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2016年9月 1日 (木)

腰越満福寺&龍口寺

三ヶ月毎に訪れている鎌倉であるが、7月に急遽帰省したために光明寺、延命寺などを訪れた4月以来5ヶ月ぶりになってしまった。

今回は小田急江ノ島線片瀬江ノ島駅からスタートである。観光地江ノ島を控え駅舎は竜宮城をイメージさせるものだ。

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境川に架かる「弁天橋」を渡り腰越漁港、浄泉寺、小動神社、満福寺を廻り、龍口寺のルートである。

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弁天橋を渡った右手に観光案内所がある。念のため周辺観光マップを頂き予定ルートをマップで確認した。片瀬東浜から腰越海岸を目指して歩いていると特別養護老人ホーム「鵠生園」の敷地に立派な石碑がある。「夢告の井戸」とあるが、観光地によくある教育委員会が設置している解説板も何もない。夢夢告とは「夢の中で神仏が現れ、神仏からその意思と指示を与えられること」江戸期の記録によれば、弘法大師のお告げにより湧きいでし清水。その水面に月光を浮かべ、目を洗えば眼病にご利益がある」とのことだ。

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腰越海水浴場はサーフィン専用らしい。「腰越」という名は、「人々が肥えた土地を求めて、山の腰を越えて、海側の地へ移り住んできたから」とも、「五つの頭をもった龍が、里の子を食べるので人々が土地を離れたことから「子死越」と呼ばれるようになった」とも伝えられている。暫く観ていたが大きな波はない。ビギナーが練習するところなのだろうか。

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腰越は、江戸時代には「鎌倉五ヶ浦」と呼ばれた漁村。五ヶ浦とは、材木座、坂ノ下、腰越、片瀬、江ノ島だそうだ。鎌倉の海開きは7月上旬。7月に行われる「天王祭」では、江ノ島の八坂神社の神輿が腰越に迎えられ、小動神社へと渡御する。Img_8625

腰越漁港 組合員数 - 68名(2001年12月) 利用漁船隻数 - 92隻(1998年)
南を相模湾に面しており、西は神戸川(ごうどがわ)を挟んで腰越海水浴場、東は七里ヶ浜とそれぞれ接している。北側の陸地は、港のすぐ目の前を国道134号が通っている。また、港の離岸堤が、小動岬を丸ごと覆うように設置されている。

浄泉寺赤門 赤門ということは格式の高い寺院と思われる。

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 山号を小動山(こゆるぎさん)院号を松岩院(しょうがんいん)と称し、古義真言宗大覚寺派で開山は弘法大師(空海)と伝える。中興開山は弘治四年寂した元秀(げんしゅう)である。もと青蓮寺(鎖大師)の末寺であったが現在は京都大覚寺の末寺。新田義貞が鎌倉攻めの際に八王子社(小動神社)に納めたとされる剣を保管していたともいわれる。神仏分離令後もこの寺の住職が小動神社を管理していた。本尊の不動明王は、左手で剣を持っていることから「左剣不動明王」と呼ばれる。大正六年七月(1558)まで小動神社の別当

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文治年間(1185~1189)に、佐々木盛綱が船上からこの寺を拝んだという話も残っている。山門も本堂も、元は江ノ電の線路のほうを向いて建っていたが、(昭和30年「1955」)国道134号線が造られた際に、現在の位置に移された。腰越の大通りに面した旧参道入り口には、「相模二十一ヶ所弘法大師第六番」と書かれた石碑がある。

小動神社(こゆるぎ)は、文治年間(1185~90)、江ノ島詣でに訪れた佐々木盛綱が、近江の八王子宮を勧請したのが始まりという。小動神社の建つ小動岬には、風もないのに揺れる松があり、「こゆるぎの松」と呼ばれていたことから、「小動」の名が付いたといわれる。盛綱はこの松を「天女遊戯の霊木」と称賛したという。新田義貞は、鎌倉攻めの際、八王子宮に戦勝祈願し、後に、太刀一振と黄金を寄進した。明治の神仏分離によって「八王子宮」から「小動神社」と改められた。Img_8631

満福寺 

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山号

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天平16年(744)に行基が開山したとされている。元暦2年(1185)5月、源義経が兄頼朝に怒りを買い、鎌倉入りを許されず腰越の地に留められた際に、頼朝に心情を訴える腰越状を書いた寺として知られる。寺には弁慶が書いた腰越状の下書きとされる書状が展示されており、境内には弁慶の腰掛け石や手玉石など、義経・弁慶ゆかりの品々が多数展示されている。今回の最も楽しみにしていた寺院である。行基開基の寺院の多さに改めて驚かされている。

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源義経は、壇ノ浦の合戦で勝利し平宗盛を護送して鎌倉に入ろうとしたが、兄源頼朝の怒りに遭い入ることができず、腰越に留め置かれた。有名な「腰越状」 は、滞在していた満福寺で書いたと伝えられている。その後、義経は、藤原秀衡を頼って奥州平泉に逃れるが、秀衡の死後、その子泰衡に攻められ自刃した。義 経の首は、腰越の浜に運ばれ、和田義盛と梶原景時による首実検が行われた後、藤沢の白旗神社に葬られたと伝えられている。

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御本尊は薬師三尊

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本堂にてお参り後寺務所にて御朱印をお願いした。

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腰越状など展示品の拝観もできるというので拝観料200円を納めて客殿、本殿に展示の義経ゆかりの襖絵や鎌倉彫など見学させてもらった。

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江ノ電に沿って西へ江ノ電「腰越駅」

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神戸川に架かる「神戸橋」から江ノ島が望める。

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龍口寺仁王門

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この地はかつて刑場跡で、文永8年(1271年)9月12日に日蓮宗の開祖日蓮が処刑されそうになった。この事件を日蓮宗では龍ノ口法難と呼ぶ。その後延元2年(建武4年、1337年)に日蓮の弟子、日法がこの地を「龍ノ口法難霊蹟」として敷皮堂という堂を建立し、自作の祖師像(日蓮像)と首敷皮を置いたのが龍口寺の始まりと伝わる。

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なお、本格的な寺としての格式を整えたのは腰越・津の国人で日蓮宗の信奉篤い島村采女が慶長6年(1601年)に土地を寄進して以来のこととされている。1886年(明治19年)までは選任住職を置かず、片瀬八ヶ寺が輪番で維持していた。

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現住は15世本間日恩貫首(台東区善慶寺より晋山)、池上法縁五本山の一つ。

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本堂    天保3年(1832)竣工。法難時に日蓮が足元に敷いていた敷皮が安置されているため[1]、敷皮堂ともよぶ。木造欅造り。

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五重塔     明治43年(1910)竣工。木造ケヤキ造で五重塔としては神奈川県で唯一。建造には竹中工務店が携わった。彫刻は一元流(藤沢彫川)の一元安信。全国的にも数少ない明治期の五重塔だが、近年老朽化が目立つ。

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延寿の鐘

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大書院 屋根が美しくしばらく見とれてしまった。

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「海江豆(カイコウズ)」アメリカデイゴ、マメ科の落葉低木。和名はカイコウズ(海紅豆)。カイコウズの名はあまり使われていない。沖縄県の県花デイゴは別種。南アメリカ原産の落葉低木。日本では庭木として使われる。寒さに弱いため関東以南で栽培可能。花期は6~9月頃で赤い花を咲かせる。また、鹿児島県の県木であり、アルゼンチン、ウルグアイ、タイの国花である。花言葉は「童心」、「夢」

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龍口寺門前の扇屋 江ノ電最中を購入し帰宅後、箱をテープでつなぎ電車に、上にストローを付けてロープウェーのおもちゃを作り孫と遊んだ。

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