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2015年7月22日 (水)

鎌倉史跡巡り~浄光明寺、英勝寺、寿福寺~

三ヶ月毎に訪れている鎌倉史跡めぐり。JR鎌倉駅からのスタートで、西口から歩くことにする。

壽福寺踏切を渡ると右手に立派な石碑が目に留まる。「扇谷上杉管領屋敷跡」、この地域の総称は、鎌倉七口の「亀ヶ谷坂」や壽福寺の山号「亀谷山」でもわかるとおり「亀ヶ谷」だった。室町時代に上杉定正がこの地に住み、「扇谷殿」と呼ばれるようにり、「扇ヶ谷」という名が一般的になったのだという。

 

鎌倉七口…極楽寺坂切通、②大仏切通、③化粧坂、④ 亀ヶ谷坂、⑤巨福呂坂、⑥朝比奈切通、⑦名越切通

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扇谷上杉家の管領屋敷があったと考えられる場所。室町幕府が成立すると足利管領の補佐役を代々世襲する家として上杉家が台頭した。上杉氏はもともとは藤原氏の一流で勧修寺流の出である。重房の時に丹波国何鹿郡上杉荘を拝領し、上杉と名乗った。建長四年(1252)に宗尊親王が関東に下向してくると、それに従って鎌倉に下ったと伝えられる。その後、上杉氏は足利本家と婚姻関係が結ばれるようになり、重房の娘は足利頼氏に嫁いで家時を生み、重房の子頼重の娘清子は家時に嫁いで尊氏・直義の兄弟を生んだ。このようなことから足利氏の外戚として上杉氏は重用された。南北朝の動乱でも上杉氏は足利氏に従って転戦した。
 貞治二年(1363)に五歳の足利基氏が鎌倉公方として鎌倉に下ると上杉憲顕は、高師冬とともに基氏の補佐役に任命され、以後上杉家は関東管領として鎌倉公方を補佐職を世襲した。やがて上杉氏の一族はそれぞれ居住地の名をとって山内(やまのうち)、扇谷(おうぎがやつ)、犬懸(いぬかけ)、宅間(たくま)の四家に分かれた。

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こんな住宅街の奥にあるのか不安を抱えながら進んでいると左手に「藤谷黄門遺跡」「泉谷山浄光明寺」「冷泉為相卿旧跡」の石碑が迎えてくれた。暑さもあり日陰を選びゆっくり歩いたこともあり横須賀線鎌倉駅到着時間から18分経過していた。通常は早歩きでコースタイムの2割方早いのであるが、事前検索の標準タイムのようだ。

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冷泉為相卿は為家の子なり 従二位中納言となる 和歌所の事に由り 兄為氏と争論の末 その母阿仏尼と共に鎌倉に来たり幕府に訴ふ 遂に藤谷に寓し 藤谷殿と称せらる 藤谷百首 と呼び世に伝承せらるる和歌は 此地にて詠出せられし者なり  網引地蔵は其の建立に係ると云う 卿の墓は其の後山の頂に在り 五輪塔にして 月巌寺殿玄国昌久の八字を刻せんと謂うも 今は漫滅して字体を弁ぜず

この地は鎌倉後期の歌人、冷泉為相(れいぜいためすけ、1263~1328)の屋敷があった場所。為相は藤原為家の子である。為家にはすでに為氏・為教といった子があったが、後に阿仏尼との間にできた子、為相を愛し、為氏に譲っていた播磨国細川庄を悔い返し 、為相に譲った。これがもとで為氏と為相は訴訟となり、母の阿仏尼や為相はたびたび関東に下向し、幕府に裁許を仰いだ。母の阿仏尼がこの時残した日記が著名な『十六夜日記(いざよいにっき)』である。しかし、こうしたことから為相は次第に関東の要人と親しくなった。このため晩年は関東に居住し、ここ扇ヶ谷の藤ヶ谷に邸宅を構えたので、藤谷殿と呼ばれた。墓塔と伝えられる宝篋印塔も浄光明寺にある。ちなみに黄門とは中納言の唐名であり、藤谷黄門とは藤谷中納言の意味である。

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浄光明寺(じょうこうみょうじ)は鎌倉市扇ガ谷(おうぎがやつ)にある真言宗泉涌寺派の寺院。山号は泉谷山(せんこくざん)。開基は北条長時。開山は真阿。本尊は阿弥陀如来。北条氏や足利氏とゆかりの深い寺院で、足利尊氏は後醍醐天皇に対し挙兵する直前、当寺に籠っていたと伝えられている。
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永仁4年(1296)の開山(真阿)譲状には北条時頼と長時が開基であると記されている。長時は鎌倉幕府6代執権で、文永元年(1264年)、36歳で死去し、浄光明寺に葬られた。開山の真阿は浄土宗系の僧であるが、当寺は創建当初から兼学(複数の宗派が並存)の寺であり、3世の高恵(智庵和上)の時から四宗兼学となって近世末に至っている(「四宗」は必ずしも4つの宗派に限らず、真言、天台、浄土、華厳、禅、律を含む)。この高恵の時代、元弘3年(1333)には後醍醐天皇から上総国山辺郡と相模国波多野荘の寺領を寄進されており、また同年には成良親王(なりよししんのう、後醍醐皇子)の祈願所ともなっている。 

山門扁額は山号「泉谷山」
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浄光明寺は中世を通じ、足利氏および鎌倉公方の帰依を受けている。すなわち、暦応元年(1338年)以降、足利尊氏および弟の足利直義より相模国金目郷、上総国山辺郡、伊豆国三津庄などの寺領の寄進を受けている。また、直義は康永3年(1344)と観応2年(1351)に仏舎利を寄進している。尊氏は、建武2年(1335)、後醍醐天皇に叛旗をひるがえして挙兵する直前、天皇への謀反の意思がないことを示すため浄光明寺にて謹慎していたとも伝えられる。この当時の境内の様子は「浄光明寺敷地絵図」により具体的にわかる。

室町時代に入り、足利満兼(鎌倉公方)は、応永6年(1399)、父・氏満と祖父・基氏の遺骨を分けて浄光明寺に安置し、以降、当寺は鎌倉公方の菩提寺となった。天正19年(1591)には徳川家康より4貫800文が与えられている。

山門を潜るとそう広くない境内を一望できる。左から庫裏、客殿、不動堂。

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客殿
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不動堂の屋根が見えている。

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往時は10近い子院があったが、幕末には慈恩院を残すのみで衰微していた。慈恩院は、足利直義が自ら殺害させた護良親王の鎮魂のために建立したもので、浄光明寺に現存する地蔵菩薩像(通称矢拾地蔵)は慈恩院に伝わったものという。

楊貴妃観音 客殿の前、泉涌寺から贈られたという。

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客殿屋根の獅子

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客殿の彫刻

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不動堂

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扁額

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鐘楼

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梵鐘

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十三重塔

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観音坐像

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裏手の一段高くなった敷地に阿弥陀堂と収蔵庫がある。重要文化財の阿弥陀三尊像等は収蔵庫に安置されている。これらのさらに裏手、狭い階段を上った先の山上には岩壁をうがった「やぐら」があり、内部に石造地蔵菩薩坐像(通称網引地蔵)が安置されている。そこからさらに登ったところには国の史跡に指定されている冷泉為相の墓がある。境内は、谷戸を雛壇状に造成した中世寺院の景観がよく保存されている。

阿弥陀堂

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収蔵庫

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    木造阿弥陀如来及び両脇侍坐像 - 正安元年(1299年)の作。三尊とも坐像に作る。阿弥陀如来像は胸前に両手を挙げる説法印を結び、宝冠をいただく。肩、袖、脚部などに見られる浮き彫り状の装飾は「土紋」と称される、鎌倉地方の仏像に特有の技法で、土を型抜きして花などの文様を表したものを貼り付けたものである。両脇侍像(観音菩薩・勢至菩薩)は、結跏趺坐(座禅の形)ではなく足をくずして坐り、中尊の方に頭部をわずかに傾ける。両脇侍像の写実的な衣文表現や、生身の人間のような面相表現には中尊以上に顕著な宋風がみられる。
    浄光明寺敷地絵図 - 鎌倉幕府滅亡直後、新政権に寺領の確認を求めるために作成されたと考えられる絵図で、当時の境内の範囲や建物などの様子がわかる貴重な資料である。図上に足利氏の重臣・上杉重能の花押があり、重能が建武2年(1335年)には鎌倉を離れていることから、絵図の作成時期は、鎌倉幕府滅亡の1333年から1335年までの間であることがわかる。この絵図は長らく所在不明であったが、2000年に鎌倉市内の旧家から発見されて浄光明寺に返還され、2005年に重要文化財に指定されている。

客殿裏手のやぐら

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御朱印は庫裏にて、インターホンを押してお願いした。

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東光山英勝寺 以前訪れた時は木曜日お休みのためお詣りできていなかった寺院である。右手の如何にも尼寺らしい通用門から入り受付にて拝観料300円をお納めして境内へ。

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扇ガ谷にある浄土宗の寺院であり、現在、鎌倉唯一の尼寺である。山号は東光山。寺域は、開基英勝院尼の祖先であり、扇谷上杉家の家宰であった太田道灌邸跡地とされる。

徳川家康の側室で、大田道潅四代の太田康資息女とされるお勝の方は、家康との間に生まれた市姫が幼くして亡くなった後、家康の命により、後に初代水戸藩主となった徳川頼房の養母を務めた。家康の死後は落飾して英勝院と称したが、その後、三代将軍家光より父祖の地である扇ガ谷の地を賜り、英勝寺を創建した。

仏殿、山門、鐘楼は寛永20年(1643年)の建立。祠堂、祠堂門も同じ頃の建立と推定される。各建物は本格的な禅宗様になり、仏殿、山門、鐘楼は屋根を反りのない直線で構成する点に共通点がみられる。

仏殿 - 方三間、裳階付の禅宗様仏堂。屋根は寄棟造、瓦棒銅板葺き。棟札には寛永13年(1636年)に英勝院が建立とあるが、殿内梁牌には「寛永二十年八月 正三位権中納言源朝臣頼房敬立」の銘があり、当初英勝院が建立し、これを徳川頼房が現在の形に改築したものと考えられる。扁額は後陽成天皇の弟である曼殊院良恕法親王の揮毫。粽(ちまき)付きの円柱、貫(ぬき)の多用、詰組の組物、桟唐戸、花頭窓、石敷きの床など本格的な禅宗様になる。ただし、屋根の隅棟や軒先の線に反りがなく、屋根の形を直線のみで構成するのは独特の意匠である。軒下の蟇股は十二支の彫刻で飾る。堂内は身舎小壁に瑞鳥、天井に迦陵頻伽の彩絵を施すほか、水戸徳川家の三つ葉葵太田家の桔梗などの装飾が施されている。国の重要文化財。

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十二支の彫刻の一部

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屋根の木組みも美しい。説明によると往時のまま残る数少ない貴重な建造物とのことである。

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本尊 - 仏殿内部の本尊、阿弥陀三尊像は徳川家光の寄進。

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祠堂門(唐門) - 平唐門、銅瓦葺き。祠堂に至る石段下の小門で、祠堂と共に建てられたと考えられる。欄間には精巧な牡丹等の透彫りが施されている。国の重要文化財。

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小さいが端正で上品な美しさで惹きつけられる門である。繊細な浮彫も魅力。

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祠堂 - 宝形造、銅瓦葺き。方三間。英勝院の位牌を祀る建物で、徳川頼房の子、徳川光圀によって建立されたと言われる。内外は日光東照宮を思わせる鮮やかな彩色装飾が施されている。現在、祠堂は保護のため外側をさや堂によって覆われている。国の重要文化財。

ガラス戸越しでよく見えない。御朱印を頂戴する時に頂いたポストカード

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   山門 - 三間一戸二重門。屋根は入母屋造、瓦棒銅板葺き。上層には釈迦如来と十六羅漢像を安置する。英勝院尼一周忌の直前に、水戸光圀の兄である高松藩主松平頼重 により造営され、「奉敬立相州英勝寺山門 従四位下侍従源頼重朝臣」の棟札を持つ。関東大震災後売却され鎌倉市小町の私有地に移築されたが、2011年、 旧部材を用いて復興された。国の重要文化財。

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葵の御紋

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鐘楼 - 入母屋造、瓦棒銅板葺き。近世の鎌倉では唯一とされる袴腰形式の鐘楼で、梵鐘は寛永20年の林羅山撰文の銘を持つ。国の重要文化財。

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惣門 内側から見たもの

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洞窟 トンネルになっている。

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竹林入口

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やぐら

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宝物庫だろうか?

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  阿仏尼卵塔-十六夜日記の作者、阿仏尼の墓と伝えられる。もともと英勝寺境内だが、現在は英勝寺の塀を北鎌倉方面に越えた崖下のやぐら内にある。

御朱印 ひらがなで「かまくら」が英勝寺らしい。
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改めて惣門を帰り際

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壽福寺
扇ヶ谷にある臨済宗建長寺派の寺院である。鎌倉五山第3位の寺院である。山号を亀谷山(きこくさん)と称し、寺号は詳しくは寿福金剛禅寺という。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は北条政子、開山(初代住職)は栄西である。境内は「寿福寺境内」として1966年(昭和41年)3月22日、国の史跡に指定された。

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最初に訪れた時、参道の美しさにノックアウトされた。今回も門の外からでも手が震えた。

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総門、中門、仏殿、庫裏(くり)、鐘楼などが建つ。仏殿は1664年(寛文4年)の再建である。境内裏手の墓地には、陸奥宗光、高浜虚子、大佛次郎などの墓があり、さらにその奥のやぐら(鎌倉地方特有の横穴式墓所)には、北条政子と源実朝の墓と伝わる五輪塔がある。

中門

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なお、総門から中門までの参道と裏山の墓地は公開されているが、中門から内側の境内は一般公開されていない。御朱印頂くために入り鐘楼を撮影させて頂いた。

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御朱印は老住職が丁寧に目前で書いて下さった。「釈迦牟尼仏」鎌倉五山第三位の風格がある。

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