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2014年1月20日 (月)

芝公園 浄土宗大本山三縁山広度院増上寺

芝公園 徳川家菩提寺三縁山広度院増上寺  

隣にあるホテルには毎年来ている。増上寺は交通の便も良くいつでも来れると思っていた
神社仏閣のひとつであり、傍を通るのにお参りできていないお寺さんでした。
ホテルに来る時は都営地下鉄で「芝公園」であるが、本日はJR「浜松町」から歩くことにした。
まずは地名駅名にもなっている「大門」から。
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大門
当山の総門表門にあたり、地名の由来になっている門である。
現在のものは国道の通行整備のため、昭和十二年(1937)に原型より大きくコンクリート製に、
作り直されたもので、旧大門は慶長三年(1598)に江戸城の拡張・造営にあたり芝に移転した際、
それまで江戸城の大手門だった高麗門を、徳川家康公より寺の表門として譲られたものであった。

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大門を潜ると正面に三解脱門と東京タワーも近くに見えてくる。

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この通りの右側に何度か接待で会食したことのある有名なフレンチレストランの
クレッセント」。現役時の古き良き時代の懐かしい思い出の場所でもある。

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日比谷通りに面して巨大な門が見えてくる。

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三解脱門(三門)
増上寺の表の顔として、東京都内有数の古い建造物であり東日本最大級を誇るこの門は、
当山の中門にあたり(表門は大門)、正式名称を三解脱門という。徳川幕府の助成により、
幕府大工頭・中井正清とその配下により建立。元和八年(1622)に再建された。増上寺が江戸の
初期に大造営された当時 の面影を残す唯一の建造物で、国の重要文化財に指定されている。

三解脱門とは三つの煩悩「むさぼり、いかり、おろかさ」を解脱する門のこと。
建築様 式は三戸二階二重門、入母屋造、朱漆塗。唐様を中心とした建物に、
和様の勾欄などが加味されている。二階内部には、釈迦三尊像 と十六羅漢像が安置されている。

三門の扁額「三緑山」

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三門の屋根

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この辺り一帯は芝公園と呼ばれている。日本で最も古い公園の一つである。
明治6年の太政官布達で芝、上野、浅草、深川、飛鳥山が指定された日本初の公園。
当初は増上寺の境内を含んでいたが、政教分離で除外されたので、現状は増上寺を
取り囲む環状公園
となっている。クスノキ、ケヤキ、イチョウなどの巨木がある。
その中で強力な「気」を感じる木もある。

上野公園内に点在している寛永寺に対し、増上寺はまとまっている。
今日は増上寺参拝し、時間と体調を見ながら、芝公園内を散策することとする。

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増上寺は浄土宗大本山でご本尊は 阿弥陀如来
空海の弟子・宗叡が武蔵国貝塚(紀尾井町あたり)に建立した光明寺が増上寺の前身だという。
その後、室町時代の明徳4年(1393)、酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)の時、真言宗から浄土宗に
改宗した。この聖聡が、実質上の開基と言われている。

浄土宗の七大本山の一つ。正式の呼称は三縁山広度院増上寺
酉誉聖聡上人によって、浄土宗正統根本念仏道場として創建され、
文明2年(1470)には勅願所に任ぜられ浄土宗教学の殿堂になっていた。

水盤舎 三解脱門を潜り左手にあり、まずは手と口を浄める。
清揚院殿(徳川家三代将軍家光公)霊廟にあったが明治時代の解体・昭和の空襲を逃れて
ここに移築されたものと左手に立てられた解説板にある。

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江戸時代の初め源誉存応(げんよぞんのう)上人が徳川家康公の帰依を受け、
大伽藍が造営された。以後徳川将軍家の菩提寺として、また関東十八檀林の
筆頭として興隆した。さらに、江戸時代総録所として浄土宗の統制機関ともなった。

戦災によって徳川将軍家霊廟は焼失し、焼失をのがれた三門・経蔵・黒門などを
含む境内は、昭和四十九年(1974)完成の大本堂とともに、近代的に整備されている。

家康公は元和二年(1616)増上寺にて葬儀を行うようにとの遺言を残し、75歳で歿した。

法然上人歌碑 左右にあるが左側のが下写真

   池の水 ひとのこころに 似たりけり にごりすむこと さだめなければ

変わりやすい人の心を池の水にたとえて歌に示されたもの。

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法然上人歌碑 右側のは
 月かげの  いたらぬ里は  なけれども  ながむる人の  こころにぞすむ
観無量寿経に説く
「光明は遍く十方世界を照して念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」
の意を法然上人がお歌に示されたものであり浄土宗の宗歌になっている。

境内には焼失をまぬがれた三解脱門や黒門など古くからの建造物をはじめ、大殿、安国殿、
圓光大師堂、光摂殿、鐘楼、経蔵、慈雲閣等の堂宇が、一万六千坪の境内に立ち並んでいる。

大殿
昭和四十九年(1974)、浄土宗大本山の念仏の根本道場として、再建された。
中央にご本尊阿弥陀如来(室町期製作)両脇壇に高祖善導大師宗祖法然上人
御像が祀られている。

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大殿扁額

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大殿内部 丁度僧侶による読経お務めが終わったところだったので撮影させて頂いた。

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太鼓と鉦が左右両端にある。 此方は法然上人坐像の左にある。

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朝出かける時からお腹の調子が良くなかったが大殿地階にトイレがあり助かった。

安国殿
恵心僧都の作と伝えられる秘仏黒本尊(阿弥陀如来)が祀られている。
黒本尊は家康公が深く尊崇し、そのご加護により度重なる災難を除け、戦の勝利を得た
という霊験あらたかな阿弥陀如来像で、勝運・厄除けの仏様として江戸時代以来、
広く人々の信仰を集めている。

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勝運を招く黒本尊            
恵心僧都(えしんそうず)源信の作とも伝えられるこの阿弥陀如来像を家康公は
深く尊崇し、陣中にも奉持して戦の勝利を祈願しました。その歿後増上寺に奉納され、
勝運、災難よけの霊験あらたかな仏として、江戸以来広く庶民の尊崇を集めています。
黒本尊の名は、永い年月の間の香煙で黒ずんでいること、また、人々の悪事災難を
一身に受けとめて御躰が黒くなったことなどによります。やはり家康公の命名。

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安国殿右手でお守りやグッズの販売をしている。そこで御朱印も頂ける。皐月堂のお経を
買い求め、その後御朱印帳に書いて頂いたのであるが、いずれもお釣りは頂けなかった。
小銭で丁度の額を用意するか、お釣りが欲しい場合はその旨告げる必要があるようだ。

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水子供養

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徳川将軍家墓所は安国殿の裏にあり、安国殿の右に案内が出ている。寛永寺と同様事前予約で
特別拝観できる。この門は旧国宝で「鋳抜門」とよばれ、もと文昭院殿霊廟(六代将軍 徳川家宣公)
の宝塔前『中門』であったもの。青銅製の扉に五個づつの葵紋と両脇には昇り龍・下り龍が
鋳抜かれている。

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二代秀忠公以降、六代、七代、九代、十二代、十四代の六人の将軍が眠っている。寛永寺の六人と
同数である。整理すると一代家康は久能山と日光に二代秀忠は増上寺、三代家光は輪王寺、
四代家綱と五代綱吉は寛永寺となり増上寺から反発があったとか、六代家宣と七代家継が増上寺
廟を設けた後は歴代将軍の墓所は寛永寺と増上寺が交替で造営することが慣例化された。
つまり八代吉宗は寛永寺に、九代家重は増上寺十代家治は寛永寺十一代家斉は寛永寺
十二代家慶は増上寺十三代家定は寛永寺十四代家茂は増上寺で十五代慶喜は谷中寛永寺
霊園に神道形式で埋葬されている。当ブログ2013年12月20日「徳川家菩提寺東叡山寛永寺」も参照

墓所には各公の正室と側室の墓もあり、悲劇の皇女として知られる静寛院和宮さまも含まれている。

普賢・地蔵・虚空蔵・文殊四菩薩像  静嘉二年(1258)の作と言われている。

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慈雲閣
平成元年(1989年)四月には開山酉誉上人五五〇年遠忌を記念して、開山堂(慈雲閣)を再建
経蔵 慈雲閣の奥右隣り
徳川幕府の助成により建立された経蔵は内部中央に八角形の輪蔵を配する、
八間四面、土蔵造りの典型的な経蔵で、都の有形文化財に指定されている。
中に収蔵されていた宋版、元版、高麗版の各大蔵経は、家康公が増上寺に寄進
したもので、国の重要文化財に指定されている。

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光摂殿(こうしょうでん)は平成十二年(2000)「心を洗い、生きる力を育てる」
ための講堂道場として完成した。一階に講堂、三階に大広間を備え、その大広間の
格天井には、日本画壇の画伯により精魂込めて描かれた草花図が奉納されて
嵌め込まれているそうで、本日も楽しみにしていたが残念ながら拝観できなかった。

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光摂殿扁額

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黒門
御成門交差点付近の芝公園・みなと図書館・御成門小学校一帯にあった増上寺方丈の
表門であった旧方丈門。三代将軍家光公の寄進・建立とされ、慶安年間(1648~1652)の
建立とされている。明治時代に増上寺方丈に北海道開拓使の仮学校や海軍施設が置かれ、
その後芝公園となったおり、鐘楼堂脇に移築したものを、昭和五十五年(1980)に
当山通用門として日比谷通り沿いに移築された。入り左に慈雲閣、経蔵がある。

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土木建築殉職者慰霊塔 黒門を入り右手。上黒門写真の右手に見えている。

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増上寺会館

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鐘楼堂 
最初の鐘楼堂は寛永十年(1633)に建立されましたが、現在の鐘楼堂自体は
戦後の再建によるもの。梵鐘は、家綱公の意向で奥方の簪まで寄与されて
延宝元年(1673)にあまりの大きさに七回の鋳造を経て完成し、江戸三大名鐘の一つ
と言われている。東日本で最大。
江戸時代の川柳には「今鳴るは芝(増上寺)か上野(寛永寺)か浅草(浅草寺)か
「江戸七分ほどは聞こえる芝の鐘」「西国の果てまで響く芝の鐘」等と謳われている。 

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旧台徳院霊廟(たいとくいんれいびょう)門 左に見えるのが「ザ・プリンスパークタワー東京」

江戸幕府二代将軍徳川秀忠の霊廟の惣門。入母屋造八脚門。
芝公園内、ザ・プリンスパークタワー東京の入口に建つ。
建立当初は現在地より西寄りにあり、1959年に45メートル東方へ曳家された。
全体を朱塗とし、装飾的要素のない簡素な門である。

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門内に安置する木造金剛力士(仁王)像はもと埼玉県川口市の西福寺にあったも

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芝東照宮 旧台徳院霊廟門から芝公園の芝の広場を隔てて西側にある。

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参道
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紅梅白梅がもう咲いている
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白梅

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拝殿左社務所にて御朱印をお願いしようと声を掛けたが応答無く果たせなかった。

 

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