『太平記』によれば60万もの大軍勢になったという。

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川沿い遊歩道はなかなかいいものだ。新田川にはメダカ、アメンボーなども生き生きと
泳ぎ、アゲハチョウが舞っていた。塩飴が効いたのか熱中症にもならず帰路買い物と
図書館で予約図書を借りるパワーを残して帰宅できた。

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