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2014年4月

2014年4月27日 (日)

"軍師官兵衛"ゆかりの地を訪ねて その3鶴林寺

官兵衛が守った「西の法隆寺」天台宗刀田山(とたさん)鶴林寺(かくりんじ)
本尊は薬師如来、聖徳太子開基伝承をもつ寺院である。

妻の実家が檀家のため、結婚後数回訪れている。ひとりでお詣りしてたのは初めてで
宝物館や仁王門階上堂の見学もした為所要時間は三時間も要した。

平安時代建築の太子堂(国宝)をはじめ、多くの文化財を有し、「西の法隆寺」とも
播磨の法隆寺」とも称されている播磨地方有数の古寺。刀田の太子さんと親しまれている。

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6世紀半頃仏教への迫害から逃れるため播磨に身を隠していた高麗僧恵便法師の教えを
受けるため聖徳太子が来訪し、16歳時秦河勝(はたのかわかつ)に命じ、崇峻天皇2年
(589)に精舎を建立し「刀田山四天王寺聖霊院」が前身とされる。
養老2年(718)に七堂伽藍が建立され、さらに天永3年(1112)に鳥羽天皇によって
勅願所に定められたのを期に「鶴林寺」と改名され、勅額を下賜している。

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建築の様式は禅宗様(唐様式)と大仏様(天竺様式)に和様式が折衷した折衷様式(新和様式)で、
本堂の内部、柱などに特徴を見ることができます。

現在は堂塔16棟国宝2重要文化財18、県指定文化財10、市指定文化財16、
計46件のほか、寺宝200余点を蔵する充実度、聖徳太子を祀っていることから
「播磨の法隆寺」とも称されている。

推古天皇14年(606年)、聖徳太子が法華経を講義し、その功で天皇から播磨国の水田
百町を得たことは史実とされ、聖徳太子と播磨には何らかの関連があったと想像される。
鶴林寺には、現に飛鳥時代後期(白鳳期)の銅造聖観音像があり、本堂本尊の
薬師三尊像は平安時代前期・10世紀にさかのぼる古像である。

現在も主要な堂塔だけで16棟の大伽藍を有するが、鎌倉・室町期には聖人化して祀る
「太子信仰」が広がり寺坊だけで30以上寺領2万5千石規模であったとのことだ。

下配布資料

Img192 戦国時代には織田信長羽柴秀吉らから弾圧を受けたが、官兵衛の勧めで寺領を差し出し
危機を乗り越えた。

天台宗では大講堂-非行非坐三昧、法華堂-半行半坐三昧、阿弥陀堂-常行三昧、
楼門-常坐三昧の四種三昧堂を形成するのが基本伽藍である。鶴林寺には全て揃う。

仁王門 県指定文化財
三間一戸楼門で入母屋造、本瓦葺常坐三昧堂である。下層の両脇に阿形と吽形の仁王像

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階上には釈迦・摩訶迦葉・阿難、十六羅漢の全19体を祀る。行者はこの階上で90日間
食事とトイレ、軽い眠気さましの歩行以外は坐禅し続ける。

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今年初めて公開。4月6日から6月29日の毎週日曜日。拝観料200円で楼上へ。

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中の仏像は撮影禁止であったが、材の虫食いが目につき撮影した。阪神淡路地震の
後に、補強工事は施工しているとのことだが、対応策講じなくてよいのか心配してしまう。

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本堂 国宝   
仁王門から正面に見える。
室町時代。入母屋造、本瓦葺き。桁行(正面)7間、梁間(側面)6間。堂内の宮殿
(くうでん、厨子)の棟札(むなふだ)銘から応永4年(1397年)の建築とわかる。
和様に禅宗様を加味した折衷様建築の代表作で、桟唐戸(縦横に桟を組んだ扉)を
多用する点が特色である。内部の宮殿には秘仏の薬師三尊像二天像を安置する。
宮殿と厨子の扉は5つともに閉められていて像を見ることはできなかった。

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本堂は明治34年に国宝(国指定文化財)となり、その内陣宮殿(厨子)の棟札に
室町時代の応永4年(1397)に再建されたことが記されている。

本堂右手詰所にて御朱印を受付けてくれる。四種類ほどあるそうで、次回は別のをお願いするとしよう。

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本堂の前左右に菩提樹沙羅の木が植栽されている。鶴林寺の鶴林とは釈迦涅槃の
「沙羅双樹の林」を意味する。寺の御詠歌にも

  

いにしえの 鶴の林に 散る花の  匂いを 寄する 高砂の風

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太子堂 国宝
平安時代。本堂の手前右方に建つ。堂内に壁画の聖徳太子像があることから太子堂と
呼ばれているが、元来は「法華堂」と称された堂で、本堂手前左方に建つ常行堂と
対をなしている。本堂と仁王門を結ぶ縦線に対し太子堂と常行堂を結ぶ横線で十字となる。

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屋根は宝形造(四角錐形の屋根)、檜皮葺き。桁行、梁間とも3間の主屋の前面に
梁間1間の孫庇(礼堂)を付した形式になり、側面から見ると、主屋と孫庇の境で
軒先の線が折れ曲がる「縋破風」(すがるはふ)の形になる。

宝物館内の模型写真

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屋根板の鎌倉時代の墨書から天永3年(1112年)の建築と分かる。
堂内には本尊釈迦三尊像を安置する。

建築とともに、堂内の壁画も平安時代絵画の稀少な遺品として重要である。
東側壁面に描かれた聖徳太子像は、中世から厨子で覆われ、秘仏扱いとされている。
昭和51年(1976)煤に覆われた来迎壁(本尊背後の壁)を赤外線写真撮影したところ
九品来迎図仏涅槃図が描かれているが判り報道された。

宝物館展示されている涅槃図想定復元模写図 (入口売店にて購入)
枕で仰向けのお姿や鳥や小動物が少ないなどの特色がある。

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常行堂 - 平安時代

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鐘楼 - 室町時代、応永14年(1407)

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行者堂 - 室町時代、応永13年(1406)

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鳥居と行者堂の間には聖徳太子会式法要の痕跡がある。

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護摩堂 - 室町時代、永禄6年(1563)

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新薬師堂

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薬師如来坐像

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講堂

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三院の内最も大きな西の浄心院さん、中央は宝勝院、東は真光院 

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東の真光院では牡丹、君子蘭、沙羅双樹の花を見ることができた。

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子安地蔵

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経蔵

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三重塔 大日如来像が安置されている。

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宝物館
黒田官兵衛が守ってくれた鶴林寺の寺宝の数々を近くで見ることが出来る。
聖観音立像、十一面観音立像、聖徳太子絵伝、釈迦三尊像のほか
太子堂内で赤外線撮影して確認され想定復元された九品来迎図と仏涅槃図なども
興味深く拝見した。更に今回特別展として「黒田官兵衛と鶴林寺」は官兵衛との
関わりが解り興味深いものであった。父親の代から親交があり、官兵衛は九州侵攻時祈願し
勝利し、大名になり、千貫文(約1億円)送っていたという書付もある。

新宝物館は鉄筋コンクリート平屋約442平方メートル。3億6千万円の巨費を掛け2010年8月末に完成した。旧宝物館にはなかった館内の温度と湿度を管理する設備を備えている。

2002年7月、旧宝物館の鉄製の扉がこじ開けられ、掛け軸8幅(約1億7500万円相当)が盗まれている。犯人は逮捕され、7幅は同寺に戻ったが、国の重要文化財「阿弥陀三尊像」の掛け軸は見つかっていない。そのため、新宝物館には周囲に赤外線の侵入警報機を設置。各所に防犯カメラを設け、収蔵室の鉄の扉は約20センチの厚みがある。

鶴林寺公園に咲く藤の花

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"軍師官兵衛"ゆかりの地を訪ねる その2称名寺(加古川城跡)

"加古川評定"の加古川城跡真言宗山頂山称名寺
兵庫県加古川市加古川町本町313 JR神戸線「加古川駅」徒歩15分
本尊は阿弥陀如来です。寺の付近一帯が加古川城跡。

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加古川城
平城で寿永3年(1184)に糟谷有数が築城した。現在城遺構はほとんど消滅してない。
加古川城の歴史は古く「寛政重修諸家譜」によると、 糟屋氏を藤原北家良方流と
している。相模国糟屋荘に生まれ糟屋氏を名乗る様になったもので、播磨での糟屋氏は
「加須屋」とも書かれる。平安時代末糟屋有季が寿永3年(1184)平氏追討の宇治川の
戦いに戦功をおさめ、 源頼朝より加古川町付近を与えられ糟屋有数の代に加古川城を
築き初代城主となった。

加古川評定
天正5年(1577)に開かれた中国の毛利氏討伐のために秀吉がこの城に播磨の城主たちを
集めて開いた軍議
のことで、戦国時代の播磨の運命を決めるものとなった。
播磨では三木の別所氏、御着の小寺氏、龍野の赤松氏の三大勢力が小競り合いを続けて
いた。官兵衛が働きかけ、一旦は織田側につくことになっていたが、この加古川評定の
際、秀吉の家柄を軽んじた別所山城守賀相が秀吉の不興を買ったために軍議が決裂した。
三木城主別所氏は毛利側に付くことになる。当時、播磨で最大勢力であった別所氏が
毛利側に付き、更に多くの城主たちも毛利側に傾くことになった。

織田信長は毛利に翻った播磨の諸城主を容赦せず、猛攻撃を仕掛ける三木合戦となる。
当時多く(鶴林寺住職の話によると約50名)の僧兵を抱えていた鶴林寺(かくりんじ)は、
官兵衛の説得を受け入れ秀吉軍についたため、戦火を逃れた
と言われている。

天正5年秀吉が糟屋の館へ立ち寄った折、当時の城主加須屋助右衛門は秀吉について
小姓頭となり、賎ヶ岳七本槍(しちほんやり)で武名をあげている。

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総門か立派な石の門 近年建立したものらしい。

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大公孫樹が既に見える。樹齢300年になる大イチョウが3本あり幹は大人4人から
5人で手がまわる太さ。昔はこの地域のランドマークだったとか。

まっすぐ伸びた参道 生け垣の外は両側とも墓地となっている。

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山門の前に石橋があり下は堀跡に見えなくもないが不明で屋根瓦が展示されている

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理観大徳遺跡 佛頂山 稱名寺の石塔 山門手前
台座に家型石棺の蓋が使用されている。 長さ131cm・幅73cm・厚さ27cm

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山門は両側に築地塀のついた四脚門 右は庫裏

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山門を入るといちょうの大木があり、今は刈り込まれていますが、
このいちょうの木は昔から加古川の町の目印となっていたそうだ。

左に武士の忠義を今に伝える「七騎顕彰碑
この碑は、撰文も書も頼山陽の筆になるもので、文政3年に建立。
これは南北朝時代、出雲守塩冶高貞が加古川で追手に襲われた際、主君を守ろうとして
奮死した従臣七名を供養するため建てられたもの。後に塩冶高貞は、人形浄瑠璃等の
代表的な演目「仮名手本忠臣蔵」に登場する塩冶判官のモデルとして取り上げられ、
忠義話として紹介された。

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称名寺は聖徳太子により開山されたと伝えられる。開山当初は西光寺と号した。
鎌倉時代、雁南庄領主であった糟屋有教が、加古川城を築いた時期から糟屋氏の
菩提寺とした。延文3年(1358)に大洪水により七堂伽藍がすべて流失し、貞治2年(1363)
有教の曾孫である保連が再建した。その後高野山遍照院の寛海上人が勝名院に改名した
が、後の時代に称名寺と再度改名された。その後再度火災に遭ったが、元禄4年(1691)
に現在の伽藍が再建された。

不動堂(本尊 不動明王) 

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2階に欄干 屋根には相輪。 堂の左は太子堂で、前に弘法大師像あり。

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2層の屋根は二軒(ふたのき)本繁垂木(ほんしげだるき)の扇垂木(おおぎだるき)
1層は疎垂木(まばらだるき)部は護摩壇になっっていて2層部分は煙出し

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大師堂(本尊 弘法大師)不動堂の左側 

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観音堂(本尊 聖観音菩薩)

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阿弥陀堂(本堂 本尊 阿弥陀如来)

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本堂の右側に毘沙門堂があり、その右側の方丈

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火伏せ八幡 横から見ると拝殿幣殿本殿が一体となった権現造りとわかる。

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火伏八幡の前に石楠花が華やかに咲いていた。

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社務所と思われる所で御朱印をお願いしたが「(書く人が)出掛けて居ないので・・・」と孫を抱えた奥様に断られた。残念でした。

"軍師官兵衛"ゆかりの地を訪ねる その1観音寺(志方城跡)

光姫生誕の地 櫛橋家の居城 志方城跡を守る 宝積山観音寺

岳父十七回忌法要参列の為神戸へ帰省したので、帰京前に是非訪ねたいと計画したもの。
西の法隆寺とも呼ばれる「鶴林寺」、加古川評定の加古川城址「称名寺」とここ「観音寺」
の三箇所である。可能なら姫路まで足を伸ばし「書寫山圓教寺」を希望していたが今回は断念した。

志方城(しかたじょう)は播磨国印南郡(兵庫県加古川市)にあった平城である。
現在、本丸跡は宝積山観音寺の境内、二の丸跡は加古川市立志方小学校になっている。
事前に調べた所JR加古川駅又は宝殿駅から神姫バス西牧行きで「志方西口」下車徒歩五分。

しかし時刻表によると便数が極端に少なく、バスで行っても見学後帰りの便までの待ち時間が
長くなりそうで、徒歩にて宝殿か加古川駅まで戻ることも考えた。見兼ねた義兄が宝殿駅まで
送るよといいつつ、結局志方城跡見学も付き合い次の加古川城跡称名寺まで送ってくれた。

狭い道が続き不安になってきた所で「てるひめちゃん」幟旗が見えて目的地が近いことを知る。

駐車場は他にあるか確認できていないが三台くらいしか駐車できそうにない。


事前案内で見ていた山門や階段が見えない。境内の堂宇も工事中。駐車場左からの入口は
門を新たに建造中らしい。

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真新しい石門山号が刻まれている。奥が墓地をはさみ志方小学校の校舎が見える。

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本堂大悲殿改修工事中で古い屋根瓦が鐘楼の横に展示されていた。

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鐘楼

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梵鐘

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観音寺は曹洞宗の寺院で、本尊は観世音菩薩、寺院一帯は志方城跡。
志方城は市易城とも呼ばれていた。内堀で本丸を囲み、さらに二の丸、西の丸が囲んでいた。
城郭の遺構は下写真にあるように観音寺山門脇の高い石垣に僅かに残っている内堀跡を
残すのみとのことである。

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事前の案内で見ていた山門

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光姫は志方城主櫛橋伊定の娘で、黒田官兵衛の主君小寺政職の姪にあたる縁者。
名前は「光(みつ)」だが雅号である「幸圓(こうえん)」でも知られている。
観音寺周辺の幟旗にも「櫛橋幸圓」の文字がある。

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官兵衛の才能を見込んだ小寺政職が官兵衛の父職隆(もとたか)に養女を嫁がせ、息子
官兵衛に姪を嫁がせている。一説では櫛橋伊定が画策していて婚姻の一年前から
官兵衛に接近して武具などを寄贈している。官兵衛愛用の兜「如水の赤合子」も
櫛橋伊定がこの時期に贈ったものとして知られている。

主君や親などによる政略結婚の官兵衛と光姫ではあったが、ふたりの相性は良く周囲が
羨む程の夫婦仲だった。子が長政と熊之助二人だけを心配した周囲が官兵衛に再三に
わたり側室を持つよう勧めるも、官兵衛は生涯にわたり光だけを愛し続け妻とした。

屋根瓦

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明応元年(1492)、櫛橋則伊によりに築城された。その後四代に渡り存続していたが、
志方城は天正六年(1578)織田勢に攻められた。四代城主の政伊の時、羽柴軍の
北畠信雄が、7500余騎をもって志方城に迫り、城兵はわずかに1,000余でしかも
櫛橋側の兵は半数以上赤痢に倒れているという状態であったとか。天正7年城主
櫛橋伊定は降伏した。司馬遼太郎「播磨灘物語」では官兵衛は秀吉を通じ命乞いを
したとある。そのお蔭か城主らは助命されている。
親兄弟さえも敵味方となり争った戦国の世でも妻の実家とは重いものなのだろう。

「黒田家譜」によると光は容姿が美しく教養も高く、家臣たちからも信頼されており
才色兼備とも才徳兼備ともいわれている。官兵衛と光には共通の和歌という趣味が
あり夫婦仲を良くするものとなっていて、関ヶ原合戦の後に福岡城三の丸に
質素な隠居所を建て夫婦水入らずで趣味の和歌を楽しみ暮らしたとのこと。

志方城落城の後、1587年(天正15年)、宝岩宗珍和尚が城主の墓碑を守るために
城の本丸跡に観音寺を建立し現在に至る。

大河ドラマ放映の影響は大きいらしく、こんなに交通事情の悪い中少人数ながらも
複数の団体が訪れていた。「かんべえくん」と「てるひめちゃん」が並んだ幟旗や
案内板も沢山見掛けた。

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山門を上がった本堂と思しき部分は工事中で、社務所のインターフォンを押して
住職の奥様に御朱印をお願いした。待ってる間にスタンプも。

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事前準備印刷物に押したスタンプ

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駐車場から上がった広場の左にトイレがありその奥にも古い門がある。

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光姫の墓 奥の建物は志方小学校

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墓地から見た観音寺全景

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法事のお供えされていて頂いた菓子にも「光姫」で大変な経済効果であろう。

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帰りは何と読むかと思っていた投松(ねじまつ)交差点を南下し加古川本町の加古川城址「称名寺」へ

2014年4月15日 (火)

久米川古戦場と新緑に萌える八国山

久米川古戦場で歴史に思いを馳せ、新緑に萌える八国山散策で自然満喫 

鎌倉古道ワープの旅の取り敢えずの最終回として久米川古戦場と
隣接する緑地である八国山(はちこくやま)の自然を楽しむことにする。

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無為庵の地元の七国山は「ななくにやま」であるが、若い人や地元の方でも
「しちこくやま」と読む人が多い。東京都から七国山風致地区に指定されていて、
七国山緑地保全地域緑地保全地域の第一号指定にもかかわらず宣伝PRが足りない
のではないかとイベントなどの機会を見つけては口頭で説明したり、配布文書では
るびを打つなどの活動を行ったものである。

本日は七国山(ななくにやま)を「しちこくやま」呼ばわりする元凶とも言えるかも
しれない八国山(はちこくやま)をこの眼で見てみようとの試みである。宮崎駿の映画
「となりのトトロ」のイメージ舞台となったのが大きな要因のようだ。八国山緑地が
トトロの森で、東京白十字病院がメイのお母さんが入院していた「七国山病院」だそうだ。

さて今回は登戸、府中本町、西国分寺、国分寺と東村山と五回乗換えて西武線所沢から
スタート。最初の目的地まで徒歩で20分弱で行けるが、丁度「西武園行き」バスがあり
4つ目の「勢揃橋北」から徒歩。バス停から前方に橋が見えるのが最初の目的地勢揃橋らしい。

勢揃橋

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勢揃橋は新田義貞が鎌倉攻めの時に義貞の軍をここで勢揃いさせたと伝えられる橋で、
柳瀬川(旧久米川)に架かっている橋である。

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橋の上から川を眺めると鯉が勢揃いしカルガモの援軍も見られる。

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進行方向正面にこんもりと見えるトトロの森「八国山」と思われる。新緑に萌えている。

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調整池では亀さんたちも勢揃い

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調整池を一旦左手東に少し後南へ歩くと「勝陣場橋」をわたることになる。
かちじん橋と読んでいたら、この辺は「精進場」「将陣場」とも呼ばれるらしく、
「しょうじんばばし」と読むのだろうか。鎌倉古道上道もここを通っていたと思われる。

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徳蔵寺
臨済宗大徳蔵寺派寿福山徳蔵寺、本尊は白衣観世音菩薩、開山年は元和年間(1615-1623)
の頃と推定されている。板倉氏の屋敷であったとのことで、新編武蔵風土記稿編纂の
頃は土塁や堀の跡が残っていたという。境内から中世の板碑が発掘され、本堂改築中に
宝篋印塔が数基発掘されている。写真正面が本堂、左手永春庵、左手奥供養宝塔。

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徳蔵寺板碑保存館
徳蔵寺が保管していた板碑・石器・土器等を保存するために昭和43年に鉄筋校倉造り
二階建ての保存館が完成、平成15年に改修工事を行っている。

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平日で拝観者も少ないのか、入館の方は社務所にとの貼り紙。
拝観時間は9時から17時まで、毎週月曜日は休館だとのこと昨日でなくてよかった。

入館には靴を脱ぐシステムで、トレッキングシューズのため着脱には少々苦労した。
1階は石器、土器、国分寺瓦、古銭など。2階が目的の板碑170基、宝篋印塔、五輪塔など

元弘の碑 国指定重要文化財
新田義貞は元弘3年(1333)5月8日上州生品(いくしな)神社で鎌倉幕府倒幕の挙兵をして、
鎌倉街道を南下5月11日小手指原で合戦し、12日久米川の合戦、15日第一次分倍河原の
合戦、16日第二次分倍河原の合戦、21日鎌倉稲村ヶ崎の合戦わ経て、5月22日東勝寺にて
北条高時と一族郎党は自害し壮絶な最期をとげ、鎌倉幕府は滅亡した。

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板碑は分倍河原と相州村岡(藤沢市)での合戦の日時場所と新田陣戦死者、上野国碓氷郡の
御家人飽間斉藤一族三名の供養の為に造られたものである。飽間斉藤三郎は26歳、
孫七は23歳、孫三郎は35歳だったとか。主家に従い、いずれもこの若さでの戦死であった。
何故上野国の将士の供養板碑が武蔵国にあったのかはなぞのまま。 

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小島法師が1370年頃加筆完成させたとされる「太平記」の記述内容を裏付け、
戦史を実証している板碑として有名となったものである。青みかがった緑泥片岩で、
高さ147cm幅44cmは貴重なる歴史のエビデンスである。

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朝夕読経の中にある光明真言のマントラも刻まれていて人が少ないのをいいことに
声に出して二度までも唱えてしまった。碑の下には左右に 「勧進 玖阿弥陀仏、
執筆 遍阿弥陀仏」の銘がある。

     光明真言マントラ
 おん あぼきゃ べぃろしゃのぅ まかぼだら まに
        はんどま じんばら はらばりたや うん

宝篋印塔、五輪塔なども

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板碑170基の展示は壮観で、その他比二基一対の比翼碑、獣脚付蔵骨器などは
東村山市有形文化財指定されている。

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こんなもの展示している?金精様か特に説明はなし。

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高蔵寺から西宿公園までの間、保育園の桜。八重の黄緑色で「鬱金」か?

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久米川古戦場跡の碑 東京都指定旧跡
西宿公園の西隣りに密やかに建っている。折角植栽されたハナミズキが斜めに育ち
石碑の正面に迫り出している。しっかり管理されているとは言えないようだ。   

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新田軍は鎌倉街道沿いに南下し、桜田貞国率いる鎌倉幕府軍を5月11日小手指原の戦い
で撃破。幕府軍は久米川(現在の柳瀬川)で新田軍の南下を食い止めるべく、久米川の
南岸で迎え出た。

勢いにのる新田軍は、八国山に陣を張り、ここから指揮をとり麓の幕府軍への攻撃を
開始した。現在、この陣の跡地は将軍塚と呼ばれている。小手指原で敗れた幕府軍には
もはや勢いはなく、戦いは終始新田軍優勢に進み、幕府軍は多摩川の分倍河原まで
撤退することとなる。

八国山
いよいよ八国山へ入山。立派な案内板や太陽光発電で蓄電されての照明具も設置されて
いる。尾根道の北側が所沢市、南側が東村山市となっている。案内板は東京都が設置
したらしいが、北側所沢側の緑地分がカットされた案内図となっており何とも寂しい。
緑地部分をグリーン色表示しているのだが、訪ねたい将軍塚は埼玉県なので白地に
申し訳程度に「将軍塚」の文字。住宅街の中にあるのかと勘違いするのではなかろうか。

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標高は89.4m三角点なし。、町田の七国山128.6mで三等三角点あり。いずれも山かと問われることが
多いが、間違いなく自然山ではある。またいずれも山頂から当時の国名で七カ国或いは八カ国
見えることが名の由来というのは同じである。そしてその国のほとんどは同じである。

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七国山は東側安房、上総、下総、北に上野、下野、常陸、西に相模、伊豆、駿河、
甲斐、信濃などが挙げられており、文献により信濃、常陸が抜けたりしている。
房総半島の三カ国が特色であろうか。今でも七国山からも南アルプスも望める。

Mapz

八国山は相模国大山伊豆国箱根の山甲斐国丹波山信濃国の浅間山
上野国赤城山下野国男体山常陸国筑波山、そして駿河国富士山
八つの山が見えたからが一般的のようだ。緑地は東西に長く尾根道は約2キロ

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民家に近い場所は高木が軒並み伐採されている。住民から落ち葉掃きが大変との
ことで行政に要請したのであろうか。町田市の七国山緑地保全地域でもあること
ではあるが、八国山は大規模であり、倒木被害をも懸念していようにも見えた。

クマザサが繁茂している。Img_5177

将軍塚
新田義貞が白旗を立てたと言われている塚。小手指原古戦場の白旗塚と同じだ。

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石碑の裏には
  元弘三年 新田義貞公鎌倉討伐ノ際 白旗ヲ建テラレタル遺蹟
    昭和十二年四月十五日 吾妻村史蹟保存會 石工佐藤観平

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将軍塚の手前に「元弘青石塔婆所在趾」の碑がある。
高蔵寺で見学した元弘の碑「板碑」があったことを示している。

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歴史探訪は終了。新緑の八国山の尾根道をのんびりと散策することにする。間伐や下草刈り
しっかりと手入れされているようだ。木の下闇になっている場所も殆ど無く、理想的な明るく
木漏れ日の森で、女性が一人で歩いても大丈夫そうに思えた。

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70歳前後と思しき男性がトレイルランニングをされている。鎌倉アルプスで若い人のは見たが恐れいった。余りの益荒男ぶりに、触発されるどころか健康や怪我を心配してしまった。

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おおぞら広場でトイレ休憩。トイレも二箇所設置されており七国山と違い「公園」となっている。

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トイレ済ませて南を見ると病院らしき建物。これが「七国山病院」となった東京白十字病院だ。

樹皮が美しいカバノキ科「イヌシデ」か。ウグイスの鳴き声も聞こえてくる。

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ヤマツツジが美しい。

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コンクリートのベンチより木造のがずっといい。ただの公園でなく緑地なのだから。

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暫く尾根道を進んだ後ふたつ池を目指すことにした。一つ目の池

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ふたつ目の池

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ころころ広場 桜が咲いていて花見している人がいる

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西武線が隣を走っている。

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西武園駅近くの菜の花

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遊園地がお休みで閑散とした中を多摩湖へ。お腹が空いて力が沸かない。
八重桜と観覧車

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多摩湖(村山貯水池) 給水塔の近くまで行き撮影したかったが諦めた。

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西武遊園地駅から乗って帰ろうとしたら、掬水亭の案内が目に入.る。レオライナーで一駅
とのことで掬水亭にて食事することにした。

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レオライナーは意外な程速い。
「おとぎの列車」の愛称で親しまれていた山口線が1985年に新交通システムに生まれ
変わったものだそうだ。1両8mと小型車体の4両編成でゴムタイヤで走行する省エネ、
ハイテク車両で一駅しか乗らなかったが、快適であった。
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掬水亭6階で眼下の多摩湖や春霞にぼんやりと確認できる大山など眺めながら遅目の昼食を頂いた。

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疲労感は残ったものの、一年の内寒からず暑からずの最高のお天気の中、以前から訪ねたかった
史跡・緑地を見学できてよかった。

新田義貞鎌倉攻め関連として群馬県太田市生品神社、所沢市小手指原古戦場跡
府中市黒鐘公園内伝鎌倉街道、府中市分倍河原古戦場跡、東京都町田市野津田
上ノ原遺跡、町田市七国山(ななくにやま)緑地保全地域内を南北に縦断する鎌倉古道、
神奈川県鎌倉市化粧坂稲村ヶ崎東勝寺跡など当ブログなどに公開している。
今回の久米川で予定していた新田義貞鎌倉攻め鎌倉古道ワープの旅はひとまず
終了とする。多摩市関戸や藤沢市村岡もあるが体調と都合つけば訪ねることとする。

 ⇒サイト内リンク生品神社(太平記の里ひとり旅 その1)
 ⇒サイト内リンク小手指原古戦場跡(埼玉県所沢市小手指原2014弥生)
 ⇒サイト内リンク黒鐘公園伝鎌倉街道(東山道武蔵路)
 ⇒サイト内リンク分倍河原古戦場跡(史跡 めぐり分倍河原その2)

 ⇒サイト内リンク井手の沢古戦場(井出の沢古戦場)
 ⇒サイト内リンク化粧坂(早春の鎌倉散策 その2)
 ⇒サイト内リンク稲村ヶ崎(鎌倉史跡めぐり2013年皐月その1)
 ⇒サイト内リンク東勝寺跡(史跡めぐり秋の鎌倉その3)
  ⇒サイト内リンク九品寺(史跡めぐり猛暑の鎌倉南東部)

 

2014年4月11日 (金)

江戸の潮風そよぐ浜御殿 特別名勝・特別史跡浜離宮恩賜庭園

名前を見聞きしたり、傍を通ることはあっても一度も入園を果たせていなかった
浜離宮に初めて訪れることができた。新橋駅からスタート。汐留高層ビル群の間を
縫ってふたつの出入口のひとつである「大手門口」が見えてきた。

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大手門橋の左手にある案内板

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大手門口

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大手門と庭園の門にも関わらずお城の門の名前をつけた門なのは何故だろう。
江戸城の「出城」としての機能を果たしていた徳川将軍家の別邸・庭園だからだ。
上の写真にあるように石垣がそれと示してくれている。

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出城とは戦術的必要に応じて、中心となる城から離して設けた城

サービスセンター

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受付の配布資料によると承応3年(1654)徳川将軍家の鷹狩場に四代将軍家綱の弟
松平綱重が海を埋立てて甲府浜屋敷と呼ばれる別邸を建てた。その後、綱重の子
綱豊が六代将軍家宣になったのを契機に、この屋敷は将軍家の別邸となり、「浜御殿
と呼ばれるようになった。

その後歴代将軍によって幾度かの造園と改修工事が行われ、十一代将軍家斉の時代に
ほぼ現在の姿の庭園が完成したとのことである。

受付で入園料300円を支払おうとしたら65歳以上半額の150円とのことで運転免許証を
出そうとしたら申し出だけでよいとのことであった。

入園者は日本人より外国からの観光客の方が圧倒的に多い。

特別名勝六義園も指定されているが特別史跡指定とダブル指定は
関東では小石川後楽園と浜離宮の二件だけである。

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昭和21年4月1日に開園、25haの広さ、樹木数  高木で約6千本

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パンフレットのマップを見ながら園内見学しようとしたが、北が下になっていて変な感じ都webの地図がいい。

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まずは「三百年の松

六代将軍家宣が庭園の大改修をした折に、その偉業を讃えて植えられた松の木。
太い枝が低く張り出して堂々とした風格をもっている。枝には支柱が必要。

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三百年の松の根本
園内で戦前から残る唯一の樹木。

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横から見ると

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内堀 やはり単なる庭園ではなくお城だったのだ。

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内堀への海水出入口

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明治維新の後は皇室の離宮となり、名称を「浜離宮」と変更された。
昭和20年に東京都に下賜され、翌21年4月から「浜離宮恩賜庭園」として公開された。
海水を取り入れているので潮の干満で景色の変化を楽しめる回遊式築山泉水庭

清澄庭園旧安田庭園の池なども嘗ては潮入の池であったが、現在では淡水化され
ているので、浜離宮の潮入の池はとても貴重な存在である。

 サイト内リンク⇒清澄庭園、  ⇒旧安田庭園

複数の茶屋の復元計画が進められており、2014年度に「燕の御茶屋」が完成予定である。シートで覆われていたがかなり大きそうに見えた。

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延遼館跡 解説板に拠ると
外国要人の迎賓館として明治2年5月落成した我が国最初の洋風石造建築物であった。
明治12年米国グラント将軍夫婦が世界周遊の途中に来日の際約2ヶ月滞在するなど、
多くの外国貴賓を迎えた由緒ある建物であった。しかし明治20年の地震による損壊が
激しく明治22年に取り壊された。

舛添東京都知事は4日、定例記者会見で、2020年東京五輪・パラリンピック
までに東京に和風の迎賓館を整備する考えを示した。候補地として浜離宮恩賜庭園が
挙げられていることに注目している。

小生も予予、外国から貴賓を饗すのに西洋式迎賓館やフランス料理はおかしいと思って
おり、京都迎賓館の建物や京都の老舗の料理人が当番制で担当している料理など
素晴らしいと思っていたので東京でも是非実現して欲しいと願っている。

花畑
残念ながら菜の花は花期の盛りを過ぎていて残念。盛りを想像して楽しんだ。

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旧稲生神社 桜花が残っている。

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椿も美しい。

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道路の両側が梅。既に実がなっている。

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浜離宮からは、日の出~浅草を結ぶ隅田川ラインが運行されている。
10時から15時それぞれ25分と50分と16時45分が最終で計13便出ている。
関西からの親族に東京観光のメニューに浅草から隅田川ラインを入れたものだ。

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桟橋

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灯台跡

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将軍お上り場 将軍が舟に乗降りする船着場
昭和24年キティ台風で階段の一部が崩れて海中に沈んだそうだ。

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レインボーブリッジが望める

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池と東京湾を繋ぐ水門

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干満によって水位は変動差は2mにも達するそうである。

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池のまわりには八重の桜が数種類咲き誇っている。

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八重桜 関山

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珍しい黄緑色の桜「鬱金

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海手お伝い橋

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樋口山

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横堀

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細い水路に桜の花弁がびっしり。花筏

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中の橋と桜

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中の橋から中島の御茶屋を望む

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御亭山 「おっちんやま」と読む。

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御亭山から中島の御茶屋を望む

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松の御茶屋

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中島の御茶屋、1707年の建設したのがはじめ。その後、皇室の離宮となっても国賓接待に使用。
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南から望むと

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馬場跡

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鴨場小覗き 鴨猟をしていた施設、鴨場の跡。

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小覗きから見てみると

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吉宗時代にベトナムから贈られた象を飼育

享保13年(1728)ベトナムから牡牝2頭の象が江戸将軍家に献上されることになった。
牝は上陸3ヶ月後の9月11日に死亡した。ほぼ1日3~5里(12~20キロ)長崎から江戸まで歩いた。
徳川実記』によれば、徳川八代将軍 吉宗は江戸城大広間から象を見たという。
幕府御用絵師狩野古信が現在東京国立博物館にある「亨保のゾウ」を描き、江戸は大騒ぎ、
巷には色々な草紙や双六まで出版された。中村平五撰『象誌』、智善院撰『象のみつぎ』、
林大学頭撰『馴象談』。井上道熙撰『馴象俗談』、一枚刷りの『広南霊象図』、
漢詩集『詠象詩』などの本である。また、歌舞伎の「象引」が創られた。
赤坂山王日枝神社の祭礼にて張り子の象山車までも登場した。
その後ここ浜離宮で飼育された後、民間に払い下げられ、見世物にされ糞が売られたりしたそうだ。

芝生庭に紫色の花。ムラサキツルゴケのわうだ。

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水面に桜の花びらと思いきや・・・、花菖蒲池で水が干上がっている。お陰て花弁が綺麗。

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藤の花が間もなく咲きそうだ。

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ツツジもスタンバイ。

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浜離宮の出入り口は大手門と中の御門の2か所あるが、新橋駅からの帰路となるので
大手門口から出ることにした。浜離宮と芝離宮がごっちゃになっていたものだが、今日で解決。

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