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2015年2月

2015年2月19日 (木)

国指定史跡相模国小田原城

難攻不落小田原城初攻め

新幹線で関西方面へ行くとき右側座席から瞬時目に入り訪ねたいと思いながらも、箱根の帰りに立ち寄る余裕もなく曽我梅林でも小田原駅まで来たが直ぐに乗換えて、全く初めての小田原である。来月皇居参観の予約をしており、今回は小田原城を中心に見学することとする。

小田原駅は東日本旅客鉄道(JR東日本)・東海旅客鉄道(JR東海)・日本貨物鉄道(JR貨物)・小田急電鉄・箱根登山鉄道・伊豆箱根鉄道の駅がひとつの構内に収まっているのである。

小田原城は東口へ出ると、南側に天守閣が見えてくる。最短の「お城通り」を歩くとだと5分位で着きそうに見える。

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今回は「お堀端通り」を歩くこととする。排水口の蓋にも城下町の風情。

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二の丸東堀が見えてきた。本丸・二の丸を守る堀の中で最も大きなもので、最大幅40mあり、南北は現在より60m長く、西は常盤木橋までつながっていた。石垣は大正12年(1923)関東大震災で崩れ昭和初期復旧したもの。江戸時代のはより高く威厳のある姿であったそうだ。

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東堀に架かる学橋。元々は無かったものを城址公園への入口として架けたもので朱が美しい。桜の季節には朱の橋と花がお堀に映えて綺麗だろう。橋名の由来は不明。(どなたか教えて下さい。)学橋を渡り入園する。

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東堀と隅櫓

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明治天皇駐蹕趾石碑 右側には行幸の碑あり

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二の丸築地塀

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二の丸隅櫓 大正12年(1923)関東大震災で石垣ごと崩落したが、昭和9年(1994)復興されたものである。江戸期のものに比して一回り小さい。隅櫓は曲輪の隅に配置される櫓。その方位・位置により二十四方位にちなんだ名称が与えられることが多い。たとえば東南(辰巳)に配置された櫓は、「巽(辰巳)櫓」。櫓前に解説板が設置されているが残念ながら殆んど読めない状態である。写真は北から撮影。
 サイト内リンク⇒皇居東御苑巽櫓

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二の丸御殿跡 小田原城には将軍の旅宿専用の「本丸御殿」と藩主の居館や行政庁としての役割を持つ「二の丸御殿」のふたつの御殿があった。「二の丸御殿」は三代将軍家光が上洛のおり止宿した寛永年間(1624-1644)頃が最も壮麗で能舞台や唐門も備えたりっぱなものであった。平成9年10年試掘調査では元禄大地震で真赤に焼けた土と前期の御殿の礎石や屋根瓦などが出土した。後期の御殿は前期の焼け跡を埋立てて新たに建てられていた。

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御殿跡に咲く水仙

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このあと銅門・馬出門と廻ったが先に馬出門から紹介する。
馬出門(うまだしもん)。二の丸正面に位置する門で、馬出門・内冠木門と土塀で周囲を囲む枡形門の構造。馬屋曲輪へ通ずることからこの名がついたもので平成21年に復元された。

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馬出門手前から見た隅櫓。東堀水面に映る隅櫓が美しい。

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馬出門と内冠木門の二つの門と周囲を石垣と土塀で四角に囲んだ「桝形形式」の門で、二つの門には、控柱にそれぞれ屋根がつく「高麗門形式」。

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門を出て振り返ると高麗門様式と解る。

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平成9年復元された銅門(あかがねもん)。馬屋曲輪(うまやくるわ)から二の丸に通じる位置にあり、二の丸の正門にあたる。渡櫓門(わたりやぐらもん)、内仕切門(うちじきりもん)と土塀で周囲を囲む枡形門(ますがたもん)の構造を持つ。

住吉橋と内仕切門

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堂々とした渡櫓門

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渡櫓門にはその名の由来となった銅板の装飾。

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銅門を潜り振り返ると巨大な横木が印象的

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紅梅越しに常盤木門を望める

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銅門土塀の模型が展示されている。

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江戸時代の工法技術で再建するにあたり使用する材料、白壁用の土の収縮や乾き具合等確認するために製作したもの。

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銅門の礎石も展示されている。

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歴史見聞館 おもしろ歴史ミュージアム 模型や映像で小田原城の歴史を分かり易く説明されている。

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常盤木橋この辺りには紅白の梅が咲き始めている。この橋の下両側は菖蒲田になっている。元々東堀が続いていたそうだ。

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常盤木門石碑

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重厚な常盤木門 小田原城本丸には常盤木門、鉄門の2つの城門があった。このうち常盤木門は本丸の正門にあたり、重要な防御拠点であったために、他の門と比べても大きく、堅固に造られていた。多聞櫓渡櫓門を配し、多聞櫓は武器等の貯蔵庫として用いられていた。古絵図などの記録から、江戸時代初期から設けられていた。元禄16年(1703年)の大地震で崩壊した後、宝永3年(1706)に、多門櫓と渡櫓から構成される桝形門形式で再建されたものが、明治3年(1870)の小田原城廃城まであった。

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常盤木とは常緑樹の意で、門の傍らには往時から松が植えられており、また、松の木が常に緑色をたたえて何十年も生長することになぞらえ、小田原城が永久不変に繁栄することを願って、常盤木門と名付けられた。現在の常盤木門は、市制30周年事業として再建したもので、昭和46年(1971)3月に完成した。

 

本丸に入ると天守閣が眼前に聳え立つ様を見ることができる。

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本丸南側には桜が咲き始めている。やはりカワズザクラだ。

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その東常盤木門多門櫓側に見たことのない位に背高で立派な松の木がある。

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3代当主北条氏康の時代には土塁と空堀が城の周囲にめぐっていて難攻不落、無敵のお城といわれ、上杉謙信武田信玄の攻撃に耐えた。

最大の特徴は、豊臣軍に対抗するために作られた広大な外郭である。八幡山から海側に至るまで小田原の町全体を総延長9キロメートルの土塁と空堀で取り囲んだものであり、後の豊臣大坂城の惣構を凌いでいた。

北条氏没落後に城主となったのは大久保氏であるが、2代藩主大久保忠隣の時代に政争に敗れ、一度改易の憂き目にあっている。その後、城代が置かれた時期もあったが、阿部氏、春日局の血を引く稲葉氏、そして再興された大久保氏が再び入封された。小田原藩は入り鉄砲出女といわれた箱根の関所を幕府から預かる立場であった。

主要部のすべてに石垣を用いた総石垣造りの城である。佐倉城や川越城などのように、土塁のみの城の多い関東地方においては特殊と言え、関東の入口としての小田原城の重要性が伺える。建造物としては、本丸に天守および桝形の常磐木門、二の丸には居館、銅門、平櫓がそれぞれ設けられ、小田原城全体では、城門が13棟程、櫓が8基程建てられていたものと考えられている。江戸末期には、海岸に3基の砲台が建設されている。

元は、平安時代末期、相模国の豪族土肥氏一族である小早川遠平(小早川氏の祖とされる)の居館であったとされる。1416年(応永23年)上杉禅秀の乱で禅秀方であった土肥氏が失脚し、駿河国に根拠を置いていた大森氏がこれを奪って、相模国・伊豆国方面に勢力を広げた。1495年(明応4年)、伊豆国を支配していた伊勢平氏流伊勢盛時(北条早雲)が大森藤頼から奪い、旧構を大幅に拡張した。北条氏政北条氏直父子の時代まで戦国大名北条氏の5代にわたる居城として、南関東における政治的中心地となった。

天正18年(1590)豊臣秀吉が天下統一の仕上げとして隠居北条氏政と当主氏直が指揮する北条氏と開戦し、当時北条の台頭に対抗していた関東の大名・佐竹義重・宇都宮国綱らとともに数十万の大軍で小田原城を総攻撃した。小田原征伐と呼ばれるこの戦いにおいて秀吉は圧倒的な物資をもって取り囲むとともに別働隊をもって関東各地の北条氏の支城を各個撃破し、篭城戦によって敵の兵糧不足を待ち逆襲しようとした北条氏の意図を挫き、3か月の篭城戦の末ほとんど無血で開城させた。この篭城戦において、北条側が和議と抗戦継続をめぐって議論したが一向に結論が出なかった故事が小田原評定という言葉になっている。

北条氏の領土は徳川家康に与えられ、江戸城を居城として選んだ家康は腹心大久保忠世を小田原城に置いた。小田原旧城は現在の小田原の市街地を包摂するような巨大な城郭であったが、大久保氏入部時代に規模を縮小させ、以後、17世紀の中断を除いて明治時代まで大久保氏(藤原北家宇都宮氏流)が居城した。

1938年(昭和13年)8月8日、「小田原城跡」として国の史跡に指定された。

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元禄16年(1703)の大地震のときには、小田原城のほとんどの建物が倒壊・焼失したが、天守閣は宝永3年(1706)に再建され、明治3年(1870)の廃城まで小田原のシンボルとしてそびえていた。

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小田原城天守閣
現在の天守閣は、昭和35年(1960)に、市制20周年の記念事業として復興したもので、宝永時代の再建時に作成された引き図(設計図)や模型を参考に、鉄筋コンクリートで外観復元したものです。内部は、古文書、絵図、武具、刀剣などの歴史資料の展示室となっている。標高約60メートルの最上階からは相模湾が一望でき、良く晴れた日には房総半島まで見ることができます。本瓦葺、延床面積1822㎡、総工費8000万円。

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小田原城天守は1階建の小天守、続櫓、3重4階の大天守の3部構成からなります。大天守は見た目3重ですが、1重目は2階に別れており、4階建の天守。5重天守並みの規模天守のみの高さは27.2m天守台石垣高さは11.5m、総高38.7m、本丸広場の海抜は29.7m、合わせて海抜約70m。最上階廻縁から展望を楽しんだ。石垣山は予想以上に近くに見えて、一夜城に肝を冷やしたことは納得できた。右には二子山も見える。

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御用米曲輪発掘調査中

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「お城通り」歩道で見掛けた飾りタイル「城下町」風情が好印象。

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城の再建には莫大な費用と時間が必要であるが、小田原市は城を宝として良く活かしていると感心させられた。天守閣復興工費8000万円を高いとみるか安いと見做すか、税金が使われているので市民の判断すべきであるし、時代を考慮しなくてはならないものの妥当、寧ろお安く感じられた。それ程見るものに感動を与えているということだ。

帰りはお城通りを通り「鈴廣」で史跡巡りでは珍しくお土産を購入した。坐骨神経痛を心配したが直前まで調子良かったのが、駅を出て歩き出したところで痛みが出た。どうなることかと懸念したが何とか最低限見ることができた。来月皇居参観までには心配なく歩けるようしておきたいものだ。

2015年2月11日 (水)

皇居東御苑~江戸城本丸・二の丸・三の丸

行幸通り(ぎょうこうとおり) 
地下鉄千代田線「二重橋前駅」下車し大手町側から地上へ。右を見ると100周年を迎え改装なった東京駅駅舎の赤レンガが見える。東京駅から皇居まで日比谷通りと交差する「行幸通り」。以前大使 交替に伴う公式行事で皇居に向かうアフリカの国と思われる外国人を乗せた儀装馬車と警備の騎馬警官の一隊を見たことがある。正式名称は「東京都道404号 皇居前東京停車場線」。皇居前の和田蔵門交差点から内堀通り、日比谷通りを横切り東京駅丸の内中央口前の広場に通じる街路である。この行幸通りは、関東大 震災の震災復興事業の一環として整備され、4列の銀杏並木を持つ皇居から東京駅へ通じる通りとして、大正15年に完成している。中央車線は天皇の行幸と信 任状捧呈式に向かう外国大使の送迎の車馬が通行する時にのみ使用される専用道となり一般車の通行は禁止された。信任状捧呈式の外国大使は車か馬車を選択で きるそうだが、ほとんどが馬車を選択するとか。

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日比谷通りを大手町方面へ歩くと「銀行協会」が嘗ての外観を残している。
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今回は「和田倉橋」を渡ることにした。渡ると噴水公園で丁度レストランがあった所が工事中である。見た目以上の大工事らしい。橋を渡った所に枡形石垣があり、橋と一体で門を構成していた。

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「和田倉噴水公園」を横切り和田倉門交差点で内堀通りを渡り巽櫓を左に見て東御苑の入口のひとつである「大手門」を目指す。下写真は桔梗濠に映る巽櫓。「櫓」は矢を格納しておく蔵の意で矢倉、矢蔵、兵庫などの字も当てられる。

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大手門 東御苑が開園しているので開いている。

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大手門後ろを見ると高麗門様式とわかる。

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突き当り築地塀前に大手門渡櫓屋根にあったという鯱が展示されている。姿は魚で頭は虎、尾ひれは常に空を向き、背中には幾重もの鋭いとげを持っているという想像上の動物。それを模した主に屋根に使われる装飾・役瓦の一種。大棟の両端に取り付け、鬼瓦同様守り神とされた。建物が火事の際には水を噴き出して火を消すという。展示されている鯱は「1945年戦災で消失した旧大手門渡櫓の屋根に飾られていた鯱で、頭部に「明暦三丁酉」と刻んであることから明暦の大火(1657)で消失した後、再建された際に製作されたものと推定される。」と解説板にある。

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大手門渡櫓は平成23年3月11日東日本大震災で建物が大きく変形するなど被害がを受けたので伝統的な外観を維持し、今後想定される大規模地震にも安全性を確保出来るよう耐震補強工事をしているとのことだ。床面積367.1㎡工事期間は平成27年9月までの予定で現在シート等で覆われている。

工事中の大手門渡櫓を潜り左手へ発券所にて白いプラスティク製入園券を貰い入園する。手前で財布を出そうとしている外国人がいた。無料で入園できるということは余り知れ渡っていないらしい。券の裏は英文で"Admission Ticket Please return this ticket at the exit"とある。退園時に返却するシステムになっている。無料なのにこの様なコストを掛けて入園券を発券している。閉園時間後入園券の回収が不一致の場合まだ園内に居ることになり探して摘み出す為んのか、一定数以上入園制限する為なのか理由を知りたくなる。

三の丸尚蔵館の手前に八重咲きの桜が咲いている。「ジュウガツザクラ」だ。これをよく冬に咲いている桜だから「フユザクラ」と言う人がいるが正式ではない。「フユザクラ」は一重咲きである。

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この時期「ボケ」の花も見つけると嬉しくなるものだ。

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三の丸尚蔵館

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宮内庁所管の美術品、絵画など貴重な品々を展示している。1993年開館。入館料は無料。

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1月10日から3月8日まで「明治天皇 邦を知り国を治める ー近代の国見と天皇のまなざし」というタイトルで近代国家として歩み始めた我が国を明治天皇が明治5年九州・西国を皮切りに全国を巡行されており写真などその記録が展示されている。

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 右側つまり大手門に近い建物が「宮内庁病院」天皇・皇族に加えて、宮内庁・皇宮警察本部の職員とその家族、さらに職員の紹介を受けた者のみが受診可能とされている。皇族の多くが治療や出産の際にこの病院を使っており、皇太子徳仁親王、秋篠宮文仁親王、眞子内親王、佳子内親王、敬宮愛子内親王はこの病院で誕生している。

尚蔵館の前の緑色の屋根の建物は済寧館(さいねいかん)皇宮警察の武道館。明治天皇の命で明治16年に竣工。館名は「詩経」大雅文王篇「済々たる多士、文王以て寧し」から採られた。華族、宮内官、皇宮警察官の武道稽古に使用されている。尚蔵館の前に入口があるが一般はオフリミット。

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尚蔵館を出て右へ進むと「大手休憩所」でトイレ記念品土産など売店もある。そこに欲しかった東御苑の案内パンフレットが配布用に置かれている。外国語のも用意されている。よく見ると「宝くじの社会貢献広報事業としての助成」で作成されたものとある。宝くじはボランティア活動していた緑地の苗木助成やパンフレット制作の助成もあり幅広くやっているのだと驚いた。

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東御苑はかつての江戸城の本丸などがあった場所で、明治時代から戦前までは宮内庁や皇室関連の施設があった。戦後の1960年に閣議決定により一般公開される運びになり、1963年に特別史跡に指定、1968年から一般公開されるようになったものである。面積約21万㎡の庭園で2014年7月27日に開園以来の来場者数が2500万人を達成された。

同心番所 警備の詰所。「同心」が詰め主として登城する大名の供の監視にあたっていた。以前はこの番所の前に橋があり、御三家を除くすべての大名・役人はここで乗り物から降りて徒歩で本丸へ登った。同心とは江戸幕府の下級役人のひとつ。諸奉行・京都所司代・城代・大番頭・書院番頭・火付盗賊改方などの配下で、与力の下にあって庶務・見回などの警備に就いた。

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巨大石による石垣

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百人番所 大手三の門を抜けたところの左手にあるのが、長さ50メートルを超える百人番所です。江戸城本丸御殿最大の検問所でした。鉄砲百人組と呼ばれた根来組、伊賀組、甲賀組、廿五騎組の25名による4交代で詰め忍者が警護を担っていた。

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ミツマタ 開花はもう少し先になりそう。

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果樹古品種は皇后陛下が提案されて実現。写真の日本最古の甘柿の品種と言われている「禅寺丸」柿であることから「王禅寺丸」と呼んでいたが、元禄の頃より単に「禅寺丸」と呼ばれるようになったとされる。晩生の品種であり、果実はやや小さい。果皮色は赤い。

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シナマンサク

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富士見櫓 江戸城旧本丸の南東端に位置する櫓で現存唯一の三重櫓。天守閣が明暦三年の大火で焼失した後は再建されなかったので富士見櫓が天守閣に代用されたと伝えられている。どの方向からも同じ形に見える為八方正面の櫓とも呼ばれたという。写真は北東からフェンス越しの撮影。来月皇居参観時には南や西からの富士見櫓を見るのが楽しみである。

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松の大廊下跡 赤穂義士討入の原因となった元禄14年(1701)3月14日浅野内匠頭長矩による吉良上野介義央への刃傷事件「殿中でござる!」のあった所。廊下に沿った襖戸に松と千鳥が描かれていたのが「松の大廊下」の由来。江戸城で2番目に長い廊下で板敷きではなく畳敷きの立派な廊下であった。

サイト内リンク⇒赤穂義士廟所泉岳寺   都指定旧跡吉良邸跡~本所松坂町公園

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富士見多聞 
多門とは防御を兼ねて石垣の上に設けられた長屋造りの建物で「多聞長屋」とも呼ばれる。鉄砲や弓矢を格納し、戦時には格子窓を開けて狙い撃つことができた。名称の由来は、最初に松永久秀が多聞城にこの長屋形式の櫓を建てたことからと楠正成が渡櫓内に多聞天を祀ったからなど言われている。金沢城では「三十間長屋」「五十間長屋」というように多聞櫓を長屋と称し、熊本城では十四間櫓や北十八間櫓と長さで称している。櫓の間を繋ぐように建てられたものは「渡櫓」という。門の上のものは「櫓門」、櫓門から連続した多聞櫓は「続櫓」と呼ばれる。平時には住居や物置も兼ね、江戸城のように武士の名簿を保存してあったという例もある。写真は西側からのもので、来月予定している皇居参観で坂下門や宮内庁庁舎など南側から見るのが楽しみだ。

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石室 抜け穴、金蔵など諸説ある。大奥御納戸の脇にあることから非常時の大奥用調度などを保管していた場所と考えられている。内部は20㎡あり、伊豆半島産安山岩である伊豆石で造られていて、天井には長い石の板が使用されている。

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桃華楽堂 香淳皇后の還暦を祝い、1966年に建てられた音楽堂。八角形の建物で屋根はテッセンの花弁を形どっている。八つある壁面は各面ともに大きく羽ばたく鳥を中央に、それぞれ日月星、松竹梅、楽の音などをイメージした図柄が陶片で描かれている。香淳皇后のお印である「桃」にちなんで命名されたもの。

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書陵部庁舎 40万点に及ぶ皇室関係の文書や資料などの管理と編修、また全国に存在する陵墓の管理を行っている。

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天守台 慶長11年(1606)の家康、元和8年(1622)の秀忠、寛永15年(1638)の家光と将軍の代替わりごとに築き直され、将軍の権力の象徴であった。かつて天守閣は地上から58メートル建物は45メートル外観5層、内部6階建てであった。明暦の大火で消失後、再建の話もあったそうだが、平和な時代に不要論が幅を利かせ沙汰止みになっている。城のシンボルであり、建造費用は莫大かも知れぬが、得るもの受けるものは更に膨大と考える。再建実現を期待している。

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天守台から北の丸にある「武道館」を望む。武道館の屋根の傾斜は富士山を象徴しているとか。天守台には明治15年(1882)当時の気象台が設けられ大正12年大手町に移転するまで風速計など設置されていた。

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天守台の石垣 地震で歪んだのか

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天守台前の桜 蕾が春を待っている。

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天守台から本丸跡と大奥跡 昭和天皇崩御され大喪の礼は新宿御苑で行われ今上(きんじょう)天皇即位時の「践祚大嘗祭」は本丸跡で執り行われたそうである。

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天守台 南東から望む

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汐見坂 ここから海が見えていた。地震の影響かかなり凸凹があり、石垣にネットが張られている。

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汐見坂石垣修復 新しい石を入れ修復された石垣

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白鳥濠

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白梅 全国から寄せられた「都道府県の木」や「雑木林」もあり、歩いていると都心であることを忘れてしまう。植物観察会なども開催されているようなので、春や秋にも来園したいものだ。

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二の丸庭園「諏訪の茶屋

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日本庭園

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ヒレナガコイ

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菖蒲田 明治神宮菖蒲田から株分けとのことだ

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正門石橋に掲げられていた電飾燈

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ソシンロウバイ」が綺麗に咲いていて若者グループがしきりにシャッターを押していた。春を告げる佐保姫の使いはここには来たらしい。

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大手門から退園し桔梗濠こしに見える「旧枢密院」の建物。 今皇宮警察の本部に使用されているそうだ。

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初めての東御苑は内容アクセスなど大変よくて、有料でも入りたくなるものであった。二の丸庭園は花期に合わせて観察に来てみたい。3月の皇居参観を楽しみにしている。

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