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2015年5月

2015年5月27日 (水)

野津田公園散策~華厳院坂・上ノ原・ばら広場

急遽思い立ち野津田公園へ出掛けて見た。午後は老犬の介護なので午前中いっぱいの予定で朝食後NHKBSで連ドラを見終わったら5分で準備して7時50分に出掛けた。ボランティア活動時に通っていた道路を久しぶりに歩いたが、並木のマロニエが一回り大きく立派になっているのを見て何やら感銘を受けた。

自宅から野津田公園までは約5kmで片道徒歩約1時間位、途中気になるものがあったり、写真撮りたくなる花が咲いていたりするとプラス10分との予定である。薬師池公園北のガスステーションを左折して鶴見川に架かる「参道橋」を渡り「鶴見川プロムナード」を「丸山橋」まで上流へ進み、そこを右へ曲がると野津田公園である。因みに左に曲がると「七国山緑地保全地域」の森など「七国山風致地区」である。芝溝街道の信号を渡ると、数年前からできている公園への歩道と車道は真言宗「華厳院」の墓地利用者の駐車場へのアプローチだそうである。

歩道の左手の旧家「河井家」敷地からは大量の板碑が発掘されている。その河井家の敷地内歩道脇に「鎌倉古道」の石碑が建てられている。

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鎌倉古道上道の石碑は府中市黒鐘公園で「伝鎌倉古道」があるが、町田市内では初であろう。鎌倉古道・歴史遺産の会の皆様の努力が結実したもので心から讃えたいと思う。

ケンポナシの古老樹二本 「保存樹木」のプレートは枝葉が茂り見えなくなっている。
この老木はどのような歴史の移り変わりを眺めてきたのだろう。

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ケンポナシ(玄圃梨)は、クロウメモドキ科ケンポナシ属の落葉高木。
初夏に小型の白い花が集散花序になって咲き、秋に直径数ミリの果実が熟す。同時にその根元の枝が同じくらいの太さにふくらんで、梨のように甘くなり食べられる。これは民間では二日酔いに効くともいわれる。見かけは枝つき干し葡萄のようなので、英語では"Japanese raisin tree"という。葉や樹皮を煎じて茶のように飲むこともある。葉に含まれる配糖体 ホズルシンには甘味を感じなくさせる性質がある。

ケンポナシ抽出物にはアルコール臭の抑制効果があるという報告もあり、ケンポナシ抽出物はチューイングガムなどに利用される。昔の日本ではテンボノナシと呼び、肥前ではケンポコナシと呼んでいたが、シーボルトは、計無保乃梨(ケンポノナシ)とした。転訛して、ケンポナシとなった。右の老木には大きな洞ができていて、壮凄な歴史、生き様を潜めているようにも見える。

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華厳院坂は鎌倉古道の痕跡を残していると言われていた。立派な案内板が建てられている。

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荒れ果てた竹藪は見通せるように整備されている。これも「鎌倉古道・歴史遺産の会」の皆様がボランティアでなさっているようだ。

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上りきった場所にも表示板

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無事だったか「上ノ原」
嘗てサッカー観戦者の為の駐車場にする案が浮上し、歴史愛好家や自然保護の観点などから市当局へ撤回を訴えていたもので、以前の状態のままで安心した。ここ野津田の丘は中世軍事駐屯地、狼煙場、馬飼育の牧場などあり、鎌倉街道だけでなく古代東海道など古街道が集まっている場所と言われている。

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木洩れ日のある森を抜けると畑があり小麦が黄色くなっている。収獲も間もなくか「麦秋」

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、陸上競技場の東を通りぬけ、ばら広場へ。

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無料で入園でき、約380種の薔薇を堪能できるのはバラ愛好家にはたまらないことであろう。ところがここも「テニスコート」にする案が浮上しているとのことで、残念なことである。運動公園化したいとのことであろが、テニスコートは既に存在している。

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以前は上写真奥に養鶏場があり、風向きでは耐えられない臭いがしたものであるが、現在は規模を縮小したそうである。古くから養鶏を営んでおられたのに、後からできたバラ園入場者の為に撤退するという不条理をなんとおもわれたろうか。

左端から右回りに回るとしよう。ハマナスなどバラの原種に近いものもシンプルと美しく好きである。同じく「カクテル」も横浜時代には庭にアーチにして楽しんだものだ。続いて蔓バラ系も花弁が小さく可憐なのが多い。

「バレリーナ」は近所のお宅でも見かける。 CL 1937 英

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「モーツアルト」 O 1937 独

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「セビリアーナ」の情熱的真紅 F 1978 仏 

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「ブルーボーイ」 F 2000 蘭

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「シエースタ」もよく見かける 

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「ウィーメロ」 艶かしい S 1996 仏 丸弁盃咲き 半つる

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「伊豆の踊子」 FL 2001 仏 黄 半剣弁咲きかせロゼットへ変化 強香

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「シャルランドフランス」

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「アンダルシアン」 スペイン系の名前らしく情熱的な赤 FL 1997 独 丸弁平咲

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「フリージア」 懐かしい FL 1977 独 純黄 八重咲 フロリバンダ系では珍しい芳香種

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「ピカソ」 FL 1971 英 半八重平咲

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「アンネフランクの思い出」別名「アンネの形見」 FL 1960 ベルギー 朱がかった橙色 半八重 

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「ウルメールムンスタ」 CL 1981 独 暗赤色

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「可憐」 FL 1995 日本 淡いサーモンピンク 一重咲き

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「エスカベート」 FL 1967 英 丸弁半八重

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「熱情」 HT 1993 日本 剣弁高芯咲き

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「香具山」 HT 1975 日本 白桃 アイボリー 剣弁高芯咲き

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「マリンブルー」 HT 1994 日本 濃桃 剣弁高芯咲き 

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「ハイジ」

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「リリー・マルレーン」 FL 1959 独 優雅 濃赤 直立性 丸弁カップ咲き

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「ドリーパットン」 HT 1984 米 華やかな朱赤 剣弁高芯咲き 強香

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「マリア・カラス」 HT 1965 仏 蛍光色系ローズ・ピンク 半剣弁高芯咲き

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二年ぶりの野津田公園であった。華厳院坂の石碑や鎌倉古道表示板設置は嬉しく感銘を受けた。ばら広場は時期的に遅かったのかオールドローズの一部は無残な状態ではあったが、他は十分堪能できた。入園料なしでボランティアでの管理運営に敬服だ。

ここ半年間、坐骨神経痛に悩まされている。整形外科を受診しても痛み止めと湿布薬を処方されるだけだ。鍼灸で痛みが無くなったと言う人もいるが、大きなリスクがあり荒治療ではあるが、自宅トレーニングルームの独製マシーン「トレッドミル」を利用して時速4kmに設定してスロージョギングをほぼ毎日実行している。体調良ければ午前中1時間と午後1時間トレーニングしている。

トレーニングを始めると右脚がパンパンに張って痛みが出てくるが、我慢して続ける。耐えられない時は10分程度で休憩を挟む。毎日実施していると確実に脚の筋肉が付き当初は体重が増えていったが、やがて体重も減りだした。偶に外出すると歩いているときはそれ程でもないが、帰宅後痛みが出る。就寝中に痙攣する時もあり、そうなりそうなときには内科で処方してもらっている「芍薬甘草湯」を水なしでも飲む。

本日往復2時間10km強約14000歩を歩いたが、痛みを認識することが無かった。荒治療が効きはじめたのだろうか。このまま痛みが治まらなければ、近くに開業始めた鍼灸医へ行こうかと考えだしていたが、もう暫くトレーニングを続けてみようと思う。

2015年5月18日 (月)

境内に芋畑?目黒不動尊~天台宗泰叡山瀧泉寺

気になる存在でありながら、今まで訪れる機会が無かったが、本日お陰様でやっとお参りできた。新宿から山手線で五反田へ、東急バス「渋72系」渋谷駅東口行きで約15分で仁王門の横のバス停まで運んで貰えた。

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まずは仁王門であるが、塗装工事して間もないのか随分と美しく見える。
三間一戸の朱塗りの楼門で、昭和37年(1962年)再建の鉄筋コンクリート造。

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目黒区教育委員会が設置した解説板
 「天台宗泰叡山瀧泉寺は大同3年(808)に慈覚大師が開創したといわれ、不動明王を本尊とし、通称「目黒不動尊」と呼び親しまれています。
 江戸時代には三代将軍徳川家光の帰依により堂塔伽藍の造営が行われ、それ以後幕府の厚い保護を受けました。また、五色不動の一つとして広く人々の信仰を集め、江戸近郊における有名な行楽地になり、門前町とともに大いに賑わいました。更に江戸時代後期には富くじが行われるようになり、湯島天神と谷中の感応寺と並んで「江戸の三富」と称されました。
 境内の古い建物は、戦災でその大半が焼失しましたが、「前不動堂」と「勢至堂」は災厄を免れ、江戸時代の仏堂建築の貴重な姿を今日に伝えています。
 裏山一帯は縄文時代から弥生時代までの遺跡が確認され、墓地には甘藷先生として知られる青木昆陽の墓(国指定史跡)があります。」

比翼塚 仁王門前にある。
平井権八(1655-1679)は、江戸時代前期に実在した日本の武士である。講談・浄瑠璃・歌舞伎・映画等の世界では、白井権八として描かれている。
因幡国鳥取藩士であったが、数え18歳の時に父の同僚を斬殺して、江戸へ逃亡した。新吉原の三浦屋の遊女・小紫と昵懇となる。やがて困窮し、辻斬り(強盗殺人)を犯し、130人もの人を殺し、金品を奪ったとされる。権八は、目黒不動瀧泉寺付近にあったとされる普化宗東昌寺に匿われ、尺八を修め虚無僧になり、虚無僧姿で郷里・鳥取を訪れたが、すでに父母が死去していたことから、自首したとされる。1679年12月5日鈴ヶ森刑場で刑死した。小紫は刑死の報を受け、東昌寺の墓前で自害したとされる。同寺に「比翼塚」がつくられたが、同寺が廃寺となったため当寺へ移転したもの。

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仁王門に掲げられている扁額は山号「泰叡山

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新感覚デザインの狛犬

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仁王阿形像

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仁王吽形像

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仁王門の天井に吊るされた提灯ならぬシーリングライト

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仁王門の裏には真っ白な狛犬

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境内中央大本堂への石段の前にも優しくてちょっとゆるい親子狛犬

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独鈷の滝
本堂は正面男坂を上った先にある。まずは石階段の左手に池があり、2体の龍の口から水が吐き出されている。伝承では、円仁が寺地を定めようとして独鈷を投げたところ、その落下した地から霊泉が涌き出し、今日まで枯れることはないという。

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垢離堂

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前不動堂 独鈷の滝の左方にある宝形造朱塗りの小堂。江戸時代中期の建築で、東京都の有形文化財に指定されている。「江戸名所図会」にも紹介されている。堂内には木造不動明王三尊立像が安置されている。扉が黒漆塗りか構造材の朱塗りと合わせ立派な堂宇である。

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青木昆陽甘藷先生碑 墓は本堂裏手の道を右方へ進んだ先の飛地境内の墓地内に立つ。青木昆陽(1698 - 1769)は江戸時代中期の儒者で、サツマイモ(甘藷)の栽培を普及させた人物として知られる。墓は簡素な墓石に「甘藷先生墓」と刻まれたもので、昆陽が 生前に立てさせたものという。国の史跡に指定されている。

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北一輝顕彰碑
「この碑は北一輝先生の顕彰碑で大川周明氏の文によるものです。先生は明治16年、佐渡ヶ島に生れた憂国の士で、大正デモクラシーの時代中国に渡り、中国革命を援助し又日本改造論を叫び、国家主義の頭目として、特に陸軍の青年将校を刺戟し多くの信奉者を得た。時適々満州事変前後より先生の思想はファシスト化し、遂に2・26事件を惹起する要因になった。勿論直接行動には参加しなかったが、首謀者として昭和12年銃殺刑に処せられた。然し先生の生涯をさゝえたものは奇くも法華経の信仰であったことは有名である。毎年8月19日の祥月命日には今も尚全国の有志が追悼法要を厳修している。」当山 と案内板にある。

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勢至堂
前不動堂のさらに左方にある宝形造の小堂。江戸時代中期の建築で、目黒区の有形文化財に指定されている。勢至菩薩像が安置されている。建物の随所に後世の改変がなされているが、全体的な姿や優れた意匠の特質を保持されていて寛永中期の瀧泉寺の面影を残している。

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作曲家本居長世碑 音楽学校で中山晋平弘田龍太郎を教えるかたわら「七つの子」「青い目の人形」「赤い靴」「めえめえ小山羊」「お山の大将」のような童謡を作曲した。大正9年野口雨情の詩「十五夜お月さん」の作曲は日本的な旋律に変奏曲的な伴奏を配したもので、この種の先駆的な作品として評価されている。

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腰立不動

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北向六地蔵 地蔵菩薩の浄土「伽羅陀山」は南方にあるので、南を向いて地蔵菩薩を祈れば、直ちに浄土を発し我々の居る北に向かって救いに来て下さるので北向とのことだ。

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地蔵堂 男坂の右側に新しく立派な堂宇。

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春洞西川先生碑 地蔵堂の右手精霊堂との間ある。西川春洞は肥前唐津藩士、元琳の子として江戸の日本橋に生ま れの書家、別号に如瓶人、大夢道人、茄古山民、謙慎書主人などがある。漢魏六朝をはじめ各体に抜きんで、その門に学ぶ者、2000名といわれた。明治大正の漢字書道界の重鎮。

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男坂を上った右手の巨大灯籠

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大本堂
急な石段を登った先の一段高い土地に建つ。入母屋造に千鳥破風をもつ大規模な仏堂で、昭和56年(1981年)再建の鉄筋コンクリート造建築。傾斜地に建っており、室生寺金堂や石山寺本堂のような懸造風のつくりになっている。天井には日本画家、川端龍子の「波涛龍図」が描かれている。

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意志不動

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微笑観音

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愛染明王

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寺の方針として若いカップルをターゲットとしているのがよく解る。

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大本堂の右

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鐘楼堂

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八大童子の山

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本堂右には甘藷先生所縁サツマイモの苗を植えたようだ。珍しい景観である。

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大日如来像
大本堂の背後にある露座の銅製仏像。膝前で印を結ぶ胎蔵界大日如来像で、天和3年(1683年)の作。

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大日如来像の四隅東西南北には四天王がお護りしている。下写真は南方増長天

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東方持国天 他西方広目天、北方多聞天

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女坂を下りて途中の神変大菩薩

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改めて独孤の池へ「水掛不動」の後観音堂へ

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最後はお弥陀堂

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寺務所にて御朱印をお願いした。受付で丁度男僧が卒塔婆を書いているところであったが、お願いすると奥に呼び掛けて御朱印はこの女性が担当して下さった。庶務を兼ね書の達者な方を雇っているのか概ね女性の書く御朱印の書は達筆が多いようだ。

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永年気掛かりな事を了えると肩の荷が下りたようなスッキリした気分になるものだ。しかし、殆んど毎日自宅でトレッドミルでのスロージョギングトレーニングやっていて、自信をもって臨んだものであるが、階段の昇り降りが堪えたのか、帰宅後脹脛、太腿の痛みが出て、就寝時も痛みツムラの68番「芍薬甘草湯」を服用するはめになった。前回の殿ヶ谷戸庭園でも同じ様になり情けないことだ。

2015年5月 8日 (金)

国指定名勝殿ヶ谷戸庭園(随宜園)~段丘崖と湧水を利用回遊式林泉庭園 ~三菱財閥別荘庭園

殿ケ谷戸庭園の存在を知ったのは10年程前に、地下鉄「赤坂見附」を降りてホテルニューオオタニへの途中、地下通路で写真を見た時である。機会があればと思っていたがなく、暇人となりやっと実現した。昨年旧岩崎邸を訪れ、「岩崎家ゆかりの庭園」として駒込別邸の「六義園」、深川別邸として「清澄庭園」と共に「殿ケ谷戸庭園」も紹介されていて今回のスケジューリングをしたものである。サイト内リンク⇒旧岩崎邸庭園六義園清澄庭園

そもそもは庭園名に「谷戸」があり注目したのである。当時都内の緑地保全地域でボランティア活動をしており活動フィールドに複数の「谷戸」があったからである。谷戸とは多摩丘陵、三浦丘陵、狭山丘陵、などの関東の丘陵地が長い時間をかけて浸食され形成された谷状の地形で、谷戸、谷津、谷地などと呼ばれている。これらの表記および読みは地域により分布に差が見られ、同様の地形を表す際にも、千葉県などでは「谷津」(やつ)を、神奈川県および東京都多摩地域では「谷戸」(やと)、「谷」(やと)を、東北地方では「谷地」(やち)を使っている場合が多い。

今回は南武線、武蔵野線を乗継ぎ中央線「国分寺」からのスタート。案内標示もあり、南口を出て左手に進むと右手に殿ヶ谷戸庭園正門が見えてくる。迷いようのない近さである。

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三菱合資会社の社員で南満州鉄道副総裁から貴族院議員にもなった江口定条の別荘として大正二年にこの地に別荘を構え「随宜園」と命名し庭師・仙石の手で作庭された。昭和4年(1929)に三菱財閥創業家の岩崎彦弥太が別邸として買い取り、津田鑿の設計で洋風邸宅、数奇屋風の茶室(紅葉亭)などを追加整備した。昭和40年代に再開発計画が持ち上がったが、保存を求める住民運動をきっかけとして昭和49年(1974)東京都が買収、公園として整備の後に昭和54年(1979)4月より有料庭園として公開している。

江口定条
土佐国(現・高知県)出身。1887年東京高等商業学校(現一橋大学)卒、同校教諭に就任。三菱合資会社入社。同社専務理事、監事等を経て1920年同社総理事。1925年社団法人如水会初代理事長。1931年南満州鉄道の副総裁に就任したが、民政党系であったため、翌年政友会の犬養内閣に罷免される。当時総裁だった内田康哉はこの罷免に抗議し辞表提出。1932年、勅選の貴族院議員となる。

国分寺崖線と呼ばれる段丘崖と豊富な湧水を巧みに生かして築かれた、回遊式林泉庭園である。様々な木々が植えられており、園内には池や周遊順路が存在し、カメラマンや地元住民、近隣で働く人間の憩いの場として利用される。本日も東京都の担当者とボランティアの方方が整備作業をされていた。

国分寺崖線
多摩川による河岸段丘で、平坦な部分と傾斜が急な崖とが交互に現れ、平坦な部分を段丘面、急崖部分を段丘崖と呼ぶ。段丘面は地下水面が低く、段丘崖の下には湧水が出ていることが多い。各段丘の縁端は段差数メートル程度のちょっとした崖になっており、武蔵野の方言ではこれを「ハケ」とか「ママ」などと呼ぶ。また、段丘の縁端に沿って延々と続くこうした崖の様子を、学術的に崖線(がいせん)と呼ばれている。

国分寺崖線は武蔵村山市緑が丘付近に始まり、JR中央線を国立駅の東側で横切り、国分寺市・小金井市と国立市・府中市の市境に沿って東に進む。さらに野川の北に沿いながら調布市に入って深大寺付近を通り、世田谷区の砧地域、大田区の田園調布を経て同区の嶺町付近に至る距離実に約30km。世田谷区の等々力渓谷は国分寺崖線の一部である。サイト内リンク⇒等々力渓谷

名勝とは景色の良い土地のこと。名勝地、景勝(地)ともいう。日本における文化財の種類のひとつで、芸術上または観賞上価値が高い土地について、日本国および地方公共団体が指定を行ったもの。名勝の内特に価値の高いものが特別名勝で、関東では「六義園」、「小石川後楽園」、「浜離宮」。後のふたつは特別史跡にも指定されている。サイト内リンク⇒浜離宮

中門の手前に 歓迎の寄せ植え
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サービスセンターで高齢者70円を支払い入園

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まずは大芝生

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順路は右側となる。左だと展示室を経て紅葉亭へ。崖を降りれない高齢者などは左へ行かれていた。案内順路通り進むと萩のトンネルが見えてくる。それを潜ると次に藤棚があり、休憩できるベンチもある。左に花期を過ぎた花木たちを見ながら崖下へ下りていく。

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途中花木の奥に赤松が美しい。

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右に竹林があり、タケノコも見える。通路ではボランティアの方方が活動されていた。

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レンゲショウマの群生も

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キンラン こういう場所で見てこそ美しい。キンラン・ギンランは移植しても育たないことを当プログにアップしているが、キーワード「育て方」で来る人が多く残念なことだ。

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続いても同じく絶滅危惧種の「クマガイソウ」。活動していたフィールド内でも盗掘が相次ぎ情けなく思ったものだ。

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次郎弁天池 古くから「次郎弁天の清水」として信仰された名水。名前の由来は不明とのこと。

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次郎弁天池

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水源がふたつ見える。紅葉亭側からの湧水は滝の様

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馬頭観音側からの湧水

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馬頭観音への上り階段 通りぬけできない

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登り切ると芝生の庭に出て、正面に展示室が見える。

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馬頭観音 馬頭を冠した観音様をイメージしていたが石碑でした。文政七年建立

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紅葉亭からの眺め

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紅葉亭横の池 

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蹲と鹿威し 

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紅葉亭横

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紅葉亭

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花は少ない時期であったがシランが豪華に咲き誇っていた。

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紅葉の時にゆっくり訪れたい。

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