« 秋のイベント盛沢山~薬師池かいぼり・菊花展など | トップページ | にこたまの地下霊場~寶泉山玉眞院 通称玉川大師 »

2015年11月 5日 (木)

江戸の風香る佃島ひとり歩き

東京メトロ有楽町線は現役時にジム通いに使用していたもので、久しぶりで懐かしい。有楽町から銀座一丁目、新富町、の次3つ目「月島」で下車。

6番出口から地上に上がると、蒼穹に近代的な高層ビル群が目に飛び込んでくる。

Img_7937jpg

隅田川に向かい進むと下町情緒の街並みと「天台子育地蔵尊」の赤い幟が最初の目的地へと誘導してくれる。二本の幟の間の狭い路地へ入っていくと左手に地蔵尊をお祀りしているスペースが現われる。入ろうとすると公孫樹の大木に驚かされる。

Img_7938jpg

佃天台子育地蔵尊縁起 配布資料
 江戸時代の中期、正徳5年(1715)~元文3年(1738)に在住された上野寛永寺崇徳院宮法親王が地蔵菩薩と厚く信仰され、自ら地蔵尊像を描き江戸府内の寺院にたまわり、地蔵尊造立と促されたと伝えられています。
享保8年(1723年)寛永寺の宮様、大明院宮崇徳院宮、随宜楽院宮の三代にわたり、律院建立と熱願されたことから、寛永寺第六世輪王寺宮の推挙を得て、比叡山に安楽律院、日光山に興運律院、上野東叡山に浄名律院が建立され、その浄名律院(現在、浄名院)建立の際、山内に地蔵尊像と描かれた崇徳院宮法親王が、松をお手植えされたので、地蔵寺といわれるやにも伝えられていますが、浄名院第三十八世に地蔵比丘(びく)といわれた妙運大和尚が、八萬四千体石地蔵尊建立を発願され、崇徳院宮の描かれた地蔵尊を拝写され全国の信者に賜わったことからとも伝えられています。(八萬四千体とは、仏典に『無量壽仏 有八萬四千相十一相客 有八萬四千随形好・・・』に拠る。)
 妙運大和尚が地蔵比丘といわれる所以は、嘉永3年(1850)日光山星宮の常観寺に寓した際、地蔵尊信仰の縁ににふれられ一千体の石地蔵建立を発願され爾後、浄名院住職になられ、本格的に八萬四千体建立の大発願をなされたからといわれています。
 佃天台子育地蔵尊には、天台地蔵比丘妙運の刻銘があり、まさしく拝写されたお姿と同じく左手には如意宝珠、右手には錫杖(しゃくじょう)を持たれております。またこの像を平らな自然石に刻まれていることも大変珍しいといわれています。
 この地蔵尊に天台の二文字があることは妙運比丘が天台宗の僧であったから、いや天台宗の教義の一つに『一切衆生悉有仏性=人は本来的に仏である』とあることから、いつの頃かは定かではないですが、こう呼ばれ親しまれてきたのではなかろうかと考えられます。
 この佃天台子育地蔵尊は、頑是ない子供衆の様々なことを、御守護下さる本願がおありになりますと同時に長壽延命・家内安全・諸願成就の地蔵尊といわれていることから古くから佃島の人々はもちろんのこと多くの人々に信仰され今日に至っております。

Img_7940jpg

一時ここを区の文化財に指定しようという動きがあったらしいが、所有者らが拒み、公的な調査はじっしされていない。薄暗く窓のない屋内にも関わらず、清潔で綺麗に保たれているようだ。

子育地蔵尊を出ると右前に次の目的「佃波除稲荷神社」が見える。今回の史跡巡りは珍しく順調だ。

Img_7942jpg

佃波除稲荷神社
正式名称は 「於咲稲荷波除稲荷神社(おさきいなりなみよけじんじゃ)」といい於咲稲荷神社(おさきいなりじんじゃ)と波除稲荷神社(なみよけいなりじんじゃ)が1本の鳥居を共有している。祭神は、倉稲魂命(ウカノミタマ)。波除稲荷には、「災難を除き、波を乗り切る」という言い伝えがある。

   サイト内リンク⇒築地波除神社

佃の象徴的風景としてメディアにも取り上げられることが多い。佃小橋と奥に大川端リバーシティ21の超高層マンション群が聳え立っている。

Img_7945jpg

佃堀 佃川支川(つくだがわしせん)
逆L字型の掘割である。隅田川への入口には同地の氏神として知られる住吉神社の名にちなんだ住吉水門が建てられ、また住吉小橋佃小橋が架けられている。

Img_7947jpg

行き止まり部分の堀は、正式名称ではないものの、「佃堀」と呼ばれることがある。改めて写真を見て気が付いたが奥に住吉神社の本殿が見えている。境内正面からは拝殿しか見られない。

Img_7951jpg

佃小橋
佃小橋(つくだこばし)は、佃川支川に架かる橋である。橋の両岸とも東京都中央区佃一丁目である。外観は、朱塗りである。欄干の装飾などにも、歴史的な意匠が施されている。佃小橋の下の、佃川支川の川底には、3年に1度行われる住吉神社の例大祭に用いる「抱木」(大幟の柱)が、保存のため埋設されている。例大祭の際には掘り起こされる。佃小橋から見ることができる位置には、佃住吉講によって、このことを知らせる案内板が設置されている。

Img_7950jpg

住吉神社 鳥居

Img_7953jpg

陶板扁額
珍しい陶製で白地に呉須で額字や雲文を染め付けている。これは明治天皇が北海道より還幸される際、越中島へ有栖川宮幟仁親王が出迎える途中住吉神社に立ち寄り、この社号を書いたと伝えられている。明治15年制作。

Img_7955jpg

水盤舎(みずや)
欅材の切妻造、瓦葺。欄間の正面には石川島灯台と佃の渡し、側面には帆を張った回船や網をうつ小舟、背面には磯の景色、内側には潮干狩りなど佃島の風景が彫られている。

Img_7973jpg

拝殿
ご祭神は住吉三神(底筒之男命、中筒之男命、表筒之男命)、息長足姫命(神功皇后)、東照御親命(あずまてるみおやのみこと、徳川家康)。徳川家康も祀られていることが佃島成立に関し興味深い。

Img_7957jpg

天正年間(1573- 1592年)、徳川家康が上洛し、摂津国西成郡佃村(現・大阪市西淀川区佃)にある住吉神社(改称の経緯:田蓑神社→田蓑姫神社→住吉神社→田蓑神社)に参詣した際、佃村および近隣の大和田村(現在の西淀川区大和田付近)の漁民が神崎川に渡し船を出して家康一行を運び、白魚などを献上した。これを機縁として、以後、両村の漁民は家康から西国海上隠密の用を受けたり、大坂の役の際には軍船や魚の調達をするなどした。また、家康は両村の漁民に対し、恩賞として全国での漁業権を与えた。

天正18年8月1日(1590年8月30日)、徳川家康が関東下降の際、先述の佃村および大和田村の漁夫33人と神主・平岡権大夫好次が江戸に移り、正保2年(1645年)には江戸鉄砲洲向かいにある百間(約180m)四方の干潟を幕府から下賜された漁夫らがこれを埋め立てて築島し、永住することになった。この島を故郷の摂津国佃村にちなんで「佃」(島は「佃嶋」、村は「佃村」)と命名し、正保3年6月29日(1646年8月10日)には、息長足姫命(神功皇后)と東照御親命(徳川家康の霊)の分霊を奉遷し、摂津国佃の住吉社(現・田蓑神社)の分霊(住吉三神)とともに祀るべく、住吉神社が創建された。

Img_7962jpg
旧神輿庫 八角神輿で有名である。昭和37年までは海中渡御が行われていたため、内部も漆塗りになっていて気密性が高くなっている。

Img_7960jpg

本殿屋根

Img_7961jpg

石井きんざ歌碑
 明治は遠くになっても江戸が残る佃の夏祭り きんざ

 石井きんざの著書に「その昔 佃島漁師夜話」「人生哀歌: 石井きんざ都々逸集」「佃祭りの詩」など

Img_7968jpg

五世川柳 水谷禄亭碑 歌碑
 和らかで かたく持ちたし 人ごころ

水谷緑亭は、幼い時に父親を亡くし、佃島の漁師太平次に養われ、佃島の名主をつとめた人物と伝えられている。

Dscf9669jpg
珍しい石塔 台石に「住吉組」とある。説明版はない。

Img_7971jpg
鰹塚 鰹節問屋組合の寄進 裏碑文は慶應義塾池田弥三郎氏による

Img_7970jpg
狛犬

Img_7972jpg

御朱印は鳥居を潜り左手寺務所にて受け付けてくれる。

Img252_2jpg

石川島灯台 住吉小橋から撮影。橋の左が工事中だったが住吉水門で隅田川と繋がっている。 

Img_7974jpg
佃公園から対岸を望む 佃大橋と奥に聖路加タワー

Img_7978jpg
北条秀治歌碑 
北条 秀司(ほうじょう ひでじ、1902年11月7日 - 1996年5月19日)は、日本の劇作家。
大阪市生まれ。本名は飯野秀二。関西大学文科卒業。箱根登山鉄道の社員をしながら岡本綺堂に師事、1937年、「表彰式前後」が新国劇で上演され、デビュー。1940年、『閣下』で新潮社文藝賞受賞。
代表作に、『王将』三部作(1947-50)、「狐と笛吹き」(1952)『太夫(こったい)さん』(1955)、「佃の渡し」、「狐狸狐狸ばなし」、「建礼門院」などがあり、また「末摘花」「浮舟」「藤壺」など、『源氏物語』を題材にしたものも多く、その集大成は「北條源氏」と呼ばれる。

Img_7982jpg

北条秀司は佃島が好きであった。新派俳優、花柳章太郎も佃島が好きであった。二人はたえず連れ立って、佃島を歩き、大川の渡船を楽しんだ。 その結晶として、「佃の渡し」の芝居作りを企画した。それが昭和32年(1957年)12月の新橋演舞場に脚光を浴び、劇団新派の財産を一つ殖やし、北条秀司の代表作をまた一つ世に残すことになった。

佃渡船跡石碑 
佃島と対岸の佃大橋西詰付近との間を通ったのが佃の渡しである。明治9年7月には渡し銭一人5厘の掲示札の下付を願い出ている。大正15年東京市の運営に移り昭和2年3月無賃の曳船渡船となった。この石碑はこの時に建てられたものである。昭和30年7月には1日70往復となったが、昭和39年8月佃大橋の完成によって廃止された。
     サイト内リンク⇒対岸築地の佃渡船跡石碑

Img_7983jpg

神輿庫内獅子頭

Dscf9676jpg

佃煮屋天安
慶長8年家康が江戸幕府を開いた時佃村の漁民33名を江戸に呼び石川島に近い島を居住地として与え故郷の佃村に因み「佃島」と名付けられた。彼らはこの地で漁をしながら江戸城内の台所をまかなうことで漁業権を与えられた。離れ小島であるため時化どきにお菜に事欠き、また漁期に腐らない副食物が必要なことから、湾内で獲った小魚類を塩辛く煮込んで保存食とし、千葉から醤油が入り塩煮より醤油煮にかわり佃島で作られたので「佃煮」と命名され江戸市中に売り出された。天安の商号誕生は天保8年に創業し初代が安吉といい、天保年間の天と安吉の安をとり商号を「天安」と命名した。

Img_7984jpg
佃煮はスーパーなどで購入してたべることはなく、ほとんど頂き物である。今回「あみ」と「ほたて貝ひも」をお土産に購入し、早速ご飯のお伴に美味しく頂いている。量り売りが基本と予め聞いていたのが、注文後店内を見ていたら、三品詰合せもあった。因みに三品はあみ、貝ひも、お茶漬け昆布。

Dscf9680jpg

説教所 突然お寺のような堂宇と「説教」の文字に反応して撮影した
佃島説教所は、浄土真宗本願寺派寺院の佃島説教所の本堂。昭和9年に創建されました。現在でも月に一度の僧侶の法話があり、集会所などとして利用されているほか、講談などの伝統芸能の催しなども行われている。本堂を利用してどなたでも宗旨・宗派を問わずご家族葬、一般葬むきの斎場としても利用できる。

Img_7986jpg

月島でもんじゃでに初挑戦してみようかと思っていたが、だめで帰ってきてしまった。もんじゃ焼きの土産でも買おうかと思ったがそれもやめた。次回チャレンジ。

Img_7987jpg

« 秋のイベント盛沢山~薬師池かいぼり・菊花展など | トップページ | にこたまの地下霊場~寶泉山玉眞院 通称玉川大師 »

史跡巡り」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1766143/62424630

この記事へのトラックバック一覧です: 江戸の風香る佃島ひとり歩き:

« 秋のイベント盛沢山~薬師池かいぼり・菊花展など | トップページ | にこたまの地下霊場~寶泉山玉眞院 通称玉川大師 »