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2015年5月18日 (月)

境内に芋畑?目黒不動尊~天台宗泰叡山瀧泉寺

気になる存在でありながら、今まで訪れる機会が無かったが、本日お陰様でやっとお参りできた。新宿から山手線で五反田へ、東急バス「渋72系」渋谷駅東口行きで約15分で仁王門の横のバス停まで運んで貰えた。

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まずは仁王門であるが、塗装工事して間もないのか随分と美しく見える。
三間一戸の朱塗りの楼門で、昭和37年(1962年)再建の鉄筋コンクリート造。

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目黒区教育委員会が設置した解説板
 「天台宗泰叡山瀧泉寺は大同3年(808)に慈覚大師が開創したといわれ、不動明王を本尊とし、通称「目黒不動尊」と呼び親しまれています。
 江戸時代には三代将軍徳川家光の帰依により堂塔伽藍の造営が行われ、それ以後幕府の厚い保護を受けました。また、五色不動の一つとして広く人々の信仰を集め、江戸近郊における有名な行楽地になり、門前町とともに大いに賑わいました。更に江戸時代後期には富くじが行われるようになり、湯島天神と谷中の感応寺と並んで「江戸の三富」と称されました。
 境内の古い建物は、戦災でその大半が焼失しましたが、「前不動堂」と「勢至堂」は災厄を免れ、江戸時代の仏堂建築の貴重な姿を今日に伝えています。
 裏山一帯は縄文時代から弥生時代までの遺跡が確認され、墓地には甘藷先生として知られる青木昆陽の墓(国指定史跡)があります。」

比翼塚 仁王門前にある。
平井権八(1655-1679)は、江戸時代前期に実在した日本の武士である。講談・浄瑠璃・歌舞伎・映画等の世界では、白井権八として描かれている。
因幡国鳥取藩士であったが、数え18歳の時に父の同僚を斬殺して、江戸へ逃亡した。新吉原の三浦屋の遊女・小紫と昵懇となる。やがて困窮し、辻斬り(強盗殺人)を犯し、130人もの人を殺し、金品を奪ったとされる。権八は、目黒不動瀧泉寺付近にあったとされる普化宗東昌寺に匿われ、尺八を修め虚無僧になり、虚無僧姿で郷里・鳥取を訪れたが、すでに父母が死去していたことから、自首したとされる。1679年12月5日鈴ヶ森刑場で刑死した。小紫は刑死の報を受け、東昌寺の墓前で自害したとされる。同寺に「比翼塚」がつくられたが、同寺が廃寺となったため当寺へ移転したもの。

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仁王門に掲げられている扁額は山号「泰叡山

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新感覚デザインの狛犬

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仁王阿形像

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仁王吽形像

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仁王門の天井に吊るされた提灯ならぬシーリングライト

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仁王門の裏には真っ白な狛犬

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境内中央大本堂への石段の前にも優しくてちょっとゆるい親子狛犬

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独鈷の滝
本堂は正面男坂を上った先にある。まずは石階段の左手に池があり、2体の龍の口から水が吐き出されている。伝承では、円仁が寺地を定めようとして独鈷を投げたところ、その落下した地から霊泉が涌き出し、今日まで枯れることはないという。

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垢離堂

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前不動堂 独鈷の滝の左方にある宝形造朱塗りの小堂。江戸時代中期の建築で、東京都の有形文化財に指定されている。「江戸名所図会」にも紹介されている。堂内には木造不動明王三尊立像が安置されている。扉が黒漆塗りか構造材の朱塗りと合わせ立派な堂宇である。

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青木昆陽甘藷先生碑 墓は本堂裏手の道を右方へ進んだ先の飛地境内の墓地内に立つ。青木昆陽(1698 - 1769)は江戸時代中期の儒者で、サツマイモ(甘藷)の栽培を普及させた人物として知られる。墓は簡素な墓石に「甘藷先生墓」と刻まれたもので、昆陽が 生前に立てさせたものという。国の史跡に指定されている。

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北一輝顕彰碑
「この碑は北一輝先生の顕彰碑で大川周明氏の文によるものです。先生は明治16年、佐渡ヶ島に生れた憂国の士で、大正デモクラシーの時代中国に渡り、中国革命を援助し又日本改造論を叫び、国家主義の頭目として、特に陸軍の青年将校を刺戟し多くの信奉者を得た。時適々満州事変前後より先生の思想はファシスト化し、遂に2・26事件を惹起する要因になった。勿論直接行動には参加しなかったが、首謀者として昭和12年銃殺刑に処せられた。然し先生の生涯をさゝえたものは奇くも法華経の信仰であったことは有名である。毎年8月19日の祥月命日には今も尚全国の有志が追悼法要を厳修している。」当山 と案内板にある。

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勢至堂
前不動堂のさらに左方にある宝形造の小堂。江戸時代中期の建築で、目黒区の有形文化財に指定されている。勢至菩薩像が安置されている。建物の随所に後世の改変がなされているが、全体的な姿や優れた意匠の特質を保持されていて寛永中期の瀧泉寺の面影を残している。

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作曲家本居長世碑 音楽学校で中山晋平弘田龍太郎を教えるかたわら「七つの子」「青い目の人形」「赤い靴」「めえめえ小山羊」「お山の大将」のような童謡を作曲した。大正9年野口雨情の詩「十五夜お月さん」の作曲は日本的な旋律に変奏曲的な伴奏を配したもので、この種の先駆的な作品として評価されている。

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腰立不動

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北向六地蔵 地蔵菩薩の浄土「伽羅陀山」は南方にあるので、南を向いて地蔵菩薩を祈れば、直ちに浄土を発し我々の居る北に向かって救いに来て下さるので北向とのことだ。

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地蔵堂 男坂の右側に新しく立派な堂宇。

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春洞西川先生碑 地蔵堂の右手精霊堂との間ある。西川春洞は肥前唐津藩士、元琳の子として江戸の日本橋に生ま れの書家、別号に如瓶人、大夢道人、茄古山民、謙慎書主人などがある。漢魏六朝をはじめ各体に抜きんで、その門に学ぶ者、2000名といわれた。明治大正の漢字書道界の重鎮。

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男坂を上った右手の巨大灯籠

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大本堂
急な石段を登った先の一段高い土地に建つ。入母屋造に千鳥破風をもつ大規模な仏堂で、昭和56年(1981年)再建の鉄筋コンクリート造建築。傾斜地に建っており、室生寺金堂や石山寺本堂のような懸造風のつくりになっている。天井には日本画家、川端龍子の「波涛龍図」が描かれている。

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意志不動

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微笑観音

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愛染明王

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寺の方針として若いカップルをターゲットとしているのがよく解る。

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大本堂の右

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鐘楼堂

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八大童子の山

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本堂右には甘藷先生所縁サツマイモの苗を植えたようだ。珍しい景観である。

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大日如来像
大本堂の背後にある露座の銅製仏像。膝前で印を結ぶ胎蔵界大日如来像で、天和3年(1683年)の作。

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大日如来像の四隅東西南北には四天王がお護りしている。下写真は南方増長天

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東方持国天 他西方広目天、北方多聞天

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女坂を下りて途中の神変大菩薩

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改めて独孤の池へ「水掛不動」の後観音堂へ

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最後はお弥陀堂

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寺務所にて御朱印をお願いした。受付で丁度男僧が卒塔婆を書いているところであったが、お願いすると奥に呼び掛けて御朱印はこの女性が担当して下さった。庶務を兼ね書の達者な方を雇っているのか概ね女性の書く御朱印の書は達筆が多いようだ。

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永年気掛かりな事を了えると肩の荷が下りたようなスッキリした気分になるものだ。しかし、殆んど毎日自宅でトレッドミルでのスロージョギングトレーニングやっていて、自信をもって臨んだものであるが、階段の昇り降りが堪えたのか、帰宅後脹脛、太腿の痛みが出て、就寝時も痛みツムラの68番「芍薬甘草湯」を服用するはめになった。前回の殿ヶ谷戸庭園でも同じ様になり情けないことだ。

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