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2014年3月10日 (月)

所沢市小手指原古戦場跡2014弥生~鎌倉古道ワープの旅~

~誓詞ケ橋、埋蔵文化財調査センタ、小手指原古戦場跡、白旗塚、北野天神社~

小手指原古戦場跡見学は数ヶ月前から計画していながら、体調や積雪などの為
繰り返し順延していたもので、本日やっと実現した。電車を三回乗換えて西武
鉄道池袋線「小手指駅」からスタート。まずは西武バスで「誓詞橋」へ。

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バスは小手指駅南口から早稲田大学行き宮寺西行きなど複数が経由している。
国道463号線に交差点「小手指原」があるが、「誓詞橋」交差点が近い。

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誓詞ケ橋(せいじがはし)
新田義貞が兵士から倒幕の誓詞を取った場所と言われている。
バス停の周りも丘陵地で茶畑など連なり、建物では南に学校らしきものと北東と
南西に大きな病院がある。橋らしきものが見えないし、そもそも川が流れているようには
思われない。 下写真は畑地に咲いていた白梅。

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バス停から進行方向左手に「所沢ロイヤル病院」が見えるので「誓詞ケ橋交差点」まで行ってみる。
交差点までの途中で近所にお住まいと思しき二人連れの女性に尋ねてもその存在を認識されて
いないようだ。然らば「この近くに川は流れていますか」と尋ねると梅の木が連なりそれに沿って
流れているという。その川を国道463号線が横切っている。ということは橋があるということだ。

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交差点まで行くと見立たないが橋がある。傍に寄り確認すると確かに国道463号線北側は
漢字で「誓詞ケ橋」南側はひらがなで「せいじがはし」と橋名が表示されている。
交差点を斜めに川が流れていて交差点の一部が橋梁になっている。

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最大目的の古戦場だが、所沢市埋蔵文化財調査センターの南のはずだ。それらしき大きな建物が
見えてきた。散歩中の男性に尋ねてみると「小手指原」という交差点は知っているが「小手指原
古戦場碑」は知らないと言う。少しさびしい気もするが、何処でもよくあることだ。

所沢市埋蔵文化財調査センター
二階建てで単に出土品を展示しているだけでなく、二階では学芸員が調査整理等の
作業をしている姿を見ることもできる。このような施設は見たことがなく鎌倉古道関連
調査研究文献で埼玉県の充実ぶりは承知しているが、埼玉県は市町村ベースでも
しっかりやっているのだと感心させられた。東京都と町田市にもお願いしたいところだ。

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一階奥に国指定天然記念物である「ミヤコタナゴ」が水槽で展示されている。
ミヤコタナゴは明治42年東京都文京区の小石川植物園内の池で発見され、
都(みやこ)タナゴと命名された。タナゴの種類はすべて二枚貝の体内に産卵し繁殖する
習性をもっているが、昭和30年代後半から水田で有機肥料が使われなくなり、
プランクトンが減少したこと、用水路がコンクリートとなり二枚貝が生息できなく
なったことなどの理由で生息数が減少し昭和49年国の天然記念物に指定された。

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貝の体内に産卵というのが大変興味深い。4月から6月の繁殖期に雄がマツサカ貝など
二枚貝を中心に縄張を作り雌を誘う。雌は産卵管を二枚貝の出水管に差し込み産卵
雄は雌の産卵後精液を放出する。精液は二枚貝の入水管から吸い込まれ貝の中で
受精し、2~3日後に孵化し、貝の中で成長して、約20日間で出水管から外に泳ぎ出す。

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センターでも二枚貝を水槽に入れて自然増殖を試みたが、二枚貝は水槽内では
長く生きられず平成8年から人工増殖でかろうじて種の保存をしている。今後
自然増殖の環境が整い次第ミヤコタナゴを自然に戻したいとのことだ。

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東の上遺跡(あずまのうえいせき)平成元年市内南陵中学校で発見された東山道武蔵路道路遺構
写真キャプション
  国府をめざし一直線に走る東山道 ー古代の高速道路ー
  幅12mの直線道路は東山道武蔵路の一部であると考えられています。
  この調査以降各地で同様の発見があいつぎ、
  「古代の官道は狭く曲がりくねっていた」というイメージは改められました。

これが西国分寺道路遺構へ更に町田市野津田公園へそして東海道古道に接続していた
のであろう。また北は群馬県太田市2012年10月生品神社など太平記の里ひとり旅で訪ねた
新田庄「東山道公園」とも繋がっていたのだ。

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今回見学予定していた山口城址の発掘調査も展示されている。

利用者が少なく節電して照明が消されていたがトイレを利用させて頂き
センターの裏手(南側)にあるという古戦場跡碑を訪ねることとする。
センター東の道路を南へ進むと左手に保育所がありその前に建立されている。

小手指原古戦場跡碑
鎌倉時代末期から南北朝にかけて、しばしば合戰が展開された場所。今でも往時が
偲ばれる風景ではあるが、鎌倉古道上道沿線に位置している為、古来から戦場と
なることが多かった。特に元弘三年(1333)上野国新田庄を本拠とする新田義貞の
鎌倉攻めはあまりにも有名である。同年5月8日新田庄の生品神社で倒幕挙兵した
義貞は利根川を渡り、鎌倉街道を南下して11日にはここ小手指に至っている。

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「太平記」によると5月10日北条方は櫻田貞國・長崎高重らと共に六万の兵が入間川に到着
している。5月11日午前8時頃には信濃の市村王石丸代後藤弥四郎・小笠原貞宗、常陸の塙政茂らが
加わった義貞方は小手指原で北条方と遭遇し戦闘に突入したが、決せず、義貞方は入間川に、
北条方は久米川に陣を張る。5月12日夜明けとともに久米川で合戦が始まり、義貞方が優勢となり、
北条方は分倍河原 に退いたという。 下写真石碑の奥の建物が「所沢市埋蔵文化財調査センター」 

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その後正平七年(1352)には義貞の二男善興と足利尊氏との戦いもあった。

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白旗塚
小手指原古戦場碑の西へ入る細い道があり、その先に鎮守の森の様な円墳のような畑の中に
こんもりと盛上った森が見えてくる。どうやらこれが白旗塚らしい。道の両側には茶の木が植栽され、
塚の前には木製の「白旗塚土盛修復記念碑」が建てられている。

源氏の末裔である新田義貞がここに陣を張り、源氏の旗印である「白旗」を立てた
という伝承がある。因みに北条氏の平家の旗印は「赤旗」であり、「降参する」とか
「負けを認める」という意味の「白旗を掲げる」のではない。

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白旗塚に上る階段状の道の登り口に古戦場碑がある。
  古武将の御魂祭れりこの塚を
  護り通せと先祖より受
  此の塚を壊せし者は忽ちに
  霊魔を受けて死するやもあり
  武蔵野の小手指ヶ原古戦場
  月の光は変らざりけ里

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白旗塚頂上の白旗塚石碑と浅間神社石祠。

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最初に目に入った木製修復碑には地元の地主さんや北野中学校の先生・生徒など
5年の月日を掛けて土を運び修復したことを記念した碑である。このような試みは
とても有意義なことで、資金だけを出して業者にやらせるのでなく、バケツ一杯の
土を運ぶだけでも多くの生徒達に汗をかいて貰うことにより郷土史を学び
生涯忘れないものになることだろう。

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頂上は白旗塚石祠ほか浅間神社の祠らしきものもある。

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左へ下りたらそこには歌碑がある。

  朴の花 諸枝に咲きて 重ならず 
                         (肥田埜)

  (平成15年)

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改めて修復記念碑を見ると北野中学生徒の功績を讃えた碑文である。
細かい文字で凡そ次のような内容
  盛土の土は地元岩田清氏が提供、教員生徒が一丸となりバケツで土を
    運搬し五年の歳月を経て修復したもので、平成24年1月末に完了した。
    盛土総量は約50立方米、作業に携わった総人員約350名。

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近くには畑地がひろがっており、茶畑のほか桑畑もある。
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小手指原古戦場跡碑のある道路に戻り北野天神社を目指して南下するも、
西の道路だったため行き過ぎで途中の案内板で気付き戻る。

北野天神社
当社は社伝によれば、景行天皇の御代、日本武尊が東征の折、この地にニギハヤヒ・ヤチホコ
二神をまつり、物部天神国渭地祇神として尊称したという。
古来武蔵国の延喜式内社入間郡五座の一に数えられていた由緒ある神社である。
西鳥居から参拝。正面は社殿ではないらしい。

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その後長徳元年(九九五)菅原道真五世の孫修成が武蔵守となって武蔵国に下向し、
この地に京都の北野天満宮をまつったので、以後北野天神と称せられるようになった。
武家の信仰も厚く、源義家・頼朝・足利尊氏・前田利家等によりしばしば社殿が造営されたという。
現在の本殿は安永年間(一七七〇年代)の建築であり、拝殿・幣殿は平成六年の改築である。

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参拝者は少なく静寂な境内に社殿の荘厳さが際だっている。

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神楽殿前には雪が残っている。
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奉納されている「力石」。今年訪ねた神田明神にもあった。当時若者達の力石による力自慢は
全国的だったことが伺える。
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末社 小手指神社
この社は日清日露の両戦役から終戦に至るまでの戦に参戦し祖国の尊い英霊となられた方々を
祀った社です。毎年四月十五日には(北中北打越地区を含む)北野上新井西所沢地区の関係者に
より厳に慰霊祭が執行されているとのことだ。

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小手指神社内部

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航空神社跡という木製の看板がある。元は航空神社と称し、航空士官学校に祀られていたものを
終戦時に遷座し、殉職した自衛官を合祀して祭祀を行っていた。その後、自衛隊の幹部学校に
碑として移されたため、小手指神社と改め、小手指地区の戦没者を祀るようになった。

境内南側の鳥居
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平安時代末期に武蔵七党村山党の山口家継によって築城され、代々山口氏の居城となった
山口城址と地元では古くから「氷川様」と呼ばれている「中氷川神社」にも参拝したかったが
寒風と疲労感もあり、初土地で時間的余裕もなく後の予定を割愛し帰路についた。

来月以降に「久米川古戦場」、「トトロの森」、「八国山」など巡る計画をたてるとしよう。
今回西武鉄道の駅でマップがあるか尋ねたが用意されていなかった。
次回は事前にマップを用意するか、重いがiPatを持参するようにしよう。

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