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2016年8月 8日 (月)

浅草&向島散策

浅草は三社祭や初詣など幾度も訊ねているが、今回は御朱印を頂くのを目的に廻ることにする。

東京メトロ「浅草駅」からスタート。駅改札を出た所にディスプレイされている「神輿」

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浅草寺は都内最古の寺と言われている。山号は金龍山。ご本尊は聖観音菩薩。元々は天台宗に属していたが第二次世界大戦後独立し、聖観音宗の総本山とのこと。「浅草観音」あるいは「浅草の観音様」と通称され、広く親しまれている。

飛鳥時代、推古天皇36年(628)3月18日の早朝、檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)の兄弟が江戸浦(隅田川)に漁撈中、はからずも一躰の観音さまのご尊像を感得(かんとく)した。郷司(ごうじ)土師中知(はじのなかとも:名前には諸説あり)はこれを拝し、聖観世音菩薩さまであることを知り深く帰依し、その後出家し、自宅を改めて寺となし、礼拝供養に生涯を捧げた。

 

大化元年(645)、勝海上人がこの地においでになり、観音堂を建立し、夢告によりご本尊をご秘仏と定められ、以来今日までこの伝法(でんぼう)の掟は厳守されている。
 広漠とした武蔵野の一画、東京湾の入江の一漁村にすぎなかった浅草は参拝の信徒が増すにつれ発展し、平安初期には、慈覚大師円仁さま(794~864、浅草寺中興開山・比叡山天台座主3世)が来山され、お前立のご本尊を謹刻された。
 鎌倉時代に将軍の篤い帰依を受けた浅草寺は、次第に外護者として歴史上有名な武将らの信仰をも集め、伽藍の荘厳はいよいよ増した。江戸時代の初め、徳川家康公によって幕府の祈願所と定められてからは、堂塔の威容さらに整い、いわゆる江戸文化の中心として、大きく繁栄したのである。かくして都内最古の寺院である浅草寺は、「浅草観音」の名称で全国的にあらゆる階層の人達に親しまれ、年間約3000万人もの参詣者がおとずれる、民衆信仰の中心地となっている。。

雷門 表参道入口の門。切妻造の八脚門で向かって右の間に風神像、左の間に雷神像を安置することから正式には「風雷神門」というが「雷門」の通称で通っている。慶応元年(1865年)に焼失後、長らく仮設の門が建てられていたが昭和35年(1960年)、約1世紀ぶりに鉄筋コンクリート造で再建された。実業家・松下幸之助が浅草観音に祈願して病気平癒した報恩のために寄進したものである。門内には松下電器産業(現パナソニック)寄贈の大提灯がある。三社祭の時と台風到来の時だけ提灯が畳まれる

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風神雷神像は頭部のみが古く、体部は慶応元年(1865年)の火災で焼失後、明治7年(1874年)に補作。昭和35年(1960年)の門再建時に補修と彩色が加えられている。門の背面の間には、「金龍・天龍」の像を安置する。

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西の金龍(女神)は仏師・菅原安男、東の天龍(男神)は彫刻家・平櫛田中の作で、昭和53年(1978年)に奉納されたものである。

仲見世 雷門から宝蔵門に至る表参道の両側には土産物、菓子などを売る商店が立ち並び、「仲見世」と呼ばれている。商店は東側に54店、西側に35 店を数える。寺院建築風の外観を持つ店舗は、関東大震災による被災後、大正14年(1925年)に鉄筋コンクリート造で再建されたものである。

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伝法院(でんぼういん) 宝蔵門の手前西側にあり、浅草寺の本坊である。小堀遠州の作と伝えられる回遊式庭園がある。通常、一般には公開していないが、特別公開されることがあるので機会があれば見学したいものだ。平成23年(2011年)、国の名勝に指定された。院内にある天祐庵は表千家不審庵写しの茶室で、江戸時代後期の建立。

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宝蔵門 雷門をくぐり、「仲見世」の商店街を抜けた先にある。入母屋造の二重門(2階建てで、外観上も屋根が上下二重になっている門)である。現在の門は昭和39年(1964年)に再建された鉄筋コンクリート造で、実業家・大谷米太郎夫妻の寄進によって建てられたものである。

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門の左右に金剛力士(仁王)像を安置することからかつては「仁王門」と呼ばれていたが、昭和の再建後は宝蔵門と称している。その名の通り、門の上層は文化財の収蔵庫となっている。

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2体の金剛力士像のうち、向かって左(西)の阿形(あぎょう)は仏師・錦戸新観、右(東)の吽形(うんぎょう)像は木彫家・村岡久作の作である。阿形像のモデルは力士の北の湖、吽形像のモデルは明武谷と言われている。

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本堂 本尊の聖観音像を安置するため観音堂とも呼ばれる。旧堂は慶安2年(1649)の再建で近世の大型寺院本堂の代表作として国宝(当時)に指定されていたが、昭和20年(1945)の東京大空襲で焼失した。現在の堂は昭和33年(1958)に再建されたもので鉄筋コンクリート造である。外陣には川端龍子(かわばたりゅうし)筆「龍の図」、堂本印象筆「天人散華の図」の天井画がある。

内陣中央には本尊を安置する間口4.5メートル、高さ6メートルの宮殿(くうでん、「厨子」と同義)がある。宮殿内部は下段の間(手前)と上段の間(奥)に分かれ、下段の間には前立本尊の観音像(伝・円仁作)、上段の間には秘仏本尊像をそれぞれ安置する。浅草寺貫主を務めた網野宥俊によれば、宮殿内は、床は漆塗り、壁や扉は金箔押しで、上段の間・下段の間には繧繝縁(うんげんべり)の小畳を各2枚敷いている。上段の間には秘仏本尊を納めた厨子のほか、東福門院、徳川家康、徳川家光、公遵法親王がそれぞれ奉納した観音像が安置され、かつてはその他の寺宝類もここに納められていたという。

宮殿の扉の前には「御戸張」と称する、刺繍を施した帳(とばり)が掛けられていて、時々デザインの違うものに掛け替えられている。毎年12月13日に開扉法要が行われ、短時間開扉されるほか、特別な行事の際などに開扉が行われる場合があるが、その際も参拝者が目にすることができるのは「お前立ち」像のみで秘仏本尊像は公開されることはない。宮殿の手前左右には脇侍の梵天・帝釈天像、宮殿の裏には秘仏本尊と同じ姿という聖観音像(通称裏観音)、堂内後方左右の厨子内には不動明王像と愛染明王像[4]を安置する。

2009年2月から2010年12月にかけて、「平成本堂大営繕」が行われた。屋根の葺き替えは昭和33年(1958)の再建以来50年ぶり。宝蔵門の改修工事でも用いたチタン成型瓦を採用。使用色も2色から3色に増やし、より粘土瓦に近い風合いを醸し出している。

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影向堂(ようごうどう)    御朱印は本堂の西側にある当堂入り右側にて受付けてくれる。順番待ち行列の為の柵がある。土日祭日は行列に並ぶのだろうが、平日で先客は二人だけで程なく受付けてくれた。鉄筋コンクリート造、寄棟造、錣葺き(しころぶき)屋根で、平成6年(1994)の建立。堂内には本尊聖観音像のほか、鎌倉期の円派の様式を示す阿弥陀如来坐像等十二支の守り本尊である8体の仏像を横一列に安置する。影向堂の周囲には六角堂、橋本薬師堂、石橋などがある。影向堂の左に建つ六角堂(東京都指定有形文化財)は室町時代の建立で、小規模ではあるが、境内最古の建物である。堂内には日限地蔵(ひぎりじぞう)を本尊として祀る。石橋(国の重要美術品)はかつて境内にあった東照宮(徳川家康を祀る)への参詣用に造られたもので、元和4年(1618)、東照宮が勧請された際に建造された。

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御朱印 御本尊と大黒天の二種類がある。

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浅草神社(あさくさじんじゃ)は、浅草寺本堂右隣にある神社である。通称に三社権現(さんじゃ ごんげん)、三社様(さんじゃ さま)。5月17日の例大祭は三社祭という

草創に関わった土師真中知(はじのあたいなかとも)、檜前浜成(ひのくまはまなり)・武成(たけなり)を主祭神とし、東照宮(徳川家康)・大国主命を合祀する。檜前浜成・武成の他のもう一柱の主祭神については諸説あったが、現在では土師真中知であるとしている。この三人の霊をもって「三社権現」と称されるようになった。

安時代の末期から鎌倉時代にかけて、三人の子孫が祖先を神として祀ったものであると考えられている。ご神体として一般の人間(漁師と僧侶)を祀っている為、神社の格としては江戸一低いといわれている。

明治の神仏分離により浅草寺とは別法人になり、明治元年に三社明神社に改称、明治5年に郷社に列し、明治6年に現在の浅草神社に改称した。社殿は浅草寺の本堂の東側にある。現存の社殿は徳川家光の寄進で慶安2年(1649)に完成したもので、昭和36年に拝殿・幣殿・本殿が国の重要文化財に指定された。

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隅田川は言問橋を渡り向島へ。以前散策しているので不安はない。

まずは「牛嶋神社」明治維新前は牛宝山明王院最勝寺が別当として管理していたが、明治初年の神仏分離後「牛の御前」の社名を「牛嶋神社」と称したそうだ。

縁起によると、貞観(859-879)のころ慈覚大師が一草庵で須佐之男命の権現である老翁に会い、「師わがために一宇の社を建立せよ、若し国土に騒乱あらば、首に牛頭を戴き、悪魔降伏の形相を現わし、天下安全の守護たらん」との託宣により建立したと伝え、牛御前社と 呼ぶようになったとも伝えます。また「江戸名所図会」では、牛島の出崎に位置するところから、牛島の御崎と称えたのを、御前と転称したものであろうと説明 しています。本所総鎮守の社として知られています。 また、由緒によると、治承4年(1180)伊豆に旗上げした頼朝が、敗れて房州に逃れ、再挙して隅田川を渡る際には、千葉介常胤が当社に祈願してことなき を得たといいます。以後千葉氏の崇敬が厚く、宝物として月輪の紋をつけた千葉家の旗が伝わり、箱書に「此指物自先祖 持来候 然而牛御前宮者 先祖千葉家 被再興候 慶長18(1613)年9月15日 国分宗兵衛正勝敬白 牛御前別当最勝寺」とあります。

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三輪鳥居とは、明神鳥居の左右に脇鳥居をつけたものです。三ツ鳥居とも言われます。奈良県桜井市三輪に鎮座する大神神社(おおみわじんじゃ)にある鳥居を標準とすることから三輪鳥居と言われます。この三輪鳥居は、とても珍しい鳥居で、大神神社以外には、同じ奈良県桜井市の檜原(ひばら)神社や、埼玉県秩父市の三峯神社くらいといわれている。

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総檜権現造の社殿はは見事

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三囲神社(みめぐりじんじゃ)は、東京都墨田区向島に在る神社である。祭神は宇迦御魂之命(うがのみたまのみこと)。

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伝によれば、近江国三井寺の僧源慶が当地に遍歴して来た時、小さな祠のいわれを聞き、社壇の改築をしようと掘ったところ、壺が出土した。その中に、右手に宝珠を、左手にイネを持ち、白狐に跨った老爺の神像があった。このとき、白狐がどこからともなく現れ、その神像の回りを3回回って死んだ。三囲の名称はここに由来するという。

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元禄6年(1693年)、旱魃の時、俳人其角が偶然、当地に来て、地元の者の哀願によって、この神に雨乞いする者に代わって、「遊(ゆ)ふた地や田を見めくりの神ならは」と一句を神前に奉ったところ、翌日、降雨を見た。このことからこの神社の名は広まり、松阪の豪商・三井氏が江戸に進出すると、その守護神として崇め、越後屋の本支店に分霊を奉祀した。

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三井家では、享保年間に三囲神社を江戸における守護社と定めた。理由は、三囲神社のある向島が、三井の本拠である江戸本町から見て東北の方角にあり、鬼門だったことと、三囲神社の“囲”の文字に三井の“井”が入っているため、「三井を守る」と考えられたため。社域の一角には没後100年を経た三井家当主たちを祀った「顕名霊社」がある。三井グループ各社の総務部によって三囲会が組織されており、年に4回代表が一堂に会し祭典を催している。閉店した池袋三越前にあったライオン像も寄贈されている。

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社務所にて御朱印をお願いしようとしたが不在でかなわなかった。月曜日はお休みなのだろうか。

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