史跡巡り

2017年8月 2日 (水)

南千住曹洞宗補陀山円通寺

 本尊は聖観音菩薩。

日比谷線三ノ輪駅からスタート。この駅を降りたのは初めてである。日光街道を確認して歩き始める。

Dscf1296

都電荒川線の三ノ輪橋駅の案内があったので、寄ってみる。

Dscf1298

早稲田から巣鴨庚申塚まで乗ったことがある。その都電荒川線の終起点であるが、普通の駅と何ら変わりない。

Dscf1299

さてGoogleで道順検索したら日光街道でなく裏道へ誘導された。聖観音像は見えるものの入口がわからない。

Dscf1306

家の前を掃き掃除していたおばあさんに尋ねると日光街道へ出る寺の横の路地を教えてくれた。その路地の入口に由緒ありげな仏像を円通寺の壁に塗り込めるようにお祀りしているのがあった。花も新しい。古くから近所の方々が大切にお祀りしているのがうかがい知れる。先ほどの老女に尋ねたら詳しく教えてくれたかもしれない。

Img_9369

改めて日光街道に出て、円通寺の正門へ。門らしきもんが無い。先の大戦で焼失したのであろう。敷地の街道側はがらんとした空き地で奥に鉄筋コンクリート製のビルの堂宇とその右と奥が墓地となっている。

Img_9372

敷地の両側に古刹の名残の石材が点在している。狛犬は健在である。

Img_9373

寺伝によれば、791年(延暦10年)坂上田村麻呂によって開かれたと伝えられる。明治維新の折、1868年(慶応4年)に行われた上野戦争で亡くなった彰義隊の隊員を現在上野公園の西郷隆盛像があるあたりでこの寺の住職が火葬を行っている。そのため、この寺には火葬を行った場所の近くにあった上野寛永寺の総門(黒門)が移築され、亡くなった彰義隊の隊員の墓もある。

Img_9375

1963年3月に発生し、1965年7月に解決した吉展ちゃん誘拐殺人事件の被害者の遺体発見現場となったことでも知られる。1963年3月31日台東区下谷で誘拐され殺害された「村越吉展」ちゃん(当時4歳)の供養の為、建立されたもの。当寺は遺体の発見現場、この事件を機に刑法も改正されるほどの昭和史上の大事件である。またこの事件で人命尊重の観点から「報道協定」が初めて行なわれた。

黒門とは反対 本堂に向かい右手に何やら謂れの在りそうな大きな塚がある。八幡太郎義家奥羽征伐して賊首四十八をこの地に埋め四十八塚(首塚)を築く、これにより、この地が小塚原と呼ばれる事となった。

Dscf1311

首塚の左手に榎本武揚の書による寺号扁額

Img_9378
本堂前に無造作に置かれている金剛力士像吽形

Img_9382

阿形
Img_9383

彰義隊墓 「賊軍」がゆえに見せしめに散乱放置されていた遺体を当23世佛磨和尚が斬首覚悟で出向き供養していた。政府からも許可が下り賊軍を供養できる唯一の寺となり266体を当寺に埋葬した。

Img_9380
奥には新門辰五郎の碑も

Dscf1315
本堂内左手寺務所にて御朱印を頂いた。「百観音」というのは当寺の通称名だそうで、門前に観音堂があったことに由来する。現在三十三体が本堂に安置されている。

Img029

屋上に大きな聖観音菩薩像 以前は上にもあがれたそうだが、現在は危険とのことで一般には「遠慮」願っているとのこと。

Img_9384

Img030

2017年7月20日 (木)

池上本門寺

池上本門寺を再訪した。前回は蒲田から池上線のルートだったが、今回は中央林間駅から東急田園都市線、二子玉川駅で東急大井町線に乗り換え、旗の台駅で池上線に乗り換えと自宅から約2時間掛かった。

池上駅前本門寺通り

Dscf1242_2
個人店舗前に設けられた「参道」

Dscf1243
総門

Dscf1244
加藤清正が寄進したという石段 若者が走って上り下りしていた。来月古希を迎える髭爺無為庵清風は一段一段噛みしめながら踊り場では休みながら上った。

Dscf1245
上りきったところで澄んだ数多の風鈴の音が如何にも涼し気で疲れを飛ばしてくれた。

Img_9366_2

仁王門の金剛力士像

Dscf1250_2

本堂

Img_9362
鐘楼

Img_9363
宝物殿

Img_9364
常唱堂 読経の声が響ている。

Img_9365
五重塔

Img_9359

2017年7月10日 (月)

武蔵総社 大國魂神社

大國魂神社に4年ぶりの参拝

JR南武線府中本町からスタート。

Dscf1214

改札口を出ると依然と様子が違っている。

Dscf1216
神社の方向を見ると新設された鳥居が見える。初参拝時には不安であったが、改札を出て右へ真っすぐでわかりやすくていい。

Dscf1217
西参道に新鳥居 今年平成27年5月1日に初渡り式を行ったばかりとのことだ。高さ約8メートル、上の笠木の長さは約11メートル。真新しい御影石の白がまぶしい。鳥居の前を横切っているのは府中街道で、自動車のお祓いはこの鳥居を潜り左へ曲がったところに駐車すればよい。

Img_9346

右側の阿形狛犬 

Img_9349
左側は吽形の狛犬

Img_9347

鳥居を潜って左側に欅の大老木 高さ約29メートル幹回り7.2メートル

Dscf1224

この先から拝殿の横へ入れるが、手水舎に寄って身を清めて参拝したく従来の西鳥居から行くことにした。一礼して隋神門から入る。

Img_9350
更に中雀門

Img_9352
拝殿で参拝  拝殿の屋根

Img_9351
隋神門を入り左手にある「鼓楼(ころう)」
昔時刻や緊急事態を知らせるための太鼓を置いた建物。寺の鐘楼に対して、神社では太鼓を置くから「鼓楼」と呼ばれる。 慶長年間の造営 徳川家康が江戸開幕を祝って六所宮の本殿を造営、それに伴うものとして鼓楼と三重の塔を建立した。

Img_9353
本殿裏手にあるご神木 イチョウ

Dscf1228
御朱印は左手「社務所」にて受け付けて下さる。 4年前は御朱印帳を持参していなかった。

Img028

正面の参道は立派でそのまま京王線「府中駅」方向への欅並木に繋がり壮観である。

Dscf1229
4年前参拝の記事参照⇒府中大國魂神社~武蔵国総社六所宮

2017年6月 9日 (金)

浄土宗湯島山常光院浄心寺

南北線「東大前」2番出口を出て本郷通りを駒込方面に進み向丘一丁目交差点の先に目標が右手に見えてきた。

Img_9311

湯島山常光院と號す、浄土宗芝増上寺末なり、元和七年創立、開基は畔柳助九郎、開山は僧到譽(元和七年寂)とす。本尊阿弥陀如来は恵心僧都の作と稱す、又運慶作といへる地蔵尊安置しあり。(東京名所図会より)

Img_9315

本堂前の大提灯を見ると今年大屋根葺替えをしたばかりのようだ。

Dscf1114_2

寺務所入口右手に葺き替えで使用しなくなった鬼瓦が展示されている。

Img_9321_2

御朱印は右手の寺務所にて頂ける。

Img022

帰路近くを散策した。まずは根津神社。透かし塀から拝殿の屋根

Dscf1120

外国人観光客に人気の千本鳥居

Dscf1119

神門

Dscf1121_2 森鴎外居住跡「水月ホテル鴎外温泉」

Dscf1123

2017年5月30日 (火)

内藤新宿総鎮守 トウガラシ栽培している花園神社

参道につながっているのではと勘違いして入り込んだ繁華街には珍しい遊歩道

Dscf1092

心和ませてくれるこんな像もある

Img_9283

神社参道は見えず、飲み屋街があらわれた。これがゴールデン街なのかな。たまたま撮影クルーと遭遇した。

Dscf1095

株主である日清食品のビルが見えるところに出た。初めての土地ではよくあることだが遠回りしている。

Img_9287

やっと神社の入口を見つけた。やれやれ。

Img_9288

狛犬

Img_9292

千本鳥居

Img_9296

神輿庫

Img_9299

「花園神社は、徳川家康の江戸開府(1603)以前から新宿の総鎮守として重要な位置を占めていました。徳川氏が武蔵野国に入った1590年より前に、大和吉野山より勧請されたとされています。
花園神社は寛永年代(1624~1644)までは現在の場所より約250メートル南、今の伊勢丹デパートの付近にありました。しかし、寛政年代に朝倉筑後守という旗本がこの周辺に下屋敷を拝領したため、社地は朝倉氏の下屋敷の中に囲い込まれてしまったのです。そこで幕府に訴えたところ、現在の場所を拝領することになりました。その場所は、徳川御三家(将軍家に次いで格の高い尾張藩・紀州藩・水戸藩)筆頭の尾張藩下屋敷の庭の一部で、たくさんの花が咲き乱れていたそうです。この美しい花園の跡に移転したので花園稲荷神社と呼ばれたのが社名の由来とされています。」(花園神社ホームページより)

Img_9303

江戸時代このあたりの農家でトウガラシの栽培が盛んで一帯がトウガラシで真っ赤になっていたそうだ。

Img_9304

社務所と拝殿の間には立派なコンクリート製プランターで内藤トウガラシが栽培されていて、神職姿で水遣りもされていた。

Img_9306
御朱印

Img022_2

Img_9305

宝物殿

Img_9309

2017年5月12日 (金)

乗蓮寺東京大仏

東京メトロ副都心線神宮前から乗り地下鉄赤塚駅で下車。副都心線は初体験であったが途中駅を見て知ってると便利な線だと気が付いた。

Dscf1002

20分近く知らない土地を歩くとこの道で目的地に着くのか不安になる。途中で尋ねたら真っすぐ歩くと見えてくると回答され安心した。

Dscf1008

目的地ではないが立派な寺院があり解説板を読むと曹洞宗松月院とのことだ。植栽の手入れも行き届いており参拝させてもらった。

Img_9227

当寺院は、房総に勢力を持っていた武将・千葉自胤が康正2年(1456年)に現:千葉県の市川から赤塚城に移り、その後1492年に当地にあった古寺・宝持寺を自身の菩提寺として定め、土地を寄進し、松月院と名を改めさせたのが始まりであるといわれている。

Img_9226

江戸時代には、当寺院は徳川家康に認められ、40石の朱印地が与えられた。他歴代の将軍からも保護を受け発展した。幕末には、砲術家として名高い高島秋帆が1841年に近隣の徳丸ケ原(現在の高島平付近。高島平の名は高島秋帆にちなんでいる)で西洋式の砲術訓練を行った際に本陣がこの松月院に置かれた。この訓練は当時の大名などを驚かせ、高島秋帆に大きな名声を与えたものであった。またこの松月院の名を有名なものにもした。

Img_9228
本堂の右手にある寺務所のインターフォンを押して御朱印をお願いした。

Img_9231
御朱印

Img025_2

松月院の坂を下りていくと左手に目的の乗蓮寺が見えてくる。門前には観光バスの駐車場もあり人気スポットなのだと知れる。実際に平日だが、複数のグループの他小学生が教師に引率されて行儀よく階段を上っている。

Img_9235
門の右手に「焔魔堂」

Img_9237
堂内には閻魔様と奪衣婆

Dscf1015
山門

Img_9247
山門表には金剛力士像が寺をお守りしている。 阿形像

Dscf1018
吽形像

Dscf1017
山門裏には「広目天」

Dscf1021
多聞天

Dscf1024
本堂

Img_9240
境内庭園

Img_9241

応永年間(1394年 - 1427年)に了賢無的が山中村にて人々に教えを伝えるために創建したと伝えられている。当時は孤雲山慶学院乗蓮寺と称していた。後に慶学山乗蓮寺になった。その後首都高速道路の建設と国道17号の拡幅により、昭和48年に現在の赤塚城二の丸跡に移転した。山号も赤塚山と称した。そして昭和52年、かつて東京を襲った関東大震災や東京大空襲など、悲惨な震災や戦災が再び起きないよう願いを込め当寺院の代名詞にもなっている東京大仏が建立された。国民栄誉賞も受賞した冒険家である上村直巳は1984年にマッキンリーにて消息を絶ち遺体等は発見されなかったが、彼を供養するための墓が当寺院の境内にある。

乗蓮寺の異称ともなっている「東京大仏」日本第三位の大きさとのことである。一位は奈良東大寺、二位は鎌倉高徳院

Img_9246
境内におわします「布袋さん」

Dscf1026

御朱印をお願いしたところ、住職が不在の為、予め用意したものに日付を入れてもらい頂いたもの。

Img024

2017年4月27日 (木)

水天宮

前回訪れたときは建て替え工事中で、仮社殿で参拝した。完工後初参りである。平成30年(2018年)に江戸鎮座200年を迎える記念事業として、社殿・社務所の建替えたものである。境内全体を免震化している。地価の高い都心のスペースを有効利用し社殿の階下に駐車場を設けているのも頷ける。

入口 初めてで少し違和感

Img_9220
隋神門の名残か階段の両側に隋神像

Img_9216
Img_9217
狛犬

Img_9212

手水舎

Img_9208
拝殿

Img_9203
灯籠

Img_9205
社務所

Img_9214
御朱印

Img025


本殿裏

Img_9225
新しい神社の在り方、都会の神社のモデルになるのかもしれない。

2017年4月 6日 (木)

国指定名勝伝法院庭園特別拝観

浅草寺伝法院庭園見学を希望していたが3月10日から特別拝観で公開の情報をネットで知り出掛けた。

Dscf1001
特別拝観入口

Img_9151

「大絵馬・寺宝展」もやっていたが、じっくり見学せず小堀遠州作庭といわれている庭園を堪能した。
丁度枝垂れ桜が散りかけていて情緒を添えてくれた。大書院前で緑茶の接待を受け美味しく頂いた。

Img_9158

伝法院庭園は平成23年9月21日に「国指定名勝」に指定された。

Img_9190

2017年3月 3日 (金)

西大井の大仏(おおぼとけ)~帰命山養玉院如来寺

嘗てテレビ番組で紹介されていて「行きたい所リスト」に載せていた場所である。武蔵小杉で横須賀線に乗り換えて「西大井駅」から徒歩10分とのことで、地図を頭にぶち込んでスタート。

横須賀線の西側をジグザクに歩く。事前に地図を見ていて承知していた伊藤博文公の墓所があり、とりあえず方向が間違っていないことに安心した。ここはスキップの予定だったが、撮影だけすることにした。

門は閉まっていて入れそうにない。時間がくれば開くのかも不明。伊藤博文の別邸で、晩年当地で暮らしていた。当地一帯は伊藤という地名となり、旧名の大井伊藤町はそれに由来する。この地名は現在でも小中一貫校伊藤学園、伊藤小学校などに残っている。

Img_9095

松下村塾に学び、幕末期の尊王攘夷・倒幕運動に参加。維新後は薩長の藩閥政権内で力を伸ばし、岩倉使節団の副使、参議兼工部卿、初代兵庫県知事を務め、大日本帝国憲法の起草の中心となる。初代・第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣および初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代韓国統監を歴任した。内政では、立憲政友会を結成し初代総裁となったこと、外交では日清戦争の勝利に伴う日清講和条約の起草・調印により清國から朝鮮を独立させた。1909年、ハルビンで朝鮮民族主義活動家の韓国人安重根に暗殺された。

門の隙間から撮影したのが公の胸像である。

Dscf0957

本当にジグザグ歩き、坂を下りた所の右手に目的の「如来寺」の山門が見えてきた。

Img_9097

大井の大仏(おおぼとけ)の石標

Img_9100
山門は閉まっていて、右手の参道を上っていく。

Img_9101

参道には仏像や歌碑が沢山ある。

Img_9102

関心のある鐘楼も立派なもので上にあがり、じっくり見学させてもらった。

Img_9104
梵鐘

Img_9105

坂を登り切った右手に庫裏がありその右手が本堂。

Img_9144

本堂の扁額

Img_9119

本堂の前にあるのが「明王堂」

Img_9115

いよいよ大仏の「瑞応殿」

Img_9143

瑞応殿前を守る金剛力士像

Img_9123
Img_9124

瑞応殿の扁額

Img_9127
堂内には大日如来を中尊とする五体の如来像横一列に安置されている。五体の如来を総称し「五智如来」と呼ばれている。
大仏右から東方世界の「薬師如来」医薬の功徳

Dscf0972

南方世界「宝生如来」には福徳財宝・五穀豊穣の功徳

Dscf0973

中央が最も大きくて高さは3.21メートルの「大日如来」万物を慈しむ太陽の功徳

Dscf0975

西方世界「阿弥陀如来」には往生極楽の功徳

Img_9136

北方世界「釈迦如来」 五智如来を一枚におさめようとしたがうまくいかなかった。

Dscf0977

堂宇は大きいのだが、それ以上に五智如来像が大きくて圧倒された。堂内では同世代の男性グループ5人が熱心に見学していた。女性グループはよく見かけるが男性は珍しい。

最後に事前にお願いしていた御朱印を拝領する為に庫裏へ。

Img021

2017年2月21日 (火)

幸田露伴「五重塔」モデル天王寺&徳川慶喜公廟

日暮里駅からスタート。昨年の谷中散策以来二回目であるが、谷中霊園は初めてでやや不安。平日にもかかわらず外国からの観光客らしき一団のほか見学者が多い。

Img_9060
墓苑を抜けて大通りに出ると、天王寺の山門が見えた。

Img_9061

境内は小奇麗に整備され掃き清められていて気持ちよくお参りできる。

Img_9062
大仏 「大聖釈迦牟尼如来」の銘板 谷中大仏とも呼ばれている

Img_9066

日蓮の弟子・日源が法華曼荼羅を勧請して開山した長耀山感応寺。元禄11年(1698)天台宗に改宗となり、「護国山天王寺」へ改号した。

Dscf0936

白梅と本堂

Img_9067 庫裏 御朱印は左手にボタンがあり押すと窓を開けてお願いした

Img_9082 庫裏から見た本堂

Img_9086
庫裏横の庭 手入れされ気持ち良い

Img_9083
Img_9084

幸田露伴の小説「五重塔」のモデルとしても有名。五重塔跡 放火心中で焼失したそうで、在りし日の五重塔の写真とともに燃えている写真、消火活動後の残骸の写真も展示されている。

Img_9071
御朱印

Img013

江戸時代「江戸の三富」として目黒不動湯島天神と共に賑わったそうである。

慶喜公の墓参へ 園内図のほか案内標示もあり迷わずに済んだ。

Dscf0941
立派な塀に囲まれ、門は鉄製で葵の御紋が輝いている。

Img_9078
顕彰碑

Img_9075

徳川慶喜の墓は、5,600平方メートル余の墓域のやや西南寄りに葺石円墳状の墳墓としてあります。顕彰碑の後方左手が慶喜で右は夫人 子供23名全員ではないが数人と側室も埋葬されているそうである。写真の慶喜の円墳の左に小さな円墳は側室だそうだ。

Img_9074

15代将軍慶喜は寛永寺・増上寺の徳川廟に埋葬されなかったのか。
朝敵とされた自分を赦免した上、華族の最高位である公爵を親授した明治天皇に感謝の意を示すため、慶喜は自分の葬儀を仏式ではなく神式で行なうよう遺言した。このため、慶喜の墓は徳川家菩提寺である増上寺でも寛永寺でもなく、谷中霊園に神式で円墳の墓が建てられたとのことである。

徳川歴代将軍の廟を整理すると  

    第一代 徳川家康 日光東照宮
    第二代 徳川秀忠 増上寺
    第三代 徳川家光 日光輪王寺
    第四代 徳川家綱 寛永寺
    第五代 徳川綱吉 寛永寺
    第六代 徳川家宣 増上寺
    第七代 徳川家継 増上寺
    第八代 徳川吉宗 寛永寺
    第九代 徳川家重 増上寺
    第十代 徳川家治 寛永寺
    第十一代 徳川家斉 寛永寺
    第十二代 徳川家慶 増上寺
    第十三代 徳川家定 寛永寺
    第十四代 徳川家茂 増上寺
    第十五代 徳川慶喜 谷中霊園

サイト内リンク⇒上野寛永寺 芝増上寺

昨年の谷中散策で訪れた朝倉彫塑館の朝倉文夫の墓が偶々目に入ったので撮影した。

Dscf0933
川上音二郎の墓は形が変わっている。

Dscf0950
ゆうやけだんだんから谷中銀座

Dscf0952



より以前の記事一覧

その他のカテゴリー