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2013年11月20日 (水)

徳川家菩提寺東叡山寛永寺

 天台宗徳川家菩提寺東叡山寛永寺 with 興福寺仏頭展

寛永寺(かんえいじ)は上野公園にある天台宗関東総本山の寺院。
東叡山寛永寺円頓院は開基徳川家光、開山は天海僧正、ご本尊は薬師如来である。

上野のお山は美術館、博物館や子供連れでの動物園とお花見で来ていたが
その帰り途上で大仏、東照宮、清水観音堂などちょっと立ち寄る程度で、寛永寺を主目的と
して来るのは初めてである。JR上野駅公園口を出て右へ時計と反対回りで散策する。

寛永寺は徳川将軍家の祈祷所・菩提寺と言われている。徳川歴代将軍15人のうち6人
当寛永寺に眠っておられる。天海、公海の後3世貫主守澄法親王以降皇族が歴代
貫主を務める門跡寺院で、天台宗の本山として近世には強大な権勢を誇っていた。
しかし慶応4年(1868)の上野戦争で主要伽藍を焼失してしまった。

①寛永寺旧本坊表門
切妻造り本瓦葺、潜門付きの薬医門である。通称・黒門と呼ばれている。
現在の東京国立博物館の敷地はもと寛永寺本坊であり、その正面にあった門である。
関東大震災の後、博物館改築に伴い現在地に移築された。門扉には上野戦争
の際の弾痕があるそうだが、輪王殿(斎場)で葬儀中で確認できなかった。

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横から見ると門跡寺院ということで菊の紋章がある。

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輪王寺 (開山堂または慈眼堂) 

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本尊は阿弥陀如来。写真の通り開山堂とも呼ばれ「両大師」で知られる。 
天海慈眼大師)と良源慈恵大師元三大師)をお祀りしていることに由来。
元々寛永寺の伽藍の一部で、開山堂、慈眼堂とも称されていた。
境内西側に本堂、東側が斎場輪王殿である。

 サイト内リンク⇒天台宗別格本山浮岳山深大寺

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本堂前の鐘楼に懸かる梵鐘は慶安4年(1651年)の製作。本堂前の
参道左右の銅燈籠はもと上野の大猷院(徳川家光)霊廟に奉納されたもの。

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阿弥陀堂

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堂宇内仏像三尊

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寛永寺貫主は「輪王寺宮」と尊称され、水戸・尾張・紀州の徳川御三家と並ぶ
格式と絶大な宗教的権威をもっていた。歴代輪王寺宮は、一部例外もあるが、
原則として天台座主を兼務し、東叡山・日光山・比叡山の三山を管掌する
ことから「三山管領宮」とも呼ばれた。東国に皇族を常駐させることで、
西国で天皇家を戴いて倒幕勢力が決起した際には、関東では輪王寺宮を
「天皇」として擁立し、気学における四神相応の土地相とし、徳川家を
一方的な「朝敵」とさせない為の安全装置だったという説もある

御朱印頂戴致しました。中央は「両太子」で寺院名部分は「上野 輪王寺門跡」とある。
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③徳川家霊廟
厳有院霊廟常憲院霊廟があるがいずれも非公開。特別参拝として
事前予約制で参拝可能。厳有院霊廟門は道路から見ることができる。

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厳有院霊廟(げんゆういんれいびょう)は四代将軍徳川家綱の霊廟。
豪華な彫刻で飾られ知られていたが、東京大空襲で本殿、相之間、拝殿、前廊、
中門、左右廊、渡廊、透塀、仕切門、鐘楼などの国宝指定は焼失している。

天海大僧正の指導により天台宗の根本聖典である法華経の思想に基づいて
造営された霊廟であるが勅額門、水盤舎と宝塔だけが残っている。
10代将軍徳川家治、11代将軍徳川家斉合祀されている。

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常憲院霊廟(じょうけんいんれいびょう)は厳有院霊廟の西にある。
偶々工事中で入口の門が開いていたので入り勅額門のみ撮影させて頂いた。
五代将軍徳川綱吉の霊廟で、他に有徳院(8代将軍、徳川吉宗)、
温恭院(13代将軍、徳川家定)、天璋院(家定正室、篤姫)、
孝恭院(徳川家基)が合祀されている。

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徳川将軍家霊廟は、8代吉宗公以降は倹約のためもあり、大規模な霊廟は
建築されず、寛永寺か増上寺のいずれかの霊廟に合祀し、宝塔が建立された。         

徳川家の菩提寺は当初2代将軍秀忠の廟がある芝の増上寺だけであった。
しかし、3代将軍家光は天海に大いに帰依し、自分の葬儀は寛永寺に行わせ、
遺骸は家康の廟がある日光へ移すようにと遺言した。その後、4代家綱、5代綱吉の
廟は上野に営まれ、寛永寺は増上寺とともに徳川家の菩提寺となった。

当然、増上寺側からは反発があったが、6代将軍家宣の廟が増上寺に造営されて
以降、歴代将軍の墓所は寛永寺と増上寺に交替で造営することが慣例となっていた。

              徳川 歴代将軍の霊廟所在地を確認してみる
第一代  徳川家康(1543年 - 1616年)久能山東照宮・日光東照宮
第二代 徳川秀忠(1579年 - 1632年)増上寺 台徳院霊廟
第三代  徳川家光(1604年 - 1651年)輪王寺 大猷院霊廟
第四代  徳川家綱(1641年 - 1680年)寛永寺 厳有院霊廟
第五代 徳川綱吉(1646年 - 1709年)寛永寺 常憲院霊廟
第六代  徳川家宣(1662年 - 1712年)増上寺 文昭院霊廟
第七代  徳川家継(1709年 - 1716年)増上寺 有章院霊廟
第八代  徳川吉宗(1684年 - 1751年)寛永寺 常憲院霊廟合祀
第九代  徳川家重(1711年 - 1761年)増上寺 有章院霊廟合祀
第十代  徳川家治(1737年 - 1786年)寛永寺 厳有院霊廟合祀
第十一代 徳川家斉(1773年 - 1841年)寛永寺 厳有院霊廟合祀
第十二代 徳川家慶(1793年 - 1853年)増上寺 文昭院霊廟合祀
第十三代 徳川家定(1824年 - 1858年)寛永寺 常憲院霊廟合祀
第十四代 徳川家茂(1846年 - 1866年)増上寺 文昭院霊廟合祀
第十五代 徳川慶喜(1837年 - 1913年)谷中寛永寺墓地(神道形式)

下写真は開山堂の北地域にある子院のひとつ「林光院」
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根本中堂の西地域にある「東叡山浄名院」とあり子院らしい。

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④本堂(根本中堂) 
現在の堂は、寛永寺の子院大慈院のあった敷地に、明治12年(1879)、川越喜多院
本地堂を移築したもの。厨子内に秘仏本尊薬師三尊像を安置されている。

寛永寺は徳川家により新たに建立された寺院である。徳川家康・秀忠・家光の
3代の将軍が帰依していた天台宗の僧・天海は、江戸に天台宗の拠点となる
大寺院を造営したいと考えていた。そのことを知った秀忠は、元和8年(1622)、
現在の上野公園の地を天海に与えた。

当時この地には伊勢津藩主藤堂高虎、弘前藩主津軽信枚、越後村上藩主堀直寄
3大名の下屋敷があったが、それらを収公して寺地にあてたものである。秀忠の
隠居後、寛永2年(1625)、3代将軍徳川家光の時に今の東京国立博物館の敷地に
本坊が建立された。当時の年号をとって寺号を「寛永寺」とし、京の都の鬼門を
守る比叡山に対して、「東の比叡山」という意味で山号を「東叡山」とした。

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旧本堂(根本中堂)は現在の東京国立博物館前の噴水のところにあったが、
慶応4年(1868)彰義隊の兵火で焼失した。

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開口・奥行ともに17.4メートルあり、前面に三間の向拝と五段の木階、
背面には一間の向拝がある。周囲には勾欄付廻縁をめぐらしている。
桟唐戸(正面中央など)、蔀戸(正面左右など)、板壁など、すべて素木のままで、
屋根は入母屋造、本瓦葺、二重垂木となっている。

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本堂正面に掲げられている額は、東山天皇が自ら書いた「瑠璃殿(るりでん)」の勅額
元の根本中堂に掲げられていたものだが、上野戦争の際に、奇跡的に事前に持ち出されていたもの。

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根本中堂の内部は、もともとは、内陣が土間で、外陣と同じ高さの須弥壇が
設けられていて、須弥壇の上に本尊その他の仏像を安置されていた。内陣を
土間とする構造は中堂造と呼ばれ、天台宗独特のもので、現在は仮の床が
張られ、内外陣ともにすべて畳敷となっている。

内陣の厨子内には秘仏の本尊薬師三尊像が安置されている。
御本尊は、伝教大師最澄上人が自ら刻んだとされていて、国の重要文化財で
法要のない日曜日・祝日には公開されている。
休日出掛けることは少ないが機会があれば拝観したいものだ。

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靴を脱いで本殿に上がり御朱印をお願いした。流れるような筆致で美しい。
「瑠璃殿」を中央に配置して徳川の紋章といい"芸術作品"となっている。
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銅製灯籠
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石造水桶?徳川家が馬で参拝の折に馬に水を飲ませるためのものだろうか。

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江戸時代後期最盛期の寛永寺は寺域30万5千余坪、寺領11,790石を有し、
子院は36院に及んだ(現在は19院)。現在の上野公園のほぼ全域が寛永寺の
旧境内である。最盛期には、今の上野公園の2倍の面積の寺地を有していた。

巨大石造?解説板なく解らないまま撮影したもの。写真で見ると右の文字は「施」と読める。

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根本中堂から芸大へ向かう途中「護国院」釈迦堂
寛永寺の子院で「東叡山寛永寺護国院」といい「東叡山釈迦堂」の別名がある。
谷中七福神の1つで、大黒天を安置している。

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東京藝術大学美術館 国宝興福寺仏頭展 

白鳳の微笑み銅造仏頭」に会うのが目的。3階の展示室に入ると奥中央に展示されている。
そのパワーに圧倒されて暫く動けなくてじっと見入っている自分に気づく。同室の十二神将立像も
国宝指定で素晴らしいのであるが、半分以上を仏頭拝観で過ごした。前から後ろから左右から。
仏閣巡りをひと休み、しばし幸せな時間を過ごせた。先月参拝の深大寺銅造釈迦如来倚像
特別陳列され再会。深大寺釈迦堂で見るより広い展示場では小さく見えたがやはり素晴らしい。

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もうひとつの黒門 旧因州池田屋敷表門
もと丸の内に建てられていたが、明治25年、芝高輪台町の常宮御殿の表門として移建された。
のちに東宮御所と高松宮家に使用され、昭和29年3月、ここに移建されたものである。
重厚感と品格も備えていている。

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⑤東照宮 
寛永4年(1627)、藤堂高虎が上野の高虎の敷地内に創建した。
社伝によれば、元和2年(1616)危篤の家康から自分の魂が末永く鎮まる所を
作ってほしいと高虎と天海に遺言されたという。正式名称は東照宮であるが、
他の東照宮との区別のために鎮座地名をつけて上野東照宮と呼ばれる。

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灯籠が巨大でしかも多い。

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唐門 唐破風造り四脚門  前回拝観の折はベールに包まれていた。完成間際のようだ。

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奥に見えているのが本殿だろうか。完成して拝観できるようになるのが楽しみだ。
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慶安4年(1651年)に家康の孫である徳川家光が改築していたが2009年1月から
修復工事が行われていて透塀がまだシートで覆われている。間もなく完成らしい。

下写真透塀は社殿右横から覗いて撮影したもので、公開前に美しい彩色を拝見できた。

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全国26箇所ある東照宮の内所謂四大東照宮(久能山、日光、芝、上野)と徳川発祥の地
で当ブログの「太平記の里ひとり旅」タイトルで紹介している群馬県太田市の世良田
同「小江戸川越散策」で紹介の喜多院の隣の仙波の六ケ所に参拝している。

川越では久能、日光、仙波で三大東照宮と申しており、世良田も四大に入れて説明されていた。

拝殿左前の社務所にて御朱印を頂きました。

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⑥旧寛永寺五重塔(重要文化財)-上野動物園の敷地内。
現在所有者は東京都。塔内安置されていた釈迦如来・薬師如来・弥勒菩薩・
阿弥陀如来の四仏は、東京国立博物館に寄託。
動物園へ入場しない場合は東照宮から見る事はできる。写真は東照宮から撮影したもの。

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寛永16年(1639年)の建築で、大工棟梁甲良宗広の手による。
最上五重のみ銅板葺き、他は本瓦葺、和様で統一されている。高さ36.4m
高欄のない縁をめぐらし、中央間板唐戸、脇間連子窓、中備えは十二支の
蟇股を置く。組物は三手先、軒は二軒繁垂木。多層部の中備えは間斗束を置く。
初層の内部は心柱と四天柱があり、仏壇には四方仏を安置する。

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⑦大仏山パゴダ-時の鐘の近くにあり、昭和42年(1967年)の建立。
観光連盟が上野公園の名所のひとつとするために建設したもので、
高さ十五メートル、内部には中央に薬師如来、左側に月光菩薩、
右側に日光菩薩を安置している。この薬師三尊像は、江戸末期まで
東照宮境内にあった薬師堂の本尊で、明治初期の神仏分離令によって
寛永寺に移管、さらにパゴダの本尊として迎えられた。

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⑧上野大仏-寛永8年(1631)、越後村上藩主堀直寄の寄進で最初の大仏が造られた。
像高約6メートルの釈迦如来坐像であった。以後、地震、火災等で消滅と再興を
繰り返し、現在顔面部のみがレリーフとして保存されている。
「顔だけ」大仏に祈願-「これ以上落ちない」と受験生に人気

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⑨時の鐘-上野公園内、精養軒の近くにある鐘楼。

  「花の雲 鐘は上野か 浅草か」 松尾芭蕉

現存鐘は天明7年(1787年)の作。谷中感応寺で製造され、
正面には「東叡山大銅鐘」、裏側には「天明七丁未歳八月」とある。
時の鐘が鳴る順番として上野、市ヶ谷、赤坂田町円通寺、芝切り通しの
順番で鳴ったという。1996年6月に環境省日本の音風景100選に選定。
今でも時の鐘は一日三回午前・午後6時と正午に撞かれている

Img_4477芭蕉に詠われ有名だが、通る観光客を見ていると見上げている人は残念ながら少ない。

⑩弁天堂  
上野公園南側にある不忍池の中之島に天海が琵琶湖の竹生島の宝厳寺の弁才天を
勧請して建立されたが、東京大空襲で焼失し、昭和33年(1958)に鉄筋コンクリート造の
八角堂として再建された。

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御朱印頂きました。 ワイルド系御坊様にワイルドな御朱印です。

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御本尊である弁才天像は慈覚大師 円仁の作。年に一度『巳成金大祭』で御開帳
八本の腕に剣や弓などを握った完全武装『八臂弁財天』。

境内に大黒堂も居らっしゃる。

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⑪清水観音堂(重要文化財)
弁天島方向から撮影。

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千手観音を祀る。寛永8年(1631)の建築。規模は小さいとはいえ、京都の
清水寺本堂と同様の懸造建築である。舞台づくりにし、不忍池の景色を
眺められるように造られている。江戸三十三箇所観音霊場の第6番札所。

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独特の枝ぶりが特徴の月の松。江戸時代から庶民に親しまれており、
江戸の名所を描いた歌川広重の「名所江戸百景」には「上野山内月のまつ」
「上野清水堂不忍ノ池」に描かれている。明治時代台風で焼失していたが、
昨年2012年12月150年ぶりに復活したもので名勝復活を期待されている。

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舞台から見た月の松

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正面入口はこちらでいいのか
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清水の舞台

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寛永寺関連で5つ目の御朱印。大仏のもここで頂けるらしいが千手観音のみお願いした。

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毎年9月25日の「人形供養」では使用済の人形を焼いて供養する行事がある。

境内の「人形塚」。

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彰義隊戦死の墓

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天海僧正毛髪塔

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教育委員会が設置した解説板

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毛髪塔

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丸数字は参拝見学予定だった箇所。芸大美術館興福寺仏頭展は進捗状況と体調を見て
場合によっては後日改めてと思っていたが、予想外にスムーズに回れてよかった。

総歩距離は定かではないが、かなりな距離歩いたと思われる。右脹脛が
悲鳴を上げている。ルートの内芸大美術館までは参拝者も少なくいずれも
閑散としたものであった。

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