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2013年11月

2013年11月20日 (水)

徳川家菩提寺東叡山寛永寺

 天台宗徳川家菩提寺東叡山寛永寺 with 興福寺仏頭展

寛永寺(かんえいじ)は上野公園にある天台宗関東総本山の寺院。
東叡山寛永寺円頓院は開基徳川家光、開山は天海僧正、ご本尊は薬師如来である。

上野のお山は美術館、博物館や子供連れでの動物園とお花見で来ていたが
その帰り途上で大仏、東照宮、清水観音堂などちょっと立ち寄る程度で、寛永寺を主目的と
して来るのは初めてである。JR上野駅公園口を出て右へ時計と反対回りで散策する。

寛永寺は徳川将軍家の祈祷所・菩提寺と言われている。徳川歴代将軍15人のうち6人
当寛永寺に眠っておられる。天海、公海の後3世貫主守澄法親王以降皇族が歴代
貫主を務める門跡寺院で、天台宗の本山として近世には強大な権勢を誇っていた。
しかし慶応4年(1868)の上野戦争で主要伽藍を焼失してしまった。

①寛永寺旧本坊表門
切妻造り本瓦葺、潜門付きの薬医門である。通称・黒門と呼ばれている。
現在の東京国立博物館の敷地はもと寛永寺本坊であり、その正面にあった門である。
関東大震災の後、博物館改築に伴い現在地に移築された。門扉には上野戦争
の際の弾痕があるそうだが、輪王殿(斎場)で葬儀中で確認できなかった。

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横から見ると門跡寺院ということで菊の紋章がある。

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輪王寺 (開山堂または慈眼堂) 

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本尊は阿弥陀如来。写真の通り開山堂とも呼ばれ「両大師」で知られる。 
天海慈眼大師)と良源慈恵大師元三大師)をお祀りしていることに由来。
元々寛永寺の伽藍の一部で、開山堂、慈眼堂とも称されていた。
境内西側に本堂、東側が斎場輪王殿である。

 サイト内リンク⇒天台宗別格本山浮岳山深大寺

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本堂前の鐘楼に懸かる梵鐘は慶安4年(1651年)の製作。本堂前の
参道左右の銅燈籠はもと上野の大猷院(徳川家光)霊廟に奉納されたもの。

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阿弥陀堂

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堂宇内仏像三尊

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寛永寺貫主は「輪王寺宮」と尊称され、水戸・尾張・紀州の徳川御三家と並ぶ
格式と絶大な宗教的権威をもっていた。歴代輪王寺宮は、一部例外もあるが、
原則として天台座主を兼務し、東叡山・日光山・比叡山の三山を管掌する
ことから「三山管領宮」とも呼ばれた。東国に皇族を常駐させることで、
西国で天皇家を戴いて倒幕勢力が決起した際には、関東では輪王寺宮を
「天皇」として擁立し、気学における四神相応の土地相とし、徳川家を
一方的な「朝敵」とさせない為の安全装置だったという説もある

御朱印頂戴致しました。中央は「両太子」で寺院名部分は「上野 輪王寺門跡」とある。
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③徳川家霊廟
厳有院霊廟常憲院霊廟があるがいずれも非公開。特別参拝として
事前予約制で参拝可能。厳有院霊廟門は道路から見ることができる。

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厳有院霊廟(げんゆういんれいびょう)は四代将軍徳川家綱の霊廟。
豪華な彫刻で飾られ知られていたが、東京大空襲で本殿、相之間、拝殿、前廊、
中門、左右廊、渡廊、透塀、仕切門、鐘楼などの国宝指定は焼失している。

天海大僧正の指導により天台宗の根本聖典である法華経の思想に基づいて
造営された霊廟であるが勅額門、水盤舎と宝塔だけが残っている。
10代将軍徳川家治、11代将軍徳川家斉合祀されている。

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常憲院霊廟(じょうけんいんれいびょう)は厳有院霊廟の西にある。
偶々工事中で入口の門が開いていたので入り勅額門のみ撮影させて頂いた。
五代将軍徳川綱吉の霊廟で、他に有徳院(8代将軍、徳川吉宗)、
温恭院(13代将軍、徳川家定)、天璋院(家定正室、篤姫)、
孝恭院(徳川家基)が合祀されている。

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徳川将軍家霊廟は、8代吉宗公以降は倹約のためもあり、大規模な霊廟は
建築されず、寛永寺か増上寺のいずれかの霊廟に合祀し、宝塔が建立された。         

徳川家の菩提寺は当初2代将軍秀忠の廟がある芝の増上寺だけであった。
しかし、3代将軍家光は天海に大いに帰依し、自分の葬儀は寛永寺に行わせ、
遺骸は家康の廟がある日光へ移すようにと遺言した。その後、4代家綱、5代綱吉の
廟は上野に営まれ、寛永寺は増上寺とともに徳川家の菩提寺となった。

当然、増上寺側からは反発があったが、6代将軍家宣の廟が増上寺に造営されて
以降、歴代将軍の墓所は寛永寺と増上寺に交替で造営することが慣例となっていた。

              徳川 歴代将軍の霊廟所在地を確認してみる
第一代  徳川家康(1543年 - 1616年)久能山東照宮・日光東照宮
第二代 徳川秀忠(1579年 - 1632年)増上寺 台徳院霊廟
第三代  徳川家光(1604年 - 1651年)輪王寺 大猷院霊廟
第四代  徳川家綱(1641年 - 1680年)寛永寺 厳有院霊廟
第五代 徳川綱吉(1646年 - 1709年)寛永寺 常憲院霊廟
第六代  徳川家宣(1662年 - 1712年)増上寺 文昭院霊廟
第七代  徳川家継(1709年 - 1716年)増上寺 有章院霊廟
第八代  徳川吉宗(1684年 - 1751年)寛永寺 常憲院霊廟合祀
第九代  徳川家重(1711年 - 1761年)増上寺 有章院霊廟合祀
第十代  徳川家治(1737年 - 1786年)寛永寺 厳有院霊廟合祀
第十一代 徳川家斉(1773年 - 1841年)寛永寺 厳有院霊廟合祀
第十二代 徳川家慶(1793年 - 1853年)増上寺 文昭院霊廟合祀
第十三代 徳川家定(1824年 - 1858年)寛永寺 常憲院霊廟合祀
第十四代 徳川家茂(1846年 - 1866年)増上寺 文昭院霊廟合祀
第十五代 徳川慶喜(1837年 - 1913年)谷中寛永寺墓地(神道形式)

下写真は開山堂の北地域にある子院のひとつ「林光院」
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根本中堂の西地域にある「東叡山浄名院」とあり子院らしい。

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④本堂(根本中堂) 
現在の堂は、寛永寺の子院大慈院のあった敷地に、明治12年(1879)、川越喜多院
本地堂を移築したもの。厨子内に秘仏本尊薬師三尊像を安置されている。

寛永寺は徳川家により新たに建立された寺院である。徳川家康・秀忠・家光の
3代の将軍が帰依していた天台宗の僧・天海は、江戸に天台宗の拠点となる
大寺院を造営したいと考えていた。そのことを知った秀忠は、元和8年(1622)、
現在の上野公園の地を天海に与えた。

当時この地には伊勢津藩主藤堂高虎、弘前藩主津軽信枚、越後村上藩主堀直寄
3大名の下屋敷があったが、それらを収公して寺地にあてたものである。秀忠の
隠居後、寛永2年(1625)、3代将軍徳川家光の時に今の東京国立博物館の敷地に
本坊が建立された。当時の年号をとって寺号を「寛永寺」とし、京の都の鬼門を
守る比叡山に対して、「東の比叡山」という意味で山号を「東叡山」とした。

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旧本堂(根本中堂)は現在の東京国立博物館前の噴水のところにあったが、
慶応4年(1868)彰義隊の兵火で焼失した。

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開口・奥行ともに17.4メートルあり、前面に三間の向拝と五段の木階、
背面には一間の向拝がある。周囲には勾欄付廻縁をめぐらしている。
桟唐戸(正面中央など)、蔀戸(正面左右など)、板壁など、すべて素木のままで、
屋根は入母屋造、本瓦葺、二重垂木となっている。

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本堂正面に掲げられている額は、東山天皇が自ら書いた「瑠璃殿(るりでん)」の勅額
元の根本中堂に掲げられていたものだが、上野戦争の際に、奇跡的に事前に持ち出されていたもの。

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根本中堂の内部は、もともとは、内陣が土間で、外陣と同じ高さの須弥壇が
設けられていて、須弥壇の上に本尊その他の仏像を安置されていた。内陣を
土間とする構造は中堂造と呼ばれ、天台宗独特のもので、現在は仮の床が
張られ、内外陣ともにすべて畳敷となっている。

内陣の厨子内には秘仏の本尊薬師三尊像が安置されている。
御本尊は、伝教大師最澄上人が自ら刻んだとされていて、国の重要文化財で
法要のない日曜日・祝日には公開されている。
休日出掛けることは少ないが機会があれば拝観したいものだ。

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靴を脱いで本殿に上がり御朱印をお願いした。流れるような筆致で美しい。
「瑠璃殿」を中央に配置して徳川の紋章といい"芸術作品"となっている。
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銅製灯籠
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石造水桶?徳川家が馬で参拝の折に馬に水を飲ませるためのものだろうか。

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江戸時代後期最盛期の寛永寺は寺域30万5千余坪、寺領11,790石を有し、
子院は36院に及んだ(現在は19院)。現在の上野公園のほぼ全域が寛永寺の
旧境内である。最盛期には、今の上野公園の2倍の面積の寺地を有していた。

巨大石造?解説板なく解らないまま撮影したもの。写真で見ると右の文字は「施」と読める。

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根本中堂から芸大へ向かう途中「護国院」釈迦堂
寛永寺の子院で「東叡山寛永寺護国院」といい「東叡山釈迦堂」の別名がある。
谷中七福神の1つで、大黒天を安置している。

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東京藝術大学美術館 国宝興福寺仏頭展 

白鳳の微笑み銅造仏頭」に会うのが目的。3階の展示室に入ると奥中央に展示されている。
そのパワーに圧倒されて暫く動けなくてじっと見入っている自分に気づく。同室の十二神将立像も
国宝指定で素晴らしいのであるが、半分以上を仏頭拝観で過ごした。前から後ろから左右から。
仏閣巡りをひと休み、しばし幸せな時間を過ごせた。先月参拝の深大寺銅造釈迦如来倚像
特別陳列され再会。深大寺釈迦堂で見るより広い展示場では小さく見えたがやはり素晴らしい。

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もうひとつの黒門 旧因州池田屋敷表門
もと丸の内に建てられていたが、明治25年、芝高輪台町の常宮御殿の表門として移建された。
のちに東宮御所と高松宮家に使用され、昭和29年3月、ここに移建されたものである。
重厚感と品格も備えていている。

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⑤東照宮 
寛永4年(1627)、藤堂高虎が上野の高虎の敷地内に創建した。
社伝によれば、元和2年(1616)危篤の家康から自分の魂が末永く鎮まる所を
作ってほしいと高虎と天海に遺言されたという。正式名称は東照宮であるが、
他の東照宮との区別のために鎮座地名をつけて上野東照宮と呼ばれる。

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灯籠が巨大でしかも多い。

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唐門 唐破風造り四脚門  前回拝観の折はベールに包まれていた。完成間際のようだ。

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奥に見えているのが本殿だろうか。完成して拝観できるようになるのが楽しみだ。
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慶安4年(1651年)に家康の孫である徳川家光が改築していたが2009年1月から
修復工事が行われていて透塀がまだシートで覆われている。間もなく完成らしい。

下写真透塀は社殿右横から覗いて撮影したもので、公開前に美しい彩色を拝見できた。

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全国26箇所ある東照宮の内所謂四大東照宮(久能山、日光、芝、上野)と徳川発祥の地
で当ブログの「太平記の里ひとり旅」タイトルで紹介している群馬県太田市の世良田
同「小江戸川越散策」で紹介の喜多院の隣の仙波の六ケ所に参拝している。

川越では久能、日光、仙波で三大東照宮と申しており、世良田も四大に入れて説明されていた。

拝殿左前の社務所にて御朱印を頂きました。

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⑥旧寛永寺五重塔(重要文化財)-上野動物園の敷地内。
現在所有者は東京都。塔内安置されていた釈迦如来・薬師如来・弥勒菩薩・
阿弥陀如来の四仏は、東京国立博物館に寄託。
動物園へ入場しない場合は東照宮から見る事はできる。写真は東照宮から撮影したもの。

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寛永16年(1639年)の建築で、大工棟梁甲良宗広の手による。
最上五重のみ銅板葺き、他は本瓦葺、和様で統一されている。高さ36.4m
高欄のない縁をめぐらし、中央間板唐戸、脇間連子窓、中備えは十二支の
蟇股を置く。組物は三手先、軒は二軒繁垂木。多層部の中備えは間斗束を置く。
初層の内部は心柱と四天柱があり、仏壇には四方仏を安置する。

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⑦大仏山パゴダ-時の鐘の近くにあり、昭和42年(1967年)の建立。
観光連盟が上野公園の名所のひとつとするために建設したもので、
高さ十五メートル、内部には中央に薬師如来、左側に月光菩薩、
右側に日光菩薩を安置している。この薬師三尊像は、江戸末期まで
東照宮境内にあった薬師堂の本尊で、明治初期の神仏分離令によって
寛永寺に移管、さらにパゴダの本尊として迎えられた。

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⑧上野大仏-寛永8年(1631)、越後村上藩主堀直寄の寄進で最初の大仏が造られた。
像高約6メートルの釈迦如来坐像であった。以後、地震、火災等で消滅と再興を
繰り返し、現在顔面部のみがレリーフとして保存されている。
「顔だけ」大仏に祈願-「これ以上落ちない」と受験生に人気

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⑨時の鐘-上野公園内、精養軒の近くにある鐘楼。

  「花の雲 鐘は上野か 浅草か」 松尾芭蕉

現存鐘は天明7年(1787年)の作。谷中感応寺で製造され、
正面には「東叡山大銅鐘」、裏側には「天明七丁未歳八月」とある。
時の鐘が鳴る順番として上野、市ヶ谷、赤坂田町円通寺、芝切り通しの
順番で鳴ったという。1996年6月に環境省日本の音風景100選に選定。
今でも時の鐘は一日三回午前・午後6時と正午に撞かれている

Img_4477芭蕉に詠われ有名だが、通る観光客を見ていると見上げている人は残念ながら少ない。

⑩弁天堂  
上野公園南側にある不忍池の中之島に天海が琵琶湖の竹生島の宝厳寺の弁才天を
勧請して建立されたが、東京大空襲で焼失し、昭和33年(1958)に鉄筋コンクリート造の
八角堂として再建された。

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御朱印頂きました。 ワイルド系御坊様にワイルドな御朱印です。

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御本尊である弁才天像は慈覚大師 円仁の作。年に一度『巳成金大祭』で御開帳
八本の腕に剣や弓などを握った完全武装『八臂弁財天』。

境内に大黒堂も居らっしゃる。

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⑪清水観音堂(重要文化財)
弁天島方向から撮影。

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千手観音を祀る。寛永8年(1631)の建築。規模は小さいとはいえ、京都の
清水寺本堂と同様の懸造建築である。舞台づくりにし、不忍池の景色を
眺められるように造られている。江戸三十三箇所観音霊場の第6番札所。

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独特の枝ぶりが特徴の月の松。江戸時代から庶民に親しまれており、
江戸の名所を描いた歌川広重の「名所江戸百景」には「上野山内月のまつ」
「上野清水堂不忍ノ池」に描かれている。明治時代台風で焼失していたが、
昨年2012年12月150年ぶりに復活したもので名勝復活を期待されている。

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舞台から見た月の松

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正面入口はこちらでいいのか
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清水の舞台

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寛永寺関連で5つ目の御朱印。大仏のもここで頂けるらしいが千手観音のみお願いした。

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毎年9月25日の「人形供養」では使用済の人形を焼いて供養する行事がある。

境内の「人形塚」。

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彰義隊戦死の墓

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天海僧正毛髪塔

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教育委員会が設置した解説板

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毛髪塔

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丸数字は参拝見学予定だった箇所。芸大美術館興福寺仏頭展は進捗状況と体調を見て
場合によっては後日改めてと思っていたが、予想外にスムーズに回れてよかった。

総歩距離は定かではないが、かなりな距離歩いたと思われる。右脹脛が
悲鳴を上げている。ルートの内芸大美術館までは参拝者も少なくいずれも
閑散としたものであった。

2013年11月15日 (金)

町田市能ヶ谷 武相荘再訪 2013秋

武相荘 町田市指定史跡

公開当初10年程前に妻と来て以来二度目の訪問である。鶴川駅近くで用事があったが、
小一時間待てば改めて来なくていい用向きがあり、待ち時間を利用しての訪問となった。

町田市能ヶ谷にある白洲次郎・正子夫妻の旧邸宅。
現在は「旧白洲邸・武相荘」として、記念館・資料館となり一般公開されている。
館長は白洲夫妻の長女・牧山桂子様。「武蔵の国と相模の国の境に位置する」事と
「無愛想」を掛けて「武相荘」の名にした由。

10代思春期までを神戸市で、結婚して40代から町田市で過ごしていることが
白洲次郎と無為庵太郎との共通点であり個人的に親しみを覚えていた。

世田谷通り鶴川駅東口を左へ鶴川街道を北へ鶴川二小交差点の先
ユニクロ鶴川店の先の道を左坂道を上った突き当りである。鶴川街道沿い
ユニクロの駐車場入口で警備員さんが「武相荘へいらっしゃるのですか」と
声を掛けてくれ案内してくれた。再訪問で場所は承知しているけれど気分いい。
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門の左に設置された「旧白州邸 武相荘」。鉄製で赤錆が雰囲気を出してる。

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受付&ショップ 2階はビデオサロン

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パンフレットと入場券 

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休憩処

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次郎17歳神戸一中在学時に父親白洲文平から買い与えられた米車同型車。

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1916年フリートウッド製ペイジSix-38 5座席ツーリングカー。5座席ながらスポーティ仕立て
2008年~09年NHKドラマスペシャル「白洲次郎」 (確か俳優伊勢谷友介が好演して
英語の発音も綺麗で印象に残っている。)の撮影時に英国のヴィンテージ スポーツカー
クラブの協力を得て輸入したものだそうだ。

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野人次郎
白洲次郎は戦後の新憲法制定に深く関わり、東北電力会長としても活躍。
兵庫県生まれ、ケンブリッジ大に留学、戦後吉田茂に請われてGHQとの
折衝にあたり、そのGHQをして「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめている。
晩年までポルシェを乗り回し、遺言は「葬式無用、戒名不用」は
是非見習いたいことである。神戸一中同級生今日出海は「野人」と評している。

韋駄天正子
白洲正子は美術評論家・随筆家として読売文学賞受賞している。
樺山伯爵家の次女、幼児より能に親しみ、14歳で能舞台に立つ。ハーバード大へ
留学し、帰国後互いに一目惚れで結婚。小林秀雄青山二郎らと親交あり、
文学と骨董の世界へ。足を運び自分の眼で見て執筆するスタイルを貫いた。

戦況の悪化による空襲や食糧難を予測して農地の付いた郊外の家を探しており、
当時の使用人の縁で購入した。能楽好きの正子にとってこの地が能ヶ谷だった
ことが大きいとの説を聞いたことがある。

長屋門

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戦況の悪化に伴い1943年5月に正式に転居。自給自足の農民生活を始める。
次郎41歳、正子33歳だった。以後の次郎は終戦まで専ら農作業に勤しんだ。
当時から次郎は「カントリージェントルマン」を自称。ギャラリーに
家人に頼まれて次郎が手作りしたというアイロン台、郵便受け、パン切り板
パン貯蔵箱など微笑ましい展示物もあった。

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第1ギャラリーは萱葺き屋根の母屋の殆んどを使用されている。
入口で靴を脱いで備え付けの手つき袋に入れて持って鑑賞するシステム。
大きな甕に生けた柑橘類が出迎えてくれた。

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母屋のほとんどが展示場になっていて、調度品としての陶器、正子の着物
本棚の図書図鑑なども興味深く見せて頂いた。

ウッドデッキは第1ギャラリーの出口

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第2ギャラリーであるはずのない米軍軍票 

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サンフランシスコ講和条約吉田茂による受託原稿
朝日新聞は「不思議な巻物の勧進帳」、外国人記者は「トイレットペーパー」と評した面白い。

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昭和天皇からお茶会への招待状

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白洲次郎が吉田茂の「側近」と言われていたが、実は24歳の年齢差があり、幼少よりの
知り合いで吉田茂を「おじさん」と読んでいたことなど興味深く資料拝見した。

庭も趣があり落ち着ける。自然に近い形で楽しんでいたのだろうと思われる。
成り上がりが金を掛けて庭師に頼んで贅を凝らしているのとは違っている。
四季折々の野趣に富んだ植物と鳥や蝶昆虫などと共生していそうだ。

第1ギャラリー出口のホトトギスの一叢。一部花が残っている。

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地蔵尊石造が庭の中にあり全く違和感が無い。

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遊び心が楽しくなる「道祖神」

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「鈴鹿峠」石碑、峠を越えたら何があるかワクワク。

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庭を歩いていると名前は分からないが綺麗な鳥の鳴き声が聞こえてくる。
乾燥した明るい林内によく見られるコウヤボウキ(高野箒)が丁度満開だ。
毎年七国山風致地区内緑地保全地域で見掛けていたもので、
なんだが懐かしい人に会ったような気分になる。高野山で茎を束ねて
箒の材料としたそうで、名前の由来となっている。

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散策路

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イロハモミジの紅葉も

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クマザサ(隈笹)もいい。湿地を好むが乾燥地のせいか小ぶりのようだ。

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予定外の訪問でバッグにはコンデジしかなく残念。最後に教育委員会による解説板

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2013年11月11日 (月)

赤穂義士廟所泉岳寺

曹洞宗江戸三ケ寺萬松山泉岳寺 

浅野長矩墓および赤穂義士墓 国指定史跡

泉岳寺は忠臣蔵を見る度に機会があればお参りしたいと思っていた寺院である。

無為庵から小田急線で千代田線乗り入れ準急に乗り、日比谷駅で都営三田線に乗り換えて三田駅で都営浅草線に乗り換えひと駅「泉岳寺駅」下車。A2出口から地上に出ると正面は稲荷神社だが、右手に泉岳寺と思しき「中門」が見えていてほっとする。徒歩3分。JRだと品川駅から徒歩15分だそうだ。

無為庵から遠くて交通の便も良くない。下写真は新しい社で綺麗高輪稲荷神社、泉岳寺鎮護か。

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慶長17年(1612年)に徳川家康が外桜田に門庵宗関を招いて創建。寛永18年(1641年)寛永の大火で焼失したが、徳川家光の命で、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の5大名により当地に再建された。これ以来、浅野家との付き合いが始まった。

赤穂事件で有名な浅野長矩と赤穂義士が葬られていることで有名だ。義士の討ち入り後、当時の住職が義士の所持品を換金して批判されて慌てて買戻したとの話もあるそうな。

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元禄14年(1701年)3月14日、江戸城中で吉良義央(上野介)に対し刃傷沙汰に及び、即日切腹となった赤穂藩主浅野長矩(内匠頭)の墓、及び、元禄15年(1702年)12月14日、江戸本所の吉良屋敷に押し入って吉良の首級を上げ、翌年2月4日に切腹となったいわゆる赤穂義士の墓である。

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浅野家断絶後は「赤穂の浪人」と呼ばれていた。泉岳寺では「義士」と呼ぶ。江戸城松之廊下刃傷事件を発端とした「赤穂事件」を素材として芝居は事件後僅か12日で江戸中村座で「曙曽我夜討」上演されている。幕府を刺激することとなり三日後には上演中止となったが、その後近松門左衛門作浄瑠璃「碁盤太平記」が大阪竹本座で上演されていて、南北朝時代の内乱を描いた「太平記」を借りて浅野内匠頭を塩冶判官として大石内蔵助を大星由良之助として登場させている。

浄瑠璃だけでなく歌舞伎でも何種類も制作されていてその集大成が「仮名手本忠臣蔵」と言うわけだ。これは松之廊下刃傷事件から四七年後の寛延元年(1748)に竹田出雲らの脚本で浄瑠璃で大阪竹本座で初演され以後
何度も上演されて大当たりし、興行の世界では気付け薬と言う意味で「独参湯(どくじんとう)」と称されている程である。

歌舞伎、浄瑠璃は勿論のこと映画テレビドラマでも何度も上演されている。殊に劇場は12月の出し物として12月14日にはテレビドラマとして上演されることが多い。今年の歌舞伎座も11月と12月公演は「仮名手本忠臣蔵」である。

「忠臣の教科書」という意味であり「いろは四十七文字」で浪士の数と同じ。「蔵」は「大石内蔵助」の蔵と忠臣の話が沢山詰まった蔵を掛けている。

赤穂浪士は一般に「四十七士」と呼ばれるが、泉岳寺の赤穂義士墓地には討入り以前に自害した萱野重実の供養墓を含め48基の墓塔がある。48基のうち、この萱野三平と、遺骸を遺族が引き取ったため泉岳寺には
埋葬されていない間光風、そして討入りに参加した浪士の中で唯一人切腹をまぬがれた寺坂信行の墓塔は、遺骸の埋葬を伴わない供養塔である。なお寺坂以外の浪士の戒名はすべて最初の文字が「刃」となっている。

泉岳寺は曹洞宗の寺院。本山は道元禅師が開かれた福井県の永平寺と鶴見の総持寺の二本山。

創建時より七堂伽藍を完備して、諸国の僧侶二百名近くが参学する叢林として、また曹洞宗江戸三か寺ならびに三学寮の一つとして名を馳せていました。曹洞宗江戸三ケ寺とは愛宕の青松寺と板橋小豆沢の総泉寺
江戸三学寮とは吉祥寺旃檀林・青松寺獅子窟。泉岳寺はその寺風を受け継いでおり大学で仏教を学びつつ泉岳寺で修行を勤めるという若い修行僧がいらっしゃるそうだ。

平成16年4月に旧義士館を改装して講堂とし、学寮の伝統を踏まえて定期的に法筵を啓き、公開講座が開催されている。毎週土曜日(ただし、11月第5週、12月第2週は休講)午後2時~4時誰でも参加出来て予約不要というのが気楽に受講できる。しかも受講料無料。現在次が開講されている。老犬介護がなければ直ぐにでも受講したいところだ。
  講座Ⅰ     「永平広録」提唱      当山山主
  講座Ⅱ     「正法眼蔵」提唱     河村孝道先生
  講座Ⅲ     「十八史略」講義     須山長治先生
  特別講座       講義 「経典を読む」     奥野光賢先生

萬松山泉岳寺の縁起によると
「当萬松山泉岳寺は、慶長17年(1612年)、徳川家康が幼年、身を寄せた今川義元の菩提を弔うため、江戸城に近接する外桜田の地に創建し、門庵宗関和尚(1546年~1621年)を迎えて開山となしました。宗関和尚は永平寺の道元禅師によって開かれた曹洞宗の第4代瑩山禅師開創の総持寺の門派である太平山大中寺(栃木県)の十一世建室宗寅和尚(義元の実弟)の高弟であり、今川義元の孫と云われる人物で、度々登城を請われ法問を聴取されたと伝えられています。当寺の萬松山は松平の松より、「松萬代に栄ゆる」の意から、寺号泉岳寺は、徳川に因み、「源の泉、海岳に溢るる」の意からつけられたと旧梵鐘の銘に記されています。」

   門庵宗関(もんなんそうかん)豪徳寺の中興の祖でもある。

四十七士の碑

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中門
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元来、泉岳寺には三門と言って三つの門(総門・中門・山門)があったが、現在は中門と山門のみ。現在の中門は天保7年(1836年)に35世大?梅庭和尚代に再建されたもので、昭和7年に大修理を施されている。

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掲げられている扁額「萬松山」は、中国明時代の禅僧・為霖動霈による揮毫。

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大石内蔵助良雄銅像

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大石内蔵助良雄銅像は、浪曲の宗家・桃中軒雲右衛門の発願により鋳造されたもの。泉岳寺に寄進され、大正10年12月14日に除幕したもの。内蔵助が当時の風俗である元禄羽織を身につけ、連番状を手にして東の空(江戸方向)をじっとにらんでいる。

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山門
天保3年(1832年)に34世大道貞鈞和尚代に再建されたもの。二階部分には十六羅漢が安置され、

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一階部分の天井には「江戸三龍」のひとつ、銅彫大蟠龍が嵌め込まれている。

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掲げられている扁額「泉岳寺」は、晋唐の墨跡研究者であった大野約庵による揮毫。

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本堂

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空襲にあい消失。現本堂は昭和28年12月14日に落成した鎌倉様式の建築。ご本尊は釈迦如来、他に曹洞宗の宗祖である道元禅師・瑩山禅師、また大石内蔵助の守り本尊である摩利支天(秘仏)などが納められている。

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  扁額「獅子吼」は「ししく」と読み、お釈迦様の説法のこと。

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澤木興道老師像
仏法の究極である坐禅をもって生涯を貫いた20世紀にもっとも活躍した禅僧の一人。三重県津市に生まれ、1897年に永平寺に入り、1899年に出家するも、兵役に取られ、日露戦争で負傷する。退役後、旧制第五高等学校の生徒に坐禅を指導する。各地の道場を転々とし、「移動僧堂」、「宿無し興道」と称された。1935年に總持寺後堂職となり、駒澤大学特任教授も兼任して、それまで選択科目であった坐禅を必修科目とさせ、徹底した坐禅教育を行った。 「何にもならんもののためにただ坐る」という只管打坐を貫き、その一生を通じて実践して見せた。その思想指導方法はアメリカのスタンフォード大学にある曹洞禅センターにも受け継がれている。

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鐘楼堂
大正2年・41世普天霊明和尚代に作られた鐘で、朝の坐禅の時と夕方の閉門の時に撞かれている。

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江戸から明治まで使われていた梵鐘は、現在ウィーンの国立民族博物館が所蔵。

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講堂
講堂(2階は義士木像館)は赤穂義士記念館ができるまでは、義士館として使用。
関東大震災後の大正14年(1925年)に建てられたものを平成16年に改装。

現在一階は講堂として使用しており、毎週土曜日に学寮講座開講中。
2階は義士木像館として赤穂義士記念館と併せて公開されている。

講堂の左前にある主税梅
大石主税が切腹した松平隠岐守三田屋敷に植えられていた梅。

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瑤池梅
義士の墓守をした堀部妙海法尼が瑤泉院から賜った鉢植えの梅を移植したもの。

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血染めの石
浅野内匠頭が田村右京大夫邸の庭先で切腹した際に、その血がかかったと伝えられている石。その左に血染めの梅もある。

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首洗い井戸
義士が本懐成就後、吉良上野介の首級をこの井戸水で洗い、主君の墓前に供え報告したところから「首洗い井戸」と呼ばれています。

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水琴窟(すいきんくつ) 一般には手水鉢の下の地中に甕などを埋め込んで手水後の排水に音を発声させるものだが、最近はこの様に地上で鳴らせる小規模のを見掛けるようになった。9月30日に訪ねた向島百花園にも地上タイプあった。地下タイプは装置が見えないのに音が幻想的で不思議な気持ちがしたものだ。

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墓所入口

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義士墓入口の門
この門は浅野家の鉄砲州上屋敷(現・聖路加病院)の裏門で、明治時代に移築したもの。

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赤穂義士墓地
赤穂義士は元禄16年(1703年)2月4日に切腹した後、直ちにこの地に埋葬された。
浅野内匠頭墓 夫人の墓は手前にある。
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間新六の遺体は遺族により引き取られている。また寺坂吉右衛門は本懐成就後、瑤泉院など関係者に討ち入りを報告して廻り、のちに江戸に戻って自首したが赦され、麻布・曹渓寺で83歳の天寿を全うした。現在も曹渓寺に眠っている。泉岳寺にある間新六の供養簿は他の義士の墓と一緒に建立されたが、寺坂の墓は慶応4年(明治元年・1868年)6月に供養のために建てられたもの。また、いわゆる四十七士の他に、本人は討ち入りを熱望したものの周囲の反対に遭い討ち入り前に切腹した萱野三平の供養墓がある。

中門の前から本堂まで一緒に行動していた欧州系外国人4名グループと御朱印依頼で別れていたが、なんと墓所でも熱心に見学して、写真や日本人参拝者がお線香をあげて回っている様子をビデオ撮影までしている。47Roninの海外宣伝スタッフだったかも知れない。

大石内蔵助の墓
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大石主税の墓 左が主税の墓で右の大きいのは十三回忌碑。

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赤穂義士記念館

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討ち入り300年に当たり次の時代引き継ぐべく、新たに建てられた義士に関する資料館。中には義士の貴重な遺品などが、忠臣蔵についてのビデオも上映している。内容は松之廊下3分、泉岳寺と赤穂義士5分、いざ討ち入り7分、義士祭6分計21分間。

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外国人4名のグループの他米国からのカップルも入館していて太郎の視聴後に英語バージョンの映像に切り替えてもらい熱心に視聴していた。

入館して最初に目につくのが陣笠。浅野家の家紋があり鉄板14枚で造られている。4メートル四方もあるの「釈迦八相祗園精舎曼荼羅」で絵のほとんどが細字による経文を敷きつめることによって構成されているというので驚いた。

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奥には「大石父子の像」や「義士遺像」は10名分しか展示されていなかった。討ち入りの趣旨を述べて吉良邸門前にも掲げられた「口上書」、「陣太鼓」、「義士連名書状」は六代目尾上菊五郎寄贈とあり興味をもたされた。

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義士木像館には江戸時代終わりから明治二年までに制作された四十七義士の木像が展示されている。拝観料(赤穂義士記念館と義士木像館は共通券)大人 500円

墓所お参り後受処にてお願いしていた御朱印を拝受した。
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先週は陣馬山から高尾山縦走を計画していたが、右股関節痛で断念した。
本日も不安であったが、冬隣の曇天の中ゆっくり歩くように心がけて予定をこなせた。

 

2013年11月 5日 (火)

原木栽培椎茸~巨大椎茸と芽切り直後の可愛い椎茸

去年今年と猛暑の夏のため、収獲の期待をしていず、ノーマークだった
無為庵の庭隅に放置していたホダ木に巨大椎茸というよりか
大きくなり過ぎてしまった椎茸を老妻が発見した。

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径25センチ位。早速収穫して少し干してから頂くことにした。

よくよく見ると小さな椎茸も生えてきている。榾木の上には小さいのと中くらいの。

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榾木の中央部には小さいのが愛らしい。

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下は見落としてしまいそうだ、芽切りしたばかりの小っこいのが頑張っている。

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堅い皮を突き破り出てくるのは凄いエネルギーを要するだろうに何時見ても感動する。

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生命誕生の神秘

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上のひとつはもぎ取り収獲した。 ハート形だ。

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裏側の襞が綺麗です。 径8.5cm

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以下追記

右上は5日に収穫したハート形の椎茸で乾燥して2分の1のサイズに縮小している。(11/10)

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芽切りがよく判る

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