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2014年3月

2014年3月26日 (水)

都区内最高峰愛宕山散策~萬年山青松寺・愛宕神社

曹洞宗江戸三箇寺 萬年山青松寺

日比谷線神谷町駅からスタート。地上に上がった場所に掲示された地図はストレンジャーには有難い。それでもイメージしていたランドマークが見えてこないと不安になる。

やっと確信が持てる青松寺の山門らしいものが見えてきた。
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青松寺は江戸府内の曹洞宗の寺院を統括した江戸三箇寺の1つであったことは昨年訪れた泉岳寺の時に知ったことで、その後芝増上寺参拝後にでも余裕があれば立寄りたかった寺院である。
  ⇒サイト内リンク泉岳寺、   ⇒サイト内リンク増上寺 

  曹洞宗江戸三箇寺とは青松寺、泉岳寺と板橋小豆沢の総泉寺

山門
青松寺の周辺一帯が再開発されて都心に存在する近代的な寺院として輝いているが、山門も端正ながら威厳も備えていて美しい。

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青松寺は太田道灌雲岡舜徳を招聘して文明8年(1476)に創建。当初は武蔵国貝塚にあったが、徳川家康による江戸城拡張に際して現在地に移転した。しかし移転後も長く「貝塚の青松寺」と俗称されていた。長州藩、土佐藩、津和野藩などが江戸で藩主の菩提寺として利用した。

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山門には四天王像が睨みを利かせている。仏教世界観の中の須弥山の頂上に住まう帝釈天に仕え、仏法を守護することを念願としている。足元には、邪鬼を踏みつけている。

持国天
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多聞天
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増長天
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広目天
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山門を潜ると都心とは思えない静寂に身が引き締まる。

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観音像 山門右
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せんと君をデザインした彫刻家であるという籔内佐斗司氏の作品があるお寺である山門のの四天王様のほか本堂の五百羅漢様も。下写真は山門をくぐり左側にある「誕生童子と花祭り童子」

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中雀門と奥に本堂

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中雀門扁額

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本堂

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ご本尊様は釈迦牟尼如来、脇侍に文殊、普賢の両菩薩。中にも入れてもらい暫し黙読経した。

本堂扁額

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坐禅堂(聖僧堂)
本堂に向かって左手側の建物。修行僧は勿論一般の学びの場「獅子吼林サンガ」。その玄関頭上のガラスレリーフに「獅子窟」 は、江戸時代に青松寺内に栄え、幾多の人材を世に輩出し、駒澤大学の前身ともなったた学林の名に因む。獅子吼林サンガの中心が僧堂。泉岳寺本堂扁額は「獅子吼」であった。 ⇒サイト内リンク「泉岳寺」

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獅子窟学寮内に曹洞宗大学林専門本校を開校し、翌年、港区高輪の泉岳寺学寮、文京区駒込の吉祥寺学寮「旃檀林」と統合し、今日の駒澤大学へと発展した。

   青松寺獅子窟、泉岳寺学寮、吉祥寺学寮「旃檀林」を江戸三学寮と呼ばれていた。

仏教ルネッサンス塾やボーズ・ビー・アンビシャス!!など開講。老犬介護がなければ受講したいのだが。

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本堂に向い右側の堂宇は礼拝堂で、観音様の優しいまなざしに包まれて、穏やかなときをすごすことのできる空間と説明されている。御朱印は受け付けていない

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本堂裏庭園

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観音堂の横中庭。竹が綺麗。
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鐘楼堂

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法輪観音像
坐禅堂の西側におわす観音菩薩様。法輪とは、「仏の教え」のことで「法輪」のお名には、世の中に仏教の教えが広く説かれるように、人々の心に届くようにとの願いが込められている。

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法輪観音像の裏竹藪の中になんと石像が鎮座している。 鑓持勘助の墓とのことである。美作津山藩主松平越後守宣富の足軽で、当時越後守の槍はとても長くて重く、倒せば打ち首になるという大変な代物。これを持つ苦労を後に残すまい と、義きょう心の強い勘助は槍の柄の下方を切り、自ら切腹して果てた。元禄14年9月のことであったという。松平家では再び切られるのを恐れて、槍の柄に 鉄の筋金を入れたという。勘助の墓は奴地蔵とも呼ばれ、下の病によく効くと願をかける人が増え、全治した人は竹筒にお酒を入れてお礼をしたという。

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法輪観音像の入口にある消災地蔵尊

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庭園
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都心では稀な貴重な水のせせらぎ 近隣のビジネスマンの癒しの場となっていることだろう。
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サンシュユ(山茱萸)の花

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トサミズキも綺麗だ

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庭園の石造たちも心和ませてくれる。
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下向きに可憐に咲いている桜の種類か?

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港区や森ビルによる愛宕地区再開発事業の一環として、2002年11月復興した。両脇には森ビルのツインタワーがそびえたつ中、僧堂を擁した都内屈指の近代的なお寺である。森ビル設計部の清水昭夫は、「約18年前、周辺の借地人による個々の建て替えが成される事で、由緒ある寺院のたたずまいが隠れてしまうことを危惧した青松寺から森ビルが相談を受けたことが一体開発のきっかけである」(「新しい都市景観の創造―歴史と融合した愛宕グリーンヒルズ」と述べている。「結果的には約70軒以上の権利者の敷地を統合し、青松寺傳叟院清岸院、日本放送協会(NHK)、光文社他3名と森ビルとの共同事業として進める事になった」としている。

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愛宕山へ向かう途中緑青の屋根が美しいお寺があり思わずシャッターを押した。曹洞宗愛宕山傳叟院(でんそういん)。青松寺の子院で1646年に開山とのことだ。大本山總持寺出張所を兼ねているそうだ。奥は三階建の立派なの堂宇である。

  サイト内リンク⇒横浜鶴見 曹洞宗大本山諸嶽山總持寺

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愛宕トンネル

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愛宕神社への入口
愛宕山は訪れたいと思いつつ実現していなかった場所である。現役時に松岡美術館まで来ていてその帰りに寄る予定が野暮用出現で叶わなかった記憶がある。東京都港区愛宕にある丘陵で標高は25.7mあり、天然の山で東京23区内最高峰なのだ。

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江戸の町並みや安房上総など房総半島までの眺望の素晴らしさは十分に想像できる。
鉄道唱歌』の第1番にも「愛宕の山」と歌われている。

  ♪~汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり
     ♪~愛宕の山に入り残る 月を旅路の友として

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急な石段である「男坂」は傾斜40度・段数86段
江戸時代の寛永11年1月28日、徳川秀忠の三回忌として増上寺参拝の帰り、徳川家光が山上にある梅を見て、「梅の枝を馬で取ってくる者はいないか」と言ったところ、讃岐丸亀藩の家臣曲垣平九郎が見事馬で石段を駆け上がって枝を取ってくることに成功し、その者は馬術の名人として全国にその名を轟かせたことから「出世の石段」と呼ばれるようになった。

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江戸以降にも男坂を馬で登り降りすることにトライをして、   明治15年・石川清馬(宮城県出身)大正14年・岩木利夫(参謀本部馬丁)廃馬になる愛馬のために最後の花道とした、 昭和57年・渡辺隆馬(スタントマン)「史実に挑戦」というテレビの特番にて挑戦したそうだ。
下写真は階段左の狛犬

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途中まで上り下や周りを見ると怖くなるのでひたすら目の前の一段だけを見て休み無しで上り切った。上から見ても怖くなる。二度目は別ルートで上るだろう。

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出世階段を登り切った右手には、三等三角点がある。新宿区にある箱根山は44.6メートルあるが、こちらは人造のため、天然の山としては愛宕山が東京都23区内で一番の高い山となる。

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愛宕神社
山手線内では珍しい自然に形成された山である愛宕山(標高25.7m)山頂にある。京都の愛宕神社が総本社である。防火・防災に霊験のある神社として知られる。主祭神:火産霊命(ほむすびのみこと)    配祀:罔象女命(みずはのめのみこと)・大山祇命(おおやまづみのみこと)・日本武尊(やまとたけるのみこと)

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1603年(慶長8年)、徳川家康の命により創建。また、徳川家康が信仰した勝軍地蔵菩薩を勧請し、愛宕神社を創建。同神社の本地仏として別当寺の円福寺に祀ったことにはじまる。明治の廃仏毀釈により円福寺が廃寺になると、勝軍地蔵菩薩像は近くの真福寺に移されたが関東大震災で焼失。1934年の弘法大師1100年御遠忌記念として銅製で復元され、現在は、1997年に建設された真福寺・愛宕東洋ビル一階外側に祀られている。

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水戸の浪士がご神前にて祈念の後、桜田門へ出向き大老井伊直弼を討ちその目的を果たした世に言う「桜田門外の変」の集合場所であった。

大政奉還後の江戸開城の際には勝海舟西郷隆盛との会談場所になった場所でもある。勝海舟にここへ呼び出された西郷隆盛は、眼下に広がる江戸の町の見事な眺めに、江戸城の無血明け渡しを決意したとも伝えられ数多くの歴史の舞台となった場所でもある。

御朱印は本殿右手の社務所にて受け付けてくれる。

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屋根を葺替えたばかりのようだ。どのくらいで先に見た總持寺出張所のような緑青の屋根になるのだろうか。

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将軍梅 平九郎手折の梅樹とある。相当傷んでいる。樹木医の派遣が必要かも。

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触れると福が身につくといわれる「招き石」 どんな福が身についただろうか楽しみだ。

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小判水(児盤水)の滝という霊験あらたかな湧水の名残を今に伝える「愛宕の池」

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境内に艶やかに咲く大輪の椿

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NHKの前身の一つである社団法人東京放送局(JOAK)は、この愛宕山に放送局を置き、1925年7月の本放送から1938年のNHK東京放送会館への移行まで、この愛宕山から発信された。

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NHK放送博物館
NHK発祥の地である愛宕山に世界初の放送専門博物館として昭和31年に開館。開館当時は東京放送局の局舎を使用していた。現在の塔屋付4階建てビルは昭和43年に新築されたもので、当時使われていた建物は現存しない。

2014年3月10日 (月)

所沢市小手指原古戦場跡2014弥生~鎌倉古道ワープの旅~

~誓詞ケ橋、埋蔵文化財調査センタ、小手指原古戦場跡、白旗塚、北野天神社~

小手指原古戦場跡見学は数ヶ月前から計画していながら、体調や積雪などの為
繰り返し順延していたもので、本日やっと実現した。電車を三回乗換えて西武
鉄道池袋線「小手指駅」からスタート。まずは西武バスで「誓詞橋」へ。

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バスは小手指駅南口から早稲田大学行き宮寺西行きなど複数が経由している。
国道463号線に交差点「小手指原」があるが、「誓詞橋」交差点が近い。

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誓詞ケ橋(せいじがはし)
新田義貞が兵士から倒幕の誓詞を取った場所と言われている。
バス停の周りも丘陵地で茶畑など連なり、建物では南に学校らしきものと北東と
南西に大きな病院がある。橋らしきものが見えないし、そもそも川が流れているようには
思われない。 下写真は畑地に咲いていた白梅。

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バス停から進行方向左手に「所沢ロイヤル病院」が見えるので「誓詞ケ橋交差点」まで行ってみる。
交差点までの途中で近所にお住まいと思しき二人連れの女性に尋ねてもその存在を認識されて
いないようだ。然らば「この近くに川は流れていますか」と尋ねると梅の木が連なりそれに沿って
流れているという。その川を国道463号線が横切っている。ということは橋があるということだ。

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交差点まで行くと見立たないが橋がある。傍に寄り確認すると確かに国道463号線北側は
漢字で「誓詞ケ橋」南側はひらがなで「せいじがはし」と橋名が表示されている。
交差点を斜めに川が流れていて交差点の一部が橋梁になっている。

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最大目的の古戦場だが、所沢市埋蔵文化財調査センターの南のはずだ。それらしき大きな建物が
見えてきた。散歩中の男性に尋ねてみると「小手指原」という交差点は知っているが「小手指原
古戦場碑」は知らないと言う。少しさびしい気もするが、何処でもよくあることだ。

所沢市埋蔵文化財調査センター
二階建てで単に出土品を展示しているだけでなく、二階では学芸員が調査整理等の
作業をしている姿を見ることもできる。このような施設は見たことがなく鎌倉古道関連
調査研究文献で埼玉県の充実ぶりは承知しているが、埼玉県は市町村ベースでも
しっかりやっているのだと感心させられた。東京都と町田市にもお願いしたいところだ。

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一階奥に国指定天然記念物である「ミヤコタナゴ」が水槽で展示されている。
ミヤコタナゴは明治42年東京都文京区の小石川植物園内の池で発見され、
都(みやこ)タナゴと命名された。タナゴの種類はすべて二枚貝の体内に産卵し繁殖する
習性をもっているが、昭和30年代後半から水田で有機肥料が使われなくなり、
プランクトンが減少したこと、用水路がコンクリートとなり二枚貝が生息できなく
なったことなどの理由で生息数が減少し昭和49年国の天然記念物に指定された。

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貝の体内に産卵というのが大変興味深い。4月から6月の繁殖期に雄がマツサカ貝など
二枚貝を中心に縄張を作り雌を誘う。雌は産卵管を二枚貝の出水管に差し込み産卵
雄は雌の産卵後精液を放出する。精液は二枚貝の入水管から吸い込まれ貝の中で
受精し、2~3日後に孵化し、貝の中で成長して、約20日間で出水管から外に泳ぎ出す。

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センターでも二枚貝を水槽に入れて自然増殖を試みたが、二枚貝は水槽内では
長く生きられず平成8年から人工増殖でかろうじて種の保存をしている。今後
自然増殖の環境が整い次第ミヤコタナゴを自然に戻したいとのことだ。

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東の上遺跡(あずまのうえいせき)平成元年市内南陵中学校で発見された東山道武蔵路道路遺構
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  国府をめざし一直線に走る東山道 ー古代の高速道路ー
  幅12mの直線道路は東山道武蔵路の一部であると考えられています。
  この調査以降各地で同様の発見があいつぎ、
  「古代の官道は狭く曲がりくねっていた」というイメージは改められました。

これが西国分寺道路遺構へ更に町田市野津田公園へそして東海道古道に接続していた
のであろう。また北は群馬県太田市2012年10月生品神社など太平記の里ひとり旅で訪ねた
新田庄「東山道公園」とも繋がっていたのだ。

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今回見学予定していた山口城址の発掘調査も展示されている。

利用者が少なく節電して照明が消されていたがトイレを利用させて頂き
センターの裏手(南側)にあるという古戦場跡碑を訪ねることとする。
センター東の道路を南へ進むと左手に保育所がありその前に建立されている。

小手指原古戦場跡碑
鎌倉時代末期から南北朝にかけて、しばしば合戰が展開された場所。今でも往時が
偲ばれる風景ではあるが、鎌倉古道上道沿線に位置している為、古来から戦場と
なることが多かった。特に元弘三年(1333)上野国新田庄を本拠とする新田義貞の
鎌倉攻めはあまりにも有名である。同年5月8日新田庄の生品神社で倒幕挙兵した
義貞は利根川を渡り、鎌倉街道を南下して11日にはここ小手指に至っている。

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「太平記」によると5月10日北条方は櫻田貞國・長崎高重らと共に六万の兵が入間川に到着
している。5月11日午前8時頃には信濃の市村王石丸代後藤弥四郎・小笠原貞宗、常陸の塙政茂らが
加わった義貞方は小手指原で北条方と遭遇し戦闘に突入したが、決せず、義貞方は入間川に、
北条方は久米川に陣を張る。5月12日夜明けとともに久米川で合戦が始まり、義貞方が優勢となり、
北条方は分倍河原 に退いたという。 下写真石碑の奥の建物が「所沢市埋蔵文化財調査センター」 

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その後正平七年(1352)には義貞の二男善興と足利尊氏との戦いもあった。

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白旗塚
小手指原古戦場碑の西へ入る細い道があり、その先に鎮守の森の様な円墳のような畑の中に
こんもりと盛上った森が見えてくる。どうやらこれが白旗塚らしい。道の両側には茶の木が植栽され、
塚の前には木製の「白旗塚土盛修復記念碑」が建てられている。

源氏の末裔である新田義貞がここに陣を張り、源氏の旗印である「白旗」を立てた
という伝承がある。因みに北条氏の平家の旗印は「赤旗」であり、「降参する」とか
「負けを認める」という意味の「白旗を掲げる」のではない。

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白旗塚に上る階段状の道の登り口に古戦場碑がある。
  古武将の御魂祭れりこの塚を
  護り通せと先祖より受
  此の塚を壊せし者は忽ちに
  霊魔を受けて死するやもあり
  武蔵野の小手指ヶ原古戦場
  月の光は変らざりけ里

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白旗塚頂上の白旗塚石碑と浅間神社石祠。

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最初に目に入った木製修復碑には地元の地主さんや北野中学校の先生・生徒など
5年の月日を掛けて土を運び修復したことを記念した碑である。このような試みは
とても有意義なことで、資金だけを出して業者にやらせるのでなく、バケツ一杯の
土を運ぶだけでも多くの生徒達に汗をかいて貰うことにより郷土史を学び
生涯忘れないものになることだろう。

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頂上は白旗塚石祠ほか浅間神社の祠らしきものもある。

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左へ下りたらそこには歌碑がある。

  朴の花 諸枝に咲きて 重ならず 
                         (肥田埜)

  (平成15年)

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改めて修復記念碑を見ると北野中学生徒の功績を讃えた碑文である。
細かい文字で凡そ次のような内容
  盛土の土は地元岩田清氏が提供、教員生徒が一丸となりバケツで土を
    運搬し五年の歳月を経て修復したもので、平成24年1月末に完了した。
    盛土総量は約50立方米、作業に携わった総人員約350名。

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近くには畑地がひろがっており、茶畑のほか桑畑もある。
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小手指原古戦場跡碑のある道路に戻り北野天神社を目指して南下するも、
西の道路だったため行き過ぎで途中の案内板で気付き戻る。

北野天神社
当社は社伝によれば、景行天皇の御代、日本武尊が東征の折、この地にニギハヤヒ・ヤチホコ
二神をまつり、物部天神国渭地祇神として尊称したという。
古来武蔵国の延喜式内社入間郡五座の一に数えられていた由緒ある神社である。
西鳥居から参拝。正面は社殿ではないらしい。

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その後長徳元年(九九五)菅原道真五世の孫修成が武蔵守となって武蔵国に下向し、
この地に京都の北野天満宮をまつったので、以後北野天神と称せられるようになった。
武家の信仰も厚く、源義家・頼朝・足利尊氏・前田利家等によりしばしば社殿が造営されたという。
現在の本殿は安永年間(一七七〇年代)の建築であり、拝殿・幣殿は平成六年の改築である。

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参拝者は少なく静寂な境内に社殿の荘厳さが際だっている。

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神楽殿前には雪が残っている。
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奉納されている「力石」。今年訪ねた神田明神にもあった。当時若者達の力石による力自慢は
全国的だったことが伺える。
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末社 小手指神社
この社は日清日露の両戦役から終戦に至るまでの戦に参戦し祖国の尊い英霊となられた方々を
祀った社です。毎年四月十五日には(北中北打越地区を含む)北野上新井西所沢地区の関係者に
より厳に慰霊祭が執行されているとのことだ。

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小手指神社内部

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航空神社跡という木製の看板がある。元は航空神社と称し、航空士官学校に祀られていたものを
終戦時に遷座し、殉職した自衛官を合祀して祭祀を行っていた。その後、自衛隊の幹部学校に
碑として移されたため、小手指神社と改め、小手指地区の戦没者を祀るようになった。

境内南側の鳥居
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平安時代末期に武蔵七党村山党の山口家継によって築城され、代々山口氏の居城となった
山口城址と地元では古くから「氷川様」と呼ばれている「中氷川神社」にも参拝したかったが
寒風と疲労感もあり、初土地で時間的余裕もなく後の予定を割愛し帰路についた。

来月以降に「久米川古戦場」、「トトロの森」、「八国山」など巡る計画をたてるとしよう。
今回西武鉄道の駅でマップがあるか尋ねたが用意されていなかった。
次回は事前にマップを用意するか、重いがiPatを持参するようにしよう。

2014年3月 4日 (火)

鎌倉五山第一位巨福山建長寺2014年弥生~龍王殿で座禅体験も

大本山 巨福山建長興国禅寺 

昨年秋の鎌倉史跡めぐりでお隣円覚寺から明月院のあと鎌倉アルプス天園ハイキングコースへ
進み瑞泉寺へ出たため予定していた建長寺をスキップしていた。
      ⇒ 史跡めぐり~秋の鎌倉 その1  史跡めぐり~秋の鎌倉 その3  

三ヶ月毎に訪れている鎌倉であるが、昨年参拝できなかった鎌倉五山の第一位の建長寺を
今回はゆっくりと参拝したいと出かけた。北鎌倉駅からスタートだが駅前は老若男女が大勢
仲間の待ち合わせや見学スケジュールの確認なども行い混雑している。円覚寺、明月院
左に見ながら約15分歩くと目前に建長寺が見えてくる。

鎌倉五山
五山制度は印度の五精舎にならい、中国南宗末期に禅宗の保護と統制のため
格式高い五つの寺を定めたことに由来する。鎌倉五山とは、鎌倉時代に中国の
五山制度にならって鎌倉の禅寺に設けられた五大官寺のこと。
   第1位 建長寺
   第2位 円覚寺
   第3位 壽福寺
   第4位 浄智寺
   第5位 浄妙寺 

京五山は別格として南禅寺がおかれ、天竜寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺の順。

天下門(西外門)
東西に外門があったそうだが、現在はこの西外門だけになったそうだ。中に入ると駐車場に
なっている。既に観光バスが中学生らしき生徒を吐き出している。修学旅行らしい。

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天下門の扁額「天下禅林
人材を広く天下に求め育成する禅寺」の意味で建長寺を象徴する語
東外門は駐車場造成時に撤去されたらしい。この東外門に掲げられていた扁額は
現在、法堂(はっとう)に掲げられている。

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天下門再建の碑
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総門
天明3年(1783)の建立。1943年に京都の皇室ゆかりの般舟三昧院(はんじゅざんまいいん)から
移築されたもの。
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総門に掲げられている扁額「巨福山」 「巨」に点が打たれていて面白い。
建長寺10世住持で書の名手である渡来僧・一山一寧の揮毫と伝えられている。
この点があることによって字に安定感が出ているとされるが修学旅行の中学生達よ
試験では点を付けると点は貰えないよ。
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臨済宗建長寺派の大本山巨福山建長興国禅寺。鎌倉時代の建長5年(1253)の創建
上野寛永寺と同じ創建年代からの命名。ご本尊は地蔵菩薩、開基は鎌倉幕府第5代執権
北条時頼、開山は南宋の禅僧蘭渓道隆で第二世は南宋の兀庵普寧(ごったんふねい)で
ある。兀庵は「ごたごた」の語源と言われている。

建長寺のある谷は地獄谷と呼ばれ、処刑場であって伽羅陀山心平寺という寺があり、
当時は地蔵堂が残っていたという

当時、承久の乱(1221年)を経て北条氏の権力基盤が安定し、朝廷の支配力は相対的に弱まり、
鎌倉が事実上、日本の首府で、北条時頼は熱心な仏教信者であり禅宗に深く帰依していた

総門・三門・仏殿・法堂・方丈が一直線に並ぶ伽藍配置は、創建当時の面影を残すものとされる。
なお、地形の関係で総門 - 三門間の参道は斜めになっている。

総門を潜ると右に拝観受付があり拝観料(\300)を納め、反対側で御朱印受付の案内が
あったのでお参り後頂けるようお願いした。

斜めの参道 両側は桜が植栽されている。
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三門(山門)
安永4年(1775)の建立で、2005年に重要文化財に指定されている。
銅板葺きの二重門(2階建て)で、関東大震災で倒壊し、再建される。

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初層には仁王像などを置かず、門扉も壁もない吹き放しとしている。
上層には宝冠釈迦如来像や銅造の五百羅漢像などを安置している。
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三門扁額「建長興国禅寺」
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三門解説板
三解脱門の略、空・無相・無作を表し、この門をくぐることによってあらゆる執着から解き
放たれることを意味します。」とある。
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いろいろな角度から観れば観るほどその魅力に惹かれていく。
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国宝梵鐘
北条時頼の発願により広く施主を募り、開山大覚禅師(蘭渓道隆)の銘文、関東鋳物師の筆頭である
物部重光によって建長七年(1255)に鋳造されたもので、銘文に「建長禅寺」とある。重さ2.7トン。
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鐘楼 茅葺
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この左奥に雲水の修行道場があるが非公開となっている。

柏槇(ビャクシン)
創建された建長五年(1253)開山禅師お手植えで、今年(2014)で樹齢761年以上といえる。
近年腐朽菌により劣化が認められており、劣化対策事業が実施されている。
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老樹の樹の幹を飽かず眺めていることができる。
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仏殿 北条時頼と開山大覚禅師の衆生済度の願いが込められている堂宇。

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重要文化財。 寄棟造で単層裳階が付く。
芝増上寺にあった、徳川秀忠夫人崇源院の霊屋を建て替えに際し、
譲渡されたもので、正保4年(1647)に建長寺に移築されている。

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香炉

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もともと霊廟建築として造られたものであるので、屋根や天井などの形式が
一般的な禅宗の仏殿とは異なっている。すなわち、屋根は入母屋造でなく
寄棟造である。また、天井は禅宗仏殿では平板な「鏡天井」とし、龍などの
絵を描くことが多いが、この仏殿の天井は和様の格天井(ごうてんじょう)である。

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堂内には本尊の地蔵菩薩坐像(室町時代の作、像高2.4メートル)を安置。
もとこの地にあった心平寺の旧本尊地蔵菩薩坐像、千体地蔵菩薩立像、千手観音坐像、
伽藍神像などを安置する。ここで暫く「般若心経」を黙読経させていただいた。

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彫刻 地蔵尊の両側 
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鳳凰と思ったら天女だった。
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仏堂扁額  (調査中)

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仏堂を出て堂宇の周りを回っていたら、仏堂右側に梵鐘を見つけた。意外な場所に驚かされた。

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法堂(はっとう)
重要文化財で、禅宗以外の寺院の「講堂」に相当する建物。
方三間、裳階付、銅板葺き。文化11年(1814)の建立である。

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法堂扁額「海東法窟
元々東外門に掲げられていた扁額。駐車場造成で東外門が撤去されその扁額を
法堂に移設したとのことだ。『崇禎元年十一月 竹西書』とあり、
天下門(西外門)の『天下禅林』の額と同時期同一人物による扁額。
さて「海東法窟」扁額のあった東外門は「海東門」と言われていたのだろうか?。

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華厳小宝塔 華厳とは宇宙全体を包括するという毘盧遮那仏のもとで、自然界に大小様々な花が
咲くように、我々一人ひとりも互いに輝く華となりこの世を一瞬一瞬を生き生きと美しく飾る世界。
建長寺では創建当初から大華厳塔があったもので、平成21年に「華厳小宝塔」が完成したとある。

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内部には千手観音坐像を安置する。鎌倉最大級の木造建築で2005年に重要文化財に
指定された。天井画は小泉淳作筆の雲龍図。国内では珍しい「五爪の龍」を採用。中国では
五爪は天子を象徴とされ、属国であった朝鮮半島の代々王朝は「四爪の龍」しか用いることが
許されず、日本はさらに一本少ない「三爪の龍」が伝えられていた。

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2005年愛知万博に陳列されたラホール中央博物館所蔵の釈迦苦行像のレプリカが
万博終了後パキスタンより寄贈され安置された。

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唐門
重要文化財で方丈入口の門。仏殿と同じく、芝の徳川秀忠夫人崇源院霊屋から移築したもの。

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関東大震災以来の大修理が2011年5月に終了し、移築当時の姿が再現された。下は方丈から撮影。

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庫裏

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入口

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方丈庭園見学の入口

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方丈 本来は住持の居住場所。
竜王殿」とも称する。総門と同じく、京都の般舟三昧院から移築したもの。現在は法要・座禅、
研修の場所として使用されている。

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写経場 膝が痛く正座できない方は右の椅子席もある。

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方丈内 暫し座禅の真似事をしてみた。瞑想し般若心経黙読経を試みた。

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方丈に掲げられている扁額「龍王殿

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庭園  国史跡
蘸碧池(さんぺきいけ)を中心とする庭園。開山大覚禅師の作庭。
池の周りに当初得月楼・大客殿・方丈があり、檀那や貴賓の応接に用いられた。

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蘸碧池とは緑の木々の色が青い水にひたって輝いていることを表す。
得月楼は創建750年を記念して平成14年に建設された。

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西来庵など塔頭
開山蘭渓道隆の墓塔を守る塔頭寺院である。三門の右手にある嵩山門(すうざんもん)が
入口だが、そこから先は修行道場のため、一般の立ち入りは禁止されている。
西来庵の他に、天源院、正統院、龍峰院、回春院、禅居院、妙高院、同契院、宝珠院、華蔵院がある。

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天源院への参道か

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奥院勝上嶽地蔵尊道 道標文政十一年

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河村瑞賢墓所への登り口案内石碑
茶店「招寿軒」を左に折れると河村瑞賢墓がある。
瑞賢は、江戸時代の豪商で土木・建築も手掛けた人物。 海運の発展に貢献し、
「西廻り航路」や「東廻り航路」を開いた人物としても知られている。
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半僧坊権現石碑
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達磨禅師坐像

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半僧坊への参道

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途中白梅が綺麗に咲いている。

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参道右に新しい石碑二基が目立つ

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半僧坊へは急峻な階段が続く。トレッキングシューズを履いてきて良かった。

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半僧坊へ上る石段の途中には天狗の像がある。

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半僧坊
境内のもっとも奥で山の中腹に建っている。建長寺の鎮守である。
半僧坊権現は1890年に静岡県引佐郡奥山の方広寺から勧請した神で、火除けや招福に
利益があるという。半僧坊権現とは、後醍醐天皇皇子の無文元選禅師(方広寺開山)の元に
忽然と現われて弟子入りした神通力を持つ白髪の老人で、無文禅師が死去と共に姿を消したという。

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半僧坊からの建長寺境内
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西側には富士山も望めた。頑張って登った者へのご褒美だ。
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半僧坊の右から更に登ると天園ハイキングコースの勝上嶽展望台から奥院勝上嶽地蔵尊へ行ける。
三門前の桜の蕾を改めて撮影。

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寒さ対策を講じていたが、半僧坊の階段上りはかなりの発汗で、コートの釦、ジッパーを全開して
下りることにした。総門左手社務所で御朱印を受け取り帰路へ。
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御朱印帳に挟まれていた「建長寺御本尊身代わり地蔵尊縁起和讃」が興味深い。

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駅への途中目にした「ミツマタ」

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けんちん汁は(諸説ありが)建長寺の修行僧が作っていたため、
「建長汁」がなまって「けんちん汁」になったといわれている。

ごたごた」は「秩序やまとまりのないさま。 もめごと。いざこざ」を表すが、
これは建長寺2世兀庵普寧(ごったん ふねい)に由来と言われている。普寧は
地蔵菩薩は自分より下位であるとして礼拝しなかったという。

当初明日の予定であったが、雨天予報とのことで急遽本日実施したもので正解であった。

2014年3月 3日 (月)

木の芽起しの雨が「芽切り」 庭の椎茸

春は名のみ 寒い日が続いている。
先月二回の積雪は道路の雪はやっとなくなったが 庭でも日当たりの悪い場所と
屋根の雪が落ち 更にベランダの雪掻きで下ろしたのが加わった場所には
未だにとけずに残っている。

椎茸のホダ木伏せ地の1メートル先にはまだ雪が残っている。
そんなホダ木だが なんと既に芽切りが始まっている。

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厚く堅い椚の皮を突き破って芽を出す「芽切り」は何度見ても感動してしまう。

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かなり大きくなっているのもある。昨日の雨が「木の芽起こしの雨」になろうとは思っていたが
我家の椎茸の芽も起こしてくれた。

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自然の恵みに感謝です。

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