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2013年7月

2013年7月23日 (火)

ブルーベリー狩り

昨年9月まで活動していたボランティアの行き帰りに通っていた野津田神社前
ブルーベリー農園でブルーベリー狩りを楽しんできた。

今年は7月20日から9月10日まで開園。
受付は午前は8時から、午後は3時からで5時7まで営業。

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麦わら帽子、長袖シャツ、長ズボンで出掛けたが、
前日の雨のため袖が濡れてしまった。
農園のチラシによるとイラガ、蚊、ブヨ等もいるそうで
長袖長ズボンを勧めているが、虫は殆ど気にならなかった。

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受付でバケツを貰い農園に行くと既に初老の奥さんグループが
おしゃべりしながら摘んでいる。

2.5キロバケツを借りて行ったが、30分程度で約750グラム。
受付に戻ったら一番遅く受付したのに一番早いと言われた。
農園は太郎が楽しんだ畑のほかもう1箇所あるそうだ。

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500グラムをジャムに、後は生でヨーグルトに入れたりやサラダで生食。
来月もう一度位来るとしよう。

2013年7月 9日 (火)

史跡巡り 分倍河原その2~新田義貞像・古戦場

史跡巡り 分倍河原その2~新田義貞像・古戦場

東山道武蔵路武蔵国府跡など鎌倉古道ワープの旅の一環として本日は
新田義貞公之像と分倍河原古戦場跡を見学する。

分倍河原駅前のロータリーにある『新田義貞公之像』。南武線分倍河原駅で
初めて下車したが、ホームからいきなり新田義貞の騎馬像が見える。
馬上で刀をふりかざす勇ましい姿の像である。ホームからデジカメで撮影

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南武線から見えたのは後ろ姿である。像の後ろに解説文が埋め込まれている。
「この像は 分倍河原合戦を題材に 武士の情熱と夢をモチーフとして
制作したもの」とある。

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分倍河原合戦」について「元弘三年五月十五日・十六日の両日に新田義貞
北条康家の軍勢が鎌倉幕府の興亡をかけ分倍河原で火花を散らした天下分け目の
合戦である。この合戦で勝利をおさめた新田軍は一気に鎌倉を攻め落とし
遂に百四十年余り続いた鎌倉幕府を滅亡させたのである。」

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制作について「我が国彫刻界の重鎮で、文化功労者・日本芸術院会員の
富永直樹、題字は当時市長吉野和男の揮毫」とある。

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分倍河原古戦場へは京王線を潜り西へ分梅駐在所分梅通りを南へ高速道路
中央自動車道を潜り「分梅橋」が目印。新田川緑道の分梅橋交差点に
案内標識がある。

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元弘3年(1333年)5月8日、新田義貞は上野国昨年10月に鎌倉古道ワープの旅の
初回として訪れた生品明神で鎌倉幕府打倒の兵を挙げている。この旗揚げ時
義貞以下一族の大舘宗氏堀口貞満岩松経家里見義胤脇屋義助江田行義
桃井尚義ら総勢で150騎といわれている。

サイト内リンク⇒生品神社(太平記の里ひとり旅 その1~生品(いくしな)神社、東山道公園)

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しかし利根川に至ったところで越後国の新田党(里美、鳥山、田中、大井田、
羽川の各家)や、甲斐・信濃の源氏一派が合流し、軍勢は7,000騎にまで及んだ。
5月9日、利根川を越えたところで足利高氏(後に尊氏)の嫡子千寿王(後の義詮)
さらに外様御家人最有力者足利高氏の嫡男が加わり、関東の鎌倉幕府に不満を持った
武士たちが次々と集まり、新田軍は20万7千まで膨れ上がったとも言われる。

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新田軍は鎌倉街道沿いに南下し、入間川を渡る。迎撃に来た桜田貞国率いる
鎌倉幕府軍を5月11日小手指原の戦い、5月12日久米川の戦いで、相次いで撃破。
幕府軍は、武蔵国の最後の要害である多摩川で新田軍を食い止めるべく、
ここ分倍河原に撤退していたのである。

サイト内リンク⇒小手指原古戦場  、⇒久米川古戦場

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鎌倉幕府は新田軍を迎え撃つべく、北条高時の弟北条泰家を大将とする10万の
軍勢を派遣。分倍河原にて桜田貞国の軍勢と合流した。5月15日、2日間の休息を
終えた新田軍は、分倍河原の幕府軍への攻撃を開始した。援軍を得て士気の高まって
いた幕府軍が、逆に新田軍を撃破。新田軍は堀金(狭山市)周辺まで退却を
余儀なくされた。この敗走の際、武蔵国分寺が焼失したといわれる。

 サイト内リンク⇒武蔵国分寺跡(東山道武蔵路)

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翌5月16日新田軍は、援軍に駆け付けた三浦義勝の献策により、未明に幕府軍を
急襲。幕府軍は敗走し、関戸にて壊滅的打撃を被った。北条泰家は、家臣の
横溝八郎の奮戦によって一命を取り止め、鎌倉に逃走した。

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分倍河原の戦いで新田軍が幕府軍に対し決定的な勝利を収めたことにより、
幕府軍は完全に守勢に転じた。この後、新田軍には次々に援軍が加わり、
『太平記』によれば60万もの大軍勢になったという。

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川沿い遊歩道はなかなかいいものだ。新田川にはメダカ、アメンボーなども生き生きと
泳ぎ、アゲハチョウが舞っていた。塩飴が効いたのか熱中症にもならず帰路買い物と
図書館で予約図書を借りるパワーを残して帰宅できた。

史跡巡り 分倍河原 その1~高安寺

史跡巡り 分倍河原 その1~高安寺 Koh anji-temple, Bubaigawara

体調も戻ったものの猛暑の中出掛ける無謀を妻になじられながらも、ウーロン茶と
塩飴をバツグに忍ばせて久しぶりの史跡めぐりとなった。

南武線分倍河原駅からスタートだ。降り立ったホームから高安寺の次に予定
している新田義貞公像が見える。

初めての土地だが、事前に頭に叩き込んだ地図を頼りに高安寺を目指す。
駅前の飲食店街を北に抜けてバス通りを東へ進むと程なく高安寺の文字が
保育園だその東が目的地である。

門を入りそのまま進むと左手に仏像が出迎えてくれる。突き当りに観音堂、
その手前を右に曲がると山門で東京都文化局制作の高安寺解説文がある。

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解説板の傍には可愛い石造が路傍感を出していて和ませてくれる。

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都の解説板によると
「龍門山高安寺は暦応年間に創設された臨済宗建長寺末寺であった。
後に小田原滅亡後、慶長年間曹洞宗海禅寺の七世により再建された。
本堂は木造平屋建て、屋根は寄棟造銅板葺、六つ間取で内部正面に広縁、
両側面に入側縁から構成されている。内陣や大間の組物廻りに意匠を
凝らした点に特徴がみられ、大縁は禅寺基本の姿をとどめている。
 山門は本堂の東方に位置する規模の大きい二重門である。木造(欅)
二階建てで、屋根は入母屋造銅板葺、柱はすべて円柱である。初層の
左右から出入りできる点に特徴がある。
 鐘楼は本堂の北東、庫裏の前方に建っていて、木造(欅)袴腰付きで、
屋根は宝形造銅板葺である。虹梁型頭貫の木鼻位置には龍の丸彫を配し、
支輪板には鶴の浮彫彫刻を施すなど、山門と同様、彫刻装飾を多く採り入れている。

観音堂

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観音堂の扁額

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山門手前の水子地蔵

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山門

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山門の扁額

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左右の仁王像

裏には地蔵尊と脱衣婆

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奪衣婆(だつえば)は、三途川(葬頭河)の渡し賃である六文銭を持たずに
やってきた亡者の衣服を剥ぎ取る老婆。奪衣婆が剥ぎ取った衣類は、
懸衣翁という老爺によって衣領樹にかけられる。衣領樹に掛けた亡者の衣の
重さにはその者の生前の業が現れ、その重さによって死後の処遇を決めるとされる。
俗説で、奪衣婆は閻魔大王の妻であるという説もある。江戸時代末期には
民間信仰の対象とされ、奪衣婆を祭ったお堂などが建立された。民間信仰に
おける奪衣婆は、疫病除けや咳止め、特に子供の咳止めに効き目があるといわれた。

曹洞宗開祖である道元禅師御尊像

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ぼけ封じ地蔵

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鐘楼 右手前は延命地蔵
解説板によると徳川幕府公許の鐘で、二六時中近隣四方の村村へ時を報ずる
役でした。・・・安政五年東山で改鋳されたものです。朝は覚醒・昼は精進・
夕は反省と位置づけして、現在では季節に関係なく朝夕五時に六つ・昼は
十一時半に一二個の三回とし、自動で撞いております。

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本堂前に略縁起
「当山は往古 田原藤田秀郷公の館跡といわれ、その後市川山見性寺が建立
されたと伝えられている。しかし後に足利尊氏公将軍となるやこの寺を改めて、
安国利生の祈願所として、龍門山高安護国禅寺を再建した。これは尊氏が
全国に建立した安国寺のひとつで武蔵国のそれが当山である。

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本堂

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本堂に掲げられている扁額

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本堂前右にある大木「コウヤマキ」が素晴らしく

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木化石

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クスノキ

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木曽源太郎墓 東京都指定旧跡
幕末の志士で熊本藩士名は義顕、木曾義仲二五代目の末裔といわれ、
諸子百家、国学を修め長じては兵学の研究に専念した。安政末年に
上京し勤王の志士西園寺実満と東奔西走し皇権の回復を画策した。
文久三年脱藩して再上京倒幕運動に身を投じた。維新後は木曽源太郎と
名を改め判事、護王神社権宮司、湊川神社や鎌倉宮の宮司を歴任した。
晩年は大寿庵と号し、娘の嫁ぎ先である府中に隠棲、大正七年死去。

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墓所を抜け奥に秀郷稲荷

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龍門山高安寺の鎮守として田原藤太秀郷公をお祀りしてある。

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稲荷神社の扁額

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神社右に弁慶硯の井の案内石碑

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弁慶硯井戸
見性寺と呼ばれた頃、義経はあに頼朝の怒りに触れ腰越まで来たが
鎌倉入りは許されず、やむなく京都へ帰る途中暫く見性寺に足どめし、
弁慶等と叔免祈願のため大般若経を写したという。その時裏山から
清水を汲み取ったという井戸。

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