« 2014年9月 | トップページ | 2014年11月 »

2014年10月

2014年10月24日 (金)

東京都立清澄庭園~回遊式林泉庭園

東京都指定名勝清澄庭園~回遊式林泉庭園

深川稲荷神社から南に200mほど進んだところが清澄庭園・清澄公園。

Img_6101

清澄庭園の右西側が清澄公園となっている。

Img_6102

清澄庭園の門を入り右側に大きな案内板で園内マップと解説がなされている。

Img_6104

サービスセンターで免許書提示して70円支払い入園。年金生活者にはありがたい。

Img218

清澄庭園は、一説には江戸の豪商、紀伊国屋文左衛門の屋敷跡と伝えられている。
亨保年間(1716-1736)に下総国関宿の城主久世大和守の下屋敷となり、庭園のもとが形造られた。

明治11年(1878)に三菱財閥創業者岩崎弥太郎が一帯の土地10万平方メートルを社員の
慰安や貴賓接待場所として買い取り造園し、明治13年(1880)に「深川親睦園」を開園した。

その後も造園工事は進められ、隅田川の水を引いた大泉水をはじめ築山、周囲には
全国から取り寄せた名石を配して明治の庭園を代表する「回遊式林泉庭園」として
完成させた。1889年(明治22年)には庭園の西側にジョサイア・コンドル設計による
洋館が建てられている。

ジョサイア・コンドル(1852-1920)はイギリスのロンドン出身の建築家。
政府関連の建物の設計を手がけた。また工部大学校(現・東京大学工学部建築学科)の
教授として辰野金吾ら、創成期の日本人建築家を育成し、明治以後の日本建築界の
基礎を築いた。作品として鹿鳴館ニコライ堂古河虎之助邸など多数。

  サイト内リンク ⇒旧古河庭園2013年5月~国指定名勝

大正12年(1923)に発生した関東大震災で庭園は大きな被害を受けて邸宅も焼失した。
図らずも近隣住民の避難場所となり多くの人命が救われた。災害時避難場所としての
都市公園の機能
が認識されたのである。

それを受けて大正13年(1924)三菱3代目社長の岩崎久弥は当時の東京市に庭園の
東半分を公園用地として寄贈。市は大正記念館の移築や深川図書館の新館舎建設など
整備を進め、昭和7年(1932)7月24日に清澄庭園として開園した。

昭和48年(1973)に東京都は残る西半分の敷地を購入。翌年から整備を開始し、
昭和52年(1977)に開放公園(清澄公園)として追加開園した。

園内案内マップ

Photo

池の周りの散策路を巡るとしよう。早速伊豆磯石の蹲(つくばい)。 「鹿威(ししおどし)」ではないよ華ちゃん。

Img_6108
伊豆川石
Img_6107
伊豆磯石
Img_6109
生駒石

Img_6110

大正館 大正天皇の葬儀に用いられた葬場殿。
戦災で失われ、貞明皇后の葬場殿の材料を使って再建された。集会施設として予約して利用可能。

Img_6111

式根島石

Img_6112

三大銘石佐渡赤玉石、磨きあげたのをある寺境内で見て違和感を覚えたことがある。
この庭園の様に自然のままがいいな。
    因みに三大銘石とは
          ①佐渡・赤玉石②神戸・御影石 ③鳥取・佐治川石

Img_6113

芝生を前にした大正館

Img_6115

磯渡り

Img_6116

「摂津御影石の水鉢」と案内表示あり。三大銘石である本家本元の御影石だ。
大学進学で上京するまで過ごした神戸には御影石を取り扱う石屋さんが多く、
灘区と東灘区の境を流れる石屋川天井川としても有名だ。

Img_6119

晩秋の紅葉がイメージできる。

Img_6120

井筒 伊勢御影石

Img_6121

十一重石塔

Img_6123
涼亭を望む

Img_6126
池と涼亭

Img_6129

富士山

Img_6131

黒松と涼亭

Img_6133

池越のに望む大正館

Img_6135

中島に展示されている秩父青石  板碑の多くがこの石で作製されている。

Img_6137
島で休むアオサギ二

Img_6138

鏡のごとし池の水面 空の青さも写し神秘的な景色でした。

Img_6143

九重塔

Img_6144
石蕗が今を盛りと咲き誇っている。

Img_6147

石灯籠
Img_6148

枯山水 渓流゜が滝へと流れ落ちてくる。

Img_6152
Img_6153

巨大で面白い形をした真鶴石 河馬が大きな口を開けているようにも見える。

Img_6154

芭蕉の句碑 芝生広場の南端っこ

Img_6155

句碑の解説板 この句は、貞亨3年(1685年)の春、詠まれ。句碑は昭和9年に其角堂9代目の晋永湖と
いう神田生まれの俳人が建てたもの。芭蕉庵改修の際、敷地が狭いので清澄庭園に移した。

Img_6156

涼亭入口

Img_6159

涼亭

Img_6161

大磯渡り

Img_6164    
中島

Img_6166
Img_6170

讃岐御影石の山灯籠 自然石で趣がある。

Img_6175

山深き渓流の趣

Img_6177

層が面白く出ている石

Img_6178

紀州青石

Img_6171

浜離宮恩賜庭園と同じ潮入り庭園の面影を残す古いバルブを見つけたが撮影できなかつた。
当初池水は隅田川からの導水による潮入り庭園で、潮の干満の差によって景観が変化するよう造園設計
されていたものである。旧安田庭園も当初は隅田川の水を引き込んでいたものである。

  サイト内リンク
      ⇒ 旧安田庭園~潮入回遊庭園
      ⇒ 江戸の潮風そよぐ浜御殿 特別名勝・特別史跡浜離宮恩賜庭園

深川史跡巡り散策~深川神明宮、松尾芭蕉記念館など

隅田川を越えて東側は日常的に行く機会もなく、交通の便も悪く何回も乗り継ぐ
必要があり遠くて数年前までは生涯訪れることもないだろうと思っていたものだ。
昨年、史跡めぐりや花紀行で巡った柴又帝釈天亀戸天神掘切菖蒲園向島百花園
引き続き今年小岩菖蒲園回向院・吉良邸跡・安田庭園にも訪問できている。

Img_6027

さて、本日の史跡散策は今年二回目の深川で、森下駅からスタート。
表参道で半蔵門線に九段下で都営新宿線に乗換え初めての「森下駅」での下車である。

R

ホームで深川神明宮はA7出口と確認し清澄通りを南へ3つ目の角を右へ約百米先右手に
進むと鳥居が見えてくる。

Img_6033

鳥居の前に日本画家の伊東深水の生誕地の解説板もある。近くで生まれ尋常高等小学校2年までここで
育っている。更に勤務地が深川東大工町であったとか地縁があったのだ。朝丘雪路のパパとしても有名。

Img_6044
深川神明宮
今からおよそ四百年の昔、現在の深川一帯は葦の生い茂る三角州であった。
その頃、深川八郎右衛門が一族を引き連れてこの地に移り住み、土地の開拓に着手し
ました。八郎右衛門は信心深く、屋敷内に小さな祠を建て、伊勢神宮の大神さまの
ご分霊をお祀りし、開拓民の幸せと、深川の地の発展を祈念しました。これが、深川神明宮の起源である。

Img_6036
鳥居左にある由来記石碑  上記の由来が記されている。

Img_6034

ご祭神は天照大御神
神明神社は、天照大神を主祭神とし、伊勢神宮内宮を総本社とする神社である。
神明社(しんめいしゃ)、皇大神社(こうたいじんじゃ)、天祖神社(てんそじんじゃ)など
ともいい、通称として「お伊勢さん」と呼ばれることが多い。
神社本庁によると日本全国に約5千社あるとされているが、
一説には約1万8,000社ともいわれている。

手水舎

Img_6043
注連縄が真直ぐである。2012年10月に参拝した群馬県太田市の生品神社の注連縄のゆるさと対照的だ。
 サイト内リンク⇒太平記の里ひとり旅 その1~生品(いくしな)神社、東山道公園

Img_6042

伊勢の神宮との深い繋がりから、第五十九回のご遷宮の際には、御鏡・御太刀・御盾の
ご神宝をいただき、ご本殿にお納めされているそうである。

Img_6040

マニキュア狛犬か? 右側阿形の口内、鼻の穴ほか爪も紅く塗られている。 

Img_6048
狛犬左吽形も紅く塗られているがそんなに目立たない。 

Img_6046

深川七福神の一つ寿老人もお祀りされている。

 深川七福神とは①富岡八幡宮の恵比寿、②冬木辨天堂の弁財天、③心行寺の福禄寿、
 
④円珠院の大黒天、⑤龍光院の毘沙門天、⑥深川稲荷の布袋尊とここ⑦深川神明宮の寿老人。

Img_6039
和合稲荷神社

Img_6038

神輿でも有名で、その格納されている建屋が鳥居を潜って直ぐの参道両側にある。

Img_6037

本殿右に社務所があり、御朱印も受付けてくれる。
丁寧に書いて頂いた。

Img217
芭蕉記念館へは深川神明宮の前の道路を西へ進み突き当り丁字路の右側にあるのが芭蕉記念館

Img_6031
芭蕉記念館

Img_6049

「芭蕉」が植栽されている。

Img_6053

趣きのある記念館入口

Img_6050

松尾芭蕉は、延宝8年(1680年)それまでの宗匠生活を捨てて、江戸日本橋から
深川芭蕉庵に移り俳諧活動し、元禄7年(1694年)51歳で没した。

Img_6051

草の戸も住み替わる代ぞひなの家」の句碑

Img_6055
芭蕉庵は、弟子の土地で、生け簀があり、その番小屋で暮らしていたと言われている。
芭蕉の句に詠まれた草木を植栽し、池もある。

Img_6067

芭蕉没後、芭蕉庵一帯は、武家屋敷であったとか。当初は尼崎藩の松平紀伊守の下屋敷で、
明治初年には長州藩の屋敷となり、その後民有地となった。土地所有者の頻繁な変更で、
芭蕉庵跡の正確な位置はわからないそうである。
江東区はこのゆかりの地に、松尾芭蕉の業績を顕彰するため、昭和51年に芭蕉記念館を、
平成7年に同分館(芭蕉庵史跡展望園)を開設したものである。

Img_6061
築山には、芭蕉庵を模した茅葺き屋根の祠 祠の中の松尾芭蕉

Img_6060

「古池や蛙飛び込む水の音」と「川上とこの川下や月の友」の芭蕉句碑がある。

Img_6064

芭蕉記念館の裏木戸から隅田川河畔に出ることができる。前方は新大橋 

Img_6072
下流には清洲橋が端正な姿を見せてくれている。

Img_6071

隅田川河畔を南方向に200mほどで、芭蕉記念館の分館である
芭蕉庵史跡展望公園」がある。残念ながら改修工事中でした。
芭蕉記念館分館史跡展望庭園は、階段改修工事のため休園 10/20-12-10

Img_6074
入口左手に句碑 

Img_6076
左へ進み直ぐを右へ行くと別館建屋入口がある。 この建物の屋上が展望庭園で芭蕉像があるはずだ。
庭内には芭蕉翁像や芭蕉庵のレリーフなど楽しみにしていたが次回の楽しみにとっておこう。

Img_6078

別館を後にし東へ少し行くと左手に、赤い幟旗が目立つ芭蕉稲荷大明神らしい。

Img_6079

芭蕉稲荷大明神  同好の士と思しき初老紳士が手帳にメモりながら見学されていた。

Img_6084

大正6年(1917年)の大津波の後、この場所で「芭蕉遺愛の石の蛙」が発見されたことから、
芭蕉庵のあった場所とされている。史跡芭蕉庵跡石碑。

Img_6081
奥の細道旅立ち300年記念碑

Img_6083

川船番所跡
芭蕉稲荷大明神を左に見て、東へ進み大きな通りを右へ行くと、前方に万年橋が見えてくる。
この橋の手前が川船番所跡。

Img_6090

川船番所は幕府により設けられた番所で、万年橋の北岸に置かれ、川船を利用して小名木川を通る人と
物を検査した。江戸から小名木川を通り利根川水系を結ぶ流通網は、寛永年間(1624年~44年)には
すでに整いつつあり、関東各地から江戸に運ばれる荷物は、この場所を通り、神田・日本橋などの中心部へ
運ばれていた。こうしたことから、江戸への出入り口としてこの地に置かれたことと思われると説明している。
明暦3年(1657年)の大火後、江戸市街地の拡大や本所の堀割の完成などに伴い、寛永元年(1661年)中川口に移転しました。以後中川番所として機能することとなり、川船番所は元番所と通称されました。

小名木川のウォーターゲート この水門の先が万年橋

Img_6028
萬年橋
万年橋は、区内の橋のなかでも古く架けられた橋のひとつです。架橋された年代は明らかではないが、延宝8年(1680年)の江戸図には「元番所のはし」として記されているので、この頃にはすでに架けられていたと推量される。

Img_6086
小名木川に架けられた橋は、船の通行を妨げないように下の写真の説明板にあるように高く架けられていた。
万年橋も虹型をした優美な橋で、歌川広重は「名所江戸百景」のなかで「深川万年橋」として描かれている。
葛飾北斎は「冨嶽三十六景」のひとつに「深川万年橋下」として、美しい曲線を描く万年橋を大きく扱い、
その下から富士山を望む、錦絵を残している。
現在の万年橋は、長さ56.4m、幅11mの昭和5年にかけられた鋼橋。

Img_6092

古く架けられた橋とわかる。

Img_6093

芭蕉庵史跡展望庭園 小名木川対岸から芭蕉像が小さく見えている。

Img_6094

清洲橋は、万年橋北側からの眺めが一番美しいといわれている。ドイツのケルン市に架けられたライン側の
吊り橋がモデルとなっている。

Img_6097

万年橋を渡り、ふたつ目の角を左へ、2ブロック約200m程進み大きな通りと交差する左手角地に鳥居が
見えてくる。深川稲荷神社

Img_6099
小さな神社ではあるが、寛永7年(1630年)の創建と伝えられ歴史ある古い神社だ。
旧町名の西大工町にちなんで『西大稲荷』という別名がある。
深川七福神の布袋尊を祭っており、清廉度量にご利益があると伝えられている。
地元の町会が管理運営している。

Img_6100

関東大震災(1923年)の後の区画整理により町名が変更され、昭和27年頃から深川稲荷神社に。

この後に訪ねた清澄庭園は別途アップすることにする。

隅田川の東側の史跡めぐりや植物園関連のサイト内リンクは以下の通りです。ご参照下さい。

  柴又帝釈天 ⇒葛飾柴又帝釈天~彫刻の寺院
  亀戸天神  ⇒花紀行 亀戸天神藤2013
  掘切菖蒲園 ⇒花紀行 掘切菖蒲園 2013年6月6日
  向島百花園 ⇒向島界隈史跡巡り散策~向島百花園、白鬚神社、長命寺、三囲神社、牛嶋神社
  回向院   ⇒日本一の無縁寺両国回向院 
  吉良邸跡  ⇒東京都旧跡吉良邸跡
  旧安田庭園 ⇒旧安田庭園~潮入回遊庭園    小岩 ⇒花紀行 小岩菖蒲園2014

2014年10月 9日 (木)

小田急沿線史跡めぐり曹洞宗大谿山豪徳寺~井伊家菩提&招猫発祥~

二ヶ月ぶりの史跡めぐりは近場小田急沿線の豪徳寺。初めての参詣であり、いつもの様に予め駅からは方向・道順などを頭に入れて臨んだ。しかし・・・

Img_5941

小田急線豪徳寺駅に降り立つと招猫が迎えてくれた。新宿はこちらだからと豪徳寺は右側と自信を持って駅前の商店街を進むが豪徳寺の雰囲気がしてこない反対方向らしい。

Img_5942
和菓子店頭に招猫が並んでいて少し安心だが・・・。不安になり駅へ戻ると豪徳寺沖縄祭の垂幕が反対側に見えてきた。駅を降り立った方向が新宿方面を向いていると思い込んでいたがやはり間違っていた。

Img_5943

賑やかな商店街を進むと、電柱にも猫が描かれている。「猫の寺」の門前街らしい。

Img_6007

三軒茶屋の友人宅を訪ねた帰りに利用したことがある東急世田谷線の電車の音も聞こえてきて安堵。

Img_5944
しかし豪徳寺への案内板は全く無く、通り掛かりのご婦人に尋ねたら、この先の踏切を左へ曲がると右手に豪徳寺境内とのこと。教わった角を曲がると確かに右手前方に豪徳寺と思われる境内の塀が見えてきた。塀を見るだけで豪徳寺境内の広大さが分かる。

Img_5945

豪徳寺裏門とある。 北側で正門は南側にあるということらしい。

Img_5946
次の角を曲がっても延々と塀が続く。やがて門らしきものがみえてきたが「東門」とのことだ。正門はこの先を右に曲がった所で、立派な参道もあると手書きの案内がある。

Img_5947
世田谷線「宮の坂」駅からだと小田急豪徳寺駅の半分の距離で、下写真の参道口に出る。「大谿山豪徳寺」の立派な案内板も設置されている。

Img_5951
狛犬が迎えてくれその先に立派な参道が正門へと誘ってくれる。

Img_5953
参道両脇の黒松も見事です。

Img_5954
上で寄り添ってる黒松が微笑ましい。

Img_5958
山門 (惣門)

Img_5949
見事な草書扁額「碧雲閣」。碧雲閣は豪徳寺十景のひとつ。

Img_5950
山門左手に「都史跡 井伊直弼の墓」の石碑が設置されている。

Img_5960

山門を入ると立派な香炉が目に飛び込んでくる。奥正面は仏殿

Img_5965
本寺付近は、中世の武蔵吉良氏が居館とし、天正18年(1590年)の小田原征伐で廃城となった世田谷城
主要部で、寺の南側に世田谷城阯公園がある。元世田谷城主吉良氏ゆかりの寺院で弘徳院と称していた。

天正十二年(1584)中興開山宗関(高輪泉岳寺の開山)の時、臨済宗から曹洞宗に改宗。寛永10年(1633)に世田谷領15カ村が彦根藩井伊家の領地となり、井伊家の菩提寺となった。井伊家2代・直孝の没後、彼の法号「久昌院殿豪徳天英大居士」から豪徳寺と改称された。 宗関(もんなんそうかん)は今川義元の孫

サイト内リンク曹洞宗江戸三ケ寺萬松山泉岳寺 

直孝の娘掃雲院は多くの堂舎を建立、寄進し、豪徳寺を井伊家の菩提寺に相応しい寺観に改めた。仏殿とその三世仏像、達磨・大権修埋菩薩像、及び石灯籠二基、梵鐘が当時のままに現在に伝えられている。

Img_5972
仏殿に掲げられている扁額「三世仏」。漢数字「」の二を三にして「さん」と読ませている。三世とは過去・現在・未来のことだ。

Img_5973
仏殿木像5躯(世田谷区指定有形文化財):仏殿同様、延宝5年(1677)、仏師・松雲元慶の作。
        大権修利菩薩像、 弥勒菩薩像  釈迦如来像  阿弥陀如来像  達磨大師像
木造大権修利菩薩椅像、総高101cm
木造弥勒菩薩坐像、総高80cm
木造釈迦如来坐像、総高72cm
木造阿弥陀如来坐像、総高72cm
木造達磨大師坐像、総高64.8cm
木像五体は、胎内銘札によると、延宝5年(1677)井伊直孝の娘掃雲院が、父の菩提を弔うために、「洛陽仏工祥雲」に五体一具として造らせたものであることがわかる。祥雲は黄檗宗の鉄眼の弟子で、のちに五百羅漢寺の五百羅漢像を彫像した松雲元慶(1648-1710)のことである。当時仏殿建立を初め豪徳寺の復興に努めていた掃雲院は、鉄眼ら黄檗僧に深く帰依し、その影響を受けていた。このような関係から仏殿造立に当って、祥雲が推挙されたものと考えられる。本像は、江戸時代の代表的な仏師祥雲の早期の作例として、また黄檗風仏像彫刻の数少ない遺例として貴重である。(世田谷区教育委員会掲示より)

仏殿を東側から撮影 「選佛場」扁額あり。鶴見總持寺の堂宇にもあった。

Img_5983

本尊     釈迦如来

鐘楼

Img_5982

梵鐘(世田谷区指定有形文化財):延宝7年(1679年)の作。本梵鐘は、延宝7年に完成の後、今日まで移動なく当寺に伝えられてきた。形姿は、比較的細身で均整のとれた優美な姿を呈し、吊手の龍頭は力強くメリハリのきいた雄渾な造形で、細部の表現も精巧な出来栄えである。撞座の意匠も独創的であり、工芸的に優れた完成度の高い梵鐘といえる。制作者の藤原正次は、別に釜屋六右衛門とも名乗り、当時江戸で名のあった鋳物師である。また世田谷代官大場市之丞吉寛が幹事となっている。本梵鐘は、この時代の梵鐘の一典型として、さらには、著名な鋳物師の力量を窺う作品として、美術工芸的に貴重である。また、区内に伝わる梵鐘としては現存最 古であり、世田谷に縁ある人物がその制作にかかわるなど、近世世田谷の歴史を知るうえでも貴重な遺品である。(世田谷区教育委員会掲示より)

三重塔は新しいが、境内に風格を添える荘厳さを備え美しい。

Img_5967

Img_5969
2006年5月に完成という新しい堂宇。塔二階の蟇股(かえるまた)には十二支の像に加えて。なぜか猫も入っている。撮影したかったが失敗。

招福庵 扁額は「松福庵」となっている。

Img_5991
井伊直孝は飼い猫によって当寺へ招き入れたという招き猫の伝説があり、この飼い猫は松福庵(招福庵)に祀られている。東京三十三観音霊場11番札所。招福観音堂の左奥には沢山の奉納された招猫が安置されている。想像していたより少なかった。

Img_5994
招き猫伝説
招き猫発祥の地とする説がある。井伊直孝が猫により門内に招き入れられ、雷雨を避け、和尚の法談を聞くことができたことを大いに喜び、後に井伊家御菩提所としたという。豪徳寺では「招福猫児(まねぎねこ)」と称し、招猫観音(招福観世音菩薩、招福猫児はその眷属)を祀る「招猫殿」を置く。招猫殿の横には、願が成就したお礼 として、数多くの招福猫児が奉納されている。ちなみに、招福猫児は右手を上げており、小判などを持たない素朴な白い招き猫である。2007年11月25日まで滋賀県彦根市で行われている「国宝・彦根城築城400年祭」にちなんだイメージ・キャラクターのひこにゃんのは、豪徳寺で猫に救われた井伊直孝公ということらしい。

庫裏 左側に受付あり。

Img_5984
本堂

Img_5985

本堂扁額「豪徳禅寺」

Img_5987

納骨堂 本堂の左手にある。本堂奥に「開祖堂」があるが下境内案内図にある通り非公開とのこと。

Img_5988
本堂お参り後受付にて御朱印をお願いした。

Img_5989
準備していた御朱印帳ではなく、紙に予め用意された御朱印を押したものに日付を書き加えたものを頂戴した。

Img214
境内案内図

Photo

彦根藩主井伊家墓所(国の史跡)
将軍家側近でもあった井伊家の姿を物語り、江戸時代の幕藩体制と大名文化を考える上で欠くことのできない貴重な通産であるため、一括で「彦根藩主井伊家墓所」として、平成二十年三月二十八日、国史跡に指定された。(世田谷区教育委員会掲示より)

Img_6001

俳優の中井貴一が先月9月15日、東京・世田谷の豪徳寺で主演作「柘榴坂の仇討」の公開直前イベントを行った。浅田次郎氏の短編を原作中井が演じる志村金吾桜田門外の変で主君・井伊直弼の暗殺を許してしまった彦根藩士という役で、井伊を討った水戸藩浪士・佐橋十兵衛阿部寛)というふたりの男がたどる 13年間の苦悩と孤独、そしてついに訪れる「運命の再会」を描く。この日は同地に眠る井伊の墓前に手を合わせ、映画の完成を報告したとのことだ、

境内には、桜田殉難八士之碑もある。

Img_6000        

墓所途上に違和感を覚える不思議なレリーフ像の存在に驚かされる。若い命を散らせた学徒出陣の鎮魂碑か。

Img_6003

無名戦士慰霊記念碑だそうだ。
  

Img_5998

銘板には以下が綴られている。

    いくさの旅に
    さまよい果てたる
   はらからよ
  ここにかえりて
    やすらいたまえ
       日本大学教授 山田 孝雄
 

山田孝雄氏は契沖、真淵、宣長以来の国学の伝統に連なる最後の国学者とも呼ばれている。

江戸時代寺周辺では「豪徳寺十景」 と呼ばれたものがあったとか。現在消滅しているのもある。
①清涼橋(門前の流水烏山川に架した板橋 現存せず)
碧雲関(惣門)山門扁額
③楓樹林(惣門を入って左稲荷社の辺り)
④松柏壇(井伊家墓地の一帯)
⑤臥龍桜(仏殿の前の桜木。世田谷御所より移植したという)
⑥照心堂(経蔵)
⑦括華塔(門庵和尚の墓)
⑧三隅山(城址の後ろの方)
⑨望嶽丘(城址の前の方)
⑩黄鳥哺(清涼橋の西方の梅林 現存せず)

紅葉、枝垂れ桜、藤、牡丹なども綺麗だとか、久しぶりの外出となり銀行や買物など用事があり今回予定していた松蔭神社も割愛したので、季節を変えて改めて訪れたいものである。

« 2014年9月 | トップページ | 2014年11月 »