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2016年9月

2016年9月28日 (水)

曹洞宗徳雄山瑞雲院建功寺

最近テレビでよく見掛けているお坊さん枡野俊明氏が住職を務めるお寺が「建功寺」で「總持寺」の近くにあることが分かり訪ねることにした。寺院のホームページアクセスによるとJR鶴見駅およびJR横浜線菊名駅からいずれもバス便とあり、便利な菊名からスタートすることにした。菊名駅は通過したことはあるが下車したことは初めてである。駅構内が工事中で判りにくくバス停がある反対側に出てしまった。バスは横浜市営バスと臨港バスがあるが綱島街道バス停で市営バスに乗りが下車は「西寺尾建功寺前」で下車した。直前に左側に建功寺らしき寺院が目に入ったがったので戻ると入江川せせらぎ緑道という遊歩道が整備されている。近くに解説板があり入江川というのは建功寺川とも呼ばれているそうである。

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更に戻ると建功寺の表参道である。

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表参道には寄進された立派な石塔が両側に並んでいる。

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石灯籠と中門

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中門前の通り。手前は檀信徒会館である「瑞雲閣」

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中門

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中門右の寺号石塔

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中門に掲げられている扁額

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建功禅寺は、永禄3年(1560)小田原の北条家に仕えていた五代目寺尾城主諏訪三河守右馬之助が開基した寺。諏訪氏の菩提寺を建立することを思いたった諏訪三河守右馬之助は、現在伊勢原にある龍散寺の大洲長譽和尚を迎え建功寺を建てられた。

山号の徳雄山とは、諏訪三河守右馬之助の武士としての勇ましさ、『徳勇』が後に徳雄に変わったもの。五代目寺尾城主が寺院としての伽藍を整える以前は諏訪家の菩提処として、『瑞雲院』と呼ばれており、北条早雲の正式名の『宗瑞北条早雲』から、『瑞』と『雲』の2字を賜り『瑞雲院』として忠誠を誓ったと言われている。現在檀信徒会館「瑞雲閣」にその名を引き継いでいる。

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寺号の建功寺とは、開基である、五代目寺尾城主諏訪三河守右馬之助の武勇をたたえ、その功績をもって建立した寺として建功寺とし、正式名を『徳雄山瑞雲院建功禅寺』と呼ぶ。諏訪氏が開基である証として、諏訪氏の替紋である『諏訪梶』が寺紋として現在も伝えられている。

現住職は建功寺 第18世 枡野俊明(大雄俊明)は庭園デザイナーであり、多摩美術大学環境デザイン学科教授でもある。2000年12月に建功寺第18世住職に就任している。ブリティッシュコロンビア大学特別功労賞、芸術選奨文部大臣新人賞受賞(美術部門)、外務大臣表彰、カナダ総督褒章、ドイツ連邦共和国功労勲章功労十字小綬章など受賞歴があり、ニューズウィーク日本版『世界が尊敬する日本人 100人』にも選出されている。

曹洞宗の本山は福井にある大本山永平寺と横浜にある大本山總持寺とを両大本山としている。明治31年、当時石川県の能登にあった大本山總持寺は不慮の火災にあい、伽藍のほとんどを焼失してしまいました。その後、本山再建問題で首都圏への移転の声がおこり、有力な候補地として建功寺の末寺である鶴見の成願寺があがりました。明治39年、能登の門前町より、鶴見への本山移転が正式に決定され、当寺の15世宏道和尚が本山移転に多大な尽力し、その功績により、明治40年、大本山總持寺貫首より、本山近門寺院に列せられ、永代色衣着用の寺格を特別に許された寺院である。

山門への階段

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山門に掲げられている山号扁額

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山門右の石塔 「三界萬霊等」の三界とは欲界・色界・無色界で、我々が生まれかわり死にかわりするこの世界のことであり、万霊とはありとあらゆる精霊のことであるから、三界万霊牌はこの世のありとあらゆる精霊を合祀した位牌のこと

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山門扉の寺紋 諏訪梶

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白山権現

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鐘楼

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梵鐘 500貫

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建替え中の本堂

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御朱印

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本堂の完成予定が2018年で、完成したらまた参拝に訪れたい。

2016年9月14日 (水)

渋谷の地名の由来となった金王丸神社~「算額」で脚光

冲方丁の小説「天地明察」で話題の金王八幡神社を訪ねた。下北沢で京王井の頭線に乗り換えて、終点「渋谷駅」で下車。何年ぶりか思い出せない位に久しぶりの渋谷駅である。工事中の場所も多くて思った場所にすんなりと行けない。

大鳥居 本日から2日間、例祭が行なわれている。

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神輿庫か

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二の鳥居

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神門

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扁額

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手水舎

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ご神木

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拝殿  社伝によれば寛治6年(1092)現在の渋谷の地に渋谷城を築き、渋谷氏の祖となった河崎基家(渋谷重家)によって創建されたとされる。江戸時代には徳川 将軍家の信仰を得、特に3代将軍徳川家光の乳母春日局は神門、社殿を造営したとされる。なお、江戸時代末期まではこの神社に隣接する東福寺(天台宗)が別 当寺であった。当初は渋谷八幡と称していた。社名にある「金王」は、重家の嫡男常光がこの神社に祈願して金剛夜叉明王の化身として生まれたことにより金王 丸と称したことによるとされる。金王八幡宮が渋谷城の跡地だと言われている。

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神楽殿

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金王丸御影堂

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渋谷城の歴史は、八幡太郎の通称で有名な源義家が河崎基家に渋谷を与え、その孫にあたる金王丸(こんのうまる)が渋谷城の地で育ち、源義朝(頼朝の父)に仕え、義朝が平治の乱(1160年)に敗れ、敗走中に殺されると、自身は京都へ向かい僧となって主君を弔ったとされます。

当神社は冲方丁(うぶかたとう)氏の時代小説「天地明察」が2010年度の本屋大賞を得て非常に話題になった神社である。「天地明察」は江戸時代の天文学者渋沢春海(安井算哲)の改暦事業を扱ったフィクション小説で、神社の算額を通じ、渋沢春海が和算家関孝和を知るきっかけとなる神社である。

社務所 右側が宝物館となっていて自由に入れる。

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御朱印 社務所にて受け付けてくれた。例祭の準備で忙しそうであった。

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算額のことを認識し実際の算額を見たいと神社に参詣の機会を希望していたものである。神社の宝物館には今から150年位前の幕末期に奉納された算額が3面 飾られている。色彩と共に問題内容も十分読み取れる美しい算額である。算額は、和算において、数学の問題が解けたことを神仏に感謝し、ますます勉学に励む ことを祈念して奉納されたと言われる。やがて、人びとの集まる神社仏閣を数学の問題の発表の場として、難問や、問題だけを書いて解答を付けずに奉納するも のも現れ、それを見て解答や想定される問題を再び算額にして奉納することも行われた。 参拝の栞も頂いた

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宝物館内

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算術絵馬が二三あった。

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砦の石

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豊榮稲荷神社 

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御祭神:田中稲荷大神・豊沢稲荷大神 鎌倉時代の頃、渋谷家の祖河崎土佐守基家の曾孫渋谷高重によって創建。元渋谷川のほとり、渋谷駅の近くにあった。渋谷川が渋谷城の濠に利用されていたことから文化年間(1804-18)までは「堀ノ外稲荷」と称せられ、そののちに「田中稲荷」と称せられていた。また川の端にあったので「川端稲荷」ともいわれた。

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昭和31年に道玄坂上に鎮座していた豊沢稲荷を合祀。豊沢稲荷は元猿楽町京極家の下屋敷に祀られていたが。明治初年に道元坂上に遷座し、中豊沢にあった多くの稲荷祠を合祀したという。東京都の区画整理事業に伴い昭和36年に現在地に遷座し神託によって「豊栄稲荷神社」と社名を変更した。

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昭和47年に社殿造営。昭和50年に社務所・研修道場を建設。
境内には元田中稲荷神社境内にあった庚申塔が保存され渋谷区指定文化財となっている。

2016年9月 9日 (金)

七国山風致地区散策

七国山風致地区内にある薬師池公園は「東京百景」、「東京都指定名勝」「日本の歴史公園百選」に選定されている。散策するのに丁度良く、四季の花の開花期、自分自身の体調や持ち時間に応じてルートを変えて楽しんでいる。

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池は昨秋に「掻い掘り」をして池底に溜まっていたヘドロを取り出して、外来生物の駆除も実施している。手前の管理事務所・フォトサロンとの間の広場の芝生も綺麗になっている。

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今年の花期には来れなかった花菖蒲園。菖蒲の花は無くとも谷戸の雰囲気が好きだ。

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この雰囲気に更に情緒を添えているのが水車小屋である。

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水車には上掛け、胸掛け、下掛けの三種類があり、見ての通り上掛け方式である。

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鶴見川沿いには昔水車を利用して製粉、精米などおこなっていてそうである。この水車は大蔵町の水車大工さんが子供の教育のためと製造寄付されたものだそうだ。

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園内には梅、桜、椿、紫陽花、大賀ハス、藤、萩などの季節の花を楽しめるが、その他「萬葉草花苑」も珍しい、特別の場所に行かないと見ることが出来ないような今や「野草」を見れる。

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東京都有形文化財に指定されている「旧荻野家住宅」は笠間藩医家の家。昨年茅屋根の葺替え工事をしている。園内の梅林北に国の重要文化財「旧永井家住宅」もある。

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屋内の竈

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裏庭にある「板倉」

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薬師堂 

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仙人草

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ジンジャー

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七国山ファーマーズセンターは町田市が市民農園の拠点として開設したものであるが、散策者もトイレも利用できるし自由に入り休憩できるようになっている。

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景観農作物であるそば。春の菜の花もみごとである。そばも菜の花もそれぞれそば粉、菜種油としてボタン園の前にある「ふるさと農具館」で体験でき、購入することも可能である。

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ふるさと農具館前で珍しい四角豆を購入した。

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オトコエシは女郎花の黄色に対し白。

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ヌスビトハギ

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ヤブミョウガ

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シュウカイドウ

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外来カマキリ警告

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この散策で万歩計は14355歩。いい運動になった。

2016年9月 1日 (木)

腰越満福寺&龍口寺

三ヶ月毎に訪れている鎌倉であるが、7月に急遽帰省したために光明寺、延命寺などを訪れた4月以来5ヶ月ぶりになってしまった。

今回は小田急江ノ島線片瀬江ノ島駅からスタートである。観光地江ノ島を控え駅舎は竜宮城をイメージさせるものだ。

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境川に架かる「弁天橋」を渡り腰越漁港、浄泉寺、小動神社、満福寺を廻り、龍口寺のルートである。

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弁天橋を渡った右手に観光案内所がある。念のため周辺観光マップを頂き予定ルートをマップで確認した。片瀬東浜から腰越海岸を目指して歩いていると特別養護老人ホーム「鵠生園」の敷地に立派な石碑がある。「夢告の井戸」とあるが、観光地によくある教育委員会が設置している解説板も何もない。夢夢告とは「夢の中で神仏が現れ、神仏からその意思と指示を与えられること」江戸期の記録によれば、弘法大師のお告げにより湧きいでし清水。その水面に月光を浮かべ、目を洗えば眼病にご利益がある」とのことだ。

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腰越海水浴場はサーフィン専用らしい。「腰越」という名は、「人々が肥えた土地を求めて、山の腰を越えて、海側の地へ移り住んできたから」とも、「五つの頭をもった龍が、里の子を食べるので人々が土地を離れたことから「子死越」と呼ばれるようになった」とも伝えられている。暫く観ていたが大きな波はない。ビギナーが練習するところなのだろうか。

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腰越は、江戸時代には「鎌倉五ヶ浦」と呼ばれた漁村。五ヶ浦とは、材木座、坂ノ下、腰越、片瀬、江ノ島だそうだ。鎌倉の海開きは7月上旬。7月に行われる「天王祭」では、江ノ島の八坂神社の神輿が腰越に迎えられ、小動神社へと渡御する。Img_8625

腰越漁港 組合員数 - 68名(2001年12月) 利用漁船隻数 - 92隻(1998年)
南を相模湾に面しており、西は神戸川(ごうどがわ)を挟んで腰越海水浴場、東は七里ヶ浜とそれぞれ接している。北側の陸地は、港のすぐ目の前を国道134号が通っている。また、港の離岸堤が、小動岬を丸ごと覆うように設置されている。

浄泉寺赤門 赤門ということは格式の高い寺院と思われる。

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 山号を小動山(こゆるぎさん)院号を松岩院(しょうがんいん)と称し、古義真言宗大覚寺派で開山は弘法大師(空海)と伝える。中興開山は弘治四年寂した元秀(げんしゅう)である。もと青蓮寺(鎖大師)の末寺であったが現在は京都大覚寺の末寺。新田義貞が鎌倉攻めの際に八王子社(小動神社)に納めたとされる剣を保管していたともいわれる。神仏分離令後もこの寺の住職が小動神社を管理していた。本尊の不動明王は、左手で剣を持っていることから「左剣不動明王」と呼ばれる。大正六年七月(1558)まで小動神社の別当

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文治年間(1185~1189)に、佐々木盛綱が船上からこの寺を拝んだという話も残っている。山門も本堂も、元は江ノ電の線路のほうを向いて建っていたが、(昭和30年「1955」)国道134号線が造られた際に、現在の位置に移された。腰越の大通りに面した旧参道入り口には、「相模二十一ヶ所弘法大師第六番」と書かれた石碑がある。

小動神社(こゆるぎ)は、文治年間(1185~90)、江ノ島詣でに訪れた佐々木盛綱が、近江の八王子宮を勧請したのが始まりという。小動神社の建つ小動岬には、風もないのに揺れる松があり、「こゆるぎの松」と呼ばれていたことから、「小動」の名が付いたといわれる。盛綱はこの松を「天女遊戯の霊木」と称賛したという。新田義貞は、鎌倉攻めの際、八王子宮に戦勝祈願し、後に、太刀一振と黄金を寄進した。明治の神仏分離によって「八王子宮」から「小動神社」と改められた。Img_8631

満福寺 

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山号

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天平16年(744)に行基が開山したとされている。元暦2年(1185)5月、源義経が兄頼朝に怒りを買い、鎌倉入りを許されず腰越の地に留められた際に、頼朝に心情を訴える腰越状を書いた寺として知られる。寺には弁慶が書いた腰越状の下書きとされる書状が展示されており、境内には弁慶の腰掛け石や手玉石など、義経・弁慶ゆかりの品々が多数展示されている。今回の最も楽しみにしていた寺院である。行基開基の寺院の多さに改めて驚かされている。

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源義経は、壇ノ浦の合戦で勝利し平宗盛を護送して鎌倉に入ろうとしたが、兄源頼朝の怒りに遭い入ることができず、腰越に留め置かれた。有名な「腰越状」 は、滞在していた満福寺で書いたと伝えられている。その後、義経は、藤原秀衡を頼って奥州平泉に逃れるが、秀衡の死後、その子泰衡に攻められ自刃した。義 経の首は、腰越の浜に運ばれ、和田義盛と梶原景時による首実検が行われた後、藤沢の白旗神社に葬られたと伝えられている。

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御本尊は薬師三尊

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本堂にてお参り後寺務所にて御朱印をお願いした。

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腰越状など展示品の拝観もできるというので拝観料200円を納めて客殿、本殿に展示の義経ゆかりの襖絵や鎌倉彫など見学させてもらった。

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江ノ電に沿って西へ江ノ電「腰越駅」

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神戸川に架かる「神戸橋」から江ノ島が望める。

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龍口寺仁王門

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この地はかつて刑場跡で、文永8年(1271年)9月12日に日蓮宗の開祖日蓮が処刑されそうになった。この事件を日蓮宗では龍ノ口法難と呼ぶ。その後延元2年(建武4年、1337年)に日蓮の弟子、日法がこの地を「龍ノ口法難霊蹟」として敷皮堂という堂を建立し、自作の祖師像(日蓮像)と首敷皮を置いたのが龍口寺の始まりと伝わる。

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なお、本格的な寺としての格式を整えたのは腰越・津の国人で日蓮宗の信奉篤い島村采女が慶長6年(1601年)に土地を寄進して以来のこととされている。1886年(明治19年)までは選任住職を置かず、片瀬八ヶ寺が輪番で維持していた。

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現住は15世本間日恩貫首(台東区善慶寺より晋山)、池上法縁五本山の一つ。

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本堂    天保3年(1832)竣工。法難時に日蓮が足元に敷いていた敷皮が安置されているため[1]、敷皮堂ともよぶ。木造欅造り。

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五重塔     明治43年(1910)竣工。木造ケヤキ造で五重塔としては神奈川県で唯一。建造には竹中工務店が携わった。彫刻は一元流(藤沢彫川)の一元安信。全国的にも数少ない明治期の五重塔だが、近年老朽化が目立つ。

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延寿の鐘

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大書院 屋根が美しくしばらく見とれてしまった。

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「海江豆(カイコウズ)」アメリカデイゴ、マメ科の落葉低木。和名はカイコウズ(海紅豆)。カイコウズの名はあまり使われていない。沖縄県の県花デイゴは別種。南アメリカ原産の落葉低木。日本では庭木として使われる。寒さに弱いため関東以南で栽培可能。花期は6~9月頃で赤い花を咲かせる。また、鹿児島県の県木であり、アルゼンチン、ウルグアイ、タイの国花である。花言葉は「童心」、「夢」

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龍口寺門前の扇屋 江ノ電最中を購入し帰宅後、箱をテープでつなぎ電車に、上にストローを付けてロープウェーのおもちゃを作り孫と遊んだ。

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