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2013年9月

2013年9月30日 (月)

向島界隈史跡巡り散策~向島百花園、白鬚神社、長命寺、三囲神社、牛嶋神社

向島界隈史跡めぐり散策 

日常的に利用稀で馴染み薄い東武鉄道の伊勢崎線東向島駅からスタート。

駅高架下を利用した東武博物館の先を右に曲がり約12分で最初の目的地だ。

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1720系ロマンスカー特急けごん
昭和35年デビューしたジュークボックス付きサロン室あるデラックス車輌。
100系特急スペーシアに女王の座を譲り平成3年に引退した。
日光観光に行く時に乗っているはずだ。

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向島百花園
(国指定史跡・国指定名勝)

仙台出身の骨董商、佐原鞠塢(さはらきくう)が元「多賀屋敷」と
呼ばれていた土地を入手して、文化2年(1805)に開園。

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一般150円だが、免許証を提示して老齢割引で70円支払い入場。
途中道順を訪ねていた老齢ご婦人は4回分料金(\280)で何度も入場できる
年間パスポートを申し込んでいる。四季折々を何度でも楽しめる。

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左手に多賀神社が祀られている。園内は年配者を中心に賑わっている。

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入場券の裏に細かい字で解説されている。

「この庭は文化2年(1805)北野屋平兵衛こと佐原鞠塢(さはらきくう)という
粋人が当時の文人墨客の協力を得て梅を沢山植えたことから「新梅屋敷」として
創設したのが始まりとされています。

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「日本や中国の詩の古典である「萬葉集」や「詩経」の中にある植物を集めて
文学植物を全園に配し四季花たえることない花園として、江戸市民の嗜好にあい
江戸時代から明治時代まで庶民的花園として栄えたものでした。」

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「明治以後たびたびの洪水で園は荒廃し維持も困難となり、昭和14年
東京市営の名勝として公開することになり、昭和53年10月13日には(国の)
名勝および史跡に指定されております。」

360本もの梅の木を植えられたことから新梅屋敷と呼ばれたのは当時亀戸
既に「梅屋敷」があったため。当時は「百花園」とも呼ばれるようになった。
江戸時代には文人墨客のサロンとして利用され、著名な利用者には
「百花園」の命名者である絵師酒井抱一や門の額を書いた狂歌師大田南畝らがいた。

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園内には多数の野草が植えられ、とくに秋の七草の美しさで有名。
30余基の石碑などを巧みに配した地割でも有名であった。松尾芭蕉句碑。

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1945年(昭和20年)3月の東京大空襲により建物なども全焼したが、「百花園」として復興。

萩のトンネル

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サクラタデ タデ科湿地や水辺に生える

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オイランソウ(花魁草) ハナシノブ科 隣に白色も。 
ひと回り小ぶりのナデシコ科のムシトリナデシコに似ている。

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ナガバノアカワレモコウ ナガボノアカワレモコウとは別なのだろうか?

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ダンゴギク(団子菊) アメリカ原産園芸品種であり不釣り合いではなかろうか。

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百花園を出て次の白鬚神社は北西の位置のはずだがと周りを見渡すと
「白鬚神社はこちら」と案内が出ていて安堵する。
右手に200m程ゆっくり歩いたが3分程度で到着。

白鬚神社  
天暦五年(951)近江国志賀郡境打颪(滋賀県高島市)琵琶湖湖畔に鎮座する
白鬚神社の御分霊としてお祀りしたことが始まり。隅田川七福神寿老神
しても親しまれている。

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御祭神は猿田彦大神、相殿として天照大御神、高皇産霊神、神皇産霊神、
大宮能売神、豊由気大神、健御名方神。境内社として諏訪神社。

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境内に公孫樹があり銀杏が音をたてて落ちている。別のところで
先刻挨拶した散歩中のご婦人ふたりが嬉々として拾っていた。

寺島ナス
神社周辺は寺島村といい、水田を主とする農村だった。隅田川上流から
運ばれてきた肥沃な土壌は茄子作りに適していて、産地として
「寺島なす」と呼ばれて江戸の市民に賞味されていたそうな。

隅田川沿いの墨堤通を南へ。爽やかな秋風だが太陽光線は未だ強烈だ。
子育地蔵堂地蔵坂通りは道路沿いではあるが反対側に見えたが
道路横断はせず結果幸田露伴住居跡から秋葉神社までの予定ポイントはスキップ。

和菓子老舗その① 志”満ん草餅
明治2年創業、「向じま 志”満ん草餅」(じまんくさもち)の歴史は
周辺のよもぎを使った草餅を、隅田川の渡船場の横で供したことに始まる。

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途中倉庫の敷地に「大倉喜八郎別邸跡」の案内看板に思わず足を止めた。

大倉 喜八郎(1837 -1928年)については学生時代に書籍で生い立ちから
財界での活躍を紹介したものを読んで、凄い人が居たものと感動したものだ。
明治・大正期に貿易、建設、化学、製鉄、繊維、食品などの企業を数多く興した
実業家、中堅財閥である。大倉財閥の設立者。

共栄倉庫株式会社による古い解説板で一部消えてるがそれによると
「この一角は田沼意次に取り入り養女を大奥に入れて権勢をほしいままにした
中野碩翁の別邸跡で隅田川に面してを贅こらしていた。」となんとか読めた
そこを明治の政商大倉喜八郎が別邸としたもので隅田川沿いに建てられていた
蔵春閣は、千葉県船橋市にあるららぽーとに移築したとある。
江戸時代末期は中野清茂別名中野碩翁の別邸跡。
碩翁は田沼意次を介して、養女を徳川家斉の側室として将軍の側近中の側近に
なり、幕府の普請などを斡旋し賄賂を得ていたというもの。家斉没後は、
水野忠邦により追放され、向島のこの地で最期を迎えている。
なおららぽーとの蔵春閣も大成建設(旧大倉土木組)が担当して昨年秋から
解体し駐車場となっているそうだ。

隅田公園少年野球場

この少年野球場は, 昭和24年戦後の荒廃した時代に「少年 に明日への希望」を
スローガンとして, 有志や子ども 達の荒地整備による汗の結晶として誕生した
日本で最初の少年野球場です。以来数多くの少年球児がこの球場から巣立って
いったが, 中でも日本が誇る世界のホームラン王巨人軍王貞治氏もこの球場から
育った一人です。      昭和61年3月  墨田区教育委員会
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世界の王貞治が育った野球場。門に一本足打法の王選手のレリーフあり。

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野球場としては狭く感じる。場内で園児が鼓笛隊の練習をして賑やかだ。

 

和菓子老舗その② 言問団子

野球場と背中合わせにある。言問橋や言問通りの名称の由来になった店
江戸時代末期に向島で植木屋を営んでいた外山佐吉が「植佐」という団子屋を
開くと、花見客や渡し船の客の間で人気となった。明治元年、長命寺に逗留して
いた歌人から在原業平が詠んだ
 「名にしおはゞ いざこととはん 都鳥 我が思う人は ありやなしと
に因んだ命名の勧めを受け、団子は「言問団子」と名づけられ、その後、
佐吉が始めた灯籠流しによりその名は広く知られていった。
後に「言問」は、言問橋言問通り等の名称で定着しましたが、ルーツは
この「言問団子」である。全く逆だと思っていたので驚きだ。

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明治26年にはこの裏手にある桟橋から千島開拓に向かう郡司大尉率いる5艘の
船が出発しています。隅田川両岸は群衆で埋まり、花火が打ち上げられ、
歓声と楽隊の演奏が響く中でのに賑やかな船出であったそうで、この時、
大尉の弟である幸田露伴は船に乗船して横須賀まで見送っています。

墨堤植桜の碑

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正岡子規 仮寓の地

 向じま 花さくころに 来る人の ひまなく物を 思ひける哉

近代日本を代表する俳人の正岡子規は、向島周辺の景色を好み、こうした歌を
数多く遺している。隅田川と墨堤の自然がよほど気に入ったのか、大学予備門
の学生だった子規は、長命寺桜もち「山本や」の2階に3か月ほど滞在し、
そこで詠んだ句が次の句です。
 花の香を 若葉に込めて かぐはしき 桜の餅 家つとにせよ

明治28年、日本新聞社の記者として日清戦争に従軍した折も墨堤の桜を
偲んだ和歌を詠んでいます。
 から山の 風すさふなり 古さとの 墨田の櫻 今か散るらん

和菓子老舗その③ 長命寺桜もち 山本や

墨堤の桜の葉を利用したこの桜もちは、享保3年(1717)の生まれ。
花見時などは予約をしないと買えないそうだ。店頭で一個でも買えれば、
隅田川を眺めながら食べたいと思っていたが本日定休日。現役時会社で
来客者手土産に頂いた折、「長命寺の桜餅はどうして食べるか?
「皮ごと食べる」と応えたら、「長命寺の桜餅はカワをムイて食べる」と
東京育ちのベテラン女性が教えてくれた事を懐かしく思い出している。
  (隅田)川を向いて食べる
  (桜の塩漬け葉の)皮を剥いて食べる
元々葉ごと食べていたので葉脈の太い筋だけ取って食べている。葉っぱの
塩っけが餡の甘さを引き立て美味いと思う。「山本や」の話によると葉っぱは
香りつけの為であり葉っぱは剥いて食べて欲しいそうだよ。

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長命寺 境内手前に幼稚園の施設あり。
創建は不詳だが、平安時代とも慶長年間とも言われている。
元は宝樹山常泉寺と号していたが、徳川家光の命により長命寺と改名された。
家光が鷹狩に出た折、体調を崩しこの寺に寄り、僧孝海が境内の般若水で薬を
すすめたところ治癒したことにはじまる。

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弁財天をまつっている寺。国学者で天保の四大家の一人橘守部の墓や
幕末の幕府会計副総裁で維新後は朝野新聞社長として活躍した成島柳北の碑などが
有名である。長命寺の境内から土手をあがった所が桜餅の山本や

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三浦乾也 旧居・窯跡
三浦乾也は、徳川の御家人の子として現在の銀座で生まれました。
幼くして高名な陶工である叔母夫婦の家に引き取られ、若くして乾山焼6代
襲名し陶芸家の道を歩む一方で、絵や蒔絵、彫刻も手掛ける多芸多才の士
として知られています。
1853年、乾也32歳の時に黒船が来航すると、その翌年には勝海舟とともに
長崎で建造技術の習得を命じられ、伝習所に赴きます。
その後、仙台藩に造艦惣棟梁として招聘されて、洋式軍艦「開成丸」を
見事進水させて一躍名を知られるところとなった彼は、仙台藩で厚遇を受け、
滞在する間に焼物の技術も伝授して地元の陶工にも影響を与えた。
明治になり東京に戻った乾也は、明治8年に長命寺境内の一隅に窯を築き、根付、印籠、帯留めなどの創作に励みました。

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弘福寺 長命寺の隣
山門は見番通りに面している。黄檗(おうばく)宗大本山、宇治の黄檗山万福寺の末寺で、
同宗の名僧鉄牛和尚によって延宝2年(1673年)に創建された。

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関東大震災で罹災したが、昭和8年(1933年)に再建された。
黄檗宗は禅宗の中でも中国色の強い宗派として知られており、布袋尊の御像が安置されているのもその影響によるもの。
本堂や山門は唐風建築であり、建物にも中国風の特徴が見られます。

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淡島寒月 旧居跡
淡島寒月は、明治の趣味人として新聞や雑誌に寄稿したり、実体験をベースに
した小説や江戸にまつわる話などを洒脱なタッチで著わし好評を博した作家
である他にも、画家としての顔も持っていた。また、井原西鶴を再評価して
それを幸田露伴尾崎紅葉に説き、世に出すきっかけを作った。
彼の父親である淡島椿岳もまた知識欲が旺盛で、画を学び、ピアノを買って
演奏会を開く趣味人であった。
寒月は収集家としても有名で、明治26年頃、父の使っていた弘福寺内にある
隠居所で悠々自適な生活に入り、三千余の玩具と江戸関連の貴重な資料が
あったが、関東大震災ですべて焼失してしまった。

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向嶋墨堤組合
見番通りを歩いていたら粋な三味の音が聞こえてきた。もしやとみたら組合だ。
しばし聴き惚れる。宴席に踊りや唄で華を添え、客をもてなす芸妓達が昼間はこの様に
お稽古に励んでいるのだ。
花柳界の伝統と文化は継承していってほしいものだ。
向嶋墨堤組合は、料亭、置屋、芸妓衆など花街の統括管理が主業務。
平成24年3月現在で16軒の料亭が加盟し、100名を越える芸妓衆が登録して、
その規模は都内随一。作法、所作に始まり、お座敷でのおもてなしの心を身につける
ために、西川流や猿若流などの日本舞踊の他、鳴物清元長唄常盤津
専属の師匠について修練している。

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三囲神社  みめぐりじんじゃ
見番通りを右手を更に歩いている三囲神社らしきものが見えてきた。

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三囲神社は弘法大師が祀ったという田中稲荷が始まりとされ、当時は現在地より
北の田んぼの中にあったもの。文和年間(1352年から56年)に近江の三井寺
僧侶である源慶が土の中から白狐にまたがる老翁の像を発見し、その像の周りを
どこからともなく現れた白狐が、三度回って消えたという縁起から「三囲」の
名がつけられた。

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また、日照りが続いていた元禄6年(1693年)に俳人の宝井其角が
「ゆふだちや 田を見めぐりの 神ならば」
の句を献じたところ、翌日には雨が降り評判になったという話が伝わっています。江戸祭礼番付において東の大関に序されている。因みに西の大関は鉄砲洲稲荷神社サイト内リンク

三井家は江戸進出の時に、その名にあやかって守護神として祀り、
平成21年には旧三越池袋店のシンボルだった青銅製のライオン像が境内に移設。

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石造りの三柱鳥居
三井家から移されたもので原型は京都太秦木嶋神社にある。

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佐多稲子旧居跡
佐多稲子はプロレタリア文学者であり、戦後は婦人民主クラブの創立
奔走して民主化運動に貢献しました。明治37年生まれで、小学生のころから
利発な文学少女でしたが、結核で亡くなった母親の治療費や父親の放蕩などで
家計がひっ迫したために、11歳の時に父と祖母とともに叔父を頼って長崎から
上京して、向島小梅町の家に身を寄せることになりました。
牛嶋尋常小学校5年に転入したものの、家計を助けるためにキャラメル工場で
働かなければならず、小学校を中退してしまいました。その後、働きながら
小説や短歌を寄稿し、後に『キャラメル工場から』という作品にまとめられ、
それが出世作となりました。戦後、すぐに書かれた自叙伝ともいえる
私の東京地図』には、長く暮らした向島周辺のことが書かれている。

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牛嶋神社 
言問橋そば公園の「言問橋東交差点」の近く

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神社の名前は、隅田川に沿うこの地域一帯を昔は「牛嶋」と呼んでおり、
その総鎮守であることに由来。

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また、自分の身体の痛いところと同じところをさすれば治るといわれている
撫牛についても明治の文人淡島寒月は俳句を詠み、昭和の作家で近所に住んでいた
堀辰雄も自伝的作品の中で書いています。

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予定通りとは行かなかったが、優先箇所としてマーキングしていたのは参詣見学でき
予定外の史跡まで見学できた。やはり実際に歩き自分の目で見ることが大切だ。
ゆっくり歩いたので途中痛みは出なかったが、明日以降筋肉痛が出そうな予感。

2013年9月18日 (水)

信州の鎌倉・塩田平ひとり旅~その3 塩田平鎌倉古道古刹巡り

その3 塩田平鎌倉古道古刹巡り SHIOTA-DAIRA, UEDA NAGANO

中禅寺、塩野神社、龍光寺、塩田城跡、前山寺、塩田平、
塩田池ほかため池群、生島足島神社、長福寺、上田城、真田神社

当初宿から前山寺まで歩く計画を立てていたが、初めての土地で
体調も万全でなく不安なので、別所温泉から中禅寺まではバスを
利用することにした。

高速バスの終点である将軍塚駐車場から中禅寺、前山寺など経由して
上田電鉄別所線「塩田町駅」まで行けるシャトルバスが出ている。

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午前中に10時10分、11時20分発の二本あるので、早い方に決め、時刻まで
将軍塚、七苦離堂、上田電鉄別所線別所温泉駅、丸窓電車モハ5250など
撮影して時間調整した。

シャトルバスはPRが充分でないのか独りで貸し切り状態。

将軍塚から11分の10時21分独鈷山の麓にある「中禅寺」に到着した。

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本堂

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木造金剛力士像
高さ207cm、小ぶりだがバランスよく、怒りの表情も誇張を抑えて
都風の典雅な感覚が表されている。12世紀末頃の作と考えられている。

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薬師堂 
国指定重要文化財。中部日本最古の木造建築物とされてる。「阿弥陀堂形式」で
建造されていて、東西南北どちらから見ても柱が四本、間が三本ある「方三間寄棟造」
岩手県平泉の中尊寺金色堂と同じだ。屋根は茅葺寄棟の「宝形造り」。
堂内中央に四天柱があり、本尊が安置されている。
この薬師如来坐像も国指定重要文化財。

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バス通りに戻ると右手に塩野神社。バス停からも見えている。
鬱蒼とした神社林木の下闇が広がり如何にも神域で厳かで身が引き締まる。
御神木が覆屋に囲まれ保護されている。

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塩野川にかかる太鼓橋の神橋。台風の影響か工事中に付き手前から参拝。
拝殿は勅使殿とも言われ、楼門形式の拝殿は珍しい。

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塩野神社を出て所からシュックサイドに短くして持ってきた
ウォーキングポールを取り出して使用した。足の負担を軽減するためだ。
暫く歩くとため池が見えてきた。中禅寺までのシャトルバス車窓からも別の
溜池二面も撮影していたが、これは塩野池

池の反対側に解説板「田園空間博物館」がある。 

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解説板によると

「塩田平は周囲をとりまく山地が1200mと低く、かつ内陸の盆地で
年降水量は860mmと少ない寡雨気候である。そのため、塩田平を
流れる河川はどれも小河川で水量が少なく、盆地底の耕地を潤すことは
困難であった。そこで、古くからため池をつくり、その水で灌漑をする
という長野県では珍しいため池灌漑が行われていた地域である。
昭和42年(1967)にはため池の数は大小112面を数えていたが、
その後の農業構造改善事業で小さなものはなくなり、昭和62年(1987)
には41面になった。」

塩野池はそのひとつで独鈷山から流れる塩野川の水を貯めている。
塩田平の景観のひとつとなっている。全国ため池百選に選定
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その後上窪池 甲田池の横を歩いた。シャトルバスの車窓からは山田池
舌喰池という怖い名前の池もあった。

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龍光院
1282年塩田城主であった北条国時が父・義政の菩提を弔うために龍光院の
前身・仙乗寺を開創したのに始まる。その後1601年龍光院と改め曹洞宗の
寺として再興されている。

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黒門と欅の大木
格式ある門と樹齢600年を誇る欅、なんと幹周り702cmとある。
ここの道が五・三キロの道のりが鎌倉街道遊歩道として指定されており、
要所要所に案内表示板が掲げられていてよそから来ているストレンジャには有難い。

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塩田北条氏初代義政は鎌倉幕府のナンバー2である連署(れんじょ)
あったが理由は定かでないが突然鎌倉をたち信濃塩田に移り住んでいる。
義政も二代国持三代俊国も仏門に帰依しており、ここ塩田平の鎌倉街道沿いに
庇護した幾名刹が残っている。この街道が東京府中市の分倍河原や、
多摩市関戸を通り、町田市の野津田や七国山を経て鎌倉に繋がっている。
暫し往時を偲んでみた。

鎌倉幕府本拠地鎌倉は1333年新田義貞による鎌倉攻めにより、町全体が
焦土と化してしまったが、皮肉にも塩田平は嘗ての鎌倉らしさをとどめて
今に伝えている。文化財保護の観点から大切にしたい地域である。

塩田平は大和政権下に国府を置いた場所であり、信濃の国の政治経済の
中心
であった。初めて訪れたが、美しい山や田園など風光明媚兎も角豊かな
地柄である。信州出身の友人がいて、ひとりは長野高、もう一人は松本深志で
しばしばローカルなバトルを繰り広げ、笑ってみていたが、上田出身者が
混じっていたら、さてどうなっただろうと想像して面白い。

龍光寺から先案内板に従い鎌倉街道を東進すると、黄色い花が目につく。
クサノオウ(草の王)」と思われる。

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前山寺で「くるみおはぎ」を11時から11時半頃到着で予約している。
時間が気になるが、個人的に関心高い「塩田城跡」が道路沿いに見えてきた、
後で戻ってくることも考えたが先に見学することとする。

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塩田城は1277年北条義政が鎌倉から移り住み館を構えた場所で
二代目国時、三代北条俊時が「いざ鎌倉」で1333年鎌倉に馳せ参じるまで
暮らした場所である。

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龍光寺から250m、前山寺まで100mの位置。
東西200m、南北700mに及ぶ大規模な城館跡。

真言宗智山派独鈷山前山寺(ぜんさんじ)
更に東へ進むと神戸川の渓流を渡った先が前山寺。こんな山道を歩くとは思わなんだ。

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西側から境内を。南側の山門からお入り下さいの案内表示板あり。

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南に坂をおりて東へ進んだところに山門があり、そこから入る。境内は掃き清められている。

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正面に端正な三重塔が目に入るが、本堂に軽く一礼して東奥の庫裏へ
住職の奥様が出迎えてくれた。今回買い換えたトレッキングシューズを
脱ぐのに手間取ったが、案内された大広間には先客が六名名物の
くるみおはぎ」を賞味されている。南側が開放され塩田平を見通せる。

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丹精のくるみおはぎは餅米を叩き作ったお餅を上品な甘さの胡桃だれに
まぶして頂く。大きくないのでそのままでも大丈夫だが、お餅を半分にしてからの方が
よく胡桃だれと絡まると思いお餅に箸を入れたが出来ずそのまま絡めて頂いた。

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先客が帰った後、眼下の塩田平や庭の撮影をさせて頂いた。

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弘法大師が開き、鎌倉時代に長秀上人が発展させた。塩田城の鬼門に位置し
塩田北条氏の祈祷所ともなっていた。

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国指定重要文化財である三重塔
二層目と三層目に扉も窓もなく廻縁も勾欄がなく、横板壁を張り詰め、
各柱の下部からは長い貫が四方に突出ているため「未完成の完成塔」と
いわれている。しかし見た目には不自然さを感じさせず、安定した
調和を保ち美しい姿で魅了する。

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様式は鎌倉時代末期にはじまった和様と禅宗様との折衷様式。
建立年代は折衷様式から室町時代と推定されている。

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もう尾花(ススキ)が咲き始めている。茅葺屋根の本堂とマッチしています。

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参道150m程の間に様々な種類の巨木が多く圧倒される。
教育委員会の解説板によると幹周り2mから3.15m樹高20m超樹齢350年前後とラフな説明

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さて上田電鉄別所線塩田町駅まで1100mを更に歩くこと
塩田平ウォーキングマップを入手している。
全国遊歩百選」認定コースにもかかわらず、案内表示がなく、
塩田町へ行きたかったが、2駅東の「下之郷駅」まで歩くはめになった。

そこにはなんと上田丸子電鉄「下之郷」のホームが残されている。

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上田行きの時刻を調べて20分間生島足島神社を参拝することに。遠くからも見えていた
立派な鳥居は生島足島神社のであった。道を間違えたお陰でお参りできた。

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途中長福寺というお寺に八角の御堂あり「信州夢殿
新しく彩色も鮮やかと思ったら昭和17年建立とのこと。

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生島足島とは生島神・足島神の二神をいう。神社は日本列島のほぼ中央
あり、日本の総鎮守といわれる。ご神体は本殿奥二間四方の大地である。

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上田駅へ到着後、高速バスの予約を入れ、駅にある「びゅうプラザ」で
発券してもらった。時間まで遅目の昼食をこれまた山菜そばを頂き、上田城跡公園へ。

真田昌幸により、1583年(天正11年)に築城された平城である
真田昌幸が二度にわたる徳川軍の攻撃を撃退した上田合戦で有名
写真はよく見掛ける本丸東虎口櫓門

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真田神社
城址公園内にある。真田、仙石、松平という歴代の上田藩主を祀っている神社

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欅並木も風格がある

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高速バスの時間が気になり後半は慌ただしい旅であった。しかし645年大化改新による
中央集権政策で信濃の国府があり東山道で最も重要な兵站基地として栄えた理由が
塩田平を放浪して解った。永井路子氏が「塩田の緑は深く閑か」と書いていたことも
実際に歩き見て体感できた。建造物での国宝が鎌倉市が円覚寺舎利殿のみに対し信州の鎌倉は安楽寺八角三重塔、中禅寺薬師堂、前山寺三重塔と三件である。

文化財が幸運にも奇跡的に保たれた中で、人々は類まれな豊かな地柄を生かした
生活をされている。古い農家で畑付き物件が出てれば真剣に考えてみようか
との気持ちにさせられた。

信州の鎌倉・塩田平ひとり旅~その2 清少納言も「枕草子」に取り上げている別所温泉

~その2 別所温泉に宿泊

日本三大湯のひとつ別所温泉ヤマトタケルノミコトの発見と伝えられていて、
平安時代の清少納言が「枕草子の中で

 「湯は七久里の湯、有馬の湯、 玉造の湯・・・」
として三大温泉の筆頭に挙げている。七久里が別所温泉のことである。

     七久里(ななくり)の湯 長野県上田市
     有馬(ありま)の湯   兵庫県神戸市
     玉造(たまつくり)の湯 島根県松江市

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「七久里橋」「ななくり(七苦離)地蔵」、「足湯ななくり」など
今でも七久里の名を伝えられている。

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常楽寺、安楽寺、と北向観世音を昼食挟まず回り、お腹がすいたと言うより
疲労感を強く感じたので、北向観世音そばの「足湯ななくり」でひと休み。

遅目の昼食は蕎麦屋でビールと松茸蕎麦を頂き、二ヶ月以上前にネットで
ひとり旅歓迎の宿」というキャッチコピーに乗り予約した「上松屋旅館」へ
「旅館中松屋」と並んでいる。

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男ひとり旅 ちょっとリッチな男の休日プラン」を予約
上田駅周辺のビジネスホテルから電車やバスで来ることもできるが
温泉、食事、部屋の大きさ等から別所温泉とした。ちょっとリッチと
謳っているが、部屋食でウェルカム抹茶、露天風呂で缶ビール350ml、
20分マッサージ、日本酒「男は黙ってひとり酒」1本、別注メニューから
1品、モーニングコーヒーなど特典つき。

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   食事おしながきとしては
食前酒 ヴィランジュドゥベッショ 地元産ワイン
先付  南瓜豆腐
前菜  季節前菜五点盛 麻和紙焼き他
造り  信州サーモン
凌ぎ  信州蕎麦
煮物  鴨治部煮
焼物  銀鱈味噌焼 (上撮影後に焼きたてを届けてくれた)
温物  信州産黒毛和牛陶板焼
蒸物  白身魚吹寄せ 帆立餡掛け(後で)
酢の物 信州スモーク 焼ききのこ雲丹添え
上腕  信州味噌仕立て
食事  塩田産こしひかり
香の物 野沢菜 大根浅漬
甘味  アップルスノー (最後に届いた)
特典別注 馬刺しと日本酒男は黙ってひとり酒

別注メニューは信州旅行ではしばしば頂いている「馬刺し」をお願いした。
久しぶりで美味しく堪能した。

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好物の馬刺しが一番美味しく頂いた。
食事は上写真のものに焼き物蒸し物など温かいもの
数点が後でテーブルに乗った。概ね美味しく頂いたが老齢の身には
ボリュームとしてはやや多く、お造りご飯味噌汁など残してしまった。

お風呂は別棟屋上にあり、正面に北向観音を望める「見晴らしの湯」

やはり露天が良い。男女を夜中3時頃チェンジし、片方に檜だがつぼ湯もある。
弱アルカリ単純硫黄泉の源泉掛け流し24時間利用できる。

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壺湯のほか寝湯も。

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マッサージは流石に20分では物足りないのもで追加分施術者に直接支払い
翌日塩田平鎌倉街道上の道始点をしっかり歩けるよう合計60分掛け全身を
ほぐしてもらった。脹脛が攣りやすいので、これで安心して今宵はよく眠れそうだ。

部屋に飾ってある絵画。「野倉の夫婦道祖神」を描いたものらしい。

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翌朝 窓からの眺め。正面は外湯のひとつ「石湯」。湯川の流れが激しく聞こえる。

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外湯のひとつ「石湯」 真田幸村隠しの湯  

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「外湯めぐり」の案内があったが元気なく断念。真田の隠し湯「石湯」のほか、
木曾義仲と北条氏にゆかりの「大湯」、円仁慈覚大師が好んだ「大師油」は、
それぞれ150円で入れる。足湯として「ななくり」や「薬師湯」がありこれらは無料。

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湯かけ地蔵
信心深い寿蔵が佐渡に流刑された日蓮上人を慕い佐渡に行き、そこの沼地を通り掛かると
泥まみれの地蔵尊が「信濃の湯につかりたい」と訴えた。寿蔵は驚き沼から取り上げて、
急ぎ別所の湯に入れた。寿蔵はその後美しい妻を娶り幸せに暮らしたとさ。

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旅館のお風呂はは昨夜4回、今朝は2回入り温泉三昧を堪能できた。
朝食は4階大広間で、和食が準備されていた。小鉢ならぬ小皿が9皿のほか
小鉢3枚。白飯味噌汁はおかわり自由で、温泉卵、海苔、塩鮭、蒸し野菜ほか
バイキング方式。塩田産こしひかりの御飯は美味しかったが、やはりボリューム
多く小皿類は半分以上残してしまった。

宿のチェツクアウトではエキストラチャージの発生はなく、当初から約束の
入湯税150円のみ支払いをし、ロビーで特典のひとつであるモーニングコーヒーを
頂き9時前には宿を出て塩田平散策古刹巡りへスタートした。

2013年9月17日 (火)

信州の鎌倉・塩田平ひとり旅~その1 常楽寺安楽寺北向観音

信州の鎌倉・塩田平ひとり旅~その1 常楽寺安楽寺北向観音 SHIOTA-DAIRA

西武と共同運行されている千曲バス池袋東口発7時40分定刻の11時32分に終点の
長野県上田市別所温泉に到着。台風一過爽やかな秋空が広がる好天であり幸先
よいスタートである。

早速「観光マップ」を求めたところ強面男性が
下の「別所温泉ガイドマップ」に「現在地がここでまず常楽寺へ行き、
次に安楽寺へ回りそれから北向観音へ」とそれぞれ赤鉛筆でマーキングして
説明してくれた。尋ねたいと思っていたことを先に言われてしまった。
質問する客が多いらしく流石に慣れたものだ。

Photo

常楽寺へのルートの中間点道路の両側に小さな祠がある。小宇ながら
余りにも立派な造りに足が停まる。御堂の前にこれまた立派な屋根付き解説板が
設置されているが残念ながらその文字が消えていて読めない。

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ガイドマップによると「仁王堂

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御堂の中を見ると立派な仁王像が一体。道路をはさみ一対なのが理解された。
常楽寺を守護する仁王門の位置づけなのだろうか?

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常楽寺
天台宗別格本山北向観世音本坊、北向観世音をお守りする本坊ということ。

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平安時代初期天長二年(825)比叡山延暦寺座主慈覚大師円仁により開創。
別所三楽寺(長楽・安楽・常楽)と呼ばれ「信州の学海」と言われる程
別所が仏教・学問の中心であった。安楽寺の実質的な開山である樵谷惟仙
ここ常楽寺で仏教の教えを学んだという記録もあるそうだ。

本堂は茅葺寄棟造り正面中央に向拝が突き出ている。重厚感がある。

御船の松
樹齢300年、長さ18.2m、長さ18.2m、幅10.3m、高さ6.2m、幹周り12.5m帆を張った船の様

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石造多宝塔 国の重要文化財
北向観世音様が出現した所、高さ2m85cm安山岩。

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二重の笠石と亀腹を備えており基本的に木造多宝塔と同じ。
軒と角隅は強く反っていて鎌倉時代の特色を顕している。

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弘長二年(1262)当寺二二世住持頼真が一切経を納める納経塔
として建立したことが銘文として刻まれている。

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美術館での鑑賞を楽しみにしていたが、照明も消えて入口も閉まっていた。
後で確認したら、法務所に言えば開けてくれるらしい。
ひとりだけなので、申し訳ない気持ちになり、次へ進むことにした。

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美術館へ行かなかったので、予定外だが途中その入口が見えた別所神社へ行った。
参道は山道で急坂、階段もきつい。

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階段を上ると拝殿が右は神楽殿。

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奥の本殿 熊野神社本殿と同じ「一間社隅木入り春日造」、彫刻も華やかで見事さに
見とれてしまう。「波と蛙股」は他に例が無い貴重なもの。汗かき上って来たかいあり。

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神楽殿に自転車で来ている男性がひとりラジオを聞いている。
元の場所に戻り「さるすべりの小道」を安楽寺へ向かう。
成る程「サルスベリ」の白い花が丁度咲いていて綺麗だ。トンボも飛んでいる。

途中塩田平を一望できる展望台がありひと休みし絶景を楽しむ。
「上信越国立公園の峰々」の案内が描かれている。

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安楽寺
鎌倉時代中期にはすでに相当の規模を持つ禅寺で信州の学海の中心。
北条氏の庇護により栄え多くの学僧を育てた。
1333年鎌倉幕府滅亡後は寺運も傾いたものの、鎌倉時代の文化遺産を
蔵し信州最古の禅寺のおもかげを残している。

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国宝「八角三重塔
本堂左手で拝観料を納めて階段を上った先にある。八角の塔は珍しい。四重塔ではないかとの疑問があったが、説明板によると初層は庇に相当する裳階(もこし)とのことだ。

北条氏の供養塔として建てられたものと考えられているそうだ。

奈良文化財研究所埋蔵文化財センターの調査によると三重塔用材の伐採年代は
正應二年(1289)と判明、1290年代の鎌倉時代末期には建立されたと推定されている。
我国最古の禅宗様建築であることが証明された。

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場所を変えて様々な角度で見てみる。お参りは仰ぎ見てするもので眺め下ろすのは禁忌。
太陽光の位置もあり、皆さん撮影に苦労されている。少し高い位置から撮影させて頂いた。

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本堂前の御堂の十六羅漢はそれぞれ顔の表情など面白い。その隣高野槇も立派だ。

時計を見たら13時を過ぎでいるが空腹感なく食事は後にすることにした。
七草の湯の横を通り音を立てて流れる湯川を渡り北向観世音の参道へ。

現世利益の北向観世音
長野市の南向きの善光寺と向き合っている。善光寺が未来往生に対し
こちらは現世利益の功徳があると言われていて、両者で一体で両方に
参拝しないと「片参り」と言われる。別所温泉に宿泊して早朝北向観世音で
護摩を焚いてから善光寺に行くのが両詣りとなり、現世来世の幸福と安楽が
約束されということだ。

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境内には映画で有名になった「愛染かつら」の大木がある。
植物学名に「アイゼンカツラ」というのは無い。単に「カツラ(桂)」である。
作家川口松太郎が別所温泉を訪ねた折、北向観世音の愛染堂と境内の桂の木を
結びつけた造語だそうだ。樹齢1200年の霊木。

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主人公の医師に思いを寄せる女性に「この木は昔から「愛染かつら」と言われ
この木につかまりながら恋人同士が誓いを立てると将来必ず結ばれる・・・」
この映画の大ヒット以来縁結びの霊木として親しまれている。

北原白秋歌碑 

  観音の この大前に 奉る 絵馬は信濃の 春風の駒

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大正12年別所温泉を訪れ百数十首の短歌を詠んでいる。
宿で配布資料に「百数十首俳句」とありネット上にも氾濫してるがこれは間違いだ。

花柳章太郎供養碑 新派の名優・人間国宝 花柳章太郎(1894~ 1965)の供養碑。

   北向にかんのん在す 志ぐれかな  章太郎

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この地に来たことがないはずの芭蕉の句碑もある。

  観音の いらや見やりつつ はなの雲

童謡「夕焼け小焼け」で有名な中村雨紅の碑は元善光寺住職により建立。

江戸狂歌師四方歌垣真顔の歌碑も。

 また外に たくい七久里 やく力もわきてたへなる 本湯なりけり

愛染堂
手が六本「愛染明王」が安置されている。

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境内からの眺めもいい。塩田平を一望できる。 

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夫婦杉 夫婦円満の木
野倉の「夫婦道祖神」と共にご夫婦連れに推奨のコースだとか。

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以下翌朝シャトルバスに乗る前に撮影したものでまず水車、近くの東屋で親子連れと交流。

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高速バス終点「将軍塚駐車場」の北東にある将軍塚
平維茂の墓とされている。鬼女紅葉を討ち取った平安中期の武将。
別所村が疫病が流行ったとき、この塚に埋められた維茂の財宝で
救われたと言われている。

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七苦離堂(ななくりどう)
別所温泉は昔から七久里の湯と呼ばれいる。ヤマトタケルノミコトが
東国征伐の帰路、七カ所温泉を開き入浴されたところ七つの苦難から
解放
されたことから「七久里」と名付けられたと云われている。
新しく綺麗な御堂で、近年常楽寺が建立したとのことだ。

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上田電鉄別所線「別所温泉駅

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丸窓電車 モハ5250
昭和2年上田電鉄最初の新造車輌として日本車輌会社にて3両製造されたもので、
ドアの戸袋の窓が縦長楕円形で「丸窓電車」の愛称で親しまれ塩田平を走って
いたが昭和61年5000形導入と共に引退した。

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2013年9月14日 (土)

金井の獅子舞~市無形文化財芸第1号指定50周年

金井の獅子舞は案内ポスターを見るたびに見ておきたいと思いながら
現役時はゴルフが予定されていたり、リタイアしたらの思いもリタイア前から
始めた自然保護団体に入会しそのボランティア活動日とぶつかったり直ぐに役員になり
季刊誌編集を任されしたため実現していなかった。団体の退会により今年やっと実現した。

金井八幡神社は旧金井村の鎮守としてこの地域の人々の信仰を集めている。
「新編武蔵風土記稿」にも記載されており、室町時代初期には存在していたと思考され
400有余年の歴史を持つ神社である。ご神体は応神天皇

古獅子頭つまり平角の雄獅子宝冠の雌獅子丸角の雄獅子の三体が社宝として
伝えられている。この獅子舞は名主神蔵太兵衛が亨保六年(1721)民生の安定を
図るため八幡神社に奉納したもので、現在まで伝承されてきたもので、関東一円でも
もっとも形式が整ったものとされている。

獅子頭は旱魃に備えて雨乞いの願いを込め水を司るととされる龍頭となつている。

金井の獅子舞保存会」発行ガイドブックによると奉納の年については「寛文年間」と
あるつまり1661年~1672年となる。

獅子舞は稲作に重要な雨乞いの祈りのようだ。龍は水辺で遊び天に舞い上がり
雨を降らす。この龍のお守りをするのが河童といわれている。金井の獅子舞では
この河童の面を被った「幤追い」が三匹の獅子の間に入り行司の役目をしている。
手には軍配を持つている。腰には「飲む、打つ、買う」を表す「瓢箪、骰子、男根」を
下げて舞っている。神社への伝令役も担っていて道行の一行が境内に到着するまでに
斥候として三回往復する。

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早めに夕食をとり出掛けようと思っていたが老犬介護に手間取り六時過ぎと
なってしまった。入口近くで犬を介した知人が氏子役員で居られたので
軽く挨拶して本殿前へ急ぐ。既に巫女さんの舞が始まっている。階段を上った左に
立派な神楽殿があるのに、右に仮設の舞台が造られてそこで舞っている。

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獅子舞は神楽殿の前に相撲の土俵のように丸く整備され、その回りを四角く
竹、縄と御幣で清められている。獅子舞一行は獅子は三頭だがその河童の面を
被った幤追いの他、「金井獅子舞」の幟を持って先陣をきる「旗持ち」、竹骨に
五色五弁の造花を取り付けた「傘鉾」、大団扇を持ち見物人に「ウォー」と奇声を
あげる「天狗」、特別の冠と袍を着用した「神主」、菅笠に裃を着用し袴に大小の
刀を差した侍姿の「警護役」2名、半纏股引着用し手に錫杖を持ち大地を突き鳴らす
金棒引き」2名、振り袖姿で頭に四角く花柄の冠をつけ、水音を表すという
穢れ無き娘の「ささら摺り」4名、大太鼓3名、貝吹き2名、歌い手4名
笛吹き4名と29名のクルーとなる。ささら摺りや金棒引きは子供だ。

獅子舞は古来からの電灯に則り、篝火の灯りの下実施とのことで電灯照明は
消されたり減灯されて雰囲気としては素晴らしい。しかし撮影には辛い。
土俵のような中央の丸い舞台で演じるのは雌獅子1頭と雄獅子2頭に幣追いで
雌獅子を雄獅子2頭が取り合いをするその行司役を幤追いがやり、
「雨が振りそうだからと仲良く天に帰ってゆく」のを表しているそうだ。

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雨乞いのほか、人生の教訓の舞、五穀豊穣、悪魔祓いの神事の舞などもある。
翌朝木倉川と金井川の水源と鶴見川に合流する辺りで実施されるとのことだが
折からの18号台風来襲が予想されているので参列予定だったが残念だ。
来年は準備していい写真を撮りたいものだ。獅子頭の撮影ができていない。
下は幻想効果を狙った霧発生装置?

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17日18日の信州の鎌倉「塩田平」は台風一過好天を期待している。

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