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2013年9月30日 (月)

向島界隈史跡巡り散策~向島百花園、白鬚神社、長命寺、三囲神社、牛嶋神社

向島界隈史跡めぐり散策 

日常的に利用稀で馴染み薄い東武鉄道の伊勢崎線東向島駅からスタート。

駅高架下を利用した東武博物館の先を右に曲がり約12分で最初の目的地だ。

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1720系ロマンスカー特急けごん
昭和35年デビューしたジュークボックス付きサロン室あるデラックス車輌。
100系特急スペーシアに女王の座を譲り平成3年に引退した。
日光観光に行く時に乗っているはずだ。

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向島百花園
(国指定史跡・国指定名勝)

仙台出身の骨董商、佐原鞠塢(さはらきくう)が元「多賀屋敷」と
呼ばれていた土地を入手して、文化2年(1805)に開園。

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一般150円だが、免許証を提示して老齢割引で70円支払い入場。
途中道順を訪ねていた老齢ご婦人は4回分料金(\280)で何度も入場できる
年間パスポートを申し込んでいる。四季折々を何度でも楽しめる。

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左手に多賀神社が祀られている。園内は年配者を中心に賑わっている。

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入場券の裏に細かい字で解説されている。

「この庭は文化2年(1805)北野屋平兵衛こと佐原鞠塢(さはらきくう)という
粋人が当時の文人墨客の協力を得て梅を沢山植えたことから「新梅屋敷」として
創設したのが始まりとされています。

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「日本や中国の詩の古典である「萬葉集」や「詩経」の中にある植物を集めて
文学植物を全園に配し四季花たえることない花園として、江戸市民の嗜好にあい
江戸時代から明治時代まで庶民的花園として栄えたものでした。」

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「明治以後たびたびの洪水で園は荒廃し維持も困難となり、昭和14年
東京市営の名勝として公開することになり、昭和53年10月13日には(国の)
名勝および史跡に指定されております。」

360本もの梅の木を植えられたことから新梅屋敷と呼ばれたのは当時亀戸
既に「梅屋敷」があったため。当時は「百花園」とも呼ばれるようになった。
江戸時代には文人墨客のサロンとして利用され、著名な利用者には
「百花園」の命名者である絵師酒井抱一や門の額を書いた狂歌師大田南畝らがいた。

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園内には多数の野草が植えられ、とくに秋の七草の美しさで有名。
30余基の石碑などを巧みに配した地割でも有名であった。松尾芭蕉句碑。

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1945年(昭和20年)3月の東京大空襲により建物なども全焼したが、「百花園」として復興。

萩のトンネル

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サクラタデ タデ科湿地や水辺に生える

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オイランソウ(花魁草) ハナシノブ科 隣に白色も。 
ひと回り小ぶりのナデシコ科のムシトリナデシコに似ている。

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ナガバノアカワレモコウ ナガボノアカワレモコウとは別なのだろうか?

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ダンゴギク(団子菊) アメリカ原産園芸品種であり不釣り合いではなかろうか。

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百花園を出て次の白鬚神社は北西の位置のはずだがと周りを見渡すと
「白鬚神社はこちら」と案内が出ていて安堵する。
右手に200m程ゆっくり歩いたが3分程度で到着。

白鬚神社  
天暦五年(951)近江国志賀郡境打颪(滋賀県高島市)琵琶湖湖畔に鎮座する
白鬚神社の御分霊としてお祀りしたことが始まり。隅田川七福神寿老神
しても親しまれている。

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御祭神は猿田彦大神、相殿として天照大御神、高皇産霊神、神皇産霊神、
大宮能売神、豊由気大神、健御名方神。境内社として諏訪神社。

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境内に公孫樹があり銀杏が音をたてて落ちている。別のところで
先刻挨拶した散歩中のご婦人ふたりが嬉々として拾っていた。

寺島ナス
神社周辺は寺島村といい、水田を主とする農村だった。隅田川上流から
運ばれてきた肥沃な土壌は茄子作りに適していて、産地として
「寺島なす」と呼ばれて江戸の市民に賞味されていたそうな。

隅田川沿いの墨堤通を南へ。爽やかな秋風だが太陽光線は未だ強烈だ。
子育地蔵堂地蔵坂通りは道路沿いではあるが反対側に見えたが
道路横断はせず結果幸田露伴住居跡から秋葉神社までの予定ポイントはスキップ。

和菓子老舗その① 志”満ん草餅
明治2年創業、「向じま 志”満ん草餅」(じまんくさもち)の歴史は
周辺のよもぎを使った草餅を、隅田川の渡船場の横で供したことに始まる。

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途中倉庫の敷地に「大倉喜八郎別邸跡」の案内看板に思わず足を止めた。

大倉 喜八郎(1837 -1928年)については学生時代に書籍で生い立ちから
財界での活躍を紹介したものを読んで、凄い人が居たものと感動したものだ。
明治・大正期に貿易、建設、化学、製鉄、繊維、食品などの企業を数多く興した
実業家、中堅財閥である。大倉財閥の設立者。

共栄倉庫株式会社による古い解説板で一部消えてるがそれによると
「この一角は田沼意次に取り入り養女を大奥に入れて権勢をほしいままにした
中野碩翁の別邸跡で隅田川に面してを贅こらしていた。」となんとか読めた
そこを明治の政商大倉喜八郎が別邸としたもので隅田川沿いに建てられていた
蔵春閣は、千葉県船橋市にあるららぽーとに移築したとある。
江戸時代末期は中野清茂別名中野碩翁の別邸跡。
碩翁は田沼意次を介して、養女を徳川家斉の側室として将軍の側近中の側近に
なり、幕府の普請などを斡旋し賄賂を得ていたというもの。家斉没後は、
水野忠邦により追放され、向島のこの地で最期を迎えている。
なおららぽーとの蔵春閣も大成建設(旧大倉土木組)が担当して昨年秋から
解体し駐車場となっているそうだ。

隅田公園少年野球場

この少年野球場は, 昭和24年戦後の荒廃した時代に「少年 に明日への希望」を
スローガンとして, 有志や子ども 達の荒地整備による汗の結晶として誕生した
日本で最初の少年野球場です。以来数多くの少年球児がこの球場から巣立って
いったが, 中でも日本が誇る世界のホームラン王巨人軍王貞治氏もこの球場から
育った一人です。      昭和61年3月  墨田区教育委員会
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世界の王貞治が育った野球場。門に一本足打法の王選手のレリーフあり。

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野球場としては狭く感じる。場内で園児が鼓笛隊の練習をして賑やかだ。

 

和菓子老舗その② 言問団子

野球場と背中合わせにある。言問橋や言問通りの名称の由来になった店
江戸時代末期に向島で植木屋を営んでいた外山佐吉が「植佐」という団子屋を
開くと、花見客や渡し船の客の間で人気となった。明治元年、長命寺に逗留して
いた歌人から在原業平が詠んだ
 「名にしおはゞ いざこととはん 都鳥 我が思う人は ありやなしと
に因んだ命名の勧めを受け、団子は「言問団子」と名づけられ、その後、
佐吉が始めた灯籠流しによりその名は広く知られていった。
後に「言問」は、言問橋言問通り等の名称で定着しましたが、ルーツは
この「言問団子」である。全く逆だと思っていたので驚きだ。

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明治26年にはこの裏手にある桟橋から千島開拓に向かう郡司大尉率いる5艘の
船が出発しています。隅田川両岸は群衆で埋まり、花火が打ち上げられ、
歓声と楽隊の演奏が響く中でのに賑やかな船出であったそうで、この時、
大尉の弟である幸田露伴は船に乗船して横須賀まで見送っています。

墨堤植桜の碑

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正岡子規 仮寓の地

 向じま 花さくころに 来る人の ひまなく物を 思ひける哉

近代日本を代表する俳人の正岡子規は、向島周辺の景色を好み、こうした歌を
数多く遺している。隅田川と墨堤の自然がよほど気に入ったのか、大学予備門
の学生だった子規は、長命寺桜もち「山本や」の2階に3か月ほど滞在し、
そこで詠んだ句が次の句です。
 花の香を 若葉に込めて かぐはしき 桜の餅 家つとにせよ

明治28年、日本新聞社の記者として日清戦争に従軍した折も墨堤の桜を
偲んだ和歌を詠んでいます。
 から山の 風すさふなり 古さとの 墨田の櫻 今か散るらん

和菓子老舗その③ 長命寺桜もち 山本や

墨堤の桜の葉を利用したこの桜もちは、享保3年(1717)の生まれ。
花見時などは予約をしないと買えないそうだ。店頭で一個でも買えれば、
隅田川を眺めながら食べたいと思っていたが本日定休日。現役時会社で
来客者手土産に頂いた折、「長命寺の桜餅はどうして食べるか?
「皮ごと食べる」と応えたら、「長命寺の桜餅はカワをムイて食べる」と
東京育ちのベテラン女性が教えてくれた事を懐かしく思い出している。
  (隅田)川を向いて食べる
  (桜の塩漬け葉の)皮を剥いて食べる
元々葉ごと食べていたので葉脈の太い筋だけ取って食べている。葉っぱの
塩っけが餡の甘さを引き立て美味いと思う。「山本や」の話によると葉っぱは
香りつけの為であり葉っぱは剥いて食べて欲しいそうだよ。

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長命寺 境内手前に幼稚園の施設あり。
創建は不詳だが、平安時代とも慶長年間とも言われている。
元は宝樹山常泉寺と号していたが、徳川家光の命により長命寺と改名された。
家光が鷹狩に出た折、体調を崩しこの寺に寄り、僧孝海が境内の般若水で薬を
すすめたところ治癒したことにはじまる。

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弁財天をまつっている寺。国学者で天保の四大家の一人橘守部の墓や
幕末の幕府会計副総裁で維新後は朝野新聞社長として活躍した成島柳北の碑などが
有名である。長命寺の境内から土手をあがった所が桜餅の山本や

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三浦乾也 旧居・窯跡
三浦乾也は、徳川の御家人の子として現在の銀座で生まれました。
幼くして高名な陶工である叔母夫婦の家に引き取られ、若くして乾山焼6代
襲名し陶芸家の道を歩む一方で、絵や蒔絵、彫刻も手掛ける多芸多才の士
として知られています。
1853年、乾也32歳の時に黒船が来航すると、その翌年には勝海舟とともに
長崎で建造技術の習得を命じられ、伝習所に赴きます。
その後、仙台藩に造艦惣棟梁として招聘されて、洋式軍艦「開成丸」を
見事進水させて一躍名を知られるところとなった彼は、仙台藩で厚遇を受け、
滞在する間に焼物の技術も伝授して地元の陶工にも影響を与えた。
明治になり東京に戻った乾也は、明治8年に長命寺境内の一隅に窯を築き、根付、印籠、帯留めなどの創作に励みました。

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弘福寺 長命寺の隣
山門は見番通りに面している。黄檗(おうばく)宗大本山、宇治の黄檗山万福寺の末寺で、
同宗の名僧鉄牛和尚によって延宝2年(1673年)に創建された。

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関東大震災で罹災したが、昭和8年(1933年)に再建された。
黄檗宗は禅宗の中でも中国色の強い宗派として知られており、布袋尊の御像が安置されているのもその影響によるもの。
本堂や山門は唐風建築であり、建物にも中国風の特徴が見られます。

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淡島寒月 旧居跡
淡島寒月は、明治の趣味人として新聞や雑誌に寄稿したり、実体験をベースに
した小説や江戸にまつわる話などを洒脱なタッチで著わし好評を博した作家
である他にも、画家としての顔も持っていた。また、井原西鶴を再評価して
それを幸田露伴尾崎紅葉に説き、世に出すきっかけを作った。
彼の父親である淡島椿岳もまた知識欲が旺盛で、画を学び、ピアノを買って
演奏会を開く趣味人であった。
寒月は収集家としても有名で、明治26年頃、父の使っていた弘福寺内にある
隠居所で悠々自適な生活に入り、三千余の玩具と江戸関連の貴重な資料が
あったが、関東大震災ですべて焼失してしまった。

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向嶋墨堤組合
見番通りを歩いていたら粋な三味の音が聞こえてきた。もしやとみたら組合だ。
しばし聴き惚れる。宴席に踊りや唄で華を添え、客をもてなす芸妓達が昼間はこの様に
お稽古に励んでいるのだ。
花柳界の伝統と文化は継承していってほしいものだ。
向嶋墨堤組合は、料亭、置屋、芸妓衆など花街の統括管理が主業務。
平成24年3月現在で16軒の料亭が加盟し、100名を越える芸妓衆が登録して、
その規模は都内随一。作法、所作に始まり、お座敷でのおもてなしの心を身につける
ために、西川流や猿若流などの日本舞踊の他、鳴物清元長唄常盤津
専属の師匠について修練している。

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三囲神社  みめぐりじんじゃ
見番通りを右手を更に歩いている三囲神社らしきものが見えてきた。

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三囲神社は弘法大師が祀ったという田中稲荷が始まりとされ、当時は現在地より
北の田んぼの中にあったもの。文和年間(1352年から56年)に近江の三井寺
僧侶である源慶が土の中から白狐にまたがる老翁の像を発見し、その像の周りを
どこからともなく現れた白狐が、三度回って消えたという縁起から「三囲」の
名がつけられた。

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また、日照りが続いていた元禄6年(1693年)に俳人の宝井其角が
「ゆふだちや 田を見めぐりの 神ならば」
の句を献じたところ、翌日には雨が降り評判になったという話が伝わっています。江戸祭礼番付において東の大関に序されている。因みに西の大関は鉄砲洲稲荷神社サイト内リンク

三井家は江戸進出の時に、その名にあやかって守護神として祀り、
平成21年には旧三越池袋店のシンボルだった青銅製のライオン像が境内に移設。

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石造りの三柱鳥居
三井家から移されたもので原型は京都太秦木嶋神社にある。

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佐多稲子旧居跡
佐多稲子はプロレタリア文学者であり、戦後は婦人民主クラブの創立
奔走して民主化運動に貢献しました。明治37年生まれで、小学生のころから
利発な文学少女でしたが、結核で亡くなった母親の治療費や父親の放蕩などで
家計がひっ迫したために、11歳の時に父と祖母とともに叔父を頼って長崎から
上京して、向島小梅町の家に身を寄せることになりました。
牛嶋尋常小学校5年に転入したものの、家計を助けるためにキャラメル工場で
働かなければならず、小学校を中退してしまいました。その後、働きながら
小説や短歌を寄稿し、後に『キャラメル工場から』という作品にまとめられ、
それが出世作となりました。戦後、すぐに書かれた自叙伝ともいえる
私の東京地図』には、長く暮らした向島周辺のことが書かれている。

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牛嶋神社 
言問橋そば公園の「言問橋東交差点」の近く

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神社の名前は、隅田川に沿うこの地域一帯を昔は「牛嶋」と呼んでおり、
その総鎮守であることに由来。

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また、自分の身体の痛いところと同じところをさすれば治るといわれている
撫牛についても明治の文人淡島寒月は俳句を詠み、昭和の作家で近所に住んでいた
堀辰雄も自伝的作品の中で書いています。

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予定通りとは行かなかったが、優先箇所としてマーキングしていたのは参詣見学でき
予定外の史跡まで見学できた。やはり実際に歩き自分の目で見ることが大切だ。
ゆっくり歩いたので途中痛みは出なかったが、明日以降筋肉痛が出そうな予感。

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