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2014年1月

2014年1月29日 (水)

江戸総鎮守神田明神

神田祭でお馴染み江戸総鎮守神田明神 

通過したり屡々乗り換えに利用するが下車するのは久しぶりのお茶の水駅からスタート。
聖橋を渡り湯島聖堂の北向かいに鎮座まします「神田明神」へ向かう。
現役時に同僚と参拝して以来十有余年ぶり。その時はお参りしたら直ぐ帰ってしまったが、
今回は時間もあるので境内および周辺をじっくり回る予定。

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鳥居 柱の根本の波意匠が珍しい。

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鳥居の扁額
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随神門
神田神社の大鳥居をくぐると、正面に大きく彩色鮮やかなる門。

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朱塗りの門は総檜の入母屋造りで、四神(朱雀、白虎、青龍、玄武)などのモチーフ彫刻が
装飾されている。中央には御祭神大国主之命の神話が描かれているとのことだ。

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朱雀
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玄武
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中国古代の天文学上、北極星を中心として、東は青龍西は白虎南は朱雀北は玄武
さだめ、それぞれの星を禽獣の名をもって表されている。わが国では大宝元年(701)
朝儀の儀仗に四神の矛が飾られ、それ以来、魔除けの神として崇められ
また、これらを五色に配当され、東を青、西を白、南を赤、北を黒中央を黄とされいる。
大相撲の土俵の方位も色房を垂らして示している。

随神門の扁額 鳥居と同じみたいだ。拝殿も同じかも。

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燈明
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随神門右の脇門

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随神門を入り右手には神楽殿と祭務所。シヤッターで閉まり神田祭の錦絵で飾られている。
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神田祭の神社だけに二階建ての立派な「祭務所」だ。
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手水舎
随神門を潜り左手にある。龍の口から湧き出る水を柄杓に受け両手と口を浄めて、
柄も洗って柄杓を戻していたら、後から来た着飾った中年婦人が無作法に騒がしく
手を洗い最後には「この水飲んでいいの」と仲間に訊いている。気になったので
お清めの作法をまとめる。礼に始まり礼で終わるが柄杓一杯のみで全てを済ます。
 ① 礼 
 ② 右手で柄杓を取り水を掬う
 ③ 左手を清める
 ④ 柄杓を左手に持ち替えて右手を清める
 ⑤ 右手に持ち替え左の手のひらに水を溜めを口に含み清める
 ⑥ 左手で口元を隠してそっと吐き出す
 ⑦ 左手をもう一度清める
 ⑧ 柄の首を右手で縦に持ち、残った水で全てで柄の部分を洗い清める。
 ⑨ 柄杓を元の位置に戻す
 ⑩ 礼

ここの水は人を感知して新鮮な水を出すという優れものだそうだ。

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正面に社殿 左は参拝受付や御札の授与の鳳凰殿
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東京都心の千代田区外神田にあり108町会の総氏神さま、「江戸総鎮守」。
祭神は
一ノ宮 大己貴命(オオナムチノミコト) (だいこく様)
二ノ宮 少彦名命(スクナヒコナノミコト) (えびす様)
三ノ宮 平将門命(タイラノマサカドノミコト) (まさかど様)
の3柱を祀る。

皇居の方向、南西に向かって鳥居が立ち、社殿も南西向き。
正式名は、神田神社であるが、神田明神が馴染み深い「明神さま」。
江戸城鬼門守護、江戸総鎮守の神社である。

准勅祭神社東京十社 配布資料「元准勅祭神社東京十社めぐり」から
「慶応三年十月将軍徳川慶喜は大政を奉還し茲に徳川幕府約三百年の終止符をうった。
直後明治天皇は同年十月、王政復古を宣し江戸を東京と改め、慶応四年九月「明治」
と改元され十月江戸城を皇居とし、新しき東京の出発が始まったのである。そのめま
ぐるしき変革の中に明治天皇は、東京の鎮護と万民の安寧を祈るために明治元年十一
月八日准勅祭神社として東京十社を定め勅使をして御幣帛を捧げ御祈願されました。
以来百有余年今や私共の東京は、全国の首都として政治、経済、文化の中心となり、
異常な発展をとげましたが、之は偏に明治天皇様の御えい慮の下天地神明の御加護に
依るものと存じます。」とある。

その十社とは
   根津神社、神田神社、亀戸天神社、白山神社、王子神社、
   芝大神宮、日枝神社、品川神社、富岡八幡宮、氷川神社

神田・日本橋・秋葉原・大手町・丸の内・旧神田市場・築。地魚市場など
108か町会の総氏神である。神田・日本橋が江戸東京の食を支える青果市場・
魚市場の発祥地であり境内に市場の守護神として江戸神社・魚河岸水神社
祀られている。

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社殿
鉄筋コンクリート造りで、本殿、幣殿、拝殿を連結させ形で国の登録文化財に指定されている。
目にも鮮やかな朱色。御朱印は社殿右側にて受け付けてもらえる。昇殿参拝5千円。

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社伝によれば、天平2年(730)武蔵国豊島郡芝崎村、現在の大手町平将門首塚に入植した
出雲系の氏族が大己貴命を祖神として祀ったのが始まりで神田ノ宮と称された。
承平5年(935)に平将門の乱を起こして敗死した将門の首が京から持ち去られ近くに葬られ、
将門の首塚は東国の平氏武将の崇敬を受けた。14世紀初頭に疫病が流行した時には、
これが将門の祟りであるとして供養が行われ、延慶2年(1309)に当社の相殿神とされた。
江戸城増築に伴い慶長8年に神田台へ、さらに元和2年に現在地へ遷座した。
神田祭は江戸三大祭りの一つである。山車は将軍上覧のために城の中に入ったので、
天下祭」と言われた。

将門神輿
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江戸初期に豪華な桃山風社殿が、天明2年(1782)には権現造の社殿が造営
されたが、大正12年(1923年)の関東大震災で焼失した。当時では珍しい鉄骨
鉄筋コンクリート構造で権現造を模して再建された。昭和20年(1945)の東京大空襲では、
本殿・拝殿などは焼失を免れた。

江戸時代には神田明神と名乗り、1872年に正式の社号が「神田神社」に改められた。
明治7年、明治天皇が行幸するにあたって、逆臣である平将門が祭神から外されたが
昭和59年(1984)になって本社祭神に復帰された。

神田明神を崇敬する者は成田山新勝寺を参拝してはいけないというタブー
平将門を祭神に祀る神田明神へ参拝してから成田山新勝寺に参拝すると、
将門の祟りによって災いを招くと伝わり、古くからタブー視されいる。
ところが事有る度に新勝寺詣でをしていて屋号も「成田屋」の市川団十郎
市川海老蔵の参拝報道写真を貼り出している。
将門を祀る築土神社にも同じような言い伝えがあるそうだ。

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明神会館
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神門をくぐり、左手には大きな大黒さまが迎えてくれる。巨大な石像である。

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少彦名命(えびす様)ご尊像
金工作家東京芸大学長宮田亮平氏の制作による。
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獅子山 社殿の前の獅子山、関東大震災で子獅子は紛失したが再建された。

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親獅子達に比べ新しく白い子供獅子
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社殿の後方から左にかけて摂社が十柱ほど祀られている。手前魚河岸水神社正面は資料館

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魚河岸水神社

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大伝馬町八雲神社小舟町八雲神社が並んでいる。

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力石 村の鎮守神社境内会所や村境にあり若者達が力試しをしたもの。重量は?
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江戸神社 大寶二年(702)創建。江戸大明神、江戸の天王とも称された。江戸城拡張時に神田神社と
共に神田台に遷り、元和二年(1616)当地に遷座された。現存する大神輿は日本有数の華麗で巨大な
神輿で通称「千貫神輿」とも称され親しまれている。神田祭に担がれる約二百基の象徴的存在。ガラス戸越しに参拝させて頂いた。
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末広稲荷神社
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神輿奉安庫
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浦安稲荷神社

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三宿稲荷神社・金刀比羅神社

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末広稲荷神社
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籠祖神社ほか合祀殿
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祖霊社
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萬世橋勾欄 祖霊舎の裏に密やかに展示されている。東京での初の石造橋梁。
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銭形平次の碑
テレビドラマでもお馴染みの野村胡堂作「銭形平次捕物控」の「銭形平次」は神田明神下の
長屋に住んでいたと設定されている。昭和45年有志作家と出版社が発起人となり建立されたもの。
右手には「八五郎」通称「がらっ八」の小さな碑も建てられている。
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国学発祥の地碑
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さざれ石
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明神男坂大公孫樹 ご神木
関東大震災で社殿はじめ神社の諸施設がことごとく炎上崩壊した中で、焼け跡に唯一残されたのが
この公孫樹である。大正昭和り災害にも遭遇しながら子孫を残しこの地に歴史を伝えているご神木。
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屋上庭園 入口

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屋上庭園

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神田の家 「井政」 江戸時代より現在の内神田で材木商を営んできた遠藤家が震災後昭和2年に建てた店舗併用住宅。材木商であるため入手可能であった貴重な銘木をふんだんに使用している。戦時下空襲をくぐり抜けた貴重な遺産である。デザインも優れているとし千代田区文化財に登録されている。

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鳥居と随神門の間には土産屋さんというより甘酒屋さんが目立つ。

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天野屋
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神田明神前の「天野屋」は、1846年の創業以来、店の地下にある天然の土室(むろ)で造る
糀(こうじ)をもとに、甘酒などを造り続けている老舗である。江戸に散在する甘酒屋に対する
人々の評判はすさまじく「富士山に肩を並べる甘酒屋」と句に詠まれるほど。 

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販売のほか店内で甘酒など頂ける。ゆっくり座って頂きたかったので左から店内に入り
甘酒を頂くことにした。先客は手前に男性ひとり真ん中に中年女性二人連れと奥に女性
ひとり。どうやら彼女は拝殿前で見掛けた女だ。参拝して御朱印を書いてもらっている
間もずっと手を合わせお祈りしていたので印象に残っていた。女性はいずれも大きな
旅行バッグを引いている。遠方からの参拝者らしい。
さて名物の甘酒は予想以上の甘さに驚かされた。しかし自然の甘みなので最後まで
美味しく頂戴し身体も温まり、店内はレトロの雰囲気で落ち着いて過ごせた。

久しぶりに明神さんにお参りできたこと嬉しく思う。鳥居、随神門、拝殿の扁額がすべて同じで
宮司大鳥居吾朗さんによる揮毫というのが再建修復の神社だからなのだろうと納得した。
また御朱印を頂いた時に資料などカラー版印刷物四種も頂いたことに加え、手水舎の
水がセンサー感知システムなど参拝者が多く財政状態の豊かさを感じられた。

2014年1月20日 (月)

芝公園 浄土宗大本山三縁山広度院増上寺

芝公園 徳川家菩提寺三縁山広度院増上寺  

隣にあるホテルには毎年来ている。増上寺は交通の便も良くいつでも来れると思っていた
神社仏閣のひとつであり、傍を通るのにお参りできていないお寺さんでした。
ホテルに来る時は都営地下鉄で「芝公園」であるが、本日はJR「浜松町」から歩くことにした。
まずは地名駅名にもなっている「大門」から。
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大門
当山の総門表門にあたり、地名の由来になっている門である。
現在のものは国道の通行整備のため、昭和十二年(1937)に原型より大きくコンクリート製に、
作り直されたもので、旧大門は慶長三年(1598)に江戸城の拡張・造営にあたり芝に移転した際、
それまで江戸城の大手門だった高麗門を、徳川家康公より寺の表門として譲られたものであった。

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大門を潜ると正面に三解脱門と東京タワーも近くに見えてくる。

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この通りの右側に何度か接待で会食したことのある有名なフレンチレストランの
クレッセント」。現役時の古き良き時代の懐かしい思い出の場所でもある。

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日比谷通りに面して巨大な門が見えてくる。

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三解脱門(三門)
増上寺の表の顔として、東京都内有数の古い建造物であり東日本最大級を誇るこの門は、
当山の中門にあたり(表門は大門)、正式名称を三解脱門という。徳川幕府の助成により、
幕府大工頭・中井正清とその配下により建立。元和八年(1622)に再建された。増上寺が江戸の
初期に大造営された当時 の面影を残す唯一の建造物で、国の重要文化財に指定されている。

三解脱門とは三つの煩悩「むさぼり、いかり、おろかさ」を解脱する門のこと。
建築様 式は三戸二階二重門、入母屋造、朱漆塗。唐様を中心とした建物に、
和様の勾欄などが加味されている。二階内部には、釈迦三尊像 と十六羅漢像が安置されている。

三門の扁額「三緑山」

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三門の屋根

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この辺り一帯は芝公園と呼ばれている。日本で最も古い公園の一つである。
明治6年の太政官布達で芝、上野、浅草、深川、飛鳥山が指定された日本初の公園。
当初は増上寺の境内を含んでいたが、政教分離で除外されたので、現状は増上寺を
取り囲む環状公園
となっている。クスノキ、ケヤキ、イチョウなどの巨木がある。
その中で強力な「気」を感じる木もある。

上野公園内に点在している寛永寺に対し、増上寺はまとまっている。
今日は増上寺参拝し、時間と体調を見ながら、芝公園内を散策することとする。

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増上寺は浄土宗大本山でご本尊は 阿弥陀如来
空海の弟子・宗叡が武蔵国貝塚(紀尾井町あたり)に建立した光明寺が増上寺の前身だという。
その後、室町時代の明徳4年(1393)、酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)の時、真言宗から浄土宗に
改宗した。この聖聡が、実質上の開基と言われている。

浄土宗の七大本山の一つ。正式の呼称は三縁山広度院増上寺
酉誉聖聡上人によって、浄土宗正統根本念仏道場として創建され、
文明2年(1470)には勅願所に任ぜられ浄土宗教学の殿堂になっていた。

水盤舎 三解脱門を潜り左手にあり、まずは手と口を浄める。
清揚院殿(徳川家三代将軍家光公)霊廟にあったが明治時代の解体・昭和の空襲を逃れて
ここに移築されたものと左手に立てられた解説板にある。

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江戸時代の初め源誉存応(げんよぞんのう)上人が徳川家康公の帰依を受け、
大伽藍が造営された。以後徳川将軍家の菩提寺として、また関東十八檀林の
筆頭として興隆した。さらに、江戸時代総録所として浄土宗の統制機関ともなった。

戦災によって徳川将軍家霊廟は焼失し、焼失をのがれた三門・経蔵・黒門などを
含む境内は、昭和四十九年(1974)完成の大本堂とともに、近代的に整備されている。

家康公は元和二年(1616)増上寺にて葬儀を行うようにとの遺言を残し、75歳で歿した。

法然上人歌碑 左右にあるが左側のが下写真

   池の水 ひとのこころに 似たりけり にごりすむこと さだめなければ

変わりやすい人の心を池の水にたとえて歌に示されたもの。

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法然上人歌碑 右側のは
 月かげの  いたらぬ里は  なけれども  ながむる人の  こころにぞすむ
観無量寿経に説く
「光明は遍く十方世界を照して念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」
の意を法然上人がお歌に示されたものであり浄土宗の宗歌になっている。

境内には焼失をまぬがれた三解脱門や黒門など古くからの建造物をはじめ、大殿、安国殿、
圓光大師堂、光摂殿、鐘楼、経蔵、慈雲閣等の堂宇が、一万六千坪の境内に立ち並んでいる。

大殿
昭和四十九年(1974)、浄土宗大本山の念仏の根本道場として、再建された。
中央にご本尊阿弥陀如来(室町期製作)両脇壇に高祖善導大師宗祖法然上人
御像が祀られている。

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大殿扁額

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大殿内部 丁度僧侶による読経お務めが終わったところだったので撮影させて頂いた。

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太鼓と鉦が左右両端にある。 此方は法然上人坐像の左にある。

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朝出かける時からお腹の調子が良くなかったが大殿地階にトイレがあり助かった。

安国殿
恵心僧都の作と伝えられる秘仏黒本尊(阿弥陀如来)が祀られている。
黒本尊は家康公が深く尊崇し、そのご加護により度重なる災難を除け、戦の勝利を得た
という霊験あらたかな阿弥陀如来像で、勝運・厄除けの仏様として江戸時代以来、
広く人々の信仰を集めている。

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勝運を招く黒本尊            
恵心僧都(えしんそうず)源信の作とも伝えられるこの阿弥陀如来像を家康公は
深く尊崇し、陣中にも奉持して戦の勝利を祈願しました。その歿後増上寺に奉納され、
勝運、災難よけの霊験あらたかな仏として、江戸以来広く庶民の尊崇を集めています。
黒本尊の名は、永い年月の間の香煙で黒ずんでいること、また、人々の悪事災難を
一身に受けとめて御躰が黒くなったことなどによります。やはり家康公の命名。

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安国殿右手でお守りやグッズの販売をしている。そこで御朱印も頂ける。皐月堂のお経を
買い求め、その後御朱印帳に書いて頂いたのであるが、いずれもお釣りは頂けなかった。
小銭で丁度の額を用意するか、お釣りが欲しい場合はその旨告げる必要があるようだ。

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水子供養

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徳川将軍家墓所は安国殿の裏にあり、安国殿の右に案内が出ている。寛永寺と同様事前予約で
特別拝観できる。この門は旧国宝で「鋳抜門」とよばれ、もと文昭院殿霊廟(六代将軍 徳川家宣公)
の宝塔前『中門』であったもの。青銅製の扉に五個づつの葵紋と両脇には昇り龍・下り龍が
鋳抜かれている。

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二代秀忠公以降、六代、七代、九代、十二代、十四代の六人の将軍が眠っている。寛永寺の六人と
同数である。整理すると一代家康は久能山と日光に二代秀忠は増上寺、三代家光は輪王寺、
四代家綱と五代綱吉は寛永寺となり増上寺から反発があったとか、六代家宣と七代家継が増上寺
廟を設けた後は歴代将軍の墓所は寛永寺と増上寺が交替で造営することが慣例化された。
つまり八代吉宗は寛永寺に、九代家重は増上寺十代家治は寛永寺十一代家斉は寛永寺
十二代家慶は増上寺十三代家定は寛永寺十四代家茂は増上寺で十五代慶喜は谷中寛永寺
霊園に神道形式で埋葬されている。当ブログ2013年12月20日「徳川家菩提寺東叡山寛永寺」も参照

墓所には各公の正室と側室の墓もあり、悲劇の皇女として知られる静寛院和宮さまも含まれている。

普賢・地蔵・虚空蔵・文殊四菩薩像  静嘉二年(1258)の作と言われている。

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慈雲閣
平成元年(1989年)四月には開山酉誉上人五五〇年遠忌を記念して、開山堂(慈雲閣)を再建
経蔵 慈雲閣の奥右隣り
徳川幕府の助成により建立された経蔵は内部中央に八角形の輪蔵を配する、
八間四面、土蔵造りの典型的な経蔵で、都の有形文化財に指定されている。
中に収蔵されていた宋版、元版、高麗版の各大蔵経は、家康公が増上寺に寄進
したもので、国の重要文化財に指定されている。

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光摂殿(こうしょうでん)は平成十二年(2000)「心を洗い、生きる力を育てる」
ための講堂道場として完成した。一階に講堂、三階に大広間を備え、その大広間の
格天井には、日本画壇の画伯により精魂込めて描かれた草花図が奉納されて
嵌め込まれているそうで、本日も楽しみにしていたが残念ながら拝観できなかった。

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光摂殿扁額

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黒門
御成門交差点付近の芝公園・みなと図書館・御成門小学校一帯にあった増上寺方丈の
表門であった旧方丈門。三代将軍家光公の寄進・建立とされ、慶安年間(1648~1652)の
建立とされている。明治時代に増上寺方丈に北海道開拓使の仮学校や海軍施設が置かれ、
その後芝公園となったおり、鐘楼堂脇に移築したものを、昭和五十五年(1980)に
当山通用門として日比谷通り沿いに移築された。入り左に慈雲閣、経蔵がある。

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土木建築殉職者慰霊塔 黒門を入り右手。上黒門写真の右手に見えている。

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増上寺会館

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鐘楼堂 
最初の鐘楼堂は寛永十年(1633)に建立されましたが、現在の鐘楼堂自体は
戦後の再建によるもの。梵鐘は、家綱公の意向で奥方の簪まで寄与されて
延宝元年(1673)にあまりの大きさに七回の鋳造を経て完成し、江戸三大名鐘の一つ
と言われている。東日本で最大。
江戸時代の川柳には「今鳴るは芝(増上寺)か上野(寛永寺)か浅草(浅草寺)か
「江戸七分ほどは聞こえる芝の鐘」「西国の果てまで響く芝の鐘」等と謳われている。 

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旧台徳院霊廟(たいとくいんれいびょう)門 左に見えるのが「ザ・プリンスパークタワー東京」

江戸幕府二代将軍徳川秀忠の霊廟の惣門。入母屋造八脚門。
芝公園内、ザ・プリンスパークタワー東京の入口に建つ。
建立当初は現在地より西寄りにあり、1959年に45メートル東方へ曳家された。
全体を朱塗とし、装飾的要素のない簡素な門である。

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門内に安置する木造金剛力士(仁王)像はもと埼玉県川口市の西福寺にあったも

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芝東照宮 旧台徳院霊廟門から芝公園の芝の広場を隔てて西側にある。

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参道
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紅梅白梅がもう咲いている
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白梅

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拝殿左社務所にて御朱印をお願いしようと声を掛けたが応答無く果たせなかった。

 

2014年1月10日 (金)

横浜鶴見 曹洞宗大本山諸嶽山總持寺

曹洞宗大本山總持寺

永平寺はお参りしたことがあるが、總持寺は機会がなく残念に思っていた。体調戻り50日ぶり
の活動は神社仏閣史跡めぐりとして總持寺への初詣と決めた。南武線川崎駅で京浜東北線で
ひと駅「鶴見駅」からスタート。石原裕次郎の菩提寺としてもメディアに取り上げられている。

鶴見駅西口から南へ歩く。右手に總持寺系列の鶴見大学歯学部附属病院があり
その奥が目的の場所のはずだ。暫く進むと「大本山總持寺」の案内や「節分
豆まき」の幟旗も見えきた。駐車場の案内もあり参道の左側に平行して車道もある。

参道 広々として両側の樹木が清浄な気を発しているように思える。
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能登国櫛比庄(現在の石川県輪島市)の真言律宗の教院「諸嶽観音堂」が、
「總持寺」の前身である。能登の「総持寺」は、明治44年(1911年)の
寺基移転にともない「總持寺祖院」と改称されている。
元亨元年(1321) 曹洞宗4世の瑩山紹瑾は、「諸嶽観音堂」への入院を住職の
定賢から請われる。また同年に定賢より「諸嶽観音堂」を寄進され、
寺号を「總持寺」、山号は「諸嶽観音堂」にちなみ「諸嶽山」と改名された。

元亨2年 後醍醐天皇より「曹洞賜紫出世第一の道場」の綸旨を受けて官寺、大本山となり、
曹洞宗を公称する。住職を5つの塔頭(普蔵院、妙高庵、洞川庵、伝法庵、如意庵)からの
輪番制となる。1615年(元和元年)、徳川幕府より法度が出され、永平寺と並んで大本山となる。

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敷地面積は約50万㎡あり、境内には仏殿、大祖堂をはじめ多くの堂宇があり、
鶴見大学などの学校施設もある。本尊釈迦如来像を安置する仏殿よりも、
道元、瑩山紹瑾など歴代の祖師を祀る大祖堂の方が規模が大きい。

總持寺は、1911年に石川県から神奈川県に移転してきた寺院であるため、
堂宇の大部分は近代の建立であるが、他所から總持寺へ移築された建物の
うちには、近世末期のものも若干ある。大祖堂、三門などは太平洋戦争後に
建立された鉄筋コンクリート造であるが、仏殿をはじめとする主要建物の
多くは20世紀前半(大正時代~昭和時代前期)の本格的な木造建築である。
2005年に仏殿など16件の建造物が登録有形文化財に登録されている。

三松関
總持寺の総門。禅宗寺院の第一門としては珍しく、特異な高麗門の様式
棟つづきの右奥に「新到安下所」がある。修行僧が最初に宿泊する建物。

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扁額「三樹松関」
「さんじゅしょうかん」と書かれた扁額。總持寺中興の祖石川素童禅師(1841~1924)が揮毫。
龍の形をした三本の松樹が總持寺の祖院である能登にあったことに由来。

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裏から見た屋根部分。高麗門様式がよく解る。
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総門の左側に祀られている「延命地蔵尊
このお地蔵さんは、悲恋の物語を秘めているとの伝承があるそうだ。
能登の祖院では「三味線地蔵」と呼ばれている。

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三門
総門をくぐり、最初に見える巨大伽藍。木原崇雲氏が妻の菩提のために寄進され、
昭和四十四年に落成した。鉄筋コンクリート造りとして日本一の大きさ

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掲げられている扁額
「諸嶽山」は独住19世・岩本勝俊禅師の揮毫。

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仁王像
左右に金剛力士(仁王)像
元横綱・北の湖関15歳の姿をモデルにしたと伝えられている阿吽の仁王像として有名。

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金網が張ってありその目が他寺院のより細かいらしく撮影に苦労した。

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楼上には観音・地藏の放光菩薩像と、十六羅漢像および四天王像が祀られている。


三門を潜って振り返る。

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三松閣
三門に向かって右側に巨大堂宇。切妻造り鉄筋コンクリート、地上四階、地下二階、
宿泊施設もあり、一階右手にはお土産屋さんもある。

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向唐門
後醍醐天皇から「日域無双の禅苑たるにより、曹洞出世の道場に補任す」と
の綸旨を賜り、以後歴代天皇より勅願寺として仰がれましたので、
勅使門」の名を残しておりました。禅師の入山式や、正月・節分会・
11月5日の移転記念日の時だけに一般に開扉されている。

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裏から見ると

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香積台
香積とは、香気が充満している世界のことで、『維摩経香積品』が説くところによりますと、そこに住む如来の名でもあるとされており、転じて、禅門では食事を調理するところの庫院(くいん)、庫裡(くり)を意味します。「庫」は、物を貯える蔵のこと。

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正面玄関には、独住第三世・西有穆山禅師が揮毫された「香積台」の扁額が掲げられています。

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中央廊下のつき当たりに、日本最大といわれる木彫の大黒尊天が奉安されている。

右手に総受付があります。拝観・墓地・法要・参拝等の受付を行います。
総受付右側一番手前で御朱印受付。若い僧侶が一字一字丁寧に目の前で書いてくれた御朱印です。
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十句観音経 御朱印と一緒に香積臺にて頂いたもの。

 

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香積臺には売店もあり、奥には日本一の大黒様 大黒天像を奉祀されている。

金鶏門 
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渡り廊下
金鶏門から左の中雀門方向。その先は玉兎門を経て衆寮から放光堂へ繋がっている。

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反対方向は香積臺から徳川家旧書院を移築したという總持寺の迎賓館である待鳳館が渡り廊下で繋がっている。

紫雲臺
總持寺の住持・禅師の表方丈の間。宗門の僧侶、全国の檀信徒と親しく相見する大書院です。紫雲臺とは、禅師の尊称にもなっています。

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正面玄関の「紫雲臺」扁額は、独住第3世西有穆山禅師による揮毫。

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大祖堂
開山堂と法堂を兼ねた本堂客殿。千畳敷の内中外陣と、982坪の地下室を有し、
瓦葺形の銅版屋根は53トンに及ぶ。諸種法要修行の場となっている。

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高祖大師・太祖大師・二祖国師・五院開基の尊像及び独住禅師のご真牌が奉安されている。
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太祖瑩山禅師と高祖道元禅師、二祖・峨山禅師をはじめとして、歴代の諸禅師の頂相を安置し、あわせて諸尊牌をも奉祀する靈場。

明治41年(1908)、能登から現在の横浜鶴見が丘に御移東の官許を得て、
昭和40年(1965)3月、二祖・峨山禅師の600回大遠忌を記念して、
ようやく竣工・落慶したもの。

普蔵院・太源宗真をはじめとする妙高庵・通幻寂霊、洞川庵・無端祖環、
伝法庵・大徹宗令、如意庵・実峰良秀各禅師の尊像を配し、
向かって左側には輪住、独住の諸禅師の尊牌を祀られている。
七堂伽藍の中枢となっている。

タタミ千畳敷きの広さのなかで、朝夕の勤行、檀信徒の法要が行われる。
お参りした時も朝のお勤め中で大勢の僧侶がお経を唱えておられた。
幼児連れの若いお母さんの一団が合掌していて微笑ましい。

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御霊殿
大祖堂の右側。昭和12年(1937)後醍醐天皇の600年御遠忌を記念して建立。
後醍醐天皇は、太祖・瑩山禅師の高い徳風の評判をお聞きになり、
信仰上の10か条にのぼる疑問を提示され、それに禅師は見事にお応えになり、
元亨元年(1321)「曹洞出世の道場」の綸旨を下賜され、總持寺は官寺に昇格しました。
御霊殿には、後醍醐天皇の尊像、尊儀をはじめ、後村上天皇、後奈良天皇、後陽成天皇、明治天皇、大正天皇、昭和天皇の各ご尊儀が奉安されています。塀で囲われており撮影は断念した。

仏殿
七堂伽藍の中心部に配置されている殿堂で、「大雄宝殿」とも呼ばれる。
中央の須弥壇上に禅宗の本尊である釈迦牟尼如来が祀つられている。

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ご本尊の脇侍として右は比丘相の迦葉尊者、左には若年美顔相の阿難尊者
この両尊者は、お釈迦様の「十大弟子」の二人でもあります。

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仏殿扁額
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仏殿内部正面には、久邇宮邦彦殿下御筆による、 扁額「鎮護國家」が
掲げられているそうだが、確認できなかった。

放光堂
明治44年(1911)11月5日、總持寺が能登から移転されて、最初に法要が
厳修された記念すべき建物です。この堂宇は安政年間に山形・鶴岡の
総穏寺本堂として建立されましたが、總持寺移転に際して特別に献納された由。
当時は、大祖堂として中心的な役割を果たしていたが、現在では全国檀信徒の
永代供養のご位牌を祀り、日夜回向しているそうだ。

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鐘鼓楼
鐘鼓楼は放光堂から衆寮に通じる回廊の中にあり、禅門の行・住・坐・臥、日常生活の合図は、
すべて言葉ではなく梵鐘、木版、雲版、太鼓などの打楽器群の合奏によって、全山に報知される。
傍を通った折に大音量の太鼓が打たれ少々驚かされた。下写真は放光堂と廻廊でその左にある。

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衆寮
当初は僧堂でしたが、現在は坐禅堂として一般参禅者に開放されています。
中央に准胝観音像が祀られています。

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扁額「古教照心」は、文字どおり祖録等の看読所(学問所)をさしており、お祖師様方の教えの光によって心を照らせ、心をみがけ、という意味です。本山中興の祖・石川素童禅師の揮毫。

大僧堂
七堂伽藍の重要な堂宇である。大僧堂は、雲水僧が集まり来るという意味で「雲堂」、
また仏祖を選出する道場の意から「選佛場」、あるいは古木然として兀坐を行じているので
古木堂」とも呼ばれる。

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堂の中央に僧形文殊菩薩像を安置して、衆僧がこれを囲んで、
周囲に単(坐状)を設け、 行住坐臥、日夜弁道をする道場です。
朝の坐禅から開枕(就寝)まで、禅林の生活は大僧堂を中心に展開されています。
堂内は内堂86名、外堂30名の二つに区別され、あわせて計116名が坐禅できる。

正面玄関の「選佛場」扁額は、独住第3世西有穆山禅師の書。

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雲水群像 矢崎虎夫作、1973年仏パリ市バンセンヌ公園

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寶物殿
金色に輝く擬宝珠を頂いた建物で、開祖瑩山禅師650回大遠忌の記念に建立されました。
本山秘蔵物を一堂に集め、随時一般に公開。残念ながら本日は「休館」の札が入口に掛かっている。

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家の宗派の大本山をお参りできてホッとしている。自分にとって初詣の場所が總持寺となり良かった。

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