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2015年4月21日 (火)

世田谷線に揺られ松陰神社詣

小田急電車は豪徳寺で下車し、東急世田谷線に乗換えた。世田谷線の乗車駅は「山下駅」で次は豪徳寺に最寄り駅となる「宮の坂」次は「上町」「世田谷」の後目的の「松陰神社前駅」まで四駅で豪徳寺駅での乗換えを含めても所用時間は10分程度。地図で見ると世田谷線は大きく曲がっているので、若い方、高齢でも健脚者だと歩ける距離ではなかろうか。

世田谷線は都営荒川線と共に都内に残る路面電車形式の軌道線である。駅間距離はすべて1km未満で、全区間、つまり三軒茶屋から下高井戸までの所要時間は17 - 18分。山下駅では入場時でなく電車に乗ってからICカードをタッチししたが、降車時タッチする場所がなく心配してしまった。なんと運賃は全区間均一制で、現在で大人150円・小児80円(ICカード利用の場合は大人144円・小児72円)である。
サイト内リンク⇒早稲田から庚申塚~初めての都電~

松陰神社前駅下車し松陰神社通り商店街を北へ真直ぐに歩く。不安になる前に左手に松陰神社の黒い鳥居が見え来た。

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当神社は昨年10月豪徳寺を訪れた時に寄る予定であったが、脚痛で断念した経緯がある。今年のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」が放映されている。物語の主役は松陰の妹で、兄である松陰と久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤俊輔、桂小五郎、品川弥二郎など松下村塾の弟子たちの人間模様を織り交ぜ激動の幕末明治維新時であり、我が家でも夫婦で毎週楽しみに観ている。境内の混雑を予想していたが、思いの外空いていたが、参拝者は熱心な方が多く、悉くじっくり時間を掛けて見学される方が多い。
サイト内リンク⇒曹洞宗大谿山豪徳寺~井伊家菩提&招猫発祥~

鳥居の左手に立派な屋根付き解説板がある。

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「ご祭神 吉田寅次郎藤原矩方命
     (吉田松陰 先生)
 松陰先生は、幕末の思想家で私塾松下村塾を主宰し、明治維新を成し遂げた多くの若者を教育しました。しかし、安政の大獄に連座し江戸の伝馬町の獄中にて三十歳の若さで刑死されました。その四年後の文久三年(1863)に、松陰先生の門下生であった高杉晋作、伊藤博文等によって、当時長州毛利藩主毛利大膳大夫の所領で大夫山と呼ばれていたこの地に改葬されました。
 明治十五年(1882)十一月松陰先生門下生の人々が相談し、墓畔に社を築いて先生の御霊を祀り神社が創建されました。」と易しい文章で漢字には読み仮名を付けて子供たちにも読んでもらいたいとの思いが伝わってくる。

鳥居を潜って左手に石柱とその解説板がある。

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それに拠ると「松陰先生五十年祭(明治41年)の際に建造された松陰神社旧鳥居柱の一部(社殿向かって右の柱)。旧鳥居は御影石製で台座含め総量約20トン程であった。平成23年10月の新鳥居建造にあたり解体。その一部を保存した。「明治四十一年十月五十年祭」の刻字は社殿向かって左の柱にあったものを保存の際に写し刻字したもの。」

参道 手水舎の前に八重桜が咲いている。

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参道右手 神輿庫の手前「松陰先生の言葉」毎月貼り出しているらしい。4月分

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「己が為にするのは 
   君子の学なり
 人の為にするのは
   小人の学なり」

神楽殿 
昭和7年、旧府社に昇格する際、毛利家より寄贈された。平成12年には大改修され増築された。

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松陰先生像

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大熊氏廣作(鋳造:平成25年 ブロンズ)
明治23年に大熊氏廣氏によって製作された吉田松陰先生像(石膏 松陰神社所蔵)から鋳造されたブロンズ像。もとの石膏像は品川彌次郎等の助言を受け数度の改作の後、松陰先生親族等の満足を得るに至り完成したと伝えられています。当時銅像の建設を模索しましたが叶いませんでした。
松陰神社ご鎮座130周年(平成24年)の記念事業として東京藝術大学に依頼し、ほぼ一年をかけ石膏像の調査修復及びブロンズ像の鋳造をおこないました。平成25年4月完成。同27日の春季例大祭にあわせ完成除幕式が行なわれ境内に安置されました。
大熊氏廣(安政3年(1856)~昭和9年(1934))明治9年工部美術学校に入学し、教授として来日していたイタリア人彫刻家ラグーザに師事、明治15年首席で卒業。明治21~22年滞欧しファルギエール、モンテベルデ等に師事。日本における近代彫刻の先駆者。作品として靖国神社の「大村益次郎像」、東京国立博物館表慶館の「ライオン像」などが有名 。

道標 「松陰神社道」

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旧大山道(矢倉沢往還 現在の世田谷通り)から松陰神社に至る道の入口に建てられていた道標。世田谷通りの拡幅事業の際に境内に移設した。明治45年乃木希典公により寄進。

徳富蘇峰植樹の碑

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徳富蘇峰(徳富蘆花の兄)は明治の言論人。肥後の生まれで、熊本洋学校をへて、同志社に学ぶ。政治的には桂太郎と密接な関係を持った。明治41年自身の著述「吉田松陰」発刊にあたり植樹をおこない、碑を建立した。

手水舎

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現在の社殿と共に、昭和2年(1927)門下生であった明治の元勲其の他の崇敬者により造営されたものです。

石灯籠

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境内には毛利元昭公を始め、先生門下の伊藤博文、山縣有朋等の縁故者より奉献された32基の石燈籠があります。その燈柱に刻されている文字は書家竹山先生の所謂、八分隷書体に成るもので貴重な文化財とされています。井上馨のは読めました。

御社殿

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神社創建時に伊藤博文、山縣有朋、井上馨、乃木希典、等の方々によって造営された社殿は現在本殿の内陣となっています。現在の社殿は昭和2年から3年にかけて、明治の元勲や崇敬者の方々によって造営されました。

社務所

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平成8年1月から平成9年10月にかけて造営されたもの。こちらで御朱印をお願いした。今回御朱印帳をバッグに入れ忘れたことを電車に乗ってから気がついた。一枚の紙に書いて頂いたので帰宅後御朱印帳に貼り付けた。

明治百年祭記念碑

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松下村塾

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松陰先生の教育道場であった松下村塾は、叔父の玉木文之進が天保13年(1842)寺子屋を開いて、松下村塾の看板をかけたのが村塾の名の起こりです。塾長は玉木氏が公務多忙の間、久保五郎左衛門が安政4年(1857)まで引継ぎました。その後、松陰先生が再び投獄されるまで引き継ぎ、さらに玉木氏、兄の杉梅太郎らによって明治25年頃まで続きました。(玉木氏は明治9年死亡) 松陰先生は嘉永5年(1852)23才の時は半年ほど、安政2年(1855)26才の冬出獄(米艦に乗船を企てて投獄されていた)してから安政4年(1857)11月迄、杉家(松陰の実家)で子弟を教育していました。この月の5日にはじめて八畳一間の塾舎が完成することとなり、松陰先生はこの時から塾に起居し塾生に対し子弟同行の実際教育を指導しました。塾生が増加して手狭になったので安政5年(1858)3月、十畳半の増築がおこなわれました。松陰先生が名実共に公に認められたのは、安政5年7月20日、先生29才の時、藩主より家学(山鹿流兵学)教授を許可され、これから同年12月安政の大獄に連座し投獄されるまでの5ヶ月の間のことでありました。実際に先生が塾生に教育を施した年月は安政3年8月の頃より安政5年末に投獄されるまでの、通算2ヶ年半程であったようです。松下村塾で薫陶をうけた塾生はおよそ80~90名前後と言われており、久坂玄瑞高杉晋作木戸孝允山縣有朋品川弥二郎伊藤博文など明治維新を通して近代日本の原動力となった多くの逸材を輩出させたことは特に有名です。本神社にある松下村塾は山口県萩の松陰神社境内に保存されている松下村塾を模したものです。

塾の前の松陰像

Img_6923 参道沿いの松陰像と違っている。

拝殿屋根
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本殿屋根

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徳川家奉納水盤

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禁門の変の後、長州征伐の際、幕府によって破壊された松陰先生墓所を明治元年、木戸孝允等が修復した。先生墓所前の葵紋のついた石燈籠(墓前前の内側の一対)と域内の水盤は墓所修復の挙を聞いた徳川家から謝罪の意を込め奉納されたもの。(葵紋は、奉納当時金色であったと言われているが、現在は風化により紋は判別しにくくなっている。

松陰の墓

Img_6933 因縁の吉田松陰と井伊直弼の墓がこんなにも近いとは驚きである。

社務所で頂いた御朱印

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