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2015年11月

2015年11月24日 (火)

にこたまの地下霊場~寶泉山玉眞院 通称玉川大師

二子玉川は高島屋オープン後メディアに取り上げられることが多くなった。嘗て等々力渓谷や九品仏浄真寺へ行くのに大井町線乗り換えで駅周辺を見ていて東側の大規模開発は何ができるのか気になっていた場所である。今年8月楽天が品川から引越したこともあり益々ホットプレイスになりそうだ。

そんな二子玉川にある玉川大師を訪ねることにした。TV情報番組で地下霊場を紹介していて興味を唆られたからである。

二子玉川地名の由来はかつてこの近辺に多摩川の「二子の渡し」があり、多摩川をはさみ川崎側の「二子村」と世田谷側の「玉川村」に由来する説は納得である。

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さて登戸、溝の口で乗り継いで二子玉川駅からスタート、西口から高島屋の北を左折し、二つ目信号「二子玉川小学校入口」を右折、二子玉川小学校を右に見て進むと「NTT瀬田前」信号がある。

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信号の先が丸子川が横切っている。その川に掛かる橋は「治大夫橋」。

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橋を渡った右手に解説板が建っている。この道は「大山道
大山は雨乞いに霊験のある山として雨降山(あふりやま)とも呼ばれ、昔から農民たちの山岳信仰の対象とされてきた。そこにある大山阿夫利神社は、農民から五穀豊穣や雨乞いの神として信仰され、日照りや飢饉が続くと、多くの農民達が参詣に訪れた。道中の参詣者は、白の行衣、雨具、菅笠、白地の手っ甲、脚絆、着茣蓙という出で立ちで腰に鈴をつけ、「六根清浄」の掛念仏を唱えながら、5 - 6人、多い時には20 - 30人が一団となって、7 - 9月を中心に大山へと向かった。

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次大夫堀(じだゆうぼり) 慶長年間、家康が主に下流の六郷地方の米の増収を図るため、代官 小泉次大夫吉次に命じて切り開いた灌漑用用水で、世田谷地方の人々は「次大夫堀」と呼んでいた。

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治太夫橋を渡り次の角を右折すると左手に寺院らしき建物が見えてくる。

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両親閣東京別院は、日蓮聖人の両親の廟所を護持する小湊妙蓮寺両親閣の東京別院 昭和6年当地に堂宇を創建、昭和25年宗教法人敬親玉川教会(別称両親閣東京別院)と改称。目的の玉川大師はお隣らしい。間違って入る人が多いらしい。親切な案内がでている。

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玉眞院(ぎょくしんいん)は、真言宗智山派の寺院。玉川大師は通称名

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創建は大正時代で、龍海大和尚により大師堂が、その後6年の歳月をかけて、昭和9年(1934年)に竜海阿闍梨が地下仏殿を建立した。

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地下仏殿は地下5メートルの深さの場所に、長さ100メートルにも及ぶ総鉄筋コンクリート造りの拝殿である。国内有数の地下霊場である。拝殿で拝み、左手上に掲げられている解説を読み、本堂へ。右手に売店もあり、寺の人に地下仏殿お詣りする旨を伝え、御朱印をお願いした。初めての参拝ということで記帳後燈明料百円を納め、首から掛けていたカメラを預け、スリッパを履き地下仏殿への階段へ。

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地下仏殿は最初真っ暗で、手探り状態で目を慣らしながら南無遍照金剛と唱えゆっくりと進む。仏の胎内をかたどっており、胎内には石仏が約300体ある。これらの石仏を拝むと四国八十八ヶ所西国三十三ヶ所を巡ったのと同じご利益がある。大山阿夫利神社で御神水が湧く半地下を巡ったことがあるが、本格的地下で百メートルもの距離を巡ったのは初めてである。

御朱印

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御朱印に貼って戴いた武蔵国玉川大師遍照金剛殿秘仏 

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本堂前左にある長寿の銅鑼

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弘法大師像は高さ2メートル20センチ、重さ約2トンの御影石。

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歌碑 玉川の 秘仏の大悲身にうけて 大師とともに生きるよるこび

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駅に戻り 東側の近代的なビル群を仰ぎ見る。楽天クリムゾンハウス

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竣工2015年、30階建延床面積157016.25㎡、建築主二子玉川東第二地区市街地再開発組合、施工鹿島建設、、2階から27階の全オフィスフロアを楽天が賃借、2015年8月から新本社「楽天クリムゾンハウス」として機能する。

勤務人数は約1万人、オフィス内には三食無料のカフェテリアやリラクゼーションスペース、フィットネスジム&スパ、 語学学習ルーム、イスラム教徒のための祈祷室もある。 クリムゾンとは深紅色、楽天カラーということか。

2015年11月 5日 (木)

江戸の風香る佃島ひとり歩き

東京メトロ有楽町線は現役時にジム通いに使用していたもので、久しぶりで懐かしい。有楽町から銀座一丁目、新富町、の次3つ目「月島」で下車。

6番出口から地上に上がると、蒼穹に近代的な高層ビル群が目に飛び込んでくる。

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隅田川に向かい進むと下町情緒の街並みと「天台子育地蔵尊」の赤い幟が最初の目的地へと誘導してくれる。二本の幟の間の狭い路地へ入っていくと左手に地蔵尊をお祀りしているスペースが現われる。入ろうとすると公孫樹の大木に驚かされる。

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佃天台子育地蔵尊縁起 配布資料
 江戸時代の中期、正徳5年(1715)~元文3年(1738)に在住された上野寛永寺崇徳院宮法親王が地蔵菩薩と厚く信仰され、自ら地蔵尊像を描き江戸府内の寺院にたまわり、地蔵尊造立と促されたと伝えられています。
享保8年(1723年)寛永寺の宮様、大明院宮崇徳院宮、随宜楽院宮の三代にわたり、律院建立と熱願されたことから、寛永寺第六世輪王寺宮の推挙を得て、比叡山に安楽律院、日光山に興運律院、上野東叡山に浄名律院が建立され、その浄名律院(現在、浄名院)建立の際、山内に地蔵尊像と描かれた崇徳院宮法親王が、松をお手植えされたので、地蔵寺といわれるやにも伝えられていますが、浄名院第三十八世に地蔵比丘(びく)といわれた妙運大和尚が、八萬四千体石地蔵尊建立を発願され、崇徳院宮の描かれた地蔵尊を拝写され全国の信者に賜わったことからとも伝えられています。(八萬四千体とは、仏典に『無量壽仏 有八萬四千相十一相客 有八萬四千随形好・・・』に拠る。)
 妙運大和尚が地蔵比丘といわれる所以は、嘉永3年(1850)日光山星宮の常観寺に寓した際、地蔵尊信仰の縁ににふれられ一千体の石地蔵建立を発願され爾後、浄名院住職になられ、本格的に八萬四千体建立の大発願をなされたからといわれています。
 佃天台子育地蔵尊には、天台地蔵比丘妙運の刻銘があり、まさしく拝写されたお姿と同じく左手には如意宝珠、右手には錫杖(しゃくじょう)を持たれております。またこの像を平らな自然石に刻まれていることも大変珍しいといわれています。
 この地蔵尊に天台の二文字があることは妙運比丘が天台宗の僧であったから、いや天台宗の教義の一つに『一切衆生悉有仏性=人は本来的に仏である』とあることから、いつの頃かは定かではないですが、こう呼ばれ親しまれてきたのではなかろうかと考えられます。
 この佃天台子育地蔵尊は、頑是ない子供衆の様々なことを、御守護下さる本願がおありになりますと同時に長壽延命・家内安全・諸願成就の地蔵尊といわれていることから古くから佃島の人々はもちろんのこと多くの人々に信仰され今日に至っております。

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一時ここを区の文化財に指定しようという動きがあったらしいが、所有者らが拒み、公的な調査はじっしされていない。薄暗く窓のない屋内にも関わらず、清潔で綺麗に保たれているようだ。

子育地蔵尊を出ると右前に次の目的「佃波除稲荷神社」が見える。今回の史跡巡りは珍しく順調だ。

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佃波除稲荷神社
正式名称は 「於咲稲荷波除稲荷神社(おさきいなりなみよけじんじゃ)」といい於咲稲荷神社(おさきいなりじんじゃ)と波除稲荷神社(なみよけいなりじんじゃ)が1本の鳥居を共有している。祭神は、倉稲魂命(ウカノミタマ)。波除稲荷には、「災難を除き、波を乗り切る」という言い伝えがある。

   サイト内リンク⇒築地波除神社

佃の象徴的風景としてメディアにも取り上げられることが多い。佃小橋と奥に大川端リバーシティ21の超高層マンション群が聳え立っている。

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佃堀 佃川支川(つくだがわしせん)
逆L字型の掘割である。隅田川への入口には同地の氏神として知られる住吉神社の名にちなんだ住吉水門が建てられ、また住吉小橋佃小橋が架けられている。

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行き止まり部分の堀は、正式名称ではないものの、「佃堀」と呼ばれることがある。改めて写真を見て気が付いたが奥に住吉神社の本殿が見えている。境内正面からは拝殿しか見られない。

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佃小橋
佃小橋(つくだこばし)は、佃川支川に架かる橋である。橋の両岸とも東京都中央区佃一丁目である。外観は、朱塗りである。欄干の装飾などにも、歴史的な意匠が施されている。佃小橋の下の、佃川支川の川底には、3年に1度行われる住吉神社の例大祭に用いる「抱木」(大幟の柱)が、保存のため埋設されている。例大祭の際には掘り起こされる。佃小橋から見ることができる位置には、佃住吉講によって、このことを知らせる案内板が設置されている。

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住吉神社 鳥居

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陶板扁額
珍しい陶製で白地に呉須で額字や雲文を染め付けている。これは明治天皇が北海道より還幸される際、越中島へ有栖川宮幟仁親王が出迎える途中住吉神社に立ち寄り、この社号を書いたと伝えられている。明治15年制作。

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水盤舎(みずや)
欅材の切妻造、瓦葺。欄間の正面には石川島灯台と佃の渡し、側面には帆を張った回船や網をうつ小舟、背面には磯の景色、内側には潮干狩りなど佃島の風景が彫られている。

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拝殿
ご祭神は住吉三神(底筒之男命、中筒之男命、表筒之男命)、息長足姫命(神功皇后)、東照御親命(あずまてるみおやのみこと、徳川家康)。徳川家康も祀られていることが佃島成立に関し興味深い。

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天正年間(1573- 1592年)、徳川家康が上洛し、摂津国西成郡佃村(現・大阪市西淀川区佃)にある住吉神社(改称の経緯:田蓑神社→田蓑姫神社→住吉神社→田蓑神社)に参詣した際、佃村および近隣の大和田村(現在の西淀川区大和田付近)の漁民が神崎川に渡し船を出して家康一行を運び、白魚などを献上した。これを機縁として、以後、両村の漁民は家康から西国海上隠密の用を受けたり、大坂の役の際には軍船や魚の調達をするなどした。また、家康は両村の漁民に対し、恩賞として全国での漁業権を与えた。

天正18年8月1日(1590年8月30日)、徳川家康が関東下降の際、先述の佃村および大和田村の漁夫33人と神主・平岡権大夫好次が江戸に移り、正保2年(1645年)には江戸鉄砲洲向かいにある百間(約180m)四方の干潟を幕府から下賜された漁夫らがこれを埋め立てて築島し、永住することになった。この島を故郷の摂津国佃村にちなんで「佃」(島は「佃嶋」、村は「佃村」)と命名し、正保3年6月29日(1646年8月10日)には、息長足姫命(神功皇后)と東照御親命(徳川家康の霊)の分霊を奉遷し、摂津国佃の住吉社(現・田蓑神社)の分霊(住吉三神)とともに祀るべく、住吉神社が創建された。

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旧神輿庫 八角神輿で有名である。昭和37年までは海中渡御が行われていたため、内部も漆塗りになっていて気密性が高くなっている。

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本殿屋根

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石井きんざ歌碑
 明治は遠くになっても江戸が残る佃の夏祭り きんざ

 石井きんざの著書に「その昔 佃島漁師夜話」「人生哀歌: 石井きんざ都々逸集」「佃祭りの詩」など

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五世川柳 水谷禄亭碑 歌碑
 和らかで かたく持ちたし 人ごころ

水谷緑亭は、幼い時に父親を亡くし、佃島の漁師太平次に養われ、佃島の名主をつとめた人物と伝えられている。

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珍しい石塔 台石に「住吉組」とある。説明版はない。

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鰹塚 鰹節問屋組合の寄進 裏碑文は慶應義塾池田弥三郎氏による

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狛犬

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御朱印は鳥居を潜り左手寺務所にて受け付けてくれる。

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石川島灯台 住吉小橋から撮影。橋の左が工事中だったが住吉水門で隅田川と繋がっている。 

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佃公園から対岸を望む 佃大橋と奥に聖路加タワー

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北条秀治歌碑 
北条 秀司(ほうじょう ひでじ、1902年11月7日 - 1996年5月19日)は、日本の劇作家。
大阪市生まれ。本名は飯野秀二。関西大学文科卒業。箱根登山鉄道の社員をしながら岡本綺堂に師事、1937年、「表彰式前後」が新国劇で上演され、デビュー。1940年、『閣下』で新潮社文藝賞受賞。
代表作に、『王将』三部作(1947-50)、「狐と笛吹き」(1952)『太夫(こったい)さん』(1955)、「佃の渡し」、「狐狸狐狸ばなし」、「建礼門院」などがあり、また「末摘花」「浮舟」「藤壺」など、『源氏物語』を題材にしたものも多く、その集大成は「北條源氏」と呼ばれる。

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北条秀司は佃島が好きであった。新派俳優、花柳章太郎も佃島が好きであった。二人はたえず連れ立って、佃島を歩き、大川の渡船を楽しんだ。 その結晶として、「佃の渡し」の芝居作りを企画した。それが昭和32年(1957年)12月の新橋演舞場に脚光を浴び、劇団新派の財産を一つ殖やし、北条秀司の代表作をまた一つ世に残すことになった。

佃渡船跡石碑 
佃島と対岸の佃大橋西詰付近との間を通ったのが佃の渡しである。明治9年7月には渡し銭一人5厘の掲示札の下付を願い出ている。大正15年東京市の運営に移り昭和2年3月無賃の曳船渡船となった。この石碑はこの時に建てられたものである。昭和30年7月には1日70往復となったが、昭和39年8月佃大橋の完成によって廃止された。
     サイト内リンク⇒対岸築地の佃渡船跡石碑

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神輿庫内獅子頭

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佃煮屋天安
慶長8年家康が江戸幕府を開いた時佃村の漁民33名を江戸に呼び石川島に近い島を居住地として与え故郷の佃村に因み「佃島」と名付けられた。彼らはこの地で漁をしながら江戸城内の台所をまかなうことで漁業権を与えられた。離れ小島であるため時化どきにお菜に事欠き、また漁期に腐らない副食物が必要なことから、湾内で獲った小魚類を塩辛く煮込んで保存食とし、千葉から醤油が入り塩煮より醤油煮にかわり佃島で作られたので「佃煮」と命名され江戸市中に売り出された。天安の商号誕生は天保8年に創業し初代が安吉といい、天保年間の天と安吉の安をとり商号を「天安」と命名した。

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佃煮はスーパーなどで購入してたべることはなく、ほとんど頂き物である。今回「あみ」と「ほたて貝ひも」をお土産に購入し、早速ご飯のお伴に美味しく頂いている。量り売りが基本と予め聞いていたのが、注文後店内を見ていたら、三品詰合せもあった。因みに三品はあみ、貝ひも、お茶漬け昆布。

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説教所 突然お寺のような堂宇と「説教」の文字に反応して撮影した
佃島説教所は、浄土真宗本願寺派寺院の佃島説教所の本堂。昭和9年に創建されました。現在でも月に一度の僧侶の法話があり、集会所などとして利用されているほか、講談などの伝統芸能の催しなども行われている。本堂を利用してどなたでも宗旨・宗派を問わずご家族葬、一般葬むきの斎場としても利用できる。

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月島でもんじゃでに初挑戦してみようかと思っていたが、だめで帰ってきてしまった。もんじゃ焼きの土産でも買おうかと思ったがそれもやめた。次回チャレンジ。

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2015年11月 3日 (火)

秋のイベント盛沢山~薬師池かいぼり・菊花展など

地元町田を代表する景勝地である薬師池公園は1982年に「新東京百景」に、1998年には「東京都指定名勝」に指定されており、2007年には「日本の歴史公園100選」にも選定されている公園である。その中心にある薬師池は水田灌漑用水目的にに造られたもので、別名福王寺池とも呼ばれていた。1577年(天正5年) 当地域を支配していた北条氏照から野津田の武藤半六郎(河井家祖先)たちに農業用のため池を造る許可が下りた。近年ではもっぱら梅・桜・椿・花菖蒲・紫陽花など花の名所として市民に親しまれている。

薬師池は今年2015年9月3日から2016年3月18日までの予定で、池の生物の排出物や底にたまった堆積物により悪化した薬師池公園の池の水質を改善の工事と生き物調査が実施されている。

11月3日文化の日に調査を兼ねて、子供たちにも魚や亀など池の生物を捕まえてもらうというイベントが開催された。公園近くまで来ると網やバケツを持った親子連れが沢山見掛けられた。

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掻い掘り」とは池や沼の水をくみ出して泥をさらい、魚などの生物を獲り、天日に干すことである。換え掘り(かえぼり)、換え乾し(かえぼし)、池干し、泥流しなどのよび方もある。農業用のため池を維持するために行われてきた、日本の伝統的な管理方法である。稲作が終わる晩秋から早春にかけての農閑期に、池の水を抜き天日に干し、堆積したヘドロや土砂を取り除いて肥料にし、獲った魚を利用してきた。

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栄養塩類を含んだ泥や水を排出し、また池の底を空気にさらして微生物による分解を促進することで、水質を浄化する効果がある。農業目的の他に、水質改善や外来生物駆除のための掻い掘りが各地で行われている。
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今回の調査でモツゴ ヌマチチブ トウヨシノボリ ナマズ コイ、ブルーギル アオウオ ゲンゴロウブナ ソウギョ、スジエビ スッポン ミシシッピアカミミガメが捕獲された。1番多かったのは、モツゴ(在来種)で、1万匹以上もいたそうだ。ブルーギルの他、アオウオやソウギョなど大型外来種も捕獲されている。外来種では植物で駆除活動啓蒙活動をやったことがある。外来種問題は時々テレビ番組などでも取り上げられているが、地元の池までにも拡大していたことに驚かされている。

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帰路で参加していた児童とそのおじいさんと一緒になったが、子供は寒さに震えていて可哀想だった。温かい飲み物でも持っていたら飲ませてあげたかった。体調悪くしてなければよいのだがと心配だ。

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改めて写真を観ていると有明海の「ガタ」の様である。

掻い掘りの影響でこの時期毎年開催されている菊花展は野津田公園での開催となった。

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野津田公園入口に鎮座する石塔「地神齋」 嘗て農民が集い神に祈りを捧げている様子がイメージされる。ここは高札場だった場所である。

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華厳院坂左の屋敷は前述薬師池造成時の当事者河井家、右側に真言宗華厳院がある元は「福王寺」である。。車道は華厳院の墓参者駐車場用で、野津田公園用ではない。

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歩道の両側に「ケンポナシ」の老大木 クロウメモドキ科ケンポナシ属 (落葉高木). 梨の味がする、熟した果柄をテンポ(手棒)とみての名。

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右側ケンポナシ老木 近所の方は空洞化が年々大きくなっていると心配されている。

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鎌倉古道石碑 ケンポナシの手前河井家敷地内に建っている。

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華厳院坂掘割状遺構 半年ぶりに通ったが草刈りなど綺麗に整備されている。

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野津田公園上ノ原 尾花(ススキ)が刈残されている。手前「チカラシバ」の草紅葉化している。奥はサッカー場。

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木洩れ日の路

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野津田丘の上秋まつり

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テントが張られている。

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食べ物屋さんはもちろん藍染めや絵本の読み聞かせまで。手前には焚き火だが、芋でもやくのだろうか。読み聞かせでは座って聞いているおりこうさんが居る一方で、半分は走り回っている。こんな秋晴れの下では走り回ってる子の方が健全に見えた。

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例年薬師池公園で開催の菊花展は薬師池の掻い掘りの為に今年は野津田公園芝広場にて開催された。公園内で様々なイベント開催中らしく、駐車場はいずれも満車状態で、入場規制されていて車の行列ができていた。

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開催案内の幟旗は「薬師池」のままだ。

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会場入口 入口では植木市、園芸相談会と野菜の販売もされている。

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国華越山 

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国華金山

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さがみ川

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懸崖仕立て

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その他Img_7917jpg
お気に入りはこれ。名前不詳

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帰り際野菜売り場で土産にズイキを求めた。好天で気持よく10000歩以上歩くことができ健康な汗をかけた。

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