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2015年10月

2015年10月27日 (火)

無為庵菜園の様子 そら豆・ニンニク・春菊・小松菜

今月13日種を蒔いた「そら豆」「春菊」「小松菜」と14日に植え付けた「にんにく」の発芽状況など無為庵の菜園の撮影をしたので先に撮っていた椎茸とともにアップする。

発芽率が悪いと言われているそら豆は12粒蒔いたが100%出芽した。

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ニンニク球は14球植え付けたが、大きさにばらつきはあるものの全て発芽していることを確認できた。

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春菊

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小松菜

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クヌギ原木栽培している椎茸は雨にあててしまい、巨大化したり色が悪くなってしまった。

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直径約14cm

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反対向きなのは3日前に収穫して乾燥させていたもので小さくなっている。

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今年の千両は実の付きが良い。正月飾りに使えそうだ。

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2015年10月22日 (木)

鎌倉史跡巡り~本覚寺・妙本寺・常栄寺

本覚寺
永享8年(1436)建立、日蓮宗の本山(由緒寺院)。山号は妙厳山。本尊は釈迦三尊像

この場所は鎌倉幕府の裏鬼門にあたり、源頼朝が鎮守として夷堂を建てた所であり、日蓮が佐渡配流を許されて鎌倉に戻り、布教を再開した際に住まいにしたと伝えられている場所。

その後鎌倉公方足利持氏がこの地に寺を建て日出に寄進したもので、二代目住職の日朝が身延山への参詣が困難な老人や女性のために身延山から日蓮の骨を分けたので「東身延」と呼ばれる所以である。

元々は中本山であったが昭和49年に本山(由緒寺院)に昇格している。

日朝は「眼を治す仏」といわれ、本覚寺は眼病に効く寺「日朝さま」の愛称で知られている。十月には「人形供養」、正月には福娘がお神酒を振舞う「初えびす」でにぎわう。名刀工「正宗」の墓がある。

山門(仁王門) 江戸時代のもの。明治初期に三浦半島の寺院より移したという。

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夷堂 前身となった天台宗の夷堂は、本覚寺の創建時に境内に移されたが、明治の神仏分離令によって寺とは分離され、地区の七面大明神、山王台権現を合祀して蛭子神社(えびすでなくひるこじんじゃ)となった。昭和56年(1981年)に本覚寺境内に再び夷堂が再建された。

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鐘楼 応永17年(1410年)銘の梵鐘がある。日出が木更津八幡宮の別当寺で法論に勝ち、従者に持ち帰らせたと伝えられている。

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日蓮御分骨堂 身延山より移した日蓮の分骨を祀る。

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斜めから見た日蓮御分骨堂 威厳ありながら気品がある。

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分骨堂横に黄色の柵があるように本堂は工事中

夷堂橋

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本覚寺門前の滑川に架けられている橋は「夷堂橋」と呼ばれ、鎌倉十橋の一つに数えられる。

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鎌倉十橋
鎌倉を流れる滑川・逆川・山ノ内川などにかかる橋のなかで、古くから伝説が残る十の橋のこと。十井などと同じく、江戸時代になって言われるようになった由。
①歌ノ橋 ②夷堂橋 ③勝ノ橋 ④ 裁許橋 ⑤ 逆川橋 ⑥ 十王堂橋 ⑦ 筋違橋 ⑧ 針磨橋 ⑨ 琵琶橋 ⑩ 乱橋

長興山妙本寺
文応元年(1260)建立 日蓮聖人を開山に仰ぐ、日蓮宗最古の寺院。開基は、比企能員の末子で、順徳天皇に仕えた儒学者比企大学三郎能本

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比企の乱の時、まだ幼少で京都にいたため生き延びたのが比企大学三郎能本で、能本は、鎌倉の町に立って生命がけの布教をされている日蓮聖人に出会い、「わが一族の菩提を弔って下さるのは、このお聖人しかいない!」と決心し、自分の屋敷を日蓮聖人に献上したのが妙本寺の始まりと言われている。

日蓮聖人は、文応元年(1260年)比企能本の父・能員と母に「長興」、「妙本」の法号をそれぞれ授与し、この寺を「長興山 妙本寺」と名付けられた。

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この辺一帯の谷を比企谷といい、源頼朝の重臣・比企能員らの屋敷があった。比企一族は二代将軍頼家の後継者争いの際、北条氏を中心とした軍勢にこの地で滅ぼされた。

惣門

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総門の屋根 木組みや装飾金具も美しい

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方丈門

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階段を上ると奥に本堂、手前に寺務所が見えてくる。

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本堂 なんとも雅で美しい

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寺務所

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寺務所と本堂の間に展示されている屋根瓦

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本堂の屋根

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本堂右手にある 七重石塔

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鐘楼

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二天門 持国天と多聞天の二像が安置されている。

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二天門右手に建つ石碑

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二天門正面を飾るカラフルな浮彫

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獅子や象の彫刻も

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二天門の持国天象

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祖師堂の屋根木組

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日蓮上人立像

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祖師堂左奥高台墓地入口あたりから見た祖師堂

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蛇苦止堂 方丈門手前をひだりに進み突き当り 二代将軍源頼家の側室であった若狭局(能員の娘)は、家宝を抱えて井戸に飛び込み自害したと伝えられている。
  『吾妻鏡』によれば、1260年(文応元年)、北条政村(のちの七代執権)の娘は、比企判官能員の娘に祟られ、蛇のような狂態を見せるようになったが、鶴岡八幡宮の隆弁による加持祈祷によって快復した。 のちに政村は、比企の邸跡に、若狭局を蛇苦止明神として祀る社を建立したという。それが蛇苦止堂といわれている。

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常栄寺
創建は1606年(慶長11年)。

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 開山の日詔が開設した宝篋院檀林という僧侶の学問所だったが、のちに檀林は武蔵の池上本門寺に移された。 鎌倉時代、この地に住んでいた「桟敷の尼」が龍ノ口刑場(藤沢市片瀬)へと護送されていく日蓮に「胡麻入りのぼた餅」を捧げたという伝説から「ぼたもち寺」と呼ばれている。 寺号は「桟敷の尼」の法号「妙常日栄」にちなんだもの。 日蓮が法難に遭った9月12日には、「ぼたもち供養」(龍口法難会)が行われる。

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寺社仏閣を巡るときの楽しみのひとつが御朱印を頂くことであるが、本日は御朱印帳を持参し忘れていて残念なことである。次の機会の楽しみに残しておこう。

2015年10月14日 (水)

にんにく植付、そら豆・春菊・小松菜種蒔、椎茸芽切り

無為庵家庭菜園の夏野菜はトマト苗を早めに植えつけた為8月後半からの雨天日照不足に影響されずに予想以上の収穫量を得、お裾分けした娘も品質の良さにも感心しきりであった。グリーンカーテンとして初めてのいんげん豆も次々に収穫できて満足であった。また初めてのモロヘイアも十分に楽しめた。しかし昨年豊作だったオクラは日照不足をもろにかぶり、前年比1.5倍多く種蒔したにも拘わらず収量は3分の1であった。

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茗荷は株数が殖えたことと、7月のほか今年は10月にも収穫したため前年比4倍増で老妻が喜んでいた。

にんにくは青森の福地ホワイト六片種を予約購入し、14個の大玉を選び、ベンレート剤で消毒

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マルチングシートで準備した菜園に植えつけた。

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そら豆は一寸空豆の種をホームセンターで購入し、マルチシートのにんにくの隣に7個

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そら豆の発芽率は悪いらしいので、鉢に5つ蒔き、防寒策を講じて発芽してから菜園に植え付けることにした。

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今秋も椎茸が芽切りしてくれた。と思う間もなく三日でこんなに大きくなっていた。

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大きいのを3個収穫して窓辺で乾燥

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2015年10月 6日 (火)

特別史跡・特別名勝 都立小石川後楽園

江戸時代初期に水戸徳川家の江戸上屋敷内につくられた築山泉水回遊式の大名庭園であり、国の特別史跡及び特別名勝に指定されている。都立庭園九つの内訪れるのが最後になってしまった。東京ドームには何度か訪れていて、その西隣と粗方承知していた為に返って訪れるのが遅くなってしまった。東京ドームへは水道橋駅だが庭園へは「飯田橋駅」からスタート。駅前外堀通りの陸橋を渡ることにしたが案内標示によると520m。案内標示は要所要所に設置されていて有難い、初めての者も迷いようがない。

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寛永6年(1629)水戸徳川家水戸藩初代藩主・徳川頼房が作庭家徳大寺左兵衛に命じて築いた庭園を、嫡子の光圀が改修、明の遺臣朱舜水の選名によって「後楽園」と命名して完成させた。西門が一般の出入口となっており、右手に進むとサービスセンターがある。門柱右側は「涵徳亭」とある。

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後楽園の名は、中国の范仲淹(はんちゅうえん)「岳陽楼記」の先憂後楽(為政者はまさに天下の憂いに先立って憂い、天下の楽しみは後れて楽しむ)から名づけられた。朱舜水の提案によるもの。岡山市にある後楽園と全く同じである「民衆に先立って天下のことを憂い、民衆がみな安楽な日を送るようになって後に楽しむ。」という光圀の政治信条によったものといわれている。

入口に掲示されている園内案内図

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1923年(大正12年)3月7日、国の史跡および名勝に指定された。指定の際、岡山市の後楽園と区別するため「小石川」を冠した。1952年(昭和27年)には文化財保護法に基づく国の特別史跡および特別名勝に指定された。特別史跡で特別名勝指定は関東では浜離宮と後楽園の二箇所、六義園は特別名勝のみ指定されている。サービスセンターで免許証を提示して150円を支払いパンフレットを頂き東へ左回りに散策することにした。

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まずは「西行堂跡」 狛犬の後ろの石碑が「道のべに しみづながるる 柳かげ しばしとてこそ 立ちどまりつれ」の歌碑

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狛犬が近くで見ると妙に愛嬌がある。

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駐歩泉碑 上記西行の歌にちなみ「駐歩泉」と命名し九代斉昭が自ら筆をとり碑を建てたもの。

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駐歩泉の清らかな流れ。奥の高台が西行堂跡

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幣橋(ぬさばし) 駐歩泉の流れが大池「大泉水」へ注がれるがその流れに架かる橋。

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幣橋を渡ると紅葉林となっている。「川辺には楓や桂などの古木が生い茂り秋深く染土する木々の紅葉は春の花より紅いなり。」と案内板にある。左の川は「竜田川」秋の紅葉時を想像しながら「旅」を続けよう。

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延段(のべだん) 中国風の素朴な石だたみで、切石と玉石を巧みに組み合わせたもの。

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山道に密やかに咲いていた「ホトトギス」 やがて木曽の山で寝覚滝も。

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正門(東門)

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砲兵工廠跡記念碑 明治2年の版籍奉還により藩主徳川昭武が邸宅とともに新政府に奉還し、そののち東京砲兵工廠の敷地の一部として陸軍省の所管となったもので、その名残のひとつである。

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富士見堂

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内庭  大別すると内庭と後園とに分けられ、内庭は水戸藩邸の書院の庭であって江戸時代には「うちの御庭」などと呼ばれていた。江戸時代の大名屋敷がほとんど消滅した現在、書院の庭の旧態をよく残しているものとして貴重である。

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再び大泉水 「蓬莱島」島は亀の形をしており、先端の大きな鏡石は庭師徳大寺左兵衛にちなんで「徳大寺石」と名付けられて、弁財天を祀った祠がある。 

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異形灯篭

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九八屋(くはちや) 江戸時代の風流な酒亭の様子を現した。この名の由来は「酒を飲むに昼は九分夜は八分にすべし」と酒飲みならず万事控えるを良しとする。との教訓による。戦災で消失したが昭和34年に復元した。 

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赤門 遠くからは赤く見えなかったが、日が当たると確かに赤く見える。

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不老の水 この井戸がいかなる旱魃にも水が枯れず、またいかなる洪水にもあふれ出すことがなかったことから不老水と呼ばれる。

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稲田 水戸黄門の案山子  近くには梅林もある。

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藤田東湖記念碑

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小町塚

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八卦堂跡 二代光圀七歳の時、将軍家光に謁見したおり「文昌星」像を頂戴した。後に光圀は文学を好むようになり、文昌星を思い起こし八卦堂を造りその像を安置したという。関東大震災で焼失した。

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八卦堂の位置は相当の高さにある。山を下りる真直ぐの急階段は愛宕神社のようで「愛宕坂」。下に見える流れは「神田上水」跡

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花菖蒲田 奥は稲田

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楽しみにしていた「円月橋」 水面に映る形が満月のように見えることからつけられた名称。明の儒学者朱舜水による設計と指導によって江戸の名工「駒橋嘉兵衛」が作った。後に八代将軍吉宗が江戸城内に作ろうとしたが、ついに果たせなかった。 関東大震災にもびくともせず、現代に残されている。

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「白糸の滝」や「沢渡り」周辺は工事中

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小廬山

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小廬山手前の蓮池では花期を終えて種ができている。

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一つ松

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最後に大泉水の蓬莱島をもう一度

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今回の後楽園で都内の都立庭園を全て廻ることができた。クリックでサイト内リンク。
 ①浜離宮恩賜庭園
 ②旧芝離宮恩賜庭園
 ③清澄庭園
 ④旧岩崎邸庭園
 ⑤六義園
 ⑥旧古河庭園
 ⑦向島百花園
 ⑧殿ヶ谷戸庭園
 ⑨小石川後楽園

両国の旧安田庭園もほっとできるいい庭園だと思う。


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