史跡巡り

2017年2月21日 (火)

幸田露伴「五重塔」モデル天王寺&徳川慶喜公廟

日暮里駅からスタート。昨年の谷中散策以来二回目であるが、谷中霊園は初めてでやや不安。平日にもかかわらず外国からの観光客らしき一団のほか見学者が多い。

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墓苑を抜けて大通りに出ると、天王寺の山門が見えた。

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境内は小奇麗に整備され掃き清められていて気持ちよくお参りできる。

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大仏 「大聖釈迦牟尼如来」の銘板 谷中大仏とも呼ばれている

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日蓮の弟子・日源が法華曼荼羅を勧請して開山した長耀山感応寺。元禄11年(1698)天台宗に改宗となり、「護国山天王寺」へ改号した。

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白梅と本堂

Img_9067 庫裏 御朱印は左手にボタンがあり押すと窓を開けてお願いした

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庫裏横の庭 手入れされ気持ち良い

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幸田露伴の小説「五重塔」のモデルとしても有名。五重塔跡 放火心中で焼失したそうで、在りし日の五重塔の写真とともに燃えている写真、消火活動後の残骸の写真も展示されている。

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御朱印

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江戸時代「江戸の三富」として目黒不動湯島天神と共に賑わったそうである。

慶喜公の墓参へ 園内図のほか案内標示もあり迷わずに済んだ。

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立派な塀に囲まれ、門は鉄製で葵の御紋が輝いている。

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顕彰碑

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徳川慶喜の墓は、5,600平方メートル余の墓域のやや西南寄りに葺石円墳状の墳墓としてあります。顕彰碑の後方左手が慶喜で右は夫人 子供23名全員ではないが数人と側室も埋葬されているそうである。写真の慶喜の円墳の左に小さな円墳は側室だそうだ。

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15代将軍慶喜は寛永寺・増上寺の徳川廟に埋葬されなかったのか。
朝敵とされた自分を赦免した上、華族の最高位である公爵を親授した明治天皇に感謝の意を示すため、慶喜は自分の葬儀を仏式ではなく神式で行なうよう遺言した。このため、慶喜の墓は徳川家菩提寺である増上寺でも寛永寺でもなく、谷中霊園に神式で円墳の墓が建てられたとのことである。

徳川歴代将軍の廟を整理すると  

    第一代 徳川家康 日光東照宮
    第二代 徳川秀忠 増上寺
    第三代 徳川家光 日光輪王寺
    第四代 徳川家綱 寛永寺
    第五代 徳川綱吉 寛永寺
    第六代 徳川家宣 増上寺
    第七代 徳川家継 増上寺
    第八代 徳川吉宗 寛永寺
    第九代 徳川家重 増上寺
    第十代 徳川家治 寛永寺
    第十一代 徳川家斉 寛永寺
    第十二代 徳川家慶 増上寺
    第十三代 徳川家定 寛永寺
    第十四代 徳川家茂 増上寺
    第十五代 徳川慶喜 谷中霊園

サイト内リンク⇒上野寛永寺 芝増上寺

昨年の谷中散策で訪れた朝倉彫塑館の朝倉文夫の墓が偶々目に入ったので撮影した。

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川上音二郎の墓は形が変わっている。

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ゆうやけだんだんから谷中銀座

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2017年2月14日 (火)

平井目黄不動~牛宝山明王院最勝寺

江戸五色不動の五番目は黄色。黄色は三ノ輪と平井の二箇所にあるが分かりやすそうな平井にした。総武線平井駅からスタート。いつものように周辺マップを頭に入れて歩く。間違うことも多いがそれも楽しむ。近くまで来たところで出会ったおばあさんに確認するが、「最勝寺」と「目黄不動」を別物と認識しているのが面白かった。結局最勝寺の墓地を抜けて仁王門前に出た。

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天台宗牛宝山明王院最勝寺と号し、通称「目黄不動」といわれている。

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本堂
最勝寺の始まりは、慈覚大師が東国巡錫のみぎり、隅田川畔(現・墨田区向島)にて、釈迦如来像と大日如来像を手ずから刻み、これを本尊として貞観二年庚辰(860)に一宇を草創したことによる。同時に大師は、郷土の守護として「須佐之男命」を勧請して牛島神社に祀り、大日如来を本地仏とした。
慈覚大師の高弟・良本阿闍梨は、元慶元年(877)に寺構の基礎を築き、最勝寺の開山となり、当寺を「牛宝山」と号した。その後、本所表町(現・墨田区東駒形)に移転した。 サイト内リンク⇒牛島神社 向島散策

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本堂「牛寶山」扁額

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不動堂

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「不動尊」扁額

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当寺は徳川家の崇拝が篤く、将軍が鷹狩りの際にしばしば立ち寄り「仮の御殿」が置かれた。明治の神仏分離に至るまで、牛島神社(牛の御前)の別当をつとめ、その時神社の本地仏大日如来像は当寺に遷座し、今日に至る。
また当寺に奉安される不動明王像は、江戸府内五色不動の一つで、目黄不動と称されている。
この不動明王像は、天平年間(729~766)に良弁僧都(東大寺初代別当)が東国巡錫の折り、隅田川のほとりで不動明王を感得され、自らその御姿をきざまれたものであり、同時に一宇の堂舎を建立された。その後最勝寺の末寺で本所表町にあった東栄寺の本尊として祀られ、徳川氏の入府により将軍家の崇拝するところとなった。殊に家光公の崇拝は篤く、仏教の大意に基づいて江戸府内に五色不動の霊場が設けられたが、この時に目黄不動と称され、江戸の町を守護する不動尊として広く信仰された。明治の神仏分離により東栄寺は廃寺となり、本尊不動明王像は本寺の最勝寺に遷座され、これより当寺は「明王院」と号するようになった。

境内の不動堂前に古い石造の地蔵像を重ねたようなものがあるが、無縁塚とのことだ。

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御朱印は不動堂横寺務所にてベルを押してお願いした。

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不動堂を東側から

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江戸川の堤に上がり腰をおろしてお茶をして帰路についた。

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これにて五色不動尊コンプリート サイト内リンクご参照下さい
 目黒不動尊 目黒区瀧泉寺
 目白不動尊 豊島区金乗院
 目赤不動尊 文京区南谷寺
 目青不動尊 世田谷区教学院

2017年1月31日 (火)

天台宗竹園山最勝寺教学院~目青不動尊

世田谷区太子堂にある寺院。寛永寺の末寺の一つである。通称「教学院(きょうがくいん)」、正式名称は「竹園山最勝寺教学院」。江戸五色不動「目青不動」で有名。小田急線「豪徳寺」で世田谷線に乗り換え終点「三軒茶屋」からスタート。いつものように平日10時過ぎにも拘わらず世田谷線の混雑は信じられないものであった。

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御朱印用に小銭を用意しておく為に自販機で缶コーヒーを買い、世田谷線を戻る感じで不安を抱えながら歩いていると、コンビニのファミリーマート三軒茶屋駅前店の隣に教学院の門が見えた。

Img_9025 後でわかったのだが、こちらの門は新参道だそうだ。東側に旧参道がある。

正面に見えるのが不動堂

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扁額

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閻王堂」の扁額も残っている

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縁起によれば、応長元年(1311)、玄応和尚によって江戸城紅葉山付近(現在の皇居内)に創建され、太田道灌による江戸城築城(康正3年・1457)により麹町貝塚に移転、のちに赤坂三分坂(青山墓地近辺)へ移転したという。その後慶長9年(1604)、青山南町(百人町)に3000坪の土地を与えられ移転し、明治42-44年(1909年-1911)、太政官布告により3カ年の期間を経て現在地に移転したという。

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目青不動は麻布谷町にあったという正善寺の本尊であったものが、同寺の廃寺にともない教学院に遷し奉られたものである。目青不動尊は慈覚大師円仁ご自作の尊像で、秘仏としてお厨子に納められている。座高1メートル余りの青銅製で寛永19年(1642)正月11日の銘がある。丸顔で上下の牙歯がなく微笑みを湛えて居るように見えるえくぼが女性的である。

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本堂にはご本尊阿弥陀如来

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江戸時代より五色不動のひとつに数えられ、東西南北の五方角と中央と五色を合わせたもので将軍家光の時代に成立したといわれている。
 青色 東方
 赤色 南方
 黄色 中心
 白色 西方
 黒色 北方

境内に「獣魂塔」食肉卸組合が寄進しているのが生々しくて頂けない。

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庫裏の「納経」はこちらの案内あり、こちらで御朱印を頂く

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教学院縁起にある「チシャノキ」 6月頃小さな花をつけ香りを放つそうだ。

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帰りは旧参道から帰ることにした。

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小規模な境内だが、よく清掃されていて気持ちよく参拝できた。最寄駅から近いので参拝者も多いようだ。意外だったのは若い女性グループのほか自転車で廻っている若い男性が目立った。
五色不動もあと黄色が残る。台東区三ノ輪と江戸川区平井にあるそうだが、平井の最勝寺を予定している。教学院と同じ寺名なのが気に掛かる。

2017年1月16日 (月)

曹洞宗諏訪山栴檀林吉祥寺&目赤不動尊

駒込古刹吉祥寺と五色不動のひとつ目赤不動尊を訪ねることにする。東京メトロ南北線「本駒込駅」からスタート。先に目赤不動尊に参拝することとする。地下鉄の駅員さんが出口やら道順など丁寧に案内して下さった。お陰様で、すんなりと南谷寺の門前へ行くことができた。

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天台宗大聖山東朝院南谷寺目赤不動尊 江戸五色不動のひとつである。お不動さまの12年に1度の総開帳の案内が目に入る。酉年はお不動様が守り本尊となるそうだ。

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本堂の本尊は阿弥陀如来

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早速不動堂のお不動さまを参拝する

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当寺院は、元和2年(1616)に比叡山の南谷にいた万行律師によって開かれた。彼は熱心な不動明王の信仰者であった。言い伝えによるとある夜、伊賀国(現在の三重県)の赤目山に行くよう夢でお告げがあり、赤目山の山頂で祈願していたところ、天から一寸二分ほどの黄金の不動明王像を授かったという。その後、江戸・下駒込の地(現・本駒込3丁目付近、東京都立駒込病院の近く)に庵を結び、不動明王像を安置した。この不動明王に対する人々の信仰は篤く、多くの参詣者が訪れた。この不動堂の前の坂道は「不動坂」と呼ばれ、現在は「動坂」と呼ばれている坂である。

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寛永5年(1628)鷹狩に訪れた三代将軍・徳川家光によりそれまで「赤目不動」と呼ばれていた、当寺の不動明王を目黒不動・目白不動にちなみ「目赤不動」と呼ぶように言われ、かつ現在の地を与えられ「大聖山東朝院」と号するようになった。天明8年(1788)に上野の寛永寺の直末寺になると同時に、「南谷寺」の寺号を与えられた。

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事務所にて御朱印を頂く

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次は吉祥寺、南谷寺前の道路を真っすぐ行けばいいはずだ。間もなく「吉祥寺前」の信号がそれを語ってくれた。今日は順調に予定の活動ができそうだ。

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歩みを進めていると立派な山門が見えてきた。

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「栴檀林」の扁額

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室町時代1458年(長禄2年)に太田持資(太田道灌)の開基で江戸城内に青巌周陽を開山に招いて創建した。道灌は、江戸城築城に際し和田倉付近の井戸から「吉祥」と刻銘した金印を得、これを瑞祥として青巌を請じて西の丸に建立した。山号はこの地が諏訪神社の社地であったことによる。

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のち徳川家康の関東入府にともなって駿河台(現在の都立工芸高校の周辺)に移り、明暦の大火と江戸大火によって現在の駒込の地に移転した

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江戸期には境内に後の駒澤大学となる学寮「旃檀林」(せんだんりん)が作られ、卍山道白が規則を制定して大いに繁栄し、幕府の学問所「昌平黌」と並んで漢学の一大研究地となった。多くの学寮(カレッジ)・寮舎を備え、常時1,000人余の学僧がいた。各寮には学徳兼備の者が選ばれて寮主となり、寮主はさらに役員を選び、役員によって学問の指導や日常生活が合議によって運営された。教科目は内典(仏教)と外典(漢学)で、江戸の中期以降は漢学が重視された。そのため僧侶以外でも、寺院に縁故のある旗本の子弟・寺侍が聴講した。

曹洞宗三学寮とは吉祥寺栴檀林と サイト内リンク⇒青松寺獅子窟泉岳寺

参道も立派 枝垂れ桜のようで、花期に再び訪れてみたいものだ。

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本堂

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客殿

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鐘楼

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経蔵

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参道左手に比翼塚 

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阿弥陀仏座像 吉祥寺大仏

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寺堂は近代まで七堂伽藍を誇っていたが、東京大空襲で焼失し、わずかに山門(1802年建造)と経蔵(1804年建造)を残すのみとなった。現在は復興され、本堂、客殿、庫裏などが点在する。

二宮尊徳墓

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小出浩平先生顕彰歌碑

明治30年(1897)8月14日新潟県南魚沼郡塩沢町仙石に生まれ舞子小学校高田師範学校を経て大正14年(1925)東京音学校卒業

南西海小学校・香川師範学校・東京赤坂小学校・同城東小学校歴任・昭和12年(1937)学習院教授に就任 皇太子殿下、義宮殿下の音楽御教育係拝命 昭和39年(1964)三室戸学院理事・東邦音楽大学副学長の要職につき日本教育音楽協会を始め多数の会の会長として活躍

この間に日本で最初の学年別基礎指導・レコードによる鑑賞指導・器楽指導・創作指導を音楽教育に取入れ我が国音楽教育を一変させた また唱歌・新教授法・合唱曲集・教育音楽等の多数の著書や雑誌の編集・こいのぼりおしし等の愛唱歌九百余の校歌の作曲・NHK・TBS・其の他多数のコンクールの創始・審査・更に放送講演等により日本の音楽教育を今日あらしめた功績は絶大である よって茲に歌碑を建立し顕彰する次第である。
 昭和54年(1979)11月18日 
 小出浩平先生顕彰碑建立実行委員会

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客殿前 梅の花が匂っている。

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庫裏の前に栴檀林の「センダン」の木があり、実を付けている。ボランティア活動していたフィールドにもあり、その実は春まで残っていることが多い。不味い実らしく、他に食べるものがある内は鳥も食べないそうだ。

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センダンの木

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御朱印は事務所にてお願いした。待っている間に暖かい緑茶の接待を頂いた。

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干菓子と線香「栴檀香」を土産に購入した

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吉祥寺は境内に入ると清浄な雰囲気が心地よく、いつまでも居たい気持ちになったものだ。

2017年1月 6日 (金)

初詣 總持寺

總持寺

初詣として總持寺へ。JR鶴見駅からスタート。昨年は仏教の正月である2月に總持寺へお参りしている。去年は参拝者が少なく少々寂しい感じではあった。今年は新年の拵えがあり、参拝者も多く賑やかだ。

三松関 さんしょうかん

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總持寺の総門。門前に立って、まず目に飛び込んでくるのが「三樹松関(さんじゅしょうかん)」と書かれた扁額(へんがく)です。總持寺中興(ちゅうこう)の祖といわれる石川素童(そどう)禅師(1841~1924)が揮毫(きごう)されたもので、總持寺の祖院がある能登には、みごとな龍の形をした三本の松樹があったことに由来しています。

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この総門は、禅宗寺院の第一門としては珍しく、特異な高麗門(こうらいもん)の様式で建てられています。

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総門には、棟つづきの右奥に「新到安下所(しんとうあんげしょ)」があります。仏の道を志す修行僧が、最初にワラジを脱ぎ、宿泊する建物で、細い縦看板がかけられています。

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三門
総門をくぐり、七堂伽藍の最初に出会うのが「三門」です。この三門は、木原崇雲氏が妻の菩提のために寄進され、昭和四十四年に落成した建物です。鉄筋コンクリート造りでは、日本一の大きさを誇っています。
三門には、左右に金剛力士(仁王)像をおくのが通例とされており、總持寺の場合も同様で、左右に元横綱・北の湖関15歳の姿をモデルにしたと伝えられている阿吽の仁王像が納められています。
三門楼上には、開創時からの因縁によって、観音・地藏の放光菩薩像と、十六羅漢像および四天王像が祀られ、毎月二日と十六日には羅漢供養の法要が修行されます。これらの像は彫刻家・阿部正基氏の作です。 

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三門正面の扁額「諸嶽山」は独住19世・岩本勝俊禅師が書かれたものです。

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三門潜り真っすぐのところに立派な石燈篭がある。

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向唐門 むかいからもん
總持寺は、後醍醐天皇から「日域無双の禅苑たるにより、曹洞出世の道場に補任す」との綸旨を賜り、以後、歴代天皇より勅願寺として仰がれましたので、「勅使門」の名を残しておりました。
禅師の入山式や、正月・7月のみたままつり・11月の御移転記念日の時に開扉されております。

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三松閣 さんしょうかく
三門に向かって右側に大きな切妻造り鉄筋コンクリートの堂宇がみえます。地上四階、地下二階、9400平方メートルの広さがあり、檀信徒研修道場、各種セレモニーの会場となっており、宿泊施設も整っております。能登・祖院にあった三本の龍形の松にちなんで「三松閣」と呼ばれています。
4階にある大講堂。正面に釈迦如来坐像 (木彫、像高0.87メートル)をお祀りしています。
全国より参詣される拝宿の皆様への法話も行われます。

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金鶏門 きんけいもん 
金鶏とは、星の中に住む想像の鶏、あけのとり、従って朝をあらわします。

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大祖堂 だいそどう
大祖堂は、一般的にいわれる開山堂と法堂を兼ねた本堂客殿です。千畳敷の内中外陣と、982坪の地下室を有し、瓦葺形の銅版屋根は53トンに及びます。貫首禅師演法の大道場たるのみならず、諸種法要修行の場とされます。

この殿堂の内陣の奥には「伝灯院」として、高祖大師・太祖大師・二祖国師・五院開基の尊像及び独住禅師のご真牌が奉安されています。
太祖瑩山(けいざん)禅師高祖道元(どうげん)禅師、二祖・峨山(がさん)禅師をはじめとして、歴代の諸禅師の頂相を安置し、あわせて諸尊牌をも奉祀する靈場であります。孤峰(こほう)禅師筆の扁額「現身説法」瑩山・峨山両尊が、常に真理を説き続け、私たちを導いてくださる祖師方が常在される大道場なのです。

日々、歴代の禅師様が生きているがごとくお仕えして、徳恩に報いております。 明治41年(1908)、能登から現在の横浜鶴見が丘に御移東の官許を得て、移転の建設は着々と進行しました。しかし七堂伽藍の中枢であり、本山の最重要な大祖堂の建立は、幾多の事情から未建設でありました。昭和40年(1965)3月、二祖・峨山禅師の600回大遠忌を記念して、ようやく竣工・落慶しました。普蔵院・太源宗真(たいげんそうしん)をはじめとする妙高庵・通幻寂霊(つうげんじゃくれい)、洞川庵・無端祖環(むたんそかん)、伝法庵・大徹宗令(だいてつそうりょう)、如意庵・実峰良秀(じっぽうりょうしゅう)各禅師の尊像を配し、向かって左側には輪住、独住の諸禅師の尊牌を祀っています。

瑩山禅師が説示された「師檀和合の信念」がひとつに結晶して、巨額な浄財によって大祖堂が建立されました。タタミ千畳敷きの広さのなかで、朝夕の勤行、檀信徒の法要が親しく厳修されています。時に揺るぎない三国(インド、中国、日本)伝燈の大本山の霊場が、不断に脈打ち、現成されているのです。

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香積台 こうしゃくだい 総受付
香積とは、香気が充満している世界のことで、『維摩経香積品』が説くところによりますと、そこに住む如来の名でもあるとされております。転じて、禅門では食事を調理するところの庫院(くいん)、庫裡(くり)を意味します。「庫」は、物を貯える蔵のことです。
正面玄関には、独住第三世・西有穆山禅師が揮毫された「香積台」の扁額が掲げられています。
また、中央廊下のつき当たりに、日本最大といわれる木彫の大黒尊天が奉安されています。この像を祀ると開運福徳を授かると信仰されています。

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右手に総受付がある。最も入口よりつまり入って右側で御朱印を受け付けてくれる。昨年から番号札を貰い、左手売店の奥休憩所にて番号を呼ばれるのを待つやり方になった。今年も線香、胡麻豆腐、菓子セットを土産に買いもとめた。

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2016年12月12日 (月)

白山神社 旧准勅祭社東京十社コンプリート

無為安静風にとって旧准勅祭社東京十社巡りのラストは文京区にある白山神社。昨年NHK大河ドラマ「真田丸」で真田家でも「白山権現」の掛け軸がありきになっていたものだ。地下鉄三田線「白山駅」からスタート。

地上に上がった所で案内図があったので目的の白山神社を確認するが曲がるのが一回なので助かる。鳥居が見えて来て安心する。こちらは東参道。

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社務所 参拝後ここで御朱印を頂いた。

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拝殿

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天暦2年(948)、加賀国の白山比咩神社から勧請を受けて、武蔵国豊島郡本郷元町に創建された。元和年間(1615-1624)に将軍徳川秀忠の命で巣鴨原(現 小石川植物園内)に移ったが、明暦元年(1655)、その地に館林藩主徳川綱吉(後の5代将軍)の屋敷が作られることになったため、現在地に遷座した。その縁で綱吉とその母桂昌院の崇敬を受け、以降、徳川将軍家から信仰された。

本殿 幣殿拝殿が一体となった権現造りとなっている。
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白山神社は、全国に約二千社あるそうな。ご祭神は菊理姫命、伊弉諾命、伊弉冊命

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狛犬

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白山信仰については、民俗学者の柳田國男や折口信夫が、発表しており朝鮮渡来とのことだ。
朝鮮半島に近い石川、岐阜、新潟など北陸地方に多いのも頷ける。富士山などとともに、日本三大霊山の一つとされ、元来山岳仏教である。

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南側の表参道

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八幡神社

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松尾神社

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御神木 旗桜 この桜木は旗桜と言い、八幡太郎義家御旗を立給いて祈願せられた時の桜木にて、(古木は社務所に)若木を育てたものであり、花の真に旗の形なる花弁ある名花なり。

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境内の一角に孫文のブロンズ製レリーフ(胸像額)をはめ込んだ石碑がたっている。上部に「孫文先生座石」と書かれており、石碑の下に置かれた黒っぽい横長の石が孫文の座った石ということらしい。

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由緒書によると、それは明治43年(1910年)5月中旬のことで、孫文は当時、白山神社近くの小石川原町(現白山四丁目、五丁目と千石一丁目の一部)にあった滔天宅に身を寄せており、2人はこの石に腰掛け、中国の将来や革命について語り合った。しかも、その時、夜空に光芒を放つ一条の流星が現れ、孫文は祖国の革命を心に誓ったという。


勅祭社(ちょくさいしゃ)とは、祭礼に際して天皇により勅使が遣わされる(これを勅祭という)神社のことである。ただし、毎年五大祭(月次祭を除く)に勅使が遣わされる伊勢神宮は別格とされて勅祭社に含めない。東京十社(とうきょうじっしゃ)とは、元准勅祭社12社の内から、1975年(昭和50年)に定められた東京近郊の10の神社のことである。

明治維新が成り東京に奠都した明治天皇は、1868年(明治元年)10月17日、氷川神社の例大祭を新たに勅祭に定めた。それに続いて11月8日、それまでの畿内二十二社などの勅祭社に併せて東京近郊の主だった神社を准勅祭社と定めて東京の鎮護と万民の安泰を祈る神社とした。当初は12社(日枝神社・根津神社・芝神明宮・神田神社・白山神社・亀戸神社・品川神社・富岡八幡神社・王子神社・赤坂氷川神社・六所神社・鷲宮神社)であった。しかし早くも1870年(明治3年)9月1日には廃止され准勅祭社の制度は一時的なもので終わった。該当神社は府社あるいは郷社となる。第二次大戦後は政府による社格そのものが廃止された。

1975年(昭和50年)、昭和天皇即位50年を奉祝して関係神社が協議を行い、准勅祭社から遠隔の府中町六所宮と埼玉県鷲宮町の鷲宮神社を外し、23区内の10社を巡る「東京十社巡り」が企画され、七福神巡りなどとともに観光的な要素を濃くして現在に至っている。

旧准勅祭社東京十社サイト内リンク根津神社神田明神亀戸天神(藤)、富岡八幡宮王子神社品川神社氷川神社日枝神社芝大神宮  、亀戸天神(梅)

2016年11月22日 (火)

赤坂氷川神社

元准勅祭社東京十社の自分にとっては九社目となる赤坂氷川神社である。個人的には山王日枝神社とごっちゃになっていた時期がある。東京メトロ千代田線「赤坂駅」からスタートである。いろんなルートがあるが通勤に利用していて馴染みのあったからである。ところが下車したことはないので不安である。赤坂そのものがめったに来ない場所である。現役時一ツ木通りのバーや料理屋さんに接待で何度か行ったことがある位である。

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駅のホームで出口を確認して地上へ、鹿島建設があるはずだが、大きな看板を出している訳でないので分かりにくいビルの雰囲気で間違いなさそうと歩みを進める。「日大三中三高に跡地碑」がある。日大三高は現在町田市に移転しているが、ここが発祥の地らしい。次の角を左に回ると事前に調べていた「氷川坂」らしい緩やかな坂で突き当りを右へ行くと目的地と予想した。

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氷川坂頂上

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頂上間際右手に東参道が見えてきた。

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参道

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いよいよ氷川神社の鳥居

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参道を進むと鳥居の先、左側に稲荷神社が二柱、まずは正面に四社を合祀した四合(しあわせ)稲荷神社

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左に西行稲荷 西行五兵衛が稲荷のご神体らしき鉄像を拾い勧請したとの由来

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稲荷社とは反対の左手に赤い太鼓橋が彩をそえる庭園

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階段

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  狛犬

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本殿は築地塀の中、寺院では珍しくないが神社では初めてかもしれない。

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社殿は権現造り 

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ご祭神は
    素盞嗚尊(すさのおのみこと)
    奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)
    大己貴命 (おおなむぢのみこと)

創立の起源は、古い書物によると、天暦5(村上天皇 951)年武州豊島郡人次ヶ原(俗称…古呂故ヶ岡・赤坂4丁目一ツ木台地)に祀られました。

これよりおよそ百年後の治暦2(後冷泉天皇 1066)年、関東に大旱魃が発生、降雨を祈るとその霊験(しるし)があり、以来よく祭事が行われました。

江戸時代、幕府の尊信は篤く、八代将軍 徳川吉宗公が享保元(1716)年将軍職を継ぐに至り、同14(1729)年に老中岡崎城主水野忠之に命じ、現在地(豊島郡赤坂今井台)に現社殿を造営、翌15(1730)年4月26日に、一ツ木台地から現在地への遷宮が行われ、28日に将軍直々の御参拝がありました。

以後十四代家茂公まで歴代の朱印状を下附され、一層の御神徳を高め、開運・厄除・良縁の鎮守神として尊崇を深められました。

石標

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境内のイチョウの老巨木

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神輿庫か

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御朱印

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東京都心に居ることを忘れてしまう静寂で神聖な貴重な時間を過ごせた。

2016年11月 2日 (水)

元准勅祭社品川神社

品川神社

元准勅祭社東京十社を意識したのは今年4月花見を飛鳥山へ行った折である。飛鳥山に都電道を挟みあった王子神社にお参りした時である。改めて十社の参拝歴を確認したら十社の内7社が参拝済とわかったので今年中に残り三社を巡ることした。JR品川駅をスタート。駅の西側御殿山は駅前のホテル群は株主総会で毎年来ているが線路の東へは行ったことがない。西口を出て線路沿いに歩き八ツ山橋を渡った右に小さな公園があり観光案内地図がある。初めて訪れる者には大変ありがたい。

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京急電車北品川駅を左に見て進むと右手に凝ったデザインの立派な建物が見えてきた。品川女子学院だ。

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目的地は信号2つ目。 横断歩道を渡ると鳥居である。

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元准勅祭社として東京十社のひとつでもある。 また東海七福神の一社として、大黒天を祀る

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大黒天像の右に鳥居

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文治3年(1187)、源頼朝が安房国の洲崎神社から、海上交通安全と、祈願成就の守護神として、安房国の洲崎明神である天比理乃咩命を勧請して祀り、品川大明神と称したのに始まる。

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鳥居が変わっている。境内入り口の階段前に、門柱に龍の細工が施された石鳥居「双龍鳥居」がある。
左の柱に昇り龍、右の柱に降り龍が彫刻されている。

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結構きつそうな階段

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階段の左に富士塚がある。お約束通り「品川富士」

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富士塚にある浅間神社の祠。

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境内にも浅間神社

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掃き清められて静寂な境内は別世界だ。三十代女性ふたり連れの参拝者が丁寧にお辞儀をして鳥居をくぐっていく様子が「大和なでしこ」のようで美しく印象に残っている。

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鎌倉時代末期の元応元年(1319)に北条高時の臣、二階堂道蘊が「宇賀之売命(稲荷神)」を、さらに室町時代中期の文明十年(1478)に太田道灌が「素戔嗚尊(天王神)」をそれぞれ祀った。

拝殿

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慶長五年(1600)、徳川家康が関ヶ原の戦いへ出陣の祭に品川神社を参拝して戦勝祈願し、その後、祈願成就の御礼として仮面(天下一嘗の面)・神輿(葵神輿)などを奉納し、天正19年(1591)には徳川家康から5石の社領の朱印を受け、徳川家の尊崇する特別な神社として社紋も徳川家の家紋の「丸に三つ葉葵」と定め、「御修復所(神社の建物の再建・修復などは全て江戸幕府が賄う)」として徳川家の厚い庇護を受けた。 寛永14年(1637年)に三代将軍徳川家光が東海寺を建立した際には、境内の一部がその敷地となったため代替地を賜わり、神社の位置が東海寺の鬼門に当たることから、同社の鎮守とした。

明治元年11月8日、明治天皇が品川神社を准勅祭社と定め、東京の鎮護と万民の安泰を祈る神社の一つとした。明治5年、郷社に列した。また昭和50年には、東京十社に列している。

宝物館

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親子獅子像

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御朱印は左手社務所にて受け付けて下さる。

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阿那稲荷

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一粒萬倍の御神水万物は「天・地・水」の恵みをうけて生成化育し、米は一粒の種より萬倍の稲穂となる。

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当社稲荷は「上社」が「天の恵みの霊」を「下社」が「地の恵みの霊」と「御神水」をお祀りする。家門・家業の繁栄を祈り、印鑑・銭にこの水をそそぐが吉。また、持ち帰りて家・店の入り口・四隅にそそぎ、清く明るき心を持って暮らし、商売するが吉。

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品川は江戸湾に面し、中世以来の港町、宿場町として栄え、町をささえる漁業や農業も盛んでした。とくに、農業は、目黒川、立会川流域の低湿田地帯と   荏原台地に広がった畑地で、年貢のための稲作を中心に麦や雑穀を作る粗放的農業が行われていましたが、野菜は荏原郡の中でも最も早く産地として発展しまし   た。 

 江戸にネギが入ったのは天正年間(1573~92)に大阪方面からの入植者によって、砂村(現在の江東区)で栽培されたのが始まりですが、品川も同じで、入植者が持ち込んだネギの栽培は品川宿の周辺から広がり「品川ネギ」として産地化しました。

 また、文化元年(1804)に著された『成形図説』には越冬用漬物として栽培された長カブ「品川カブ」が記され、天保14年(1843)の「東海道宿村大概帳」によると、品川ネギ大井ニンジン戸越のタケノコが名産として記されています。

上記のことを英文も添えて開設した表示板が境内に設置されている。

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2016年10月21日 (金)

極楽寺再訪

三年前に初めて訪れて感銘を受け是非ゆって「十一人塚」「稲村ヶ崎」「虚空蔵堂」「成就院」から極楽寺へお参りし、「御霊神社」「長谷寺」「甘縄神社」「和田塚」「六地蔵」「大巧寺」を巡るしかも全て徒歩という欲張りツアーであった。時間的制約もあり、初めて訪れる場所ばかりだったので一箇所にかける時間も余裕がなかったのである。

今回は極楽寺と成就院と御霊神社のみとする。

藤沢から江ノ電に乗り「極楽寺駅」からスタート

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改札口を出て駅舎

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極楽寺切通しの方向へ進むと意外な表示板「極楽洞土木遺産」

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江ノ電極楽洞トンネル 「極楽洞」は極楽寺駅~長谷駅間にある江ノ島電鉄唯一のトンネルで、 1907年の完成、開通以来大きな改造はなく、電気鉄道のトンネルとして 当時の煉瓦造りが残されているのは全国的に稀とのことである。

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桜橋

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桜橋を渡り左へ行くと直ぐに「極楽寺山門が見えてくる。茅葺きの山門がたまらなくいい。

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参道 山門を潜り左手に「境内撮影禁止」の表示がある。前回訪れた時もこの表示を見て撮影しなかったが、今回は後で寺務所にて許可を頂き撮影したものである。

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本堂

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本堂屋根 北条の家紋

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本堂 花頭窓

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八重一重の桜

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観音堂

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寺務所にてご朱印をお願いした。その際若い僧侶とお話をさせて頂き、「境内撮影禁止」の表示があるが、三脚立てなけれ撮影許可も頂いた。

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寺務所にて購入した切り絵

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極楽寺切通を由比ヶ浜方向へ、左に成就院西結界が見えてきた。東結界は工事中で閉鎖中

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山門の扁額

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本堂

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左側の寺務所で御朱印を頂いた。

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虚空蔵菩薩参拝

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鎌倉十井の星の井

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江ノ電を再び渡り御霊神社の拝殿

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相変わらず美しい

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右側にある社務所にて御朱印を頂いた。独特のタッチの美しい字である。

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2016年10月 6日 (木)

柴又帝釈天~題経寺彫刻が観たく再訪

寅さんの映画を観て、柴又再訪したくなり今史跡巡りに割り当てた。京成柴又駅からスタート。駅前広場では寅さん像が出迎えてくれた。撮影者が多くて帰りに撮影した寅さん像。

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駅前にある「おもちゃ博物館」

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参道入口にある石塔

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参道入口

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とらやのモデルになった老舗高木屋

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二天門

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二天門の彫刻も素晴らしい。

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帝釈堂 境内は相変わらず観光客で賑わっている

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帝釈堂法華絵巻の彫刻 帝釈堂裏手に入口あり。彫刻ギャラリーと大庭園の邃溪園(すいけいえん)、大客殿を見学できる。拝観料400円。

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素晴らしい彫刻を上手に撮影できないので受付にあったパンフレット600円を購入した。

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法華経説話彫刻を鑑賞するのが第一の目的で、第二の目的は御朱印をいただくことである。御朱印は帝釈堂内右手にて受付けてくれる。

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帝釈堂と本堂・客殿をつなぐ渡廊下

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本堂

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釈迦堂

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二天門と大鐘楼

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本堂の花頭窓

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邃溪園庭園は客殿の廊下や庭園周囲の回廊から鑑賞するスタイル。庭園に立ち入ることはできない。

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庭園

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回廊からの庭園

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奥の建物は客殿

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邃溪園石塔

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大鐘楼

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矢切の渡し

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山本亭 改装工事中

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