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2013年11月11日 (月)

赤穂義士廟所泉岳寺

曹洞宗江戸三ケ寺萬松山泉岳寺 

浅野長矩墓および赤穂義士墓 国指定史跡

泉岳寺は忠臣蔵を見る度に機会があればお参りしたいと思っていた寺院である。

無為庵から小田急線で千代田線乗り入れ準急に乗り、日比谷駅で都営三田線に乗り換えて三田駅で都営浅草線に乗り換えひと駅「泉岳寺駅」下車。A2出口から地上に出ると正面は稲荷神社だが、右手に泉岳寺と思しき「中門」が見えていてほっとする。徒歩3分。JRだと品川駅から徒歩15分だそうだ。

無為庵から遠くて交通の便も良くない。下写真は新しい社で綺麗高輪稲荷神社、泉岳寺鎮護か。

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慶長17年(1612年)に徳川家康が外桜田に門庵宗関を招いて創建。寛永18年(1641年)寛永の大火で焼失したが、徳川家光の命で、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の5大名により当地に再建された。これ以来、浅野家との付き合いが始まった。

赤穂事件で有名な浅野長矩と赤穂義士が葬られていることで有名だ。義士の討ち入り後、当時の住職が義士の所持品を換金して批判されて慌てて買戻したとの話もあるそうな。

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元禄14年(1701年)3月14日、江戸城中で吉良義央(上野介)に対し刃傷沙汰に及び、即日切腹となった赤穂藩主浅野長矩(内匠頭)の墓、及び、元禄15年(1702年)12月14日、江戸本所の吉良屋敷に押し入って吉良の首級を上げ、翌年2月4日に切腹となったいわゆる赤穂義士の墓である。

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浅野家断絶後は「赤穂の浪人」と呼ばれていた。泉岳寺では「義士」と呼ぶ。江戸城松之廊下刃傷事件を発端とした「赤穂事件」を素材として芝居は事件後僅か12日で江戸中村座で「曙曽我夜討」上演されている。幕府を刺激することとなり三日後には上演中止となったが、その後近松門左衛門作浄瑠璃「碁盤太平記」が大阪竹本座で上演されていて、南北朝時代の内乱を描いた「太平記」を借りて浅野内匠頭を塩冶判官として大石内蔵助を大星由良之助として登場させている。

浄瑠璃だけでなく歌舞伎でも何種類も制作されていてその集大成が「仮名手本忠臣蔵」と言うわけだ。これは松之廊下刃傷事件から四七年後の寛延元年(1748)に竹田出雲らの脚本で浄瑠璃で大阪竹本座で初演され以後
何度も上演されて大当たりし、興行の世界では気付け薬と言う意味で「独参湯(どくじんとう)」と称されている程である。

歌舞伎、浄瑠璃は勿論のこと映画テレビドラマでも何度も上演されている。殊に劇場は12月の出し物として12月14日にはテレビドラマとして上演されることが多い。今年の歌舞伎座も11月と12月公演は「仮名手本忠臣蔵」である。

「忠臣の教科書」という意味であり「いろは四十七文字」で浪士の数と同じ。「蔵」は「大石内蔵助」の蔵と忠臣の話が沢山詰まった蔵を掛けている。

赤穂浪士は一般に「四十七士」と呼ばれるが、泉岳寺の赤穂義士墓地には討入り以前に自害した萱野重実の供養墓を含め48基の墓塔がある。48基のうち、この萱野三平と、遺骸を遺族が引き取ったため泉岳寺には
埋葬されていない間光風、そして討入りに参加した浪士の中で唯一人切腹をまぬがれた寺坂信行の墓塔は、遺骸の埋葬を伴わない供養塔である。なお寺坂以外の浪士の戒名はすべて最初の文字が「刃」となっている。

泉岳寺は曹洞宗の寺院。本山は道元禅師が開かれた福井県の永平寺と鶴見の総持寺の二本山。

創建時より七堂伽藍を完備して、諸国の僧侶二百名近くが参学する叢林として、また曹洞宗江戸三か寺ならびに三学寮の一つとして名を馳せていました。曹洞宗江戸三ケ寺とは愛宕の青松寺と板橋小豆沢の総泉寺
江戸三学寮とは吉祥寺旃檀林・青松寺獅子窟。泉岳寺はその寺風を受け継いでおり大学で仏教を学びつつ泉岳寺で修行を勤めるという若い修行僧がいらっしゃるそうだ。

平成16年4月に旧義士館を改装して講堂とし、学寮の伝統を踏まえて定期的に法筵を啓き、公開講座が開催されている。毎週土曜日(ただし、11月第5週、12月第2週は休講)午後2時~4時誰でも参加出来て予約不要というのが気楽に受講できる。しかも受講料無料。現在次が開講されている。老犬介護がなければ直ぐにでも受講したいところだ。
  講座Ⅰ     「永平広録」提唱      当山山主
  講座Ⅱ     「正法眼蔵」提唱     河村孝道先生
  講座Ⅲ     「十八史略」講義     須山長治先生
  特別講座       講義 「経典を読む」     奥野光賢先生

萬松山泉岳寺の縁起によると
「当萬松山泉岳寺は、慶長17年(1612年)、徳川家康が幼年、身を寄せた今川義元の菩提を弔うため、江戸城に近接する外桜田の地に創建し、門庵宗関和尚(1546年~1621年)を迎えて開山となしました。宗関和尚は永平寺の道元禅師によって開かれた曹洞宗の第4代瑩山禅師開創の総持寺の門派である太平山大中寺(栃木県)の十一世建室宗寅和尚(義元の実弟)の高弟であり、今川義元の孫と云われる人物で、度々登城を請われ法問を聴取されたと伝えられています。当寺の萬松山は松平の松より、「松萬代に栄ゆる」の意から、寺号泉岳寺は、徳川に因み、「源の泉、海岳に溢るる」の意からつけられたと旧梵鐘の銘に記されています。」

   門庵宗関(もんなんそうかん)豪徳寺の中興の祖でもある。

四十七士の碑

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中門
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元来、泉岳寺には三門と言って三つの門(総門・中門・山門)があったが、現在は中門と山門のみ。現在の中門は天保7年(1836年)に35世大?梅庭和尚代に再建されたもので、昭和7年に大修理を施されている。

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掲げられている扁額「萬松山」は、中国明時代の禅僧・為霖動霈による揮毫。

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大石内蔵助良雄銅像

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大石内蔵助良雄銅像は、浪曲の宗家・桃中軒雲右衛門の発願により鋳造されたもの。泉岳寺に寄進され、大正10年12月14日に除幕したもの。内蔵助が当時の風俗である元禄羽織を身につけ、連番状を手にして東の空(江戸方向)をじっとにらんでいる。

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山門
天保3年(1832年)に34世大道貞鈞和尚代に再建されたもの。二階部分には十六羅漢が安置され、

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一階部分の天井には「江戸三龍」のひとつ、銅彫大蟠龍が嵌め込まれている。

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掲げられている扁額「泉岳寺」は、晋唐の墨跡研究者であった大野約庵による揮毫。

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本堂

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空襲にあい消失。現本堂は昭和28年12月14日に落成した鎌倉様式の建築。ご本尊は釈迦如来、他に曹洞宗の宗祖である道元禅師・瑩山禅師、また大石内蔵助の守り本尊である摩利支天(秘仏)などが納められている。

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  扁額「獅子吼」は「ししく」と読み、お釈迦様の説法のこと。

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澤木興道老師像
仏法の究極である坐禅をもって生涯を貫いた20世紀にもっとも活躍した禅僧の一人。三重県津市に生まれ、1897年に永平寺に入り、1899年に出家するも、兵役に取られ、日露戦争で負傷する。退役後、旧制第五高等学校の生徒に坐禅を指導する。各地の道場を転々とし、「移動僧堂」、「宿無し興道」と称された。1935年に總持寺後堂職となり、駒澤大学特任教授も兼任して、それまで選択科目であった坐禅を必修科目とさせ、徹底した坐禅教育を行った。 「何にもならんもののためにただ坐る」という只管打坐を貫き、その一生を通じて実践して見せた。その思想指導方法はアメリカのスタンフォード大学にある曹洞禅センターにも受け継がれている。

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鐘楼堂
大正2年・41世普天霊明和尚代に作られた鐘で、朝の坐禅の時と夕方の閉門の時に撞かれている。

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江戸から明治まで使われていた梵鐘は、現在ウィーンの国立民族博物館が所蔵。

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講堂
講堂(2階は義士木像館)は赤穂義士記念館ができるまでは、義士館として使用。
関東大震災後の大正14年(1925年)に建てられたものを平成16年に改装。

現在一階は講堂として使用しており、毎週土曜日に学寮講座開講中。
2階は義士木像館として赤穂義士記念館と併せて公開されている。

講堂の左前にある主税梅
大石主税が切腹した松平隠岐守三田屋敷に植えられていた梅。

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瑤池梅
義士の墓守をした堀部妙海法尼が瑤泉院から賜った鉢植えの梅を移植したもの。

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血染めの石
浅野内匠頭が田村右京大夫邸の庭先で切腹した際に、その血がかかったと伝えられている石。その左に血染めの梅もある。

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首洗い井戸
義士が本懐成就後、吉良上野介の首級をこの井戸水で洗い、主君の墓前に供え報告したところから「首洗い井戸」と呼ばれています。

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水琴窟(すいきんくつ) 一般には手水鉢の下の地中に甕などを埋め込んで手水後の排水に音を発声させるものだが、最近はこの様に地上で鳴らせる小規模のを見掛けるようになった。9月30日に訪ねた向島百花園にも地上タイプあった。地下タイプは装置が見えないのに音が幻想的で不思議な気持ちがしたものだ。

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墓所入口

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義士墓入口の門
この門は浅野家の鉄砲州上屋敷(現・聖路加病院)の裏門で、明治時代に移築したもの。

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赤穂義士墓地
赤穂義士は元禄16年(1703年)2月4日に切腹した後、直ちにこの地に埋葬された。
浅野内匠頭墓 夫人の墓は手前にある。
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間新六の遺体は遺族により引き取られている。また寺坂吉右衛門は本懐成就後、瑤泉院など関係者に討ち入りを報告して廻り、のちに江戸に戻って自首したが赦され、麻布・曹渓寺で83歳の天寿を全うした。現在も曹渓寺に眠っている。泉岳寺にある間新六の供養簿は他の義士の墓と一緒に建立されたが、寺坂の墓は慶応4年(明治元年・1868年)6月に供養のために建てられたもの。また、いわゆる四十七士の他に、本人は討ち入りを熱望したものの周囲の反対に遭い討ち入り前に切腹した萱野三平の供養墓がある。

中門の前から本堂まで一緒に行動していた欧州系外国人4名グループと御朱印依頼で別れていたが、なんと墓所でも熱心に見学して、写真や日本人参拝者がお線香をあげて回っている様子をビデオ撮影までしている。47Roninの海外宣伝スタッフだったかも知れない。

大石内蔵助の墓
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大石主税の墓 左が主税の墓で右の大きいのは十三回忌碑。

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赤穂義士記念館

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討ち入り300年に当たり次の時代引き継ぐべく、新たに建てられた義士に関する資料館。中には義士の貴重な遺品などが、忠臣蔵についてのビデオも上映している。内容は松之廊下3分、泉岳寺と赤穂義士5分、いざ討ち入り7分、義士祭6分計21分間。

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外国人4名のグループの他米国からのカップルも入館していて太郎の視聴後に英語バージョンの映像に切り替えてもらい熱心に視聴していた。

入館して最初に目につくのが陣笠。浅野家の家紋があり鉄板14枚で造られている。4メートル四方もあるの「釈迦八相祗園精舎曼荼羅」で絵のほとんどが細字による経文を敷きつめることによって構成されているというので驚いた。

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奥には「大石父子の像」や「義士遺像」は10名分しか展示されていなかった。討ち入りの趣旨を述べて吉良邸門前にも掲げられた「口上書」、「陣太鼓」、「義士連名書状」は六代目尾上菊五郎寄贈とあり興味をもたされた。

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義士木像館には江戸時代終わりから明治二年までに制作された四十七義士の木像が展示されている。拝観料(赤穂義士記念館と義士木像館は共通券)大人 500円

墓所お参り後受処にてお願いしていた御朱印を拝受した。
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先週は陣馬山から高尾山縦走を計画していたが、右股関節痛で断念した。
本日も不安であったが、冬隣の曇天の中ゆっくり歩くように心がけて予定をこなせた。

 

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