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2015年9月24日 (木)

築地~文化発祥の地散策

8月中旬から続く雨天の為、史跡巡り散策実現できずにいた。降雨確率が低くなっていた9月1日に強行実行したものの途中で本降りに遭い中断していた。9月24日改めて再開した。日比谷線「築地駅」からスタートし場外市場、波除神社、明治初期文化発祥の石碑、浅野内匠頭邸宅跡、最後に本願寺など当初予定していた。

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1日はお天気悪く、予定では最後の築地駅前の築地本願寺から廻り、24日は1日に廻れなかった場所に鐵砲洲稲荷を追加した。

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本願寺は1617年に、西本願寺の別院として横山町に建立され、「江戸浅草御坊」と呼ばれていた。明暦の大火で本堂を焼失し、区画整理のため再建が代替地として八丁堀沖の海上が下付された。本堂再建のために海を埋め立てて土地を築き1679年に再建。「築地御坊」と呼ばれた。

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1923年9月1日の関東大震災の火災により再び伽藍を焼失。また、58か寺の寺中子院は、被災後の区画整理により各地へ移転。

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現在の本堂は1934年の竣工。古代インド様式をモチーフとしたこの建物は、当時の浄土真宗本願寺派法主・大谷光瑞と親交のあった東京帝国大学工学部名誉教授・伊東忠太による設計である。本堂は日本国政府の重要文化財に指定されている。

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本尊は聖徳太子手彫と伝承される阿弥陀如来立像。本堂で頂いた散華様参拝記念

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御朱印は頂けないが、本堂入口左手に記念スタンプが用意されている。記念スタンプを押して奉拝年月日を記入してみた。

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愈々本降りになってきたが、もう少し歩いてみることにした。築地市場が人気らしく、外国人観光客が圧倒的に多い。

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円正寺 市場の中にお寺。浄土真宗本願寺派、寛永12年宗誓開基となり深川に創建。明暦大火で江戸御坊(本願寺)と共に当地に移転した。本尊は阿弥陀如来。檀家は約120戸

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波除稲荷神社
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配布資料によると、「江戸時代の初め 築地一帯は一面の海」
「江戸開府前より始まった江戸城西丸の増築に掘られた、お堀の揚げ土を以って日比谷入江から埋め始められた、江戸東南海面埋立は、その後全国の諸侯七十家に千石に一人の人夫を出させた。明暦の大火の後に4代将軍家綱公が手がけた最後の埋立の工事困難を極めたのが、この築地海面でした。堤防を築いても築いても激波にさらわれてしまうのです。
或夜の事、海面を光りを放って漂うものがあり、人々は不思議に思って船を出してみると、それは立派な稲荷大神の御神体でした。皆は畏れて、早速現在の地に社殿を作りお祀りして、皆で盛大なお祭をしました。ところがそれからというものは、波風がピタリとおさまり、工事はやすやすと進み埋立も終了致しました。萬治2年(1659)の事です。」

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「それ以来今に至るまで、「災難を除き、波を乗り切る」 波除稲荷様として、災難除・厄除・商売繁盛・工事安全等の御神徳に崇敬が厚いのであります。その御神徳はその後も益々大きく、当時辺境の地であった築地も次第々々に開け、現在の如く繁華街となったのであります。」

力石かと思ったら「蛤石」とのこと 男女和合の象徴。美人で働き者は理想的な「蛤女房」

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鮟鱇塚

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海老塚

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玉子塚

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その他活魚塚、すし塚など築地市場関係団体からの寄進と思われる石塚が境内に所狭しと設置されている。入口の左右に「獅子祭」の赤獅子と黒獅子が祀られている。

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御朱印

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軍艦操練所跡
波除神社を出て右に歩き一つ目の信号の手前。
今日の中央卸売市場の地は、安政4年(1857年)幕府が旗本や御家人を対象に、軍艦教授所(総督永井玄蕃頭)を開講したところです。ここでは新式の訓練が施され、洋式海軍の伝習がなされましたが、二度の火災にあい、慶応3年(1867年)浜御殿(今の浜離宮)へ移りました。翌年英人教頭トレシーが江戸を去ったため伝習は名実ともに休止された。

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はとば公園から撮影した勝鬨橋 

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1905年1月18日、日露戦争における旅順陥落祝勝記念として有志により「勝鬨の渡し」が設置された。築地と、対岸の月島の間を結ぶ渡し舟である。埋め立てが完了した月島には石川島造船所の工場などが多く完成しており多数の交通需要があったことで、1929年(昭和4年)「東京港修築計画」に伴う4度目の計画で架橋が実現した。

日本で現存する数少ない可動橋(跳開橋)である。1980年に機械部への送電を取り止めており、可動部もロックされ、跳開することはない。跳開させようとの市民運動や都・一部都議の動きはあるものの、機械部等の復旧に莫大な費用(東京都の試算では約10億円)がかかることや多数の道路交通量があることから、実現の目途は立っていない。

はとば公園のモニュメント

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現役時訪れたことがある「治作」
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治作の玄関先

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佃島渡船場跡

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佃島は隅田川河口にできた自然の寄州である。徳川初代将軍家康の時、摂津國佃村(大阪市西淀川区佃町)の漁師を招いて住まわせたところという。この島と対岸の佃大橋西詰付近との間を通ったのが佃の渡しである。 明治九年七月には、渡し銭一人五厘の掲示札の下府を願い出ている。大正十五年東京市の運営に移り、昭和二年三月、無賃の曳船渡船となった。この石碑は、この時に建てられたものである。昭和三十年七月には一日七十往復となったが、同三十九年八月、佃大橋の完成によって廃止された。

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鐵砲洲稲荷神社
平安時代の承和8年4月15日(ユリウス暦841年5月9日)、凶作に悩む荏原郡桜田郷の住民が産土神を生成太神(いなりのおおかみ)として祀ったことに始まる。

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入江埋立に伴い京橋に遷座し、更に室町時代末期の大永年間に後の新京橋(現・銀座一丁目付近)へ遷座し、八丁堀稲荷神社と称した。鐵砲洲稲荷神社の「生成太神(いなりのおおかみ)」は、1554年に始まる足利義輝の治世に形成された京橋地区一帯の土地生成の産土神(うぶすなのかみ)です。

鳥居外の狛犬 首をかしげてるようで愛嬌がある。
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 徳川幕府が開かれいよいよ埋立てが進み、寛永元年1624年、これまた氏子崇敬者の願いによってこの鐵砲洲に生成太神を御遷座申し上げ、それまであった八幡神社を摂社として今日の鐵砲洲稲荷神社の基礎を築きました。たび重なる海側への御遷座は、そもそも御鎮座の地に湊があったからです。

神楽殿

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 江戸時代に至っては、米・塩・酒・薪・炭を初めほとんどの消費物資は鐵砲洲の湊へ入ってきたため、鐵砲洲生成太神の名は船乗人の海上守護の神として全国に広まり、今なお『冬至開運祈願祭』に授与する「金銀富貴」の神礼は日本中の人々から拝戴されています。 江戸祭礼番付で西の大関で、因みに東の大関は向島「三囲神社」である。 サイト内リンク⇒向島界隈史跡巡り散策

拝殿左前の狛犬 威厳がある。

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広重・名所江戸百景『鐵砲洲稲荷橋湊神社』にも描かれている。
広重の時代、鐵砲洲から芝浦までが「江戸湊」と呼ばれ、京橋川が隅田川に合流する河口から南の方へ細長い洲が「鐵砲洲」と呼ばれていました。名呼の由来は、種子島に伝来した鐵砲に似ていたとも、徳川家が入府の際、大筒の試射場であったからとも言われています。

二宮金次郎銅像
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拝殿右手裏には鉄砲洲浅間神社

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御朱印 受付前には都会では珍しい「ミズヒキ」が開花していた。

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女子学院発祥の地
この碑は 創立130周年を記念して1999年に建てられた。
碑文にあるように, 女子学院は 1870(明治3)年に 築地居留地に開設された 「A六番女学校」がルーツで, 1890(明治23)年には 他の女学校と合併して, 現在の校舎のある 千代田区一番町に移転し, 校名も「女子学院」となった。

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聖路国際加看護大学

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日本近代文化事始の地。 左慶応義塾発祥の地碑 右蘭学事始の地碑

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 豊前中津藩奥平家の下屋敷のあったところで、藩医で蘭学者の前野良沢(1723年~1803年)らがオランダ語の医書ターヘル・アナトミアを初めて翻訳し、「解体新書」五巻を完成しました。当時の苦心の様子は、杉田玄白(1733年~1817年)「蘭学事始」に詳しく書かれています。

芥川龍之介生誕の地
夏目漱石門下で、「鼻」「羅生門」「河童」「或阿呆の一生」などの数多くの文学作品を残した近代文豪の一人芥川龍之介(1892年~1927年)は現在の明石町で生を受けました。

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浅野内匠頭邸跡 芥川龍之介生誕の地のすぐ横。局地的な不等沈下か?石碑は左に解説板は右に傾いている。

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元禄14年(1701年)年賀勅使の供応役を命ぜられた播州赤穂の藩主・浅野内匠頭長矩は度重なる恥辱に耐えかねて、ついに殿中・松の廊下で吉良上野介に刃傷に及び、自身は切腹、お家は断絶の悲劇を招きました。これが翌年、大石内蔵助良雄を盟主とした四十七士のあだ討ち事件となる。

  吉良上野介邸宅跡⇒サイト内リンク「吉良邸跡~本所松坂町公園

 浅野家菩提寺⇒サイト内リンク「赤穂義士廟所泉岳寺

脚力に自信が持てるようになったら、向島吉良邸跡⇒浅野内匠頭邸宅跡⇒高輪泉岳寺という四十七士引き上げルートを歩いてみたいものだ。

 

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