« 小田急沿線観桜~麻生川 柿生駅から新百合ヶ丘駅 | トップページ | 世田谷線に揺られ松陰神社詣 »

2015年4月 9日 (木)

時宗総本山遊行寺~鎌倉四大寺藤澤山無量光院清浄光寺

み正月の楽しみ「箱根駅伝」ではお馴染み「遊行寺坂」であるが、藤沢は鎌倉や江ノ島方面へ行く時の乗換え駅で降りたこともなく、遊行寺がどのようなお寺かも知らないでいた。鎌倉に定期的に行くようになり、鎌倉の寺院を検索している中で「鎌倉四大寺」に遊行寺が含まれていることがわかり、是非訪ねたいと願っていたものである。

  因みに鎌倉四大寺とは
 浄土宗関東総本山の光明寺 サイト内リンク⇒ 猛暑の鎌倉南東部~報国寺、光明寺
 時宗総本山の清浄光寺(遊行寺)
 臨済宗建長寺派大本山の建長寺 内サイトリンク⇒鎌倉五山第一位巨福山建長寺
 臨済宗円覚寺派大本山の円覚寺 サイト内リンク⇒秋の鎌倉 その1~円覚寺

遊行寺は時宗の総本山で『藤澤山無量光院清浄光寺(しょうじょうこうじ)』が正式名。明治時代より法主(ほっす)・藤沢上人と遊行上人が同一上人であるために通称の遊行寺(ゆぎょうじ)の方が知られている。藤沢道場ともいう。藤沢は遊行寺の門前町として生まれ、「藤澤山(とうたくさん)」の山号が町の名となり、東海道の宿場町に発展して、今日の藤沢市となった。

「遊行」とは僧侶が修行・勧進のために諸国を巡り歩くことをいい、代々の「遊行上人」は念仏をすすめ、お札を配って全国を歩かれたそうだ。

Img_6814

本日は藤沢駅北口からスタートである。

Photo

お寺の情報に拠ると藤沢駅北口より15分とある。バスの便は「藤沢橋」下車だそうだが、この程度なら道も複雑でなさそうなので「遊行通り」を歩くこととする。遊行通り入口に案内あり

Img_6895

境川に架かる「藤沢橋」この橋を渡った辺りから上り坂が始まりこれが私的には有名な「遊行寺坂」で清浄光寺の東側で「旧東海道」。

Img_6817

遊行寺坂は箱根駅伝で「ドラマ」の要因になる急坂であるが昔はもっと急坂であった。この坂を上るときは、駕籠に乗ってる人には降りて歩いてもらったり、荷車を押して駄賃稼ぎをする「立ちんぼ」が居たそうだ。現在の遊行寺坂は二度にわたり掘り下げて緩やかになっている。

Img_6818_2

藤沢橋と遊行寺橋の間に藤沢宿の解説案内板あり。

Img_6822

藤沢橋の左手に朱塗りの橋が見えた。こちらの「遊行寺橋」を渡り参拝することにする。橋から進行方向約百米先に遊行寺の惣門が見えている。

Img_6825
「時宗総本山遊行寺」巨大石塔

Img_6828

惣門
黒の冠木門が遊行寺の惣門(そうもん)で、右に「時宗総本山」、 左に「清浄光寺」と彫り込んだ大きな木札。

Img_6826

今日では遊行寺の黒門と呼ばれている。三大黒門と書かれているのもある。私的には上野の旧因州池田家江戸屋敷の表門(重要文化財)、神田の専修大学校門ではなかろうかと推察している。(違っていたらご指摘下さい)

Img_6827

青銅灯籠
惣門前にある対の巨大灯籠。遊行寺宝物館に蔵されている「籐沢山銅灯籠志記(とうたくさん どうとうろう こころざしのき)」によれば、天保10年(1839)江戸講中や遠近の篤志者が建造発願し、天保13年(1842)年に実現された。右側の脚(竿)に「籐沢山三十九世他阿上人一如(いちにょ)書」とあり、左側の脚(竿)には「遊行五十七世他阿上人一念(いちねん)書」とある。

Img_6829

板割浅太郎の墓
惣門を潜りと直ぐ左側に「板割浅太郎の墓 真徳寺住職」との看板あり、いったいどういう人か知らないまま、折角なので左墓地に進む。と左端に案内板あり。新国劇「国定忠治」のセリフ「赤城の山も今宵限り、生まれ故郷の国定村や縄張りを捨て国を捨て、可愛い子分のてめぇたちとも別れ別れになる門出だ」だけで内容や背景など一切承知していない。

Img_6830

板割浅太郎は国定忠治親分に忠誠を尽くし、自分の叔父の中島勘助とその息子勘太郎を殺した人物である。東海林太郎が歌った「赤城の子守唄」でその名を知られる板割の浅太郎は赤城山騒動の後親分国定忠治と別れ渡世の足を洗うため仏門に入り、僧名を列成と名乗り遊行上人の手引ででこの地に移り、遊行寺の堂守を勤めた。朝夕の鐘撞き、お札売り、参詣者へのお茶の接待、境内の清掃などし念仏三昧の日を送り、かつて自分が手を下した中島父子の菩提を弔った。その精進改心が認められ貞松院の住職となり、遊行寺炎上の折には六十歳を過ぎた列成和尚は勧進僧となり全国各地を巡り浄財を募り本山復興に尽くし仏恩に報いた。明治26年12月30日74歳でその生涯を閉じた石碑は当院42世洞雲院弥阿列成和尚と刻まれている。

Img_6832

いろは坂
れから続く石段は、阿弥陀様の四十八願にたとえて、「四十八段」と呼ばれています。丁度両脇の桜で花のトンネルとなっていて、外国からのお客さんはじめ参拝者もカメラのシャッターを押している。地元では、いろは四十八文字から、「いろは坂」の愛称で呼ばれている。

Img_6833
振返り惣門を見ると高麗門様式になっている。

Img_6834

眞浄院というおしゃれな門構え

Img_6839

眞浄院は遊行寺山内の筆頭寺院で、本山役僧が住職を務めている。講中宿泊所でもありました。歴代上人が法燈をつがれるときは、この寺院で旅装をとき、真浄院住職の先導により、清浄光寺に入山する由緒ある伝統的な慣例が、今日まで続けれらています。奥の中門を潜り階段を降りると本堂ありこちらも端正な堂宇である。

Img_6843

赤門 眞徳寺
本山役僧が住職を務めており、講中の宿泊所でもありました。そもそも当寺は真光院栖徳院善徳院貞松院といった遊行寺の塔頭でした。由緒沿革は不明ですが、4院はたびたび火災によって、いずれも困窮はなはだしく、ときには住職が退散することも少なくありませんでした。真光院の住職が、栖徳院・善徳院を兼務することもあったといいます。

Img_6835

本堂および庫裏は前記4ヶ寺による共同使用とされました。当時はいまだ寺号尊重のため合併を行わなかったが、同一の本堂および庫裏を使用して同一の住職によって宗務を行い、本尊(法要その他の儀式行事)等も同一のものを使用しました。よって4ヶ寺は当然1ヶ寺の形態をなしており、世俗に赤門と称されました。
さらに、昭和8年に真光院住職に就任した吉川喜善もまた前住職同様他の4ヶ寺の寺務を行う状態でした。そのため4ヶ寺の檀家総代から時宗管長星徹定(ほし てつじょう=一教上人)大僧正に4ヶ寺合併の陳情書が提出されたのは、昭和17年3月15日で、4ヶ寺が合併および寺号改称が認可されたのは昭和19年になってからです。

眞徳寺本堂

Img_6837

山門跡
いろは坂」を登りつめた処が山門跡で、明治13年に焼けるまで銅屋根の仁王門あり、「藤沢山」と書かれた東山天皇の勅額(ちょくがく=天皇などが寺院に特に与える直筆の書で記された額)がありました。現在は本堂内にあります。

Img_6844

宗紋
惣門の上中央にもあった「八角形に三」の紋が気になっていたが、赤門眞徳寺や眞浄院にもある寺の紋か宗派の紋なのだろうか。時宗の宗紋だそうだ。「折敷に三文字紋」とか「隅切三(すみきりさん)」という。

Photo_3

時宗の開祖一遍さんの俗名は河野時氏といって伊予国の土豪の家系。そちらの家紋が「隅切角に三」。開祖の出身家紋がそのまま宗派の寺紋となったのは親鸞聖人の鶴丸と同じである。稲葉家の家紋は、「折敷に三文字紋」、時宗の宗紋と同じなのです。寛永4年(1627)、稲葉正成公が真岡二万石の城主となりました。正成公は、この偶然に驚いた。この「折敷に三文字紋」は、瀬戸内海の大三島に鎮座する三島神社の神紋であり、大三島大明神を氏神とした越智氏の家紋となっていた。そして、越智氏から分かれた一族も又、「折敷に三文字紋」を家紋に採用した。稲葉氏と一遍上人が出自した河野氏は、活躍した時代は違えども伊予越智氏から分かれた一族であり、それぞれ歴史上に名を残す人物を輩出しています。正成公は、「折敷に三文字紋」が証する稲葉家と宗祖一編上人を仰ぐ時宗との縁を大切にした。

大公孫樹
遊行寺境内最大巨木。かつては高さ31mあったが1982年8月の台風で地上6m辺りで折れてしまった。折れた部分は空洞で、過去に火災に遭い炭が入っていた。雨水での腐食を防ぐため、折れた部分にトタン板を張り処置により、樹勢が回復した。折損部材の年輪調査では250年だったそうで、言われているような樹齢六百年は余りにも過大推定だ。因みにこの公孫樹は雄で実は付けない。秋の黄葉は凄いだろうと想像できる。

Img_6845

手洗鉢
明治100年記念として、手洗鉢が新設されました。その説明書には「住古より余ってかへる遊行寺の手洗鉢と世人の諺にまで謂われ文化財にも比すべき本堂前の手洗鉢が大東亜戦争の戦災に遭い資源不足のためにやむなく供出され、茲に25年篤志家の御賛同を得て復元いたしました 昭和四十四年三月廿六日」とあり、発起人6名の名前が記されています。

Img_6849

俣野(またの)大権現」
祭神は俣野五郎景平であり、開山呑海上人の兄であり、また当時の大檀越でもありました。貞和年中(1345~49)に没し、のち俣野大権現として山内の文学蔵と称される土蔵の前に祀られていました。また灯籠が一基あり、文政6年(1823)7月17日と記されています。

Img_6850

一遍上人の銅像
戦中に鉄材供出のため撤収されましたが、昭和45(1970)年5月23日、林霊雲作「宗祖銅像」が仙台阿弥陀寺から寄進建立されました。また台石は川越浄国寺檀徒、さらに築山庭石も信徒から寄進されました。
一遍(いっぺん)は鎌倉時代中期の僧侶。時宗の開祖。「一遍」は房号で、法諱は「智真」。一は一如、遍は遍満、一遍とは「一にして、しかも遍く(あまねく)」の義であり、南無阿弥陀仏を一遍(いっぺん)唱えるだけで悟りが証されるという教義であり、智は「悟りの智慧」、真は「御仏が示す真(まこと)」を表す[1]。「一遍上人」、「遊行上人(ゆぎょうしょうにん)」、「捨聖(すてひじり)」と尊称される。近代における私諡号は「円照大師」、1940年に国家より「証誠大師」号を贈られた。

Img_6853

一遍上人は諸国を行脚し修行を詰まれたが、文永11年(1274)熊野本宮証誠殿に参籠され、熊野権現より念仏賦算の神誼啓示をうけた。「往生は、ただ、「南無阿弥陀仏」によってなされる」と悟りを開かれ南無阿弥陀仏を唱え、だれ彼区別なく、お札を渡すことが「仏門の道」と知ったといわれている。

本堂前大香炉

Img_6857

本堂
本堂木造銅葺、木造としては東海道随一といわれています。関東大震災で倒壊したのち、昭和10年上棟、同12年に落成しました。外陣長押に後光厳天皇の勅額「清浄光寺」を掲げています。

Img_6888
本堂扁額

Img_6860

ご本尊の阿弥陀如来坐像
遊行寺は創建以来しばしば火災のために焼失しており、永正10年(1513)の兵火によって約一世紀近い歳月にわたって再建不能の状況下におかれました。この永正10年1月29日に本尊は静岡の長善寺に移され、そののち永正17年(1520)冬に、本尊は甲府の一蓮寺に移されました。このときの本尊は「円光もましまさず、蓮華座もなく、観音には御手もうせ同く御光も蓮華もうせ玉ひ、勢至も同前にやつれさせ玉ふ」状態であったと伝えられています。さらに本尊は遊行二十五代仏天上人によって、一蓮寺から敦賀井川新善光寺に移され、さらに再建された遊行寺に安置されたのは寛文5年(1665)のことです。
ところが、現在の本尊は阿弥陀如来坐像で、高さ六尺一寸(184cm)、浅草日輪寺塔頭(たっちゅう)の宝珠院が浅草寺からゆずり受けたものです。宝永5年(1708)夏、遊行四十八代藤沢二十三世賦国(ふこく)上人が日輪寺に滞在したとき、この仏像をみて大仏であるから、本山の本堂に安置するのがふさわしいといわれましたがそのままとなり、元文2年(1737)10月に遊行寺に移されたのであります。脇檀には宗祖一遍上人・遊行二祖真教上人・遊行四十二代藤沢十九世尊任(そんにん)上人の各像が安置されてい.る。

Img_6862

長押に掲げられた「清浄光寺」の額は、北朝・第4代の後光厳天皇による勅額。在位、正平8年(1352)~建徳2年(1371)。


お地蔵さんの由来(解説板)
「地蔵菩薩は、お釈迦様亡き後、この世で私たちを救ってくださる仏様です。なかでも「ひぎり地蔵菩薩」は、日を限ってお参りをすることによって願いがかなえられるので、全国各地で信仰をあつめています。遊 行寺の門前は、東海道の藤沢宿として栄え、江戸・明治・大正の頃には、道中安全をお祈りするために、お地蔵さんを詣でる人々で賑わいました。しかし、大正 12年の関東大震災で遊行寺も本堂など多くの建物が倒壊し、地蔵堂も倒壊したため、応急処置を施して本堂内に安置されてきました。
このたび全国宗門寺院および檀信徒皆様の協力で、平成の大修理として解体修理しましたところ、胎内から『少病少悩』等の文字と「享保六年辛丑年四月廿四日」の日付が発見され、江戸庶民の信仰がしのばれます。
平成26年6月に修復を終え、関東大震災から約百年ぶりに再建された地蔵堂に安置されました。輝きを増したお地蔵さんは、偉大な法力を備え、交通安全・安産成就や子どもの成長安寧の他、病魔退散・健康長寿といったご利益を施してくださいます。
平成26年9月15日    時宗総本山 清浄光寺(遊行寺)
この地蔵堂は、東日本大震災を機に、震災・風水火災で亡くなられた方々の鎮魂の為に発願し建立されました。」

Img_6864

「中雀門」
中雀は鍮石(ちゅうせき)の当て字、扉に真鍮の金具を打ちつけた門のことである。
「中雀門は安政年間(1854~60)に建造されました。清淨光寺(遊行寺の通称)は創建以来、たびたび火災にあっていますが、この中雀門は明治13年(1880)の大火災の際にも焼失を免れた。現在は境内で一番古い建物です。大正12年(1923)の関東大震災でも焼失は免れましたが倒壊したものを、そのまま復元して今にいたっています。向唐門(むかいからもん)づくりで、高さ6m、幅は3.7mです。側面の大棟に菊の御紋、屋根の下に徳川家葵の紋が刻まれています。 普段は閉じられていますが、春と秋の開山忌やお正月などには開門されます」

Img_6867
裏から見るとフクロウの彫刻も見られる。

Img_6872

黒門
中雀門の左側、寺務所・僧堂への入口に黒門があります。古図によれば遊行寺の黒門であって、現在は惣門(総門)を黒門と称しているが、これは明治以降のことである。

Img_6870

寺務所
黒門を入り中雀門裏のフクロウの彫物など見学して寺務所へ向かった。来訪者が少なそうで恐らく予備ボタンでも押して依頼するものと思っていたがそれらしきものが無く、小さな鐘があり叩こうかなと思う間もなく、一人の僧侶が出てきてくれて、丁寧に対応して下さった。。御朱印をお願いし待っている間に販売や配布資料を見させて頂いた。

Img232
放生池の五重塔と奥は太鼓堂

Img_6878

放生池
元禄7年(1694)五代将軍徳川綱吉の時代、「生類憐れみの令」発布にともない、次のような”おふれ”が出されました。 「江戸市中の金魚(赤色)銀魚(白色)を所持いたすものは、その数など正直に報告し差し出すべし」 こうして江戸市中の金魚・銀魚が集められ、この遊行寺の池に放生されました。 現在も、毎年、春季開山忌に放生会などでこの放生池で行われています。ちなみに、東国花の寺 100ヶ寺に選ばれているのは、この放生池そばの「ハクモクレン」。

Img_6876

Img_6875

魚鱗甲貝供養塔
放生池(ほうじょういけ)の前に魚鱗甲貝供養塔があります。遊行七十三代・藤沢五十六世他阿一雲上人 平成9年(1997)遊山會と記されています。

Img_6877

鐘楼
この鐘楼は南北朝時代、正平11年、北朝の延文(えんぶん)元年(1356)に造られています。総高168センチ、口径(こうけい)92センチで、この金の池の間4面に489文字の漢文の序文と銘文が陽刻されています。その奥書には、「時也延文元年7月5日 沙弥(しゃみ)重阿 住持他阿弥陀仏 遊行八代冶工大和権守(やこうやまとごんのかみ)光連 願主沙弥給阿等 南無阿弥陀佛」と刻まれています。延文元年は北朝の年号で、南朝では正平11年(1356)です。

Img_6880

南部茂時の墓
鎌倉幕府滅亡のとき、これに殉じた南部茂時主従の墓が放生池横にあります。当寺との関係は「太平記」に記されていますが、南部茂時が 鎌倉で自害されたとき、家臣の佐藤彦五郎は主人の遺骸を遊行寺に運び入れて葬ってもらったというのです。なぜ鎌倉の寺々ではなく遊行寺にまで運んだのかと いうと、遊行寺には阿弥陀の住んでおられる霊場として知られていました。他阿弥陀仏である遊行上人は弥陀の代官であるという思想、そのお上人からお念仏 (お十念)をいただきお札を受ければ必ず極楽浄土に往生できるという信仰があり、それゆえに遊行寺まで逃れて来たのだと考えられます。また、鎌倉の寺で は、茂時は幕府、つまり北条高時側の賊軍の将であるということから、新田軍をさける必要があったのではないでしょうか。その新田義貞(にったよしさだ) も、のちに福井県丸岡の時宗称念寺に眠っているのも仏縁かもしれません。

Img_6882

宝物館
遊行寺は、開山以来、火災・戦災・震災等を繰り返しながらも、復興し現在に至っています。宝物のなかには、焼失したものもありますが、書院裏にあった旧式の土蔵に収められていたため、幸いに難を逃れた宝物もありました。これらは、一般に公開することはありませんでしたが、昭和52年(1977)開宗七百年記念事業の一つとしてここに近代的な宝物館が完成し、公開されている。
 国宝 絹本著色一遍上人絵伝 12巻 - 1952年(昭和27年)3月29日指
鎌倉時代の絵巻物。絹本著色で全12巻。別称に「一遍聖絵」。正安元年(1299年)作。の代表作。一遍上人絵伝は時宗の開祖である一遍(一遍智真)が訪れた各地の風景が描写されているもので、清浄光寺は一遍弟の聖戒により編纂され、円伊による筆で一遍没後十年にあたる正安元年に完成している。
        一遍の遊行した各地の風景・風俗が実景に基づいて記されており、歴史・風俗資料としても貴重なものである。もと時宗十二派の一つと数えられていた「六条派」の歓喜光寺(京都市山科区)に伝来したもので、歓喜光寺との共同所有を経て、現在は清浄光寺が単独所有(京都国立博物館及び奈良国立博物館に寄託)。

重要文化財(国指定)    絹本著色後醍醐天皇御像 は数週間前NHK歴史番組の中で紹介されており実物を観たいと思ったものである。現在、宝物館の開館日は、土日月曜日・祝日。開館時間は、午前10時より午後4時までなので、次の機会を期待している。

Img_6866

宇賀弁才天
徳川家の祖有親の守り本尊といわれ、遊行十二代尊観上人の弟子となり徳阿弥と、長子の親氏は長阿弥とあらためられました。宇賀弁財天は開運弁財天ともいわれ、俗に銭洗弁天として江戸時代から藤沢宿の人々に信仰されました。現在でも銭を洗うことによって、財福を招くと信仰されています。昭和9年7月に遊行六十七代尊浄上人によって「八大龍王碑」が建立されている。

Img_6886

学寮
延享5年(1748年)に、それまで時宗の学寮が無かったことから、清浄光寺の藤沢学寮、七条道場 金光寺(長楽寺(京都市)へ統合された。)の七条学寮が設けられた。その後浅草日輪寺に浅草学寮も設けられ、明治27年(1894年)に清浄光寺に移されて、東部大学林と称する。明治36年(1903年)に西部大学林(七条学寮)も合併して、宗学林と改称。大正5年(1916年)に藤嶺中学校(現:藤嶺学園藤沢中学校・高等学校)を併設、後に学校法人藤嶺学園となるが、それと別に僧侶養成機関としての時宗宗学林も存続している。

長生院
寺伝によれば正長元年(1428)頃に照手姫は太空(たいくう)上人の弟子となり、剃髪受戒(ていはつじゅかい)をうけて長生尼と号しました。永享元年(1429)に閻魔堂(えんまどう)のかたわらに草庵を結んでこの処に住まわれたことにより閻魔堂を長生院(ちょうせいいん)と改称して遊行寺の支院となりました。開山は太空上人であり、天正の頃に類焼し、元和年中に再興されています。。現在の本堂は平成3年に落成したものです。

Img_6889

小栗堂
小栗判官(おぐりはんがん)は、伝説上の人物であり、またこれを主人公として日本の中世以降に伝承されてきた物語。妻・照手姫の一門に殺された小栗が閻魔大王の計らいで蘇り、姫と再会し、一門に復讐するという話で、説経節の代表作であり、浄瑠璃や歌舞伎などになった。常陸国小栗御厨(現在の茨城県筑西市)にあった小栗城の城主である常陸小栗氏の小栗満重や、その子・小栗助重がモデルとされる。照手姫は小栗判官の死後、ここで尼となり余生を過ごしたと伝えられる。

Img_6892

遊行寺境内 釈迦降誕会(花まつり)が昨日終わり、その後片付け作業中であった。次のイベントは春季開山忌が今月21日から24日まで開催される。

Img_6893

今日は「藤沢」のルーツである遊行寺を訪ねることができた。坐骨神経痛が右側臀部大腿脹脛まで痛みと痺れがきていて、右脚を庇った歩き方をしていたのか、帰宅後左脚に痙攣があり、ツムラの芍薬甘草湯を服用した。就寝中には右脚に痛みと痙攣が来て睡眠不足になっている。困ったものだ。

« 小田急沿線観桜~麻生川 柿生駅から新百合ヶ丘駅 | トップページ | 世田谷線に揺られ松陰神社詣 »

史跡巡り」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1766143/59605711

この記事へのトラックバック一覧です: 時宗総本山遊行寺~鎌倉四大寺藤澤山無量光院清浄光寺:

« 小田急沿線観桜~麻生川 柿生駅から新百合ヶ丘駅 | トップページ | 世田谷線に揺られ松陰神社詣 »