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2014年7月

2014年7月23日 (水)

旧安田庭園~潮入回遊庭園

両国まで来て時間もあったので、入園したことのない旧安田庭園を見学することにした。

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上写真の門から入った所

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元禄年間に、本庄宗資により大名庭園として築造された。
本庄松平氏(常陸笠間藩、のち丹後宮津藩)の下屋敷。

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安政年間に、隅田川の水を引いた潮入回遊庭園として整備された。

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明治に入り、旧岡山藩主池田章政の邸宅となる。 明治22年、安田財閥の祖である安田善次郎
所有することとなった。 大正11年、彼の遺志にもとづき東京市に寄贈された。
随所にベンチがありゆっくり観賞できる。

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四阿風の休憩所の前にあった石造「潮入茶屋」とある。夕刻に四角部分に灯が入るとイイ感じ。

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緑の松が綺麗です。

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十一重の塔

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太鼓橋の朱色が鮮やか。

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水門跡解説板

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かつては隅田川の水を取り入れ、隅田川の干満を利用し、眺めの変化を鑑賞する
庭園であった。 尚、このような潮入の池をもつ庭園として他に浜離宮恩賜庭園
旧芝離宮恩賜庭園がある。 隅田川のよごれが園に及ぶようになったため直接の
接続は停止されている。 現在は、園北側の地下貯水槽(貯水量約800トン)を
利用し、ポンプにて人工的に潮入が再現されている。
下写真は取り入れ口の水門とバルブが残されている。

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  サイト内リンク⇒江戸の潮風そよぐ浜御殿 特別名勝・特別史跡浜離宮恩賜庭園

園内で見つけた「虫こぶ」。植物の組織内に虫が卵を産み付けたり、微生物や菌が入り込み肥大化したもの。

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七国山緑地保全地域(町田市七国山風致地区)に巨大な虫こぶの椚がある。
これは「サビ菌」が侵入したものでコブ周りなんと281cm(平成21年12月測定)参考までに下に写真アップする。

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都指定旧跡吉良邸跡~本所松坂町公園 

回向院参拝の後、元禄時代事件当時は回向院に隣接していたという吉良邸跡を訪ねることにした。

現在の地図で見ると回向院の東隣のブロックとなる。

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回向院から京葉道路を東へガスステーションを右へ曲がり、歩いていると案内表示と
幟旗があるので有難い。ふたつ目を左へ、通りの左手になまこ壁に囲まれた「吉良邸跡」が見えてくる。予想以上に低い塀で、民家に挟まれた狭いスペースではある。

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公園前の石碑

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解説板

Img_5757 墨田区両国3丁目13番9号 97.56㎡(29.5坪)とある。さもありなん狭さである。
昭和9年地元の有志の方方が旧邸宅跡の一画を購入して寄付したことに始まるそうで、
狭いなど言ったら罰があたる。

元禄時代の当時は付近の一帯が吉良義央の邸宅であり、その広さは約8400平方メートル(2550坪)と
推算されている。邸宅は、赤穂浪士による討ち入りの後は江戸幕府に没収され、その後住宅などが
立ち並び、往時の吉良邸を偲ばせるものはなにもなかったが、昭和9年(1934)に地元の有志らが
旧邸内の「吉良の首洗い井戸」を中心に土地を購入して東京市に寄贈し、翌昭和10年(1935)に
公園として開かれたのが始まりである。昭和25年(1950年)に墨田区へ移管された。

毎年12月14日赤穂四十七士と吉良二十士両家の供養を行う義士祭には多数の出店などがあり、全国から多くの観光客も来て賑わう。

赤穂浪士事件の史跡としては高輪の泉岳寺がある。サイト内リンク⇒赤穂義士廟所泉岳寺

松坂稲荷
この地にもともとあった上野稲荷と、徳川家がやってきた後に祀られた兼春稲荷を合祀して
1935(昭和10)年にこの地に建てられたもの。

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吉良上野介追慕の石碑

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吉良邸跡解説板

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みしるし洗い井戸 赤穂浪士が打ち落とした吉良の首を洗った

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吉良上野介義央公座像
公園内には吉良上野介の像が鎮座している。これは、愛知県吉良町にある1690年頃に50歳の上野介自身が作らせた木像を元に作製されている。

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飯澄稲荷
 吉良邸の門から見て右手の方に、小さな神社があった。飯澄稲荷神社とある。

 

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邸宅跡の左隣り佃煮屋さん 江戸時代の調味料である「煎り酒販売中」の表示に思わずシャッター押した。

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日本一の無縁寺 両国回向院

七不思議を題材に深川に暮らす人たちの事件を回向院の茂七が解決する人情物語
である宮部みゆき本所深川ふしぎ草紙」は昨年読んだ。お芝居や時代小説等で
しばしば出てくるのに回向院がいったいどこにあるのかも知らないでいた。
そこで、時間ができたら行きたい場所にリストアップしていたものである。

JR両国駅からスタート。西口を出て左へ国技館の方向とは逆へ国技館通りを進む。
両国らしく横綱像が歓迎してくれる。

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暫く歩くと、突き当りに回向院の山門が見えてくる。

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今から357年前明暦3年(1657)に開かれた法然上人を宗祖とする浄土宗の寺院。
正称は諸宗山無縁寺回向院。寺院山門の前石碑には諸宗山回向院参道とある。
本所回向院とも言われている。東京都墨田区両国二丁目。

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この年江戸で振袖火事の名前で後世にも有名な火災に襲われ、市街の六割以上が
焦土と化し、焼死者10万8千人を幕命(徳川家綱)によって葬った万人塚が始まり。
明暦三年の大法要と万人塚の図。

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参道

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参道竹林の間にミニ灯籠
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後の安政大地震や、水死者や焼死者・刑死者など横死者の無縁仏も埋葬。
あらゆる宗派だけでなく人、動物すべての生あるものを供養するという理念から、
軍用犬・軍馬慰霊碑や犬猫供養等塔、ペットの墓も多数ある。
名称に「無縁」があるが日本一の無縁寺へ発展を遂げた。

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一際目立つ家畜供養塔

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家畜供養塔の内部、江戸三十三箇所観音参りの第4番札所であり、この馬頭観世音菩薩も
徳川家綱の愛馬を供養した事に由来している。

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回向院の開創間もない頃、将軍家綱公の愛馬が死亡し上意によってその骸を当院に葬ることになりました。
その供養をする為、回向院 二世信誉貞存上人は馬頭堂を建て自らが鑿をとって刻し安置した
馬頭観世音菩薩像は、享保年中(1716~35)の頃から「江戸三十三観音」に数えられてお り、
「江戸砂子拾遺」によると、回向院はその二十六番札所と記されています。

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家畜供養塔の左右にはペットの名前などが書かれた卒塔婆が立て懸けてある。

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著名人の墓として、山東京伝竹本義太夫鼠小僧次郎吉など。
両国橋はその参拝客のためにが架けられたものである。

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明治36年の境内図

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天明元年(1781)以降には、境内で勧進相撲が興行された。
これが今日の大相撲の起源となり、1909年旧両国国技館が建てられるに至った。
国技館建設までの時代の相撲を指して「回向院相撲」と呼ぶこともある。
回向院境内の相撲小屋を描いた錦絵

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1936年1月には大日本相撲協会が物故力士や年寄の霊を祀る「力塚」を建立した。

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回向院の御本尊阿弥陀如来は、かつては本堂を背にして露天に安置されていた、
いわゆる濡仏さまでした。通称「釜六」(釜屋六右衛門)の作で、宝永二年(1705)に
安置され、身の丈六尺五寸五部、蓮座三尺四寸五分もある大きな銅作りの坐像。
ふくよかなお顔の阿弥陀如来座像と背面の千体地蔵尊は後光さながらにご本尊を守護されている。

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寺務所にて御朱印をお願いした。阿弥陀如来と馬頭観音の二種の内、今回は阿弥陀如来をお願いした。

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右手に錫杖、左手に宝珠を持たれて地蔵菩薩様、参詣者は願い事が成就すると
塩を供えたことから、「塩地蔵」と呼ばれ親しまれてきました。風化した石造と前には沢山の塩。

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新供養塔

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鼠小僧次郎吉の墓
時代劇で義賊として活躍するねずみ小僧は、黒装束にほっかむり姿で闇夜に参上し、大名屋敷から千両箱を盗み、町民の長屋に小判をそっと置いて立ち去ったといわれ、その信仰は江戸時代より盛んでした。

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長年捕まらなかった運にあやかろうと、墓石を削りお守りに持つ風習が当時より盛んで、現在も特に合格祈願に来る受験生方があとをたちません。現在では御前立の白い石を削り持ち帰っているらしい。

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2014年7月14日 (月)

楠木正成公を祀る湊川神社

高校時代まで神戸で暮らしながらちゃんとお参りしたことがない。
学生時代に北東にある図書館にはしばしば来ていたものだ。路面電車の市電を利用することが多かったが、
国鉄利用の場合は神戸駅からの途中に楠公さんの境内を通ったことがあったように思う。しずれにしても
拝殿で参拝したことはない。なんと罰当たりな事だ。因みに初詣は父と車で京都伏見稲荷神社参りが
恒例行事であった。

初めて湊川神社にお参りしようというのである。
湊川神社は楠木正成公を祀った神社である。門を入って右に正成の墓があり、本殿の西側付近は
正成自害の場とされる。元々は小さな塚だったものを、江戸時代の初めに尼崎藩主青山幸利が墓標とし、
17世紀末には徳川光圀が「嗚呼忠臣楠子之墓」と刻んだ石碑を立てた。

JR神戸駅から北へ進むとすぐそれと判る。多聞通りを渡ると表神門が見えてくる。

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幕末には倒幕志士の尊王のシンボルとなり、王政復古後、初代兵庫県知事伊藤博文らの請願に
よって1872(明治5)年に神社が創建された。地元では、「楠公さん(なんこうさん)」の名で親しまれている。

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大きくはないが重厚で威厳ある門である。

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表神門に掲げられた扁額の社号は、明治天皇の揮毫

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建武中興十五社の一社で、旧社格は別格官幣社である。国体に功績を与えた人物を祀る神社ということで
別格官幣社と呼ばれます。

楠木正成は、延元元年(1336)5月25日、湊川の地で足利尊氏と戦い殉節した(湊川の戦い)。
その墓は長らく荒廃していたが、元禄5年(1692)になり徳川光圀が「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑を
建立した。この右に水戸光圀公の銅像がある。

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本殿への参道 しっとりと雨に洗われている。

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参道右に巨大灯籠二基

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幕末には維新志士らによって祭祀されるようになり、彼らの熱烈な崇敬心は国家による楠社創建を
求めるに至った。慶応3年(1867)に尾張藩主徳川慶勝により楠社創立の建白がなされ、
明治元年(1868)、それを受けて明治天皇は大楠公の忠義を後世に伝えるため、神社を創建するよう命じ、
明治2年(1869)、墓所・殉節地を含む7,232坪(現在約7,680坪)を境内地と定め、
明治5年(1872)5月24日、湊川神社が創建された。

参道右に赤い鳥居が並んでいる。楠本稲荷神社で朱色の鳥居と赤い幟で華やいだ一画となっている。

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主祭神である楠木正成は、河内に本拠地をおいたいわゆる武将で、元弘元年(1331)に後醍醐天皇に
応じて挙兵し、鎌倉幕府倒幕に貢献する。建武の新政後の足利尊氏の反乱において、九州から京都に
向かう尊氏を湊川の地で迎え打ち、新田義貞らとともに戦うが、建武3年(1336)年5月25日に敗退し
自刃した。

社名の候補としては、「大楠霊神社」案と「南木神社」案と「湊川神社」案があった。
「湊川神社」案は、神祇官官吏の八木雕の提案によるもので、地名をつけることで覚えやすくなる
だろうとしている。湊川神社に続いて建てられた人物顕彰神社の多くも地名を社名につけるこの例を
踏襲することとなる。

拝殿
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拝殿にて礼拝したところで雨が本降りとなってきた。殉節地や宝物殿など廻りたかったが
社務所にて御朱印をお願いしたら帰ることした。

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拝殿の右に御神牛 
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その左遥拝所

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拝殿右にある「菊水天神社」

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表神門を潜り左手にある「宝物殿

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拝殿の天井奉納画は、戦災復興に際して棟方志功の呼びかけにより全国著名画家から奉納された
163点で、中央の「大青龍」は福田眉仙の大作がある。拝殿前に奉納画図録を社務所にて販売となり
御朱印をお願いするときに求めた。表紙の写真は内拝殿の格天井。

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拝殿から見える外拝殿の格天井

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福田眉仙作「青龍」

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棟方志功作「運命」

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2014年7月13日 (日)

生田神社~神戸の地名の由来となった神社

所用で神戸へ帰省した。珍しくひとりでの帰省することになり久しぶりに新幹線を利用した。
実家の灘は兄が亡くなり義姉だけで、実姉が芦屋にいるが高齢で迷惑掛けたくなく
初めてホテルを予約した。所用後甥に送ってもらった。中山手通り2丁目生田警察の南隣り。

一階部分が蔦に覆われ入口が狭い。ここが予約したホテルか不安になる。 翌朝撮影したホテル入口
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生田神社西口辺りから撮影したホテル全景

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女性が好みそうなホテルの植栽

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ホテル部屋の窓から生田神社境内の本殿の横、生田池、生田の森、神社会館などが望めた。
明日廻る予定であったが、直ぐそばであり散歩がてら生田神社境内へ出掛けた。

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旧社格は官幣中社。兵庫県内の廣田神社、長田神社とともに神功皇后以来の歴史を有する。
生田神社は1800年以上の歴史を有する。生田の神を守る家、神戸(かんべ)が由来となって神戸という地名
となったそうだ。生田は元々は活田であり、活き活きとした生命力溢れる場所という意味。
神戸中心市街地三宮駅に近く訪れる参拝客も多い。有名女優が結婚式をあげたことで話題となった。

楼門

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現在の神戸市中央区の一帯がかつて社領であった。地元では「生田さん」として親しまれている。
私自身は高校時代まで灘区に住んでいたが、一度もお参りしていなかった。初詣は父と車で
京都伏見稲荷へお参りしていたからだ。

祭神は稚日女尊(わかひるめのみこと)である。
「稚く瑞々しい日の女神」を意味し、天照大神の幼名とも妹とも和魂であるとも言われている。

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201年に神功皇后の三韓外征の帰途、神戸港で船が進まなくなった為神占を行った所、稚日女尊が現れ
「吾は活田長峡国に居らむと海上五十狭茅に命じて生田の地に祭らしめ。(=私は“いくた”の“ながさの国”
に居りたいのです。“うなかみのいそさち”に命じて生田の土地に祀らせて欲しい)。」との
神託があったと日本書紀に記されている。

当初は、現在の新神戸駅の奥にある布引山(砂山(いさごやま))に祀られていた。延暦18年(799)の
大洪水により砂山の麓が崩れ、山全体が崩壊するおそれがあったため、村人の刀祢七太夫が祠から
御神体を持ち帰り、その8日後に現在地にある生田の森に移転したといわれている。

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平城天皇の806年(大同元年)には「生田の神封四十四戸」と古書には記され、現在の神戸市中央区の
一帯が社領であった所から、神地神戸(かんべ)の神戸(かんべ)がこの地の呼称となり中世には
紺戸(こんべ)、近年に神戸(こうべ)と呼ばれるようになった。

神階は859年(貞観元年)に従一位まで昇った。延喜式神名帳では「摂津国八部郡 生田神社」と記載され、
名神大社に列し、月次・相甞・新甞の幣帛に預ると記されている。

近代社格制度のもとで1871年(明治4年)に県社に列格し、その後1885年(明治18年)に明治天皇の
西国巡幸の際、初めて官幣社に列し官幣小社に、1896年(明治29年)には官幣中社に昇格した。

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社殿は、1938年(昭和13年)の神戸大水害、1945年(昭和20年)の神戸大空襲、
1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災など何度も災害等の被害に遭い、
そのつど復興されてきたことから、「蘇る神」としての崇敬も受けるようになっている。

延暦18年の大洪水の際、社の周囲には松の木が植えられていたが、全く洪水を防ぐ役割を果たさなかった。
その故事から、今でも生田の森には1本も松の木は植えられていない。また過去には能舞台の鏡板にも
杉の絵が描かれ、元旦には門松は立てず杉飾りを立てる。

松尾神社 酒造の神様を祀る。灘五郷を控えているので納得。

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大海神社 海運業で栄えた地ならではか。

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鳥居の向こうに楼閣、本殿があるが、他にも脇社として蛭子神社および稲荷社、
弁天池などがある。また、「謡曲生田敦盛」の碑がある。

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灘五郷の酒造会社が寄贈した酒樽

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包丁塚  1993年(平成5年)10月25日に建立された。

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境内北側に鎮守の森が広がっており「生田の森」と呼ばれている。枕草子にも「森は大あらきの森…信太の森…生田の森…」とあり、平安時代から歌にも詠まれている。

  月残る生田の森に秋ふけて夜寒の衣夜半にうつなり  後鳥羽院

  汐なれし生田の森の桜花春の千鳥の鳴きてかよへる 上田秋成

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平安の雅の行事「曲水の宴」が行なわれているそうな。

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手を翳すとびんびんと気を感じるご神木の楠木の巨木

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生田の森出口 生田警察の前へ出る
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箙の梅 源平合戦の時、梶原源太景季が境内に咲く梅のひと枝を矢を入れる箙にさして奮戦した。

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謡曲「箙」と梶原景季」の解説板

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生田ロードを南へ歩くと鳥居

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更に南へ 近代的な高層ビルの中に古い洋館が残されている。 おしゃれなカフェのようだ。神戸らしくていい。

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写真は7月13日と翌14日二日間にわたり撮影した。

2014年7月 3日 (木)

鎌倉五山稲荷山浄妙広利禅寺~喜泉庵で抹茶、ガーデンテラスで昼食

神奈川県鎌倉市にある臨済宗建長寺派の仏教寺院。
山号は稲荷山(とうかさん)。詳名は稲荷山浄妙広利禅寺という。
本尊は釈迦如来。開基は足利義兼、開山は退耕行勇。
鎌倉五山の第五位。鎌倉三十三観音第9番。

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鎌倉五山とは中国の五山制度にならって鎌倉の禅寺に設けられた五大官寺
第一位建長寺第二位円覚寺第三位壽福寺第四位浄智寺、第五位浄妙寺

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鎌倉は三ヶ月毎に訪れている。六月の予定であったが葬儀が入り今回に順延したものである。JR鎌倉駅からスタート。滑川沿いの六浦道(金沢街道)を杉本寺を過ぎての花の橋の先左側駐車場を左へ曲がると正面に山門が見える。昨年夏報国寺と杉本寺は参詣している。
 サイト内リンク⇒報国寺・杉本寺(史跡めぐり猛暑の鎌倉南東部)

山門を潜り左の社務所で拝観料百円を納める。御朱印もここで受付けてくれる。
本堂への両側は庭となっていてる。春の芽出しから紅い色の園芸種ノムラモミジか
いいアクセントになっている。

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本堂へ真直ぐの参道  境内は国の史跡に指定されている(1966年11月2日指定)。
境内は梅、つばき、ぼたん、サルスベリ、いちょう、紅葉などの名所として知られる。

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ハンゲショウの白が眩しい

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鎌倉五山の第五位の寺院として、かつては広大な寺地を有し、23箇院の塔頭を有していた。
現在でも付近一帯の地名を「浄明寺」といい、その名残を残している。下は配布資料「稲荷山浄妙寺ー略記ー」にある境内略図で山門から本堂の間に複数の堂宇が建っていたことが解る。

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足利義兼による文治4年(1188年)の創建と伝えられる。初めは極楽寺という真言宗の
寺院であったが、建長寺開山蘭渓道隆の弟子、月峯了然(げっぽうりょうねん)が
住職となってから禅刹に改め、ついで寺名も足利貞氏の法名をとって浄妙寺と称した。
寺名を改称したのは正嘉年間(1257~1259年頃)とみられる

参道左に花塚

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花塚の前に猫ちゃん、気持ちよさそうに昼寝していたのを邪魔したのかな。

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本堂 - 寄棟造、銅板葺(もと茅葺)。平面は方丈形式の六間取りとする。
江戸時代中期の建物だが、仏壇周辺などには室町時代の材が用いられている。

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鎌倉札所第九番の扁額。深川木場の材木商が寄贈したらしい。

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本堂中に別の扁額「方丈」とある

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本堂の右は庫裏

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本堂左手にある喜泉庵 - 天正年間(1573 - 1591年)に建立された茶室喜泉庵を復興したもの。
枯山水庭園があり、有料で茶菓が供される。

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抹茶と干菓子をお願いした。
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外国のお客様を含む2グループ5人の先客があったが、静かに庭を鑑賞できた。
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杉苔と白砂を効果的に配した枯山水。
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宝篋印塔 - 本堂裏の墓地に足利貞氏の墓と伝える明徳三年(1392年)銘の宝篋印塔がある。
基台の銘文により、罪障消滅・後生善根を願う逆修塔とされる。

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稲荷山 - 寺の裏山で、藤原鎌足が子孫のために「霊鎌」を埋めた地とされ、これが「鎌倉」の地名由来となったという伝承がある。複数ある「鎌倉」の地名由来伝承の一つである。鎌足稲荷神社の小祠がある。

境内の高台に、90年近い歴史を刻んだ洋館を改装して、石窯で焼くパンを提供するカフェ&レストランとして2000年5月にオープンした。

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途中鮮やかな黄色のカンナが迎えてくれる 
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境内にこんな洋館があろうとは驚きである。

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ショップ

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ショップ前の花壇に咲くルドベキア

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ガーデンテラスでは、イングリッシュガーデンに咲く四季の花を眺めながら
食事・お茶を頂ける。客席からは、ガラス張りのパン工房を見ることができる

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イングリッシュガーデン

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イングリッシュガーデンで一際背高でめだっているアーティーチョーク

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日時計もあり、ちゃんと合っている。

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unknown4 日時計の右に咲いていた紅い花 

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イングリッシュガーデン散策路とベンチImg_5643

鴨肉、鎌倉野菜、人参のスープ、石窯焼きたてパン4種、最後にコーヒーを美味しく頂きました。
今までの鎌倉史跡めぐりは慌ただしく歩きまわっていたが、今回御茶しながら食事もゆっくりと
楽しむことができた。これからも年齢相応で体調と相談しながら楽しんでいければと希望している。

帰りにお願いしていた御朱印を頂き帰路へ。

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