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2015年8月

2015年8月15日 (土)

秋ナス実を付ける

無為庵の菜園の様子

九条ネギは種を蒔き10cm程に育ってからネキアブラムシにやられて全滅した。その後万能ねぎの根っこを干してから植えつけたものが発芽している。同時に植え付けしたワケギも発芽が始まっている。余っていた九条ネギも改めて再挑戦していて、順調に生育している。

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剪定していた茄子に花が付き実をつけ始めている。

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夏収穫より一回り以上小さい

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暫く様子を見て収穫するとしよう

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オクラ草丈がやっと70センチ位に育ってきた。本格収穫も間もなくであろう

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8月13日収穫 エクラ、イエローアイコ、モロヘイア

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8月15日収穫 ピーマン、オクラ、モロヘイア 撮影後ミニトマト5つと復活したニラも収穫した

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2015年8月 4日 (火)

御茶ノ水 ニコライ堂・湯島聖堂

御茶ノ水に久しぶりに降り立った。嘗て二年弱勤務していた場所でもあり、ビジネスランチをした高層ビル最上階の中華料理店、通勤前に立ち寄り購入していたコーヒー店、夕刻仲間と議論した居酒屋、メガネ屋さんなど懐かしいものであった。当時外から眺めるだけだったニコライ堂と湯島聖堂を中に入り見学したいと酷暑の中出掛けてきた。

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駅から既にニコライ堂のドームが望める。

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「東京ラプソディ」作詞:門田ゆたか、 作曲:古賀政男、唄:藤山一郎 ♪うつつに夢見る君の 神田は想い出の街 いまもこの胸に この胸に  ニコライの 鐘も鳴る♪は知っている歌謡曲である。

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ニコライ堂 Holy Resurrection Cathedral in Tokyo ニコライ堂は神田駿河台にある正教会の大聖堂。「ニコライ堂」は通称であり、日本に正教会の教えをもたらしたロシア人修道司祭(のち大主教)聖ニコライにちなむ。正式名称は「東京復活大聖堂」イイスス・ハリストス(イエス・キリスト)の復活を記憶する大聖堂である。日本正教会の首座主教座大聖堂(ロシア正教会の聖堂ではない。。

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正門

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門を入り左手の解説板 「この聖堂は明治17年3月に起工し工期7年を以って同24年2月完成したもので、設計者はロシアのシチュールポフ博士、工事監督は英国人コンドル博士です。頂上までの高さ35m、建坪318坪、壁厚さ1mから1.6m 日本最大のビザンチン式建造物として知られております。」

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建築面積は約800平方メートル、緑青を纏ったドーム屋根が特徴であり日本で初めてにして最大級の本格的なビザンティン様式の教会建築。1891年に竣工し、1962年6月21日、国の重要文化財に指定された。

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聖ニコライの依頼を受けたロシア工科大学教授で建築家のミハイル・シチュールポフが原設計を行った。お雇い外国人として来日し民間の建築設計事務所を開いていたジョサイア・コンドルが実施設計を担当、建築工事は長郷泰輔が請負い施工は清水組(現・清水建設)が担当した。

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窓にあしらわれている「八端十字架」 本日この時間帯はドーム内観覧はできないが、建物内から見たらステンドガラスを想像してみる。

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正面窓絵

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建物左側窓絵

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聖橋 駿河台と文京区湯島にまたがり、本郷通り(都道403号)を結んでいる。

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放物線を描くアーチ橋で、形式は鉄筋コンクリートアーチ橋。関東大震災後の震災復興橋梁の1つで、昭和2年(1927年)に完成した。設計・デザインは山田守、成瀬勝武。 御茶ノ水橋から見た聖橋

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名前は東京府東京市が公募し、両岸に位置する2つの聖堂(湯島聖堂とニコライ堂)を結ぶことから「聖橋」と命名された。橋は船から見上げた時に最も美しく見えるようにデザインされており、御茶ノ水駅のホームからはややそれに近い視点で見ることができる。現在、夜間はライトアップされている。下写真は下側歩道から見上げた聖橋

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湯島聖堂の入口

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境内図

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湯島聖堂(ゆしませいどう)は、元禄時代、5代将軍徳川綱吉によって建てられた本来は孔子廟である。東京都文京区湯島一丁目、JR中央線の御茶ノ水駅聖橋口からでて、聖橋を渡り右手の森の中にあり、「日本の学校教育発祥の地」の掲示がある。湯島天満宮とともに、合格祈願のために、参拝に来る受験生が訪れる。特に、合格祈願の鉛筆を買っていく受験生の姿が多く見受けられる。国の史跡に指定されている。

明治維新により聖堂は新政府の所管となり、明治4年に文部省が置かれたほか、国立博物館、師範学校(現筑波大学)、女子師範学校(現お茶の水女子大学)、初の図書館「書籍館」などが置かれ近代教育発祥の地となった。

湯島聖堂は、もと上野忍ヶ岡にあった幕府儒臣・林羅山の邸内に設けられた孔子廟(先聖殿)を元禄3年(1690)、五代将軍綱吉がここに移し、先聖殿を大成殿と改称して孔子廟の規模を拡大・整頓し、官学の府としたのが始まり。この時からこの大成殿と附属の建造物を総称して「聖堂」と呼ぶようになった。

こののち、寛政9年(1797)十一代家斉のとき規模を拡大し「昌平坂学問所」を開設、官学のとしての威容も整った。この時の設計は、かつて朱舜水(中国明朝の遺臣)が水戸徳川光圀のために製作した孔子廟の模型が参考にされた。また、これまで朱・緑・青・朱漆などで彩色されていたものを黒漆塗りとした。

仰高門 鉄筋コンクリート造。平家建。切妻造り。延面積10.73m2、昭和10年(1935)4月竣工。仰高とは、「論語」子罕第九「顔淵喟然歎曰、仰之彌高、鑽之彌堅。」による。曲阜の孔子廟では、西方にある。一般見学者用の入り口になる門。

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楷樹 とねりばはぜのき うるし科 楷は曲阜にある孔子の墓所に植えられている名木で、初め子貢が(孔子の墓所に)植えたと伝えられ、今日まで植えつがれてきている。枝や葉が整然としているので、書道でいう楷書の語源ともなったといわれている。

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わが国に渡来したのは、大正四年、林学博士白澤保美氏が曲阜から種子を持ち帰り、東京目黒の農商務省林業試験場で苗に仕立てたのが最初である。これらの苗は当聖廟をはじめ儒学に関係深い所に頒ち植えられた。

その後も数氏が持ち帰って苗を作ったが、性来雌雄異株であるうえ、花が咲くまでに三十年位もかかるため、わが国で種子を得ることはできなかったが、幸いにして数年前から二三個所で結実を見るに至ったので、今後は次第に孫苗がふえてゆくと思われる。

中国では殆んど全土に生育し、黄連木・黄連茶その他(黄棟樹、黄連、蓮連木など)の別名も多く、秋の黄葉が美しいという。台湾では爛心木と呼ばれている。牧野富太郎博士は、これに孔子木と命名された。

孔子と楷とは離すことができないものとなっているが、特に当廟にあるものは曲阜の樹の正子に当る聖木であることをここに記して世に伝える。

孔子銅像 昭和50年(1975)中華民国台北市 ライオンズ・クラブからの寄贈。11月3日除幕式を挙行した。丈高15呎[4.57メートル]重量約1.5トンの孔子の銅像は世界最大。

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銅像建立の記碑

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大成殿へ向かう坂道 階段と築地塀

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入徳門 木造、平家建。切妻造り。延面積14.16m2 宝永元年(1704)建造。
入徳門-入徳とは、朱熹の「大学章句序」「子程子曰、大学、孔子之遺書而初学入徳之門也。」による。上野忍ヶ岡の林家の先聖殿創建時にも入徳門有り。曲阜の孔子廟には無い。江戸官学・朱子学の影響か。聖堂内、唯一の木造建造物。

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扁額

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入徳門の珍獣彫像

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杏壇門 -きょうだんもん-間口20メートル、奥行4.7メートル、入母屋造り。
杏壇門-杏壇とは、山東省曲阜にある孔子の教授堂の遺址のこと。宋の乾興のとき、大殿(大成殿)を後方に移し、教授堂(講堂)の跡地を瓦敷きにして壇(高台)とし、周囲に杏を植え、金の党懐英が「杏壇二字碑」を建立。のちそこに門扉が設けられ、杏壇門の名称が付けられた。

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杏壇門前の絵馬達

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杏壇門を潜り改めて屋根を見ると

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杏壇門屋根 大成殿から見て右側

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大成殿 -たいせいでん-間口20メートル、奥行14.2メートル、高さ14.6メートル、入母屋造り。大成とは、孔子廟の正殿の名称。宋(北宋)の仁宗のとき命名。「孟子」万章下「孔子聖之時者也、孔子之謂集大成、集大成也者、金聲玉振之也。」に基づく。殿内、中央の神龕(厨子)に孔子像。左右には四配として孟子・顔子・曽子・子思の四賢人を祀る。

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大成殿扁額

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大成殿

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大成殿屋根

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斯文会館

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斯文会館入口を入り右受付にて御朱印をお願いした。

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斯文会館の左奥

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昌平坂

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聖橋側入口と築地塀

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改めて聖橋と奥にニコライ堂を望む

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