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2014年12月

2014年12月10日 (水)

師走の鎌倉詣~八雲神社、安養院、安国論寺など

三ヶ月毎に訪れている鎌倉であるが、今回は都合により7月5日以来五ヶ月ぶりである。
今回は鎌倉駅からバスで「名越」まで行き「安国論寺」「妙法寺」「安養院」「上行寺」「別願寺」「八雲神社」「常栄寺」「本覚寺」と回る計画を建てた。

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駅から近いにも拘わらずバス利用は前回史跡めぐりの後右脚に痙攣あり痛い思いをしたからである。しかしJR鎌倉駅到着後東口バスターミナルで時刻表を見ると2分前にでたところで、次の便は30分後と分かり仕方なくゆっくり歩いて行くことにした。

若宮大路に出て右折横須賀線手前を左折、予想外に綺麗な水が流れている滑川で泳ぐ巨大化した鯉たちを橋上から眺めてバス通りをゆっくり歩いた。途中「安国論寺」の案内板がありこのまま真直ぐ歩けば良いことがわかり安堵した。鎌倉市には案内表示が要所要所にあり不案内な者には大変有難いことだ。

大町四つ角の交差点の手前で左を奥を見たらお寺さんらしいのが見えたのでリュックからカメラを取り出して撮影開始。

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教恩寺」とある。まったくノーマークの寺院で予備知識もなかった。

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北条氏康が開基。知阿上人を開山とする時宗の寺と分かる。もとは2013年夏参拝した浄土宗大本山光明寺の境内にあった寺だそうな。1678年に貴誉上人が移建したといわれている。本尊の阿弥陀如来像は運慶作で、一ノ谷の合戦に敗れた平重衡が囚われの身となって鎌倉に連れてこられたとき、源頼朝が、平家一族の冥福を祈るために籠堂を建立し、阿弥陀三尊を奉安したもの。鎌倉観音巡礼第12番札所(聖観世音)
 サイト内リンク⇒光明寺(史跡めぐり 猛暑の鎌倉南東部~報国寺、光明寺、逗子マリーナなど)

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山門の十六羅漢の彫刻は見事で見学予定外の寺にも拘わらずバシバシ撮影した。

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平重衡が往生できるよう祈願すると阿弥陀像が三度うなずいたという伝説があるそうな。

教恩寺を出て再び鎌倉葉山道路を東へ進むと、間もなく八雲神社の案内が見えてきた。

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鎌倉最古の厄除神社である八雲神社
「鎌倉の厄除さん」「八雲さん」、「お天王さん」の愛称で親しまれている神社である。
御祭神は須佐之男命・稲田比売命・八王子命・佐竹氏の御霊

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平安時代永保年間(1083)新羅三郎義光が兄の八幡太郎義家の助勢(後三年の役)のため奥州に赴く途中で鎌倉に立ち寄った際、疫病が流行っていたため、京都の祇園八坂社の祭神を勧請したのが八雲神社の始まりと伝えられている。

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室町時代足利成氏(しげうじ)が関東管領の頃(1449)は当社神輿が管領屋敷に渡御し奉幣の式がおこなわれたことが「鎌倉年中行事」に記されている。江戸時代には将軍より朱印も賜り、「祇園さま」として尊崇された。

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明治維新を迎え、鎌倉祇園社という名称から八雲神社へ改称。七月の神幸祭は、神輿渡御で知られ、幼児を抱いての「みこしくぐり」は、子の無事な成長を祈願する。

御祭神である須佐之男命が詠んだという歌「八雲立つ出雲八重垣つまごみに 八重垣つくる、その八重垣を」という我が国最古の和歌からの命名であろうか。

新羅三郎手玉石
拝殿前左手にしめ縄をした御神木があり、その麓に新羅三郎義光のの手玉石がある。新羅三郎義光は力持ちとして知られており、その力試しに使われたのが、この手玉に取ったと言われている大石である。各地に「手玉石」「袂石」「力石」など名前は違うが力自慢が持ち上げたり投げたりしたという石が村の鎮守などに伝承されていて興味深い。
サイト内リンク⇒神田神社、 北野天神社(所沢市)、 御霊神社(鎌倉市)

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末社
御嶽三峯社(火災盗難除の守護)
稲荷社(商売繁昌・家内安全の守護)
於岩稲荷社(家庭円満・女性の除災守護)。(由緒略記より)

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宝蔵殿 神輿四座、宝剣一振、古鏡一面、神楽面、古文書等

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右手の社務所にて御朱印をお願いし「八雲神社由緒略記」も頂いた。

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八雲神社から鎌倉葉山線に戻るとすぐに沿道に石碑が見え、どうやら別願寺らしい。

別願寺は、鎌倉公方代々の菩提寺であり、鎌倉での時宗の中心として栄えた。もとは真言宗の寺で能成寺といったが、1282年(弘安5年)、住職だった公忍が一遍に帰依し、名を覚阿と改め時宗に改宗した。同時に寺の名を別願寺とした。

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境内には、室町幕府に対して「永享の乱」を起こした足利持氏(四代鎌倉公方)のものとされる供養塔(宝塔)がある。この供養塔には、持氏の怒りを鎮めるため、四方に鳥居の浮彫りが施されている。

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鎌倉観音巡礼第13番札所(魚籃観世音)開山 覚阿公忍 本尊 阿弥陀如来

上行寺(じょうぎょうじ)
道路側に「癌除」「瘡守稲荷」「鬼子母神」と大書されていて直ぐにそれと知れる。

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日蓮上人の孫弟子にあたる日範上人が1313年に開山した寺院。
すべての病(特に癌)ご利益があるとされる瘡守稲荷(かさもりいなり)と、身がわり鬼子母神が祀られている。

山門 山門の裏側には龍の彫刻があり、日光東照宮の「眠り猫」の作者といわれる名工・左甚五郎の作。

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扁額に「感應閣」とある。

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守護堂 入口に靴三足あり、住職の声がするも、御朱印依頼は憚れお願いせず去った。

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安養院は上行寺の前
北条政子が建立したお寺で、坂東33観音のひとつ。北条政子のお墓もある。

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道路側に立派な石碑

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解説板
『尼将軍と称される北条政子が、夫である源頼朝の冥福を祈るために佐々目ガ谷に建立した祇園山長楽寺が前身であると伝えられます。その後、鎌倉時代末期に善導寺の跡(現在地)に移って安養院になったといいます。安養院は北条政子の法名です。延宝8年(1680)に全焼したため、頼朝に仕えていた田代信綱がかつて建立した田代寺の観音堂を移します。こうして『祇園山安養院田代寺』となりました。』

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浄土宗祇園山安養院田代寺 設立 嘉禄元年(1225) 願行上人の開山 北条政子による開基 

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ご詠歌に「古樹にも 花開く誓ひ 田代寺 世を信綱の 跡ぞ久しき」

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本堂右前に立派な槇の巨木樹齢700年

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本堂

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本堂扁額「祇園山」

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山門を入り右手に寺務所庫裏あり。ベルを押して御朱印をお願いした。

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境内に凛と咲いていた水仙

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北条政子の墓は鎌倉五山の第三位壽福寺の実朝の隣とも伝えられている。

 サイト内リンク⇒寿福寺(早春の鎌倉散策 その2~化粧坂、寿福寺、英勝寺、海蔵寺~)

妙法蓮華山安国論寺(あんこくろんじ)

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山門

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解説板

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寺務所札所にて御朱印をお願いしてからお参りすることにした。

正岡子規歌碑
鎌倉の松葉が谷の道の邊に 法を説きたる日蓮大菩薩  

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参道 庭師が作業中で本堂手前から振り返り撮影

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本堂

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本堂扁額

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九重塔 本堂右手

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天竺渡りの像だろうか、ガンダーラ石像に見える。ヒンズー風でもあるが・・・謂れ不明な石像 

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釈迦の佛足跡

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立正安国論石碑
長勝寺・妙法寺と並び日蓮の鎌倉での布教の中心となった松葉ヶ谷草庵跡とされ、松葉ヶ谷霊跡安国論寺とも言う。開山は日蓮とするが、弟子の日朗が文応元年(1260)に、日蓮が前執権北条時頼に建白した「立正安国論」を執筆した岩穴(法窟)の側に安国論窟寺を建てたのが始まりである。

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熊王殿
右の階段を登ってくと富士見台へ。急坂で高齢者や脚に自信の無い方は無理しないほうが良さそうだ。上で女性グループが大きな声で盛り上がっている。

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富士見台からは稲村ヶ崎由比ガ浜海岸を含む市内を一望できる。
日蓮が毎日富士山に向って法華経を読誦されたと伝えられている。

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境内案内図

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鐘楼

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立正安国の梵鐘

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巨大な石塔

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十五重石塔

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日朗上人荼毘所

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御小庵

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境内にはが市天然記念の妙法桜(ヤマザクラ)海棠、  樹齢350年と言われる山茶花物 

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札所でお願いしていた御朱印を頂いた。予め書いて用意したものを御朱印帳に貼って下さったものである。

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安国論寺を出て右へ「苔寺」としても有名な楞厳山妙法寺

建長5年(1253年)に日蓮が安房より移り住んだ松葉ヶ谷草庵跡に開かれたとされ、現在も境内奥の山腹に「御小庵趾」の碑がある。安国論寺、長勝寺も、それぞれ松葉ヶ谷草庵跡を称しており、すべて開山は日蓮、創建は建長5年。 サイト内リンク⇒長勝寺(史跡めぐり 猛暑の鎌倉南東部~報国寺、光明寺、逗子マリーナなど)

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入口近くに建つ解説板によると
「ここは布教のため安房から鎌倉に入った日蓮聖人が最初に草庵いわゆる松葉ケ谷御小庵を結んだと伝えられている地です。辻説法などで他宗を批難したため草庵が焼き打ちされた「松葉ケ谷の法難」の場所もこのあたりとの伝承がある。のち護良親王の皇子で楞厳法親王妙法房日叡(りょうごんほうしんのうみょうほうぼうにちえい)が悲壮な最期を遂げた父母の供養と日蓮聖人の遺跡を守るためにこの寺を建て山号を楞厳山とした。本堂は細川家の寄進による見事な欅造り。」

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実質的な開山は日蓮より数えて第5世となる楞厳法親王妙法房日叡(りょうごんほうしんのうみょうほうぼうにちえい)で、延文2年(1357)のことである。後醍醐天皇の子・護良親王と藤原保藤の娘・南方(みなみのかた)の間に生まれた日叡は日蓮を偲び、かつ父・護良親王の菩提を弔うためにこの地に堂等伽藍を建て、自身の幼名である楞厳丸(りょうごんまる)にちなみ楞厳山法妙寺と名付けたという訳だ。

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本堂扁額 扁額上下の木組みや彫刻も精細で美しい。

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本堂前赤石 赤石に緑の苔が付いている。横のイロハモミジといい感じです。

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苔石段-仁王門から釈迦堂跡に続く石段で、苔に覆われており、このため妙法寺は別名「苔寺」「苔の寺」とも呼ばれる。苔の保護のため通行止めとなっており、脇に新しい階段が作られている。残念ながら本日は本堂前までしか入れないそうで、月により休日限定や天候にもよるようだ。次回確認の上改めて拝観させていただくことにした。

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